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中国シャンチー。広まらなかったのは、日本将棋の先普及からだけか(長さん)

九州のある場所で、中国シャンチーの古駒が少数出土したという話を、
webサイトのどこかで、前に私は読んだ記憶がある。しかし結局、
日本では11世紀から、日本の将棋は隆盛したが、中国シャンチーや
その変形ゲームが、本土で普及したという事実は無い。
 一般には、”日本の将棋が普及したので、指す人間がおらず、中国
象棋は流行らなかった”が、定説のように認識している。当ブログで
も、

原始平安小将棋の、歩兵の金将成りが、ウケた

という論を繰り返し書いてきた。
 しかし、そもそも、ゲームとしては当時、日本の平安小将棋よりも、
進化していた中国シャンチーが、

知識人の間でも、記録として、余り指されて居無いように見えるのは
何故なのだろうか

と、思う。
 他方前回、中国晩唐の政治家、牛僧儒の編集した玄怪録の将棋であ
るとの、意見がある(普及した仮説)宝応将棋は、原始平安小将棋の
プロトタイプであるのだが、

物語に出てくる、敗軍の天那国が天に昇って星座になった、日本の飛
鳥時代の、任那国を連想させるため、駒名を真似る事を、日本人に拒
否される等、評判が悪かった

との、このブログ独自の論を述べた。冒頭に述べた謎につき、以上の
事から、先に結論を書いてしまうと、中国シャンチーと宝応将棋は、
全く別であるにも係わらず、

中国人の紹介した将棋は総じて、日本の敗戦となる国際紛争を模した
ものである、との噂が立った

とすれば、シャンチーの普及が、日本国内で立ち遅れる、少なくとも
要因の一つになる

のではないかと、ここでは見る。つまり、私に言わせれば、現在でも
唐王朝時代に中国には、2種類の将棋状のゲームがある事を、知る者
は、このブログの世界以外では少ないが、

平安時代にも、まさか2種類中国に、日本の奈良時代に将棋があった
とは、ほぼ誰もが想像はしなかった

と、疑われるのではないかと思う。そのため、長安に移住したアラブ
人(大食人)が、現地で指していた、アラブシャトランジの進化品で
あると言うのが、本ブログでの説である、中国シャンチーと、当時雲
南の、南詔国で指されていたと、本ブログでは独自に見る、宝応将棋
は、今も昔も

誰もに、いっしょくたんに見られている

のではないか。
 以上の論の証拠としては、

江戸時代の将棋書に、しばしば各将棋種類が、どんな時代のどんな国
同士のどの戦闘だったのかが、記載されている点

を挙げる事ができると思う。これは、その時代の歴史に思いをはせ、
その将棋種をプロモーシュョンする狙いも、あるのだろうが。

”この作品はフィクションであり、現実に存在するいかなる、国とも
一切関係がありません”

と、場末に断る映画といっしょで、ゲームという娯楽ツールが原因で、
隣国との関係が、悪化するのを防ぐ意味も、あるのではないかと思う。
なお、それはその時点で見て、昔からの習慣に、江戸時代の将棋本が
則ったという事なのであろう。
 逆に言うと、宝応将棋をプロモートした、玄怪録の物語は、

その失敗例であり、日本対中国の朝鮮半島南部での、飛鳥時代の
国際紛争、白村江の戦を模したゲームである

との印象を、平安時代の日本人に、与えてしまった疑いが、あるの
だと私は思う。そしてそれが、実は全く別種類のゲームである、

中国シャンチーに対する、平安時代中期~末期の日本人の印象にも、
繋がってしまった

のではないか。そのため、中国シャンチーが後代輸入されても、将棋
としては、余り遊ばれず、

単に鳥羽上皇が、駒を占いの道具にする程度で終わってしまった

のかもしれないと、私は思う。
 なお、その様子を、実は李氏朝鮮のチャンギ盤駒業者は、見ていた
のではないのだろうか。彼らは、それを見て、ひょっとしたら

以前のチャンギでも玉駒が、将や帥で有ったものを、古代中国王朝で
その時点で、実際に有る国との関連の少ない漢・楚に変えて、日本へ
の輸出用に回した

のかもしれない。本来輸出用のチャンギの道具であったのだが、性能
や意匠がよかったのであろう。のちに、韓国国内等でも普及して、

現在のチャンギ駒の玉駒として定着

したのかもしれない。以上のような、やや淡いが証拠から、
ひょっとしたら中国シャンチーが、韓国等と違って、歴史的に日本で
は普及しなかった理由は、

玄怪録の敗戦国の名称に、問題があったからというのも、一つはある

のかもしれないと、私は疑うようになったのである。(2018/01/23)

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