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なぜ大大将棋や摩訶大大将棋には、耐久度の低い、瓦将等があるのか(長さん)

日本の将棋で、将駒名で有るのは、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、
石将、瓦将、土将、木将、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、
雑将、左将、右将、その他、概ねそれなりに強そうな、大局将棋の、
七国将棋系+将駒、動物名+将駒等である。このうち、固体かどうか
不明等の理由で、火将、水将、大将、副将、飛将、角将、雑将、左将、
右将、大局将棋の、七国将棋系+将駒、動物名+将駒等は、的確性は、
有りそうだが、議論がごちゃごちゃになるので、これらの駒種につい
ては、今回は、その的確性を、それ以上つっこんで議論しない。
 残りの泰将棋にもある、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
瓦将、土将、木将のうち、それが鎧等の材質の名称だとして、
玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将については、敵側からの攻撃に
対し、将の体を守る効果がありそうに見える。が、残りの、

瓦将、土将、木将

については、鎧の材質からみて、存在がクエスチョンだと思える。す
なわち、瓦は、石でも投げつければ割れそうだし、土は木の棒で叩け
ば、こなごなに砕けそうだし、木も火をつければ燃えて、将は、焼け
死ぬように思える。なお、これらの将駒を加えたのは、恐らく大局将
棋や泰将棋の作者ではなくて、大大将棋と摩訶大大将棋の、ゲームデ
ザイナーだったと思われるが、そこでいったい彼らは、この

戦争をするにしては、いかにも弱そうな名称の駒を、なぜ加えたのか

を、今回は論題とする。ちなみに、この回答は既に、だいぶん前に
した記憶がある。回答の要旨は、ようするに、

大理国の三塔主塔からの、ミニチュア出土仏の材質から、将棋駒の
名称が来ているという事を、デザイナーは実質知っていた

との事だったと思う。なお、”大理国の三塔主塔からの、ミニチュア
出土仏”ではなくて、”将棋の伝来元の、ミニチュア仏像”程度の、
やや曖昧な知識が、大大将棋と摩訶大大将棋のデザイナーの頭の中に、
情報として存在したのだろうとは思う。また、仏像が将の人形の形と
同じと見なせるという事は、これも前に述べたと思うが、

大理国の将(王様)は信心深く、人生の後半で仏門に入る習慣がある

という情報が、彼らデザイナーに伝達されていたか、あるいは、

ミャンマーのシットゥインの象棋の将駒等の形態が仏像形である

という情報が、同じく大大将棋や摩訶大大将棋のデザイナーへは、
伝達されていたかのどちらか、または、どちらも知られていたのだと、
私は見る。
 ところで瓦将、土将、木将、のうちの後2者と、それに大局将棋の
火将、水将については、”五行説から、鎧の強度に関係なく、土将、
木将、火将、水将が、金将と共に加えられた”という説明も、成り立
つかもしれない。が、そのように五行説を持ち出しても、

残りの瓦将だけが、どうにもならない

のである。
 ようするに、特に瓦将等という、将棋駒として相応しくない、
弱そうな駒が、実際には無造作に加えられている事から、

日本の将棋の駒の原型が、大理国の王室に、当時陳列されていたと見
られる、立体の仏像を思わせるものであったという事が、かなりの後
世、室町時代の初期頃までは、日本に情報として残っていた

と、考えざるを得ないのではないかというのが、

本ブログの独自の見解

である。
 ちなみに、以前、大理市の三塔主塔からの、玉系の駒に相当する
仏像や、仏教関連物として、水晶仏と、琥珀仏塔(宝塔)を紹介した
事が有った。つまり、ずばり

ネフライト(ホータン玉・軟玉)の小型仏像を、本ブログでは示した
事が無かった

のである。大理市三塔主塔からは、西暦1200年以前の遺物なため、
塑像の

土仏だけが、劣化して残らないため出土していない

と見られる。が、文献ではその他の、鎧の材質名で、その名称にはな
って居無い、左将、右将を除けば、泰将棋に存在する将駒の分の、

玉、金、銀、銅、鉄、石、陶磁、木、の全種類と、それに、金銅、
水晶の仏像が出土している

と、聞いていた。日本に情報が、断片的にしか無いためかと思い、も
う一度、雲南博物館のカタログを当たったところ、かんじん要な物で、
日本に情報が来ていないと思っていた、ずばり玉将相当の、

ホータン玉(軟玉・ネフライト)の仏像も、高さ16cmと、ちょっと
大きめだが、観音菩薩像が発掘されている

という事実が、日本でも知られていた事が判った。

玉仏.gif

そのホータン玉仏は形から、

南詔(唐代)ではなくて、大理(宋代)のもので有る事も、間違いない

とも聞いている。同様なものが、当時の大理国北端部(今の四川省)で
も発見されている、というから、大理市でかどうかは不明だが、大理国
内の細工師によって、11世紀頃の当時、作成された可能性が高い事は、
ほぼ確かなようである。つまり、南詔時代には、玉将が無かったとして
も、大理国の時代には、雲南で”玉将立体駒”は、作成できたのである。
(2018/02/15)

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