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6×6升目24枚制平安小小将棋が、指された可能性(長さん)

前回、思いつきだったが、仮説8×8升目32枚制大理国平安小将棋
(原始的・取り捨て)から、馬と車の2列を削除し、6×6升目24枚制
の小型の将棋を、今回私が作成したところ、取り捨てルールのゲームとし
ては、8升目型と比較して、より出来の良いものであった、との旨述べた。
 では、このようなゲームの変形は、大理国平安小将棋が、指されたとみ
られる、当の大理国王室内か、日本の奈良県の興福寺等で、実際に行われ
た可能性は、あるのであろうか。
 回答を先に書くと、

 大理国王室内で、指された可能性は少ない。が興福寺では、このゲーム
の出来の良いのに、気がついた僧侶等の棋士が存在し、その影響で、日本
の特定の、寺院内等では細々だが、指されたかもしれない

と、私は思う。理由は、

西暦1198年から、遅ければ南北朝時代までの、酔象の消失とその再出
現を説明する、一つの仮説になり得る

からである。すなわち、現時点で酔象は、1098年に興福寺境内内で、
駒が発見されてから、南北朝時代のものとみられる、京都の上久世城之内
遺跡の出土駒の時代まで、約250年の、空白期が存在する訳である。
 酔象が少なくとも、上久世城之内遺跡の時代には、復活できる要因とし
て、外国の象棋には、象駒が存在し続けているわけであるから、その影響
が、当然有りうると、私は思う。しかし、これでは、

消失前と復活後で、どちらも”酔”が修飾詞である点が、説明し辛い。

 つまり、酔象が、記録には無いが、何らかの将棋型のゲームで、一部、
たとえば、特定の寺院内部では、250年間使用される要因があった、
とする方が、酔象の復活は、より説明しやすいのである。
 なお興福寺で、西暦1110年頃の、年月の日付以降の木簡と一緒には、
今後、酔象駒が出土しなかったとしたら、それは、

興福寺の管理責任者である、藤原氏の長者が成立に関与した、平安大将棋
でも、酔象は、”制御出来ない軍隊内の隊列”を意味する名称だった
ために、削除され、存在しなかったため、頭目の指示に配下も従った為

と説明はできる。しかし、興福寺ではなくて、釈迦の伝記を知っている
別の寺内部で、この酔象の有る、平安小将棋より更に小型の将棋が、

大駒で角行動きである、酔象が有る事によって、ゲームとして面白いため
指され続けていた

とすれば、酔象という駒種が250年後に、そのままの名称で、復活する
理由には、一応はなるように私には思われる。
 なお大理国で、6升目型が指されなかったのは、8升目より、見た目
が地味になるため、たとえ、大理国の王室でも、6升目24枚型のゲーム
の、優秀さに、王様等、誰かが気がついたとしても、

黄金の多数の将棋駒で、遊びとして将棋が指せるという快感が、大理国
の支配者階層にとって、半減するので敬遠された

のだろうと私は予想する。
 そこで、ここでは以降、今議題にしているごく小型の将棋を、

(仮説)6×6升目24枚制寺院型平安小小将棋(取捨型)と名づける

とする。この将棋は、角行動きの酔象が残った、升目の少ない将棋であっ
たために、たまたまゲームとしての出来は、8×8升目32枚制原始
平安小将棋(取り捨て・銀将2枚型)と少なくとも同等、恐らく、より
良かった。そのために、一部の寺院内部等で、記録には残らない程度だが、
平安小将棋とは別の、いわば星目が、2升目ごとに付いた、より小型の
6×6升目の、布に線を引く等により、作成した盤を使う、

小小将棋の一種として、初期院政時代から、鎌倉時代の蒙古来襲までの、
少なくとも200年以上に亘って指され続けた

とするのである。そのために、復活のときには、中国シャンチーの影響で、
酔象の駒の動きが、角行ルールから、シャンチーの象/相に代わり、更に
は釈迦をイメージして、太子に成るようになったとしても、名前は酔象
のままで、日本の将棋では、大将棋の駒として復活できたのだと、私は
考えるという事である。(2018/02/20)

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