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黄金駒の大理国将棋駒が伝来し、木製日本将棋駒になるまでの時間(長さん)

本ブログに於いては基本的に、立体駒の黄金将棋玩具が、京都の
後一条天皇所有になると同時に、大宰府ないし博多の写経所の僧侶が、
日本の五角形の木製将棋駒を発明し、その廉価性の利点から、前者を凌駕
して、日本の将棋道具として普及し、手法を統一した、との立場を取って
いる。つまり、

五角形の日本の将棋駒は、国内での発生である

と見ていると言う事である。一般には、チェス駒やマークルックの立体駒
と、日本の五角形・木製将棋駒との間の、著しい形態の相違から、その
発明の、容易性が疑われる空気が強いと、私は個人的に感じている。そこで、
今回は、具体的に雲南から大宰府ないし博多まで、後一条天皇の、金や銀を
材質として含んだ将棋遊戯具が、大宰府ないし博多で写経し、経文を全国に
普及させるのを本業としている、交易の玄関口、大宰府ないし博多の写経所
の僧侶にとって、置き換えに、

どの程度の時間を要したのか

を考察してみる。なお、置き換えのための材料である、経帙牌が、大宰府な
いし博多の写経所に、ある程度数が揃っていた事は、そうでないとするより
は、ずっと自然であるし、写経所の僧侶に、玉将・金将等の字が書ける事、
筆が持ち歩ける事、

携帯用の墨壷が、出土品として存在する事から、西暦1015年にも、たぶ
んそれは、存在しただろうと、推定できる

だろうという、仮定から、今回は出発する。すると、最初に答えを書くと、
立体駒の黄金平安小将棋(大理国製)が、地面に線を書く、布の盤を作るな
どして、将棋盤の代わりにする、駒として五角形の、写経所所有の経帙牌の、
その木片の表裏に駒名を書いたものが起源との説のある、特徴的な日本の
将棋具に、置き換えるのに必要な時間は、交易伝来商人推定周文裔(”中国
側”)が、大宰府ないし博多の写経所の僧侶(”日本側”)に、ゲームの
ルールを説明してから、

数分ないし、十数分程度後だった可能性が、かなり高い

と、私は見る。ようするに写経所の僧侶(”日本側”)は、周文裔等の将棋
のルールに関する口頭説明内容を、彼が本来の業務のために持参していた

6枚の経帙牌を、今で言うメモ用紙として使用して、複写・保存していた

疑いが強いと、私が考えていると言う事である。なお、彼の本来の業務は、
私の推定では、交易商人から、仏典の経文の内容を聞き取って、

持参した経帙牌に、携帯用の墨壷と筆を使って、必要事項を記入

し、ついで伝来経文を分類して、送り先毎等により一まとめにする。そうし
た上で、先に内容を記載した、経帙牌をつけた包装用のシート状の媒体で、
かなり多数の経文を、一まとめに包む。そしてその経文の束を、地元の写経
所へ運搬したり、その経文の納入先である地方寺院へ、発送する手配をとい
った業務を含んでいたと推定する。
 ようするに、五角形の将棋駒を発明した写経所の僧侶にとって、

中国の交易商人(例えば周文裔)の話を聞き取って、その情報を経帙牌に記
載するのは、もともと本来の業務

であったと見るのが自然と、私は考えるのである。だから、本来の経文処理
の業務の合間に、周文裔が、(推定)藤原道長の言いつけでかき集めた、燃
えた、三条天皇の住まいを修復するための、装飾用の財宝の一つであった、
大理国の、立体黄金将棋駒付き将棋具の説明を、大宰府の輸入品チェック担
当の役人の前でしだした。そのとき、同じゲームを指してみたいとの願望が
僧侶にも、そのとき発生した事は確かなのであろうが、写経所の僧侶は、
九州博多の日宋貿易交易品検査所(仮称)には、いつも持参する

経帙牌を、彼は条件反射的に取り出した。

そして、そのうちの推定6枚に、駒名と、駒のルールを示す打点や線、枚数
や初期配列の位置のヒント、特定の駒に関連する終局条件や、駒によっては
跳びか、走りなのかのルール備考等を、使うメモ媒体が我々の感覚では、
具体的にすこぶる奇妙だが、彼にとっては、至極当たり前のつもりで、

周文裔が、ゲームの説明をしている最中に、ずっとメモしていたに違いない

と私は思うのである。なおその駒に対応する成り駒名については、書ききれ
なくて、ひょっとするとたまたま、元の牌の裏に、書いたのかもしれない。
以上のように、周文裔がルール説明し終わってから、日本の五角形の将棋具
が、この大宰府ないし博多の写経所の僧侶の手によって完成するためには、
事実上

このメモ駒を元に、足りない26枚に、駒名を書いて足すだけで良かった

可能性が、かなり強いと私は見ている。すなわち、写経所の僧が、周文裔か
ら将棋ルールを聞き取りながら作成した、その6枚有ったと見られる

メモ経帙牌が書きあがった時点で、ほぼ立体駒から、五角形駒への移し変
えは、事実上完成していたに等しい状況になっていた

と、私は見るという事である。以上の考察結果から、中国の唐物嗜好全盛時
代の交易商人による将棋伝来説に立てば、仏教普及のために現地に置かれた
とみられる、大宰府か博多の交易所付近の写経専用寺院勤務の僧侶の、日常
業務から類推すると、立体駒から、字書き駒への変換に、従来想定されてい
るように、長い時間が要したとは、到底考えにくいのではないかと、私は疑
っているという事になる。(2018/03/31)

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奥野かるた店での故奥野藤五郎氏、双玉限定作成の理由の聞き取り(長さん)

最近表題のように、駒師で将棋四段でも有った、奥野一香こと、奥野藤五郎
氏が、王将駒を、強いられない限り、作成しなかった理由について、
”奥野かるた店”へ行き、聞き取り調査を行った。結果は、

この奥野家は、webにある、一部の奥野氏とは異なり、藤原南家との繋が
りの可能性は、どうやら薄そうだ。

また聞き取りにより、故奥野藤五郎氏が、二中歴を生前読まれたとの証拠は、
得られなかった。が、私はうっかりしていたが、二中歴の大将棋の記載の
冒頭部分、玉将の説明部が、

云玉将各住一方中

となっており、一度でもきちんと読んだ人間であれば、

少なくとも平安大将棋は双玉が正調

と解釈できそうだ。言い訳がましいが、従来、7筋最下段の中央に置く事だ
けが強調されたので、私のような早とちりしやすい者には、錯覚しやすかっ
たという事もあったかもしれない。”各住”だから、少なくとも大将棋では、
二枚とも玉将であって、

少なくとも平安大将棋で、王将は使用してはいけない

という気持ちが、多少無理をすれば、二中歴でも感じられていたと、私にも
気が付いた。
 なお、二中歴については将棋(平安小将棋)については、玉将を使う事は
判るが、片一方を王将にしてはいけないとも、そもそも8升目か9升目かも、
曖昧であり、

鎌倉時代草創期の当時、説が分かれていた

と疑われても、仕方ないように私には思える。
 恐らく、奥野一香こと奥野藤五郎氏は、私とは違って、多忙な中で職業柄、
注意深く、二中歴等の古文書の字を、読まれる方だったと想定される。
 なお、奥野藤五郎氏の双玉限定作成の理由については、かるた店の現在の
当主は基本的に、ご存じ無い事までは判った。今後この点についても、機会
があれば、更に調査を、続行する予定である。(2018/03/30)

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大鏡に後一条天皇が「金銀などで飾りたてた玩具を貰った」との記載(長さん)

本ブログの前回の記載でもさらっと出てきたが、もともと藤原道長の指示と
見られる、京都の三条天皇の住まいの火災で消失した、黄金の飾り付けの補
充のために、北宋交易商人の周文裔が、西暦1015年に持参した、文字通
り黄金駒の、大理国産の原始平安小将棋の将棋具は、後一条天皇が、少なく
とも、刀伊の入寇の直後の、西暦1019年までは、玩具として保管してい
たというのが、ここでの見解である。しかし、この見解には、対応する史料
は、今まで見つかっていなかった。翌西暦1015年の再火災で、短命に
終わった、西暦1014年に立て直された、三条天皇の住まいが、放火に
よるものであり、かつ藤原道長の手の者の仕業、との説に基づき、それなら
後一条天皇は、安全なはずだから、そこに将棋具も少なくとも西暦1019
年までは、保管されたとしようと、私がこの場で勝手した仮定に、過ぎない
ものだったからである。
 しかるに、最近大阪商業大学アミューズメント産業研究所編、松岡信行著
の、「解明:将棋伝来の『謎』」に、表題のように、”大鏡に、『後一条天
皇へは、幼少の折に、金銀などで飾りたてた玩具が、与えられた事があるが、
天皇自身は、これらに余り強い興味を示さなかった』との内容の、記載があ
る”との紹介がされているのを、発見した。なお送り主は、藤原行成以外の
何者かであって、藤原道長等、送り主の人物は、残念ながら特定できない。
 これから、ただちに天皇に与えられた、金銀等で飾り立てた玩具の中に、
将駒が黄金・玉・銀である、ここでは大理国産と推定する将棋具が、存在し
たかどうかは、不明である。が、

金銀で飾り立てた玩具を、後一条天皇が所持していたという、史料自体は
存在する

事が、私にも明らかとなった。

松岡氏は、本ブログとは全く別の将棋起源論の提唱者として、今や著名だが、
上記史料については、彼には悪いが、私にとっては誠にありがたい情報

である。
 更に、松岡氏の上記著書をよく読むと、そこが西暦1015年の再火災で、
消失したかどうか謎であるが、『金銀などで飾りたてた玩具等は、天皇の使
用頻度が低いため、後々住まいに存在すると見られる「蔵」に、しまった』と
の旨も、記載されているようである。なお話の主人公の玩具は、コマである。
 何れにしても、西暦1015年当時8歳前後とみられる、後一条天皇へ、
通常の子供並に、玩具が与えられるのは、史料が無くても自然である。
が、実際に、裏づけ史料があると言う話は、話が約1000年前の事である
だけに、至極存在自体が貴重で、かつ喜ばしいものである。(2018/03/29)

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大理国原始平安小将棋が、日本と大理国の中間地点に残って居無い訳(長さん)

かつて増川宏一氏が将棋Ⅰで言及したように、中国交易商人を媒介とし
た、定期航路による将棋伝来の東南アジア説には、たとえばタイと日本
の間を、海路で直線伝来するために、中間地点の中国の大陸奥地までは、
将棋を伝来させずに、日本にだけ上陸できる利点がある。それに対して、
本ブログのように、大理国から日本にゲームを伝来させようとすれば、
中国揚子江地域か、ヴェトナムのハノイまでは陸路のはずであり、その
中間地点に、ゲームが伝わる”種”をばら撒く事も予想される。ところ
が実際には、大理国の将棋は、基本的に日本でだけ花開き、中間地点に
は、痕跡をほぼ残さなかった、というのが、本ブログの主張である。
そこでこの矛盾の謎は、どう説明されるのか。以上が今回の論題である。
 そこで、最初にいつものように結論を書く。
原始平安小将棋は、大理国に於いて既に、板切れでそのゲームを置き換
えると、”金将”と書かれた経帙牌が、ゲームの中盤以降に多数発生す
るゲーム、

すなわち、ほぼ日本の最初の将棋に近い所まで、進化してから伝わった

ものである。ので、その将棋をすれば、金将と書かれた経帙牌等の板切
れではなくて、本当に金の塊駒が、自分の手に入るような身分に、伸し
上れるという野望が、将棋指しの心の中に抱けないような条件の、日本
の大宰府と大理国大和城の中間地域では、将棋指しにとって、そもそも
縁の無い将棋だった。つまり、

金将が多数盤面に残って、玉が詰むやら詰まぬやら、さっぱり判らない
原始平安小将棋(実は8升目と推定)は、それ自身は、ゲーム性能とし
ては低い、はなはだ、ばかばかしいゲームであった。がために、中国
揚子江地域ないし、ヴェトナム等の中間地域では全く流行らなかった。

以上のように、今述べた中間地域では、象棋が指せる能力を持った中国
人、ヴェトナム人等は、誰にも雲南・大理国の将棋は指されなかったの
で、日本の将棋と同じ系統のゲームは、現在日本と、中国雲南省の間の
内陸部には、全く残って居無いと私は考える。
 では、以下から、その説明に入る。が、その前に、回答すべき内容と、
少しズレるが、伝来元そのものでの跡の欠如と、松岡信行氏が、歴史時
代の、中国交易商人による定期航路伝来説の、難点として挙げている、
日本での伝来から将棋の完成までの、期間の短さについて言及する。
後者を先に言うと、従来の将棋伝来説は一般に、私に言わせると、

日本に来てから、日本の将棋にしようと、しすぎている

と思われる。そもそも中国周辺部のどこかに、晩唐代に既に宝応将棋が
あり、それを改善して日本の将棋にする事は、可能とここでも見る。の
で、それを日本の一条天皇の側近ではなくて、南詔国の後継国家の、大
理国の宮廷内で、ゆっくりすれば良いだけの話なのである。つまり、約

150年も猶予があれば、一条天皇の側近が急いでやら無くても、雲南
の王朝に任せれば、ネフライトを宝のトップに据えるという点が、日本
のゲームとしては、糸魚川流域の翡翠の算出量の多さから見て謎だが、
とにかく、日本の将棋は完成したのではないか。

 その後大理国は、モンゴル帝国によって、国家権力の座から追われ、
明王朝の時代に、完全に滅亡させられてしまっている。だから、大理国
の将棋は、いわゆる日本の将棋の、中国起源説派流の言い回しを借りて、

滅びてしまった大理国の運命と共に、中国では全く残らなかった、
名実共に、完成されてから日本に来た将棋

と考るだけで良いのである。つまり日本の将棋の元が、いわゆる中国の
中原王朝のゲームではなくて、雲南省一帯のローカルゲームでるがゆえ
に、北宋の首都の開封に住んでいたと見られる、シャンチーのゲーム
デザイナーにとっては、それは当時は、”近くて遠い外国のゲーム”で
しかなかった。だから、そのゲームがどんな内容であっても、シャンチー
の歴史にはほとんど、何の影響も無かった。

つまり、仮に日本の将棋が一時期、世界の2箇所で指されていても、
中国の現在のゲームにとって、ほとんど何の影響も無いので、そう仮定
して問題は無い

と本ブログでは考えていると言う訳である。なお、大理国将棋が日本に
上陸してから必要だった進化といえば、大宰府の写経所の五角形経帙牌
駒への置き換えは、高い才能が必要だが、直ぐにできたとして、その他
には、将棋場を”後一条天皇用の黄金将棋の、将棋盤のシナ桂は良い香
り~”と盛り上げておいてから、馬駒と車駒に、桂と香の修飾詞を付け
る程度で、実質大丈夫であったと私は見る。だから伝来は、歴史時代の、
北宋交易商人の(推定)周文裔により、西暦1015年であれば、
興福寺出土駒の西暦1058年に、充分に間に合うと私は思うのである。
 次に本家のゲームの消失についてのべる。ようするにこの点は、アジ
アにもかつて、滅亡した国も多かった事を思い出すだけで良い。すなわ
ち、現在の

中華人民共和国領土内で、一旦ほぼ完全に完成した古ゲームが、宮廷ゲー
ムであったがために、その当時の国が無くなると、そのゲームも完全に
もともとの場所では消滅して当然

だというイメージを、本来将棋史家は、簡単にいだくことができるはず
だと言う事だけである。なおこの将棋が、宮廷将棋である事を理解する
には、

安物の日本将棋の駒でも何でも使って、実際に平安小将棋を指してみる
だけで可能

だと私は見る。
 以上で、伝来元の痕跡が無い事の説明は、尽くされただろう。
 そこで次に、本題の中間地点での、日本の将棋の非存在について述べ
る。そもそも、将棋指しがゲームをするのは、

隣国隣組もそのゲームをしているからではなくて、賞金等の実利が有る
ためというケースが、今でもしばしばある

のではなかろうか。従って例えば野球が、ベーリング海峡付近で、現在
盛んで無くても、誰も日本の野球は、アメリカの真似ではないとは思っ
て居無いように、たとえ大理国の大和城と、九州大宰府との間の地域で、
西暦1020年頃に、8升目32枚制原始平安小将棋が、指されて居無
いとしても、日本の将棋の大理国起源説を、完全に否定する根拠には、
全くなっていないように、私には思えるのである。
 すなわち、大理国の将棋は、伝来を始めた時点で既に中盤以降、盤面
にある駒の中で、元の駒が成ってできた金将の割合が、飛びぬけて多い、

将棋ゲームとしては、本来だめな将棋

になっていたと見られる。つまり”金の塊を盤上に飾って、支配者が歓
ぶゲーム”だったのである。だから大理国を、この将棋が出発した時点
で既に

”歩兵が自分、と金が藤原隆家”というイメージがいだける、
西暦1019年に、刀伊の入寇に対して出陣した、日本の九州大宰府の
兵隊(武家)以外には、揚子江流域の中国人にも、ハノイ付近のヴェト
ナム人にも、ゲームとしては、興味がほぼ沸かないしろもの

に、そもそもなっていたと、私には容易に推定できる。よってその中間
地点にも、伝来元の中国雲南同様、日本の将棋の伝来の足跡が残らなか
ったと、私は推定するのである。
 なお、こうした日本の武家の野望が、将棋が普及する程度に継続、
また、日本国内で広がりを見せたという証拠としては、伝来から130~
40年後にわが国には、

平清盛という人物が現われ、平家政権という、自身が藤原摂関と
同じように奢侈な生活をする、貴族的な武家政権が実際に成立した

という点を、挙げる事ができると私は考えている。(2018/03/28)

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栃木県小山市神鳥谷(しどとのや)曲輪裏一文字金角行出土地の調査(長さん)

11年前の春に、南北朝時代の下野守護の小山義政館跡と伝わる表題の地で、
裏一文字金角行駒が出土した。個人的には、JR宇都宮線の車窓から、遠巻
きに、遺跡の場所は、何回もチェックしている。だが、土塁の回りを調べた
事は、個人的には無かった。ので、久しぶりに小山駅で下車して、この日本
唯一の”摩訶大将棋の角行駒”の出土地点も含めて、周囲を再チェックして
みた。
 角行出土地点は現在、下の写真のように、原っぱではあるが、草刈がこま
めに行われているらしく、きれいな空き地になっている。

角行駒出土地点.gif

また、JRの車窓からは気が付かなかったが、下の看板が建っていた。

神鳥谷看板.gif

なお、この看板の内容については、webの一部のページで、

疑念の声が出ている。
ここは小山氏の”宿城”という名称の城跡ではなくて、室町時代前期・最後
の鎌倉公方足利持氏の頃から江戸末期まで存在した、栃木県小山市神鳥谷の

古尼寺、栃木県小山市の青蓮寺という寺の寺跡ではないか

という内容の疑念である。なおこの点については、本ブログでは、

基本的には出土品は全部、南北朝時代に相当するものと見て、問題は少ない

と考えている。本ブログでは、鹿沼市中粕尾の粕尾城の様子や、小山市の中
心部の広さから見て、いわゆる小山市宿場領域は概ね全て、南北朝時代には
城内だろうと見ているからである。ただし青蓮寺の存在によって、情報が薄
まったり、出土品が出る、全部で20個有る井戸の、井戸毎の出土品目や量
に、本来なら存在しないはずの偏りが出来る等の、間接的な影響が有り得る
かもしれないとは考える。

ようするにこの遺跡の遺物だけを頼りに、論を立てないようにする事が大事

だと私は思う。つまりは、あまりシビヤに、この遺跡の遺物の情報だけを、
たよりにして、議論を進めないほうが、良いという事である。具体的には、
この将棋駒については、

裏一文字金角行駒の存在は、南北朝時代には、龍王・龍馬に成らない飛車・
角行が有ったとの情報を、確定させるためには、少なくとも役立っている

可能性はかなり大きい。が具体的に、8号井戸という、特定の井戸から出
てきた事には、栃木県小山市の青蓮寺の存在が、影響しているのかもしれな
いと、私は思う。
 すなわち本ブログでは、この裏一文字金角行駒は、江戸時代の中期頃に、
将棋纂図部類抄を、青蓮寺の住職が調査の上、また寸法や寸胴5角形型の駒
形は、恐らく栃木県小山市の青蓮寺自体に、残っていた記録に基づいて、
できるだけ忠実に、記録を再現した上で、オリジナルと

似た形だが、金の書体の崩しが足りない形で、寺で作成した、復刻駒である

と考えている。根拠は、以前にこのブログで述べたように、麒麟抄の記載と
異なり、

成りの金の書体が、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、摩訶大大将棋の右香車
の成りの金の、崩しが弱い書体等に似ている

という点からである。またこのように、出土した裏金一文字金角行駒を、
栃木県小山市天神町の廃尼寺青蓮寺の、いわゆる”宝物と伝承されるもの”
の一品と特定すれば、

駒が、一枚しか出土しないという謎も、元々それしか無いと考えれば自然

に、説明できるのである。
 なお、本ブログでは、実物の裏一文字金角行駒が、冒頭の写真の、ほぼ
真下に存在すると見られる、神鳥谷曲輪遺跡8号井戸跡に廃棄されたのは、
近代冒頭、明治維新の廃仏毀釈の折に、当時は男の真言宗系の僧侶が、ま
だ居たとみられる、栃木県小山市の青蓮寺が、廃寺になった為と見ている。
 さて調査の方であるが、原っぱの西に、畑が出現しており、耕した後の
残土に、2~3個、極めて小さな、カワラケの破片が見られた。どうやら
今も、発掘作業の痕跡は、地表にさえ、僅かに残っているようだ。
 次に今回の主な目的である、神鳥谷曲輪の土塁の残る、将棋駒出土地点
からJRの線路を渡って、向こう側(100m東)の場所へ言ってみた。
もともと、土塁の方が地表からは見出しやすいので、こちらに、写真の
ように神鳥谷曲輪の石柱が、立っている。

土塁石標.gif

上の写真の背景が土塁である。栃木県鹿沼市中粕尾、粕尾城の土塁よりも
斜面が急である。近代になって裾野が削り取られて、変形したのであろう。
試しに、登ってみると、標高下から2mの尾根は、次のような感じである。

土塁頂上.gif

周囲に、ゴミが散乱し、また、陶器の破片も含めて線路近くだからだろう
か、石ころが多いが、地表を見た限りは、特に何もないようであった。
 今回は、いわゆる神鳥谷曲輪遺跡をチェックできたので、これで引き上
げた。角行出土地点250m北の、白幡一揆関連旧家ではないかと、本ブ
ログでは疑っている、天神町の小野塚イツ子記念館は、前のまんまで、庭
も公園になっていた。また、角行出土地点西100mの、栃木県小山市の
青蓮寺の、かつて寺持ちであった、小山市天神町の天満宮入って直ぐの、
”青蓮寺住職による、幕末攘夷打戦争反対活動等の史実が記載された石碑”
は、白いペンキが、前に見たときよりだいぶん剥げてきているようである。
(2018/03/27)

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日本将棋と同等の性能を持つ、9×9升目50枚制鹿将棋の作成(長さん)

前回までに、日本将棋以外で、それと同等の性能を持つ将棋として、本
ブログで、38枚制、40枚制、42枚制を紹介した。なお38枚制と、
42枚制には、特に名前をつけなかった。40枚制だけ、日本将棋と同
じ駒数の、持駒ルールの将棋なため、特別に馬将棋と名前を付けた。
 一方最近、日本将棋に酔象の他、猛豹をそれぞれに2枚づつ入れた、
古小将棋のチェック結果について、紹介もした。酔象成りの太子同士の
入玉した状態での寄せ合いで、猛豹の成った、盤面上の4枚の角行の
攻撃力により、46枚制で太子成り酔象有りのケースで、ゲームが成立
し、江戸時代の将棋本に、記録が残っているものと、推定された。
 このように42枚より、かなり越える枚数の、9升目型小将棋が有り
得る事になったので、40枚台後半から50枚程度の、日本将棋型ゲー
ムも作成可能かどうか、確かめる必要が出てきたと思われた。よって今
回は、表題の内容のような新ゲームの作成を、私は試みた。結果を以下
に紹介する。
 まずは、結論から先に書く。
 表題のような将棋も、作成可能であり、すなわち、問題の将棋の
初期配列は、以下のようになる。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口猛虎踊鹿猛鹿金鹿猛鹿踊鹿猛虎口口
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

また、成ると各駒は、次のようになるものとする。
三段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将
二段目:口口飛鹿方行行猪白駒行猪方行飛鹿口口
一段目:金将金将金将不成不成不成金将金将金将

 前回までの議論によると、日本将棋系と言っても、詳しくは、現行の
日本将棋型のものと、太子成り酔象を入れて、防御を強くしておいてか
ら、太子を寄せるために、攻撃駒の枚数を増やす、猛豹古小将棋型が、
有り得る事が判っている。今回作成したのは、前者の太子成り

酔象の無いタイプのもの

である。
 このような将棋は、加える片方7枚の攻め駒を、適度に弱くして、全
体として、玉将を寄せるのに、ちょうど良い強さにしないと、良い持駒
ルール有りの、日本将棋型ゲームにはならない。その挑戦が主なハード
ルであった。なお、成りの条件、持駒ルールが有る事、持駒を打つとき、
2歩、行きどころが無い、その手で玉が詰む歩兵打ちが、禁止である事
は、日本将棋と全く同じにした。
 以下、駒の動かし方のルールを、まず結論的に述べる。
一段目と三段目は、これまでと同じく、日本将棋と同じ、標準型平安小
将棋の配列、駒のルールである。問題は二段目であるが、次のようにし
た。今回は42升目型同様、大局将棋から、駒を取り入れている。
 では中央から順に説明する。
 金鹿は、斜め前の2方向が走り、斜め後ろに2升目まで走る。斜め後
ろへは、3升目以遠は行けない。また、斜め後ろへ行くルールは、制限
升目が有る点以外は、通常の走りと同じパターンである。すなわち、
隣接升目とその向こうで止まれる。相手駒が有れば取るが、通常の走り
と同様、それ以上は行かない。
 金鹿は大局将棋では、白駒に成る。白駒は前後と斜め前の計4方向に
走る。その他の方向へは進めない。次に、
 猛鹿は、日本将棋の銀将と全く同じ動きである。すなわち、斜めと、
前の隣接升目の、計5方向に歩む。
 猛鹿は大局将棋と和将棋では、行猪に成る。行猪は、酔象と全く同じ
動きである。すなわち、後ろ以外の計7升目に歩む。次に、
 踊鹿は、大局将棋では、金将の動きに加えて、左右横へだけ、2升目
まで走れる。名前から、踊りの動きをしそうだが、ここでは世界の将棋
や、wikipediaの動きと、一応同じにしてみた。なお、横の動
きは、3升目以遠に行けない点以外、走りの動きと、パターンが一緒で
ある。蛇足だが、大大将棋の踊鹿は酔象の動きプラス、横2升目走りで
あり、大局将棋の金将プラス、横2升目走りとは、少し違う。今回は、
大局将棋ルール”の斜め後ろへ行かず、横2升目まで走り”を採用した。
 踊鹿は、大局将棋では方行へ成る。ただし、大局将棋の方行は、大大
将棋の方行と異なり、飛車の動きと全く同じである。すなわち、前後左
右走り、のみである。大局将棋の方行は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、大大将棋の方行と同じ動きである。なお蛇足だが、江戸時代の、象
戯図式の大大将棋の方行は、飛車の動きに加えて、斜め前に歩む。前に、
本ブログで、108枚制仮説普通唱導集大将棋を改良するとき、この
象戯図式の方行の、斜め前動きを、初期配列で急所に利かせる事を狙っ
て採用したが、今回は、斜め前歩み動きは出来ないを、単純化のために
採用した。最後に、
 猛虎の動きだけ、調整して大局将棋ではなくて、平安大将棋の猛虎に
変えた。すなわち、ここでの猛虎は、斜め計4方向に歩む小駒であって、
大局将棋のルールである、香車の動きは、調整後不採用とした。なお、
大大将棋の、2升目まで走りの銅将の動きも、同様にチェックした結果、
不採用と決めた。
 猛虎は、ここでは普通に盲虎と同様、飛鹿に成るとした。これも調整
の結果、大局将棋の大虎、大大将棋の不成りルールは、採用しなかった。
つまり飛鹿は、前後走りに加えて、斜めと横の計6方向に歩む、縦走り
駒とした。そして、猛虎の成りを飛鹿に変えた結果、

各2段目の駒とも、元の名前か成りに、鹿の字が必ず入る事になり、
50枚制は”鹿将棋”とでも呼ぶのが、適当であるようなルール

に落ち着いた。
 言うまでも無いが、本ブログでは40枚制を”馬将棋”と呼んだので、
この

ネーミングは、対にすると、一度聞いたら忘れにくいという点でも、
良かった

のではないかと思われる。
 ともあれ、実際に差してみると、
攻撃駒が、双方に実質、成ると発生する飛車×2、前後走り飛鹿×2、
前後と斜め前走りの白駒一枚の計5枚と、龍馬、龍王の計2枚の、
日本将棋よりは、攻めが強いかに見える。しかし実際には、大量の
防御用小駒が、新たに発生して障害物が増え、走り駒の働きは幾分低下
する。ので、このパターンで、

攻守のバランスは、日本将棋とほぼ同じ、ゲームの進行スピードも、
ほぼ似たり寄ったりの程度になった

ように、私には思われた。
 以上の事から、何も制限が無ければ、平安小将棋の36枚から、
38、40、42、44、46、48、50の概ね7通りのパターン
の、多数の日本将棋型の9升目ゲームが、優劣を競う状態に本来なら
なり、戦国時代には文字通り、小将棋乱立の時代だったはずだと、
私にはやはり、推定されたのである。(2018/03/26)

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9×9升目46枚制金上の猛豹追加朝倉小将棋(持駒有)のチェック(長さん)

前回までに、9×9升目制のいろいろな、持駒有り型の将棋について
考察した。その中で、太子成り酔象の有る朝倉小将棋は、持ち駒ルー
ルを単純に仮定しても、双方攻めきれずに、引き分けの多い、難の
ある将棋になる事が、実際にも明らかとなった。そのため、持ち駒ルー
ルの禁手を、全部撤廃して、攻撃側を有利にするような、改良を加え
てみた。結果は、良い方向に行くことが判った。
 この結果で、私は次の事に気が付いた。

猛豹は、中将棋の駒を、そのまま取り入れるとすれば、角行成り猛豹
の形で取り入れる。ので、酔象入玉将棋の局面では、角行を双方2枚
づつ取り入れるのと、それはほぼ、同一効果が得られるはず

である。
つまり、以前”取り捨てルールで存在するかもしれない”と、本ブロ
グで指摘した、”象棋百番奇巧図式”の林信充記載の、9×9升目
46枚制の猛豹・酔象追加日本将棋でも、入玉状態の相互太子のある
局面は、持駒ルール有りでプレーすると、引き分け等にせずに、打開
できるかもしれないという事である。
 そこで今回、”象棋百番奇巧図式”の林信充記載の、以下の初期配
列の将棋を、実際にチェックしてみた。
すなわち、問題の将棋の初期配列は、以下のようになる。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口角行口口猛豹酔象猛豹口口飛車口口
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

また、成ると各駒は、次のようになる。
三段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将
二段目:口口龍馬口口角行太子角行口口龍王口口
一段目:金将金将金将不成不成不成金将金将金将

成りの条件は、日本将棋と同じ。そしてこの将棋については、持駒ルー
ル有りとし、持ち駒を打つ際の

禁手も、日本将棋と同じに戻してみた。

つまり、二歩、行き所の無い場所への桂馬、香車、歩兵、その手で詰む
手での歩兵は、打てないとした。また、前と同様、玉将は打てないが、

酔象、猛豹は打てるとする。

実際に、これでゲームをしてみると、入玉し相手陣の最奥に逃げたつも
りの太子が、しばしば、

成り猛豹の角行、龍馬、斜め後方に進める銀将、必要なら更に持駒と
なった金将等で、吊り上げられて、潤沢に持ち駒が存在する局面なら、
詰む展開になり得る

事が判った。つまり、

猛豹が角行に成るおかげで、盤面に、最大で攻め駒が4枚の角行分増え、
守備過剰な状態が、かなり改善される

と、言う事である。
 この結果から、少なくとも1755年当時も含めて、それ以前に、

9×9升目46枚制金上の猛豹追加朝倉小将棋(持駒有)は、将棋御三
家や、一般将棋棋士等の研究者により、念入りにチェックされた疑いが、
かなり強い

と、私には思われた。”詳しく”の程度が問題ではあるが、基本的に

林信充の”詳しく考えた者は居無い”との旨の、記載はウソだ

と、私は見る。なお、たまたまだろうが、中将棋の角行成り猛豹は、未
だはっきりとした、出土例は無かったと記憶する。従って、一乗谷
朝倉氏遺跡等で、46枚制が、盛んには指されて居無い事は、ほぼ確か
であろう。しかし個人的印象では、この将棋はゲームとしては、充分成
立すると思われる。ので、かつて、

日本将棋連盟が、この将棋を古い時代の小将棋の例として、
日本将棋連盟編「将棋入門テキスト(指導者用)」の「将棋の歴史」
<古式の小象戯>に加えた事自体は、出所を明らかにしさえすれば適切

だったと、私は判断する。そもそも詰め将棋の本の、著者クラスの者が、
”ちょろ角銀攻め”で、46枚制小将棋の”底に落ちた太子が、詰むか
どうか”を、”誰も詳しく考えた者がいない”とも思われない。ので、
林信充の問題の序文は、この将棋が、徳川家治の時代より少し前の、江
戸初期に考え出された、近世の物である事を、示しているのかもしれな
い。すなわち、作者が、大橋家かその分家か、伊藤家の者であるという、
”誰もが、詳しく詮索する事の許されない、宗家に隠されたゲーム・デ
ザイナーの特定情報”の存在を示唆するための、婉曲的な言い回しなの
かもしれないと、言う事である。(2018/03/25)

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日本将棋と同等の性能を持つ、9升目38枚制将棋の作成(長さん)

前回・前々回と、9升目42枚制朝倉小将棋について、その発生要因を
問題にした。何れにしても、朝倉小将棋の存在は、42枚制の将棋ゲー
ムが、ありきたり、との印象を与えるものである。なお以前に、本ブロ
グでは同じ9升目で、持駒有りルールでも、40枚制の馬将棋、42枚
制の大局将棋の駒を加えた新将棋ゲームを、作成した旨だけを報告した。
 そこで今回は、40枚でも42枚でも無い、加える駒が双方に1枚づ
つだけの38枚制で、日本将棋と、性能的に同等のゲームが、出来ない
かどうかを考えて見たので、結果を報告する。
 いつものように、まず結論を書く。以下の9升目38枚制将棋は、日本
将棋に比べて、ゲームの進行度、攻撃防御のバランス、ゲームとしての
難易度等で、余り遜色が無いように、思われるという結果となった。
すなわち、その将棋の初期配列は、以下のようになる。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口口口口口口口車兵口口口口口口口口
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

また、成ると各駒は、次のようになる。
三段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将
二段目:口口口口口口口四天王口口口口口口口口(四天王は隣接居喰型)
一段目:金将金将金将不成不成不成金将金将金将

前の2タイプの将棋同様、標準型平安小将棋部である、1段目と3段目
のルールは、全く変えて居無い。なお、成り条件、持駒ルールとその禁
手条は、現行の日本将棋と同じとする。問題は、四天王成り車兵のルー
ルであろう。この駒は、wikipediaに記載されたルールの通り
の四天王に、敵陣3段目を基準として、日本将棋のルールで成る、
比較的良く知られた、天竺大将棋の車兵とした。
 すなわち、元の駒の車兵は、前後と斜めの6方向に走り、横へは2升
目だけ走る。横は3升目以上へは行けない、走りであって、駒は普通
の走りと同じで隣接升目を飛び越せないが、その左右の隣接升目でも、
元駒は、止まる事もできる。
 次に成り駒の四天王は、このケースは、天竺大将棋の車兵の成りとし
た。すなわち、元駒の車兵に有った、前後と斜めの6方向への動きにつ
いて、隣接升目で停止が出来なくなる。なおその隣接升目については、
それに限り、今度は跳び越えができるようになる。すなわち、隣接升目
を跳び越えるが、そこで停止出来ないと言う2点で異なる、ほぼ走りに
近い駒とした。
 次に、左右横へは今度は3升目まで、2升目、3升目と、2通りの場
合について停止ができる条件で走る。また、特別に隣接升目の駒は飛び
越せる。だから、2升目先には跳べ、3升目先には、隣接升目を跳び越
えてから、2升目先に着地し、次いで走ることが出来る。ただし横は、
4升目以上へは行けず、2升目先からは、跳び越えもできない。つまり、
横への升目制限走りも、隣接升目では停止はできない。

その代わりに、停止出来なかった計8方向の隣接升目へは、相手駒を
居喰いして、元の升目へ戻れる、獅子のような動きが新たに発生する。

即ちwikipediaの天竺大将棋の四天王は、隣接升目へは、居喰
い型であって、前に本ブログで、古文書の、より自然な解釈として紹介
した、相手駒凍結型にはしない。なお、wikipediaの四天王
(天竺大)ルールは、成書「世界の将棋」と、ルールが等しいと、聞い
ている。ここで、成りの四天王を、隣接居喰い・非停止型にしたのは、
相手駒凍結型では、攻めが強すぎ、即詰みになるので、止めるという
調整の結果である。また、

四天王が隣接升目で停止できない等というルールにより、この将棋は、
寄せが複雑になり、ゲームの良い性能は、ほぼその点だけで発生

する。
 実際にゲームをしてみると、今述べたように、四天王が隣升目で止ま
れない事だけで、ゲームの面白さが出ているという、印象の強いもので
ある。天竺大将棋を指しなれていて、四天王の取り扱いに慣れている方
には、さほどの目新しさは、あるいは感じられないのかもしれないが。
もっとも、天竺大将棋では、火鬼の活躍に隠れて、四天王の存在は、幾
分地味である。だから日本将棋系に、この元駒の車兵を、一点豪華な
大駒として導入すると、意外に面白いという点に、気が付いた方は、
過去、恐らくほとんど居無いだうと私は思う。
 以上のように、日本将棋とほぼ同等の性能があるとみられる、持ち駒
ルールの小将棋系は、日本将棋とは別に、38枚制、40枚制、42枚
制と、3通り存在できそうであった。にもかかわらず、現実に日本将棋
が40枚制なのは、たくさんの将棋種の中で、淘汰が行われたのではな
くて、

やはり、日本は龍の守る国という信仰が、大衆にも朝廷にもあったせい

で、最初から成り龍王飛車と、成り龍馬角行が平安小将棋(持駒ルール
有り)に加わった、40枚制の日本将棋、ありきだったのではないかと、
私には、いよいよもって、疑われてきたのである。(2018/03/24)

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9升目42枚制朝倉小将棋は、なぜ指されたのかⅡ(長さん)

前回、西暦1530年~40年に、後奈良天皇によって、酔象を取り除く
べしとの詔も有って、流行らなくなったという、言い伝えで知られる、
朝倉小将棋が、ゲームとしてディフェンス過剰という問題が、そもそも
有りながら、戦国時代にかなり指されたとされる、理由について考えた。
 前回は、理由は不明とし、酔象が太子という、玉駒に成るルールは、
防御側にとって、著しく有利なため、

攻守のバランスの崩れは、そもそも、かなりひどいものである、

との指摘をしたに留まった。その後、いろいろ検討した結果、改善の候補
としては、

取り捨てルールでは調整無理であり、持駒有りの場合だけ、どうにかなる

と考えられるようになった。すなわち、以下の方法が考えられるのに、私
は気が付いた。

持駒ルールで、通常有る”禁手”を全て撤廃し、相手玉を詰もうとする、
攻撃側に、幾分有利なように、ルールを変える

事である。ようするに、2歩でも3歩でも、同じ筋に歩兵を打つのも自由、
動けないところに、歩兵、香車、桂馬を打つのも自由、相手が詰んでしま
うのに、最後の手で歩兵を急所に打つのも、自由にするのである。なお、

相手から奪った、玉将だけは打てない

事にする。この点だけを、禁手にするのである。従って逆に言うと、太子
成り酔象は、現行のルールとは異なり、相手の駒をリサイクルできるもの
とする。
 このルールで指してみると、特に

2歩打ちが出来るため、酔象を追いかける手が、かなり幅が広がる

のに気が付いた。従って、太子を守るにしても、”やっとこさ”になる。
 むろん、このゲームでは基本的に、

太子は、入玉状態で出来る訳けだから、通常の日本将棋では、入玉規定で
概ね勝敗が決まる状態で、太子詰みのゲームを、更に続ける事が多い。

従って、持ち駒ルールの、打ち駒の禁手が同じでは、日本将棋と全てが
同じであり、ゲームにならないのは、最初から当然だったかもしれない。
 もともと戦国時代には、持駒ルールは有ったのだろう。しかし江戸初期
からのように、ルールが整備されていたかどうかは、謎かもしれない。持
ち駒ルールと言っても、相手の駒をリサイクルできるという程度で、禁手
が何なのはは、ひょっとして、はっきりとは決まっていなかったのかもし
れないと、私は疑う。
 そのため、2歩や3歩も自由で、

普通に40枚制の日本将棋を指すと、相手玉が、簡単に詰みやすすぎる感
が、上級棋士には、もともと有ったのかもしれない。

そのために、普通唱導集時代の大将棋から有った、釈迦の太子時代への
信仰の流れで、たまたま中将棋の真似で、太子成り酔象も取り入れられて、
飛車角のほかに導入されて指された。そうして、その朝倉小将棋が、ある
程度流行る要因になったのかもしれない。
 ただし実際には、太子入玉将棋は、自分の太子を固めるのに、双方夢中
になれば、

引き分けになる事が、依然多い

と思われる。つまり、このように相手玉が、詰み易いルールを敢えて導入
しても、

朝倉小将棋は持駒有りタイプだとしても、それでも攻めが弱すぎる

ゲームには変わらないとは、私には思われるものである。(2018/03/23)

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9升目42枚制朝倉小将棋は、なぜ指されたのか(長さん)

9升目42枚制の日本の小将棋の話題を出したからには、表題の件
の解明が、避けて通れないだろう。
 なお、ここで9升目42枚制朝倉小将棋というのは、小将棋とも
称される将棋で、以下の初期配列のゲームの事である。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口角行口口口口酔象口口口口飛車口口
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

なお、酔象は、相手陣3段目を基準として、その将棋ルールで太子に
成り、太子は玉駒であって、

太子があれば、玉将が無くても、負けにならない

という、将棋である。
しかし、なぜこのようなゲームが発生したのかと言う問題を解くのは、

実は容易ではない。

そもそも、一乗谷朝倉氏遺跡から、これほど明解に、この将棋の存在
が証明され、前に述べたように、室町時代の謡曲「文禄本幸若(舞)
信太」でも唄われ、江戸時代の詰め将棋にも痕跡が残り、江戸時代
の将棋書でも、取り上げられるほど、存在は明確なのだが、この将棋が

これほど流行った理由が、少なくとも私には、さっぱり判らない

のである。朝倉小将棋を、室町時代の謡曲流に、取り捨てルールで指
しても、普通日本将棋のように、玉と太子の所有が、次々に入れ替わ
るのを承知で、持ち駒ルール有りで指しても、実際に指してみると、

「太子を作る」という戦術が、余りにも防御側にとって有利なため、
ゲームとしてのバランスが、全く取れない

のが、当たり前だと見る。この将棋を止めさせたと伝えられる、後奈良
天皇が、英雄視される所以である。
 実際この将棋を何度やっても、まともな将棋が出来るような気が、
私には全くしない。現在通常やられている、持ち駒ルールの禁手条件
を変えて、

酔象は打てないとする

というのが、西暦1500年以降の将棋のルールとして、全く不自然
だが、そうするより無いような気が、私にもした。(2018/03/22)

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