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西暦1010年代の大宰府将棋。五角形駒の歩兵の成りは”と金”か(長さん)

前回、藤原隆家を”と金のモデル”と表現したが、厳密にはこの表現は
誤りだったかもしれない。実際には、大宰府の写経所で作成されたと推
定する、初の日本の将棋駒は、当然だが出土して居無い。日本の将棋の
作者の、写経坊主(推定)が作成した、日本の将棋具第一号は、当然だ
が、周文裔親子から、ルールを教わった(推定)通りに、作ったと見ら
れる。つまり、と金はまだ無く、表が玉将、金将、銀将、馬、車、兵で、
後4者の成りは全部、金将と普通に書かれていたのだろう。
 そして西暦1019年に大宰府の武士が、日本で始めて熱心に、将棋
というゲームを指すようになり、将棋場の景気づけから、馬が桂馬、車
が香車と書かれて、駒の向きも、より間違えにくく、なったとみられる。
 その際、兵は歩兵に変えると、いっけんすると、やぼったくなったよ
うにも思える。ただし、実際には、次の理由で”歩”は付ける意見が、
勝ったのだろう。というのも、当時の小将棋は8升目なので、

3歩で成れた。そこで相手がズルをして、ただちに成り歩兵を作ろうと
して、兵の複数歩進みの、禁止手を指さないように、はっきりと、”兵
は1歩進みのルール”である事を、明記する必要があった

のだろうとみられる。事実、少し時代は下がるが、西暦1058年頃作
の興福寺出土駒の歩兵も、兵と略す例は、ここからは発見されない。が、
それに対して”歩”と略した駒は、一枚発見されている。一歩進みルー
ルが、この頃にも強調されたのだろう。また大宰府の武家が指すように
なって、特に歩兵の成りの金将に、注目が集まったと推定される。そこ
で、

歩兵の成りが区別のため”と金”になったかと言うと、残念ながら否だ。

同じく、興福寺出土駒の例を見ると、相変わらず金将か、あるいは、
歩兵の成りは、はっきりしないが「金・」と書かれていた可能性がある。
 それに対し、銀・桂・香の成り金を”金也”と表現する事で、”也”
と”・”~”将”とで、その他の成り金か歩兵の成り金かを、区別して
いた可能性も、遺物が劣化していてかなり曖昧だが、ひょっとすると有
るとの解釈が、なされているようだ。
 なお、更に時代は下がると、平安時代最末期には、中尊寺遺跡の歩兵
の成りのように、”と金”も、実際発生する。しかし、貴族的な武家で
ある、平家政権が批判されて、鎌倉に武家政権が誕生する頃になると、
彼ら武士は、名実共に主役になって、各地方に年貢の請負権等を持つ
ようになったのだから、京都への進出を夢見て、と金の斬り合いをし、
将棋を指す場が異様に盛り上がる事も、中尊寺遺物の時代には、ほぼ無
くなっていたのではないかと、疑われる。
 以上のように、実際に1015~1020年頃の、五角形型の将棋駒
が出土しないと、はっきりとしない点が多い。そもそも、ありあわせの
経帙牌を使用していたとすると、当時駒は、全部同じ大きさだった可能
性も、大いに有ると考えられる。(2018/02/02)

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