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後期大将棋嗔猪の動き、将棋纂図部類抄と世界の将棋で何故違うのか(長さん)

最初に断っておきたいが、実は嗔猪の動きは3通りある。うち大局将棋の、
盲猿や登猿や、大阪電気通信大学の盲熊の動きと、同じ動きのルールの起源
に関しては、私には良く判らない。ここでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の後期大将棋の嗔猪と、江戸時代の将棋書、松浦大六氏所蔵の象戯図式と、
同じとみられる、近年の成書「世界の将棋」、あるいはweb上の、
wikipediaの後期大将棋の嗔猪の動きが、どうして違うのかだけを
問題にする。なお、

嗔猪の動きは縦横隣接升目に歩み型であるが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
ルール(=大阪電気通信大学の摩訶大将棋の嗔猪)では、後退できない点が
違う

のである。なお最初に推定される実態を述べると、私見では、

西暦1300年頃書かれた、普通唱導集大将棋の少し後頃に、嗔猪の動きは、
世界の将棋型から、将棋纂図部類抄型に、一旦変わった

と、本ブログでは推定している。根拠ではなくて、原因を以下述べる。よう
するに普通唱導集大将棋の第2節から、嗔猪のルールと、中国シャンチーの
兵卒の動きとは、イコールと誤解したので、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の
元文献である、室町時代初期の曼殊院の将棋図の頃に、後退の動きが消失し
たと、私が推定しているという事である。そう推定出来るのは、前にも述べ
たが、

仲人と嗔猪とで連関性を持たせるのは、チャンギの隣接兵卒の使い方と類似

だからである。蛇足だが、更に仲人に桂馬で紐をつけるのは、シャンチーの
馬の使い方と類似である。つまり、普通唱導集が成立し、かつ中国・朝鮮の
象棋ゲームも指せる棋士が、普通唱導集をたとえば、西暦1350年頃に読
んだとすれば、

”嗔猪はチャンギの兵卒の動きのようである”と、イメージできる

と私は見て、結果的に”間違えるだろう”と、予想するのである。他方、
平安大将棋時代の猛虎をモデルに、鎌倉中期、西暦1260年の蒙古来襲
前後の頃に、嗔猪を導入したとすれば、導入者は時代から見て、

猛虎と嗔猪を、北宋時代の司馬光の幾つかの将棋種の裨・偏の対応を
イメージして、猛虎から嗔猪を作り出した可能性が強い

と私は見る。すなわち、はっきりとはしないが、

日本で平安期にあたる北宋時代の裨・偏のあるゲームを見て、嗔猪が猛虎
を連想して、鎌倉時代中期に作られたが、鎌倉時代後期の普通唱導集を、
数十年後の南北朝時代に読んだ読者が、たまたまシャンチー・チャンギの、
できる棋士だったため、嗔猪の後退ルールが、南北朝時代に誤って
抜け落ちた

のではないかと、私は疑っているのである。
 なお、更にぼんやりとした推定でしか、今の所無いのだが。江戸時代の
松浦大六氏所蔵の象戯図式で、嗔猪のルールが、再び四方向型に戻るのは、
以上の記憶が江戸時代まで残っていたのでは無いと思う。そうではなくて、
もともと、3方向動きの新版ルールの嗔猪の動きに、合わせて作られた、
悪狼の動きを、実際に指したときの改善等、なんらかの理由で、江戸時代
に、象戯図式では銀将に変えた結果、猫叉との関連性が、配置から高く見
るようになったため、4方向の古型に、たまたま戻しているように、私に
は見えるのである。つまり、

オリジナルと、松浦大六氏所蔵の象戯図式の、嗔猪のルールが一致したの
は、単なる偶然

と見ていると言う事である。
 ただその際、徳川家治に気に入られた、七国将棋の裨・偏のルールが、
やや時期が早いが元禄期には知られていて、その影響もあるのかもしれな
いとは思う。そして、近年の著作である「世界の将棋」やwikipe-
diaへは、たまたま、松浦大六氏所蔵の象戯図式の、対称性の高い嗔猪
のルールが、取り入れられたのだろう。
 何れにしても、中国の北宋時代の象棋、シャンチー、チャンギ、七国将
棋等は、大陸で出来ても、すぐに日本に伝来するという事は無いにしても、

100年・200年たつうちには、確実に日本にも情報が伝わり、
その影響が、日本の将棋にも、何らかの形で残ったのではないか

と、一般論として私は、思考の要素に、加えるようにしているのである。
(2018/02/05)

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