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興福寺駒という、初期の出土駒の成り金が2文字のような訳(長さん)

興福寺出土駒等、11世紀とみられる将棋の遺物で、玉や金自身の
ほかの種類の駒には、劣化して消えたとみなせる遺物を除いて、
裏の成り金文字につき、金く、金也、金・、金将等、金と、もう一
文字が、位置や墨跡から、推定できる場合が多い。言うまでも無く、
現在の日本の将棋では、成り金は一文字で、表駒が何かは、その字
体の崩し方等で、区別されるのが普通である。今回は、その違いの
理由を問題にする。
 答えを先に書くと、

駒の向きが厳格に、五角形の矢印角が前である事に関し、今より
11世紀の方がルーズであり、ゲームを円滑に行うためには、それ
を、より徹底させる必要性があった

とみられるからだと、私は思う。すなわち、駒をきちんと初期配列
時並べるのは、我々には自明に見える。が当時は、そうではなかっ
たからだと、言う事である。つまり、我々が将棋駒を

きちんと並べられるのは、単に繰り返し躾けられたから、それが当
たり前だと思っているだけ

だと私は考える。すなわち、11世紀の日本の将棋の時代には、
実際にはその時代には存在しないが、例えば仮に、”古猿”という
駒が、その時点でも有ったとして、その成りの”山母”が、一文字
で、”毋”とでも書かれていたとしよう。すると、

古猿が成ったとき、駒を横に寝かせて、”申猿”という駒だと主張
し、自分勝手に、駒の動かし方ルールを決めてしまうというような、
マナーを守るという事にほぼ無頓着な、乱暴な人間も居た位

だったのではないか。しかし、この場合も、山母を”毋”と略さずに、
山母と記載しておけば、山を横に倒したような漢字は、存在しない
し、他の駒は縦に二文字であるから、トラブルが防げるのであろう。
つまり、

金一文字という表記に、11世紀の時点では、信頼性がまだ無かった

のではないか。そのために、

ほぼ2文字の表記である、”金く”や”金也”で、駒の向きの信頼性

について、たぶんダメ押しをしたのであろうと、見るという事である。

そもそも、元駒は、このブログの推定では、

伝来当初は、桂馬が馬、香車が車、歩兵が兵と、”呼ばれていた”

はずである。
 そしてそれに桂、香、歩の修飾詞(文字)を加えたのも、車等の字
の向きから推定される、駒の向きに関して、安定性・信頼性に、問題
が有ったからだと、私は思うのである。成りの金将も、そのため、表
駒によって、差をつけようとしたときに、11世紀の最初期には、
2文字は、そのままの範囲内で、工夫されたのかもしれないと、私は
思う。ただし実際には、興福寺出土駒の劣化が激しく、確定とまでは
行かないようだ。
 何れにしてもその後、金の字体は、倒したり、ひっくり返したりし
ても、現実には、別の字に見えるような事が無かった。そのため、
金一文字成り表記に対して、じょじょに信頼性が増すようになり、

現在のように、金は一文字にし、やまとカナ生成流に字体を変えて、
元駒の種類が判るようにする形式に、やがて変化した

のかもしれないと、私は思う。何れにしても、私の推定では、玉将、
金将、銀将以外の駒名への、修飾詞の付与による2文字化は、日本の
将棋の場合、

駒の敵味方帰属を、より正確にするための、国内で発生した名称変更

である事だけは、確かなように思えるのである。(2018/02/07)

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