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日本将棋と同等な、持駒ルール有り9升目42枚制将棋の作成(長さん)

前回等で、日本将棋と、さほど遜色の無い9升目40枚制馬将棋(持駒有り)
を紹介した。だが、飛車角が龍馬中馬の馬将棋にしても日本将棋同様、40
枚制には変わりが無い。ので日本の将棋が40枚になるのは、ゲームの良し
悪しだけを考えた場合にも、必然だった、疑いをこれでは拭いきれないだろ
う。そこで、今回は、加える攻め駒を、双方に3枚ずつにして、42枚制の
日本将棋に近いゲームとしての性能を持つ、持ち駒ルール将棋を、作成して
みた。
そこでさっそく、初期配列を書くと、以下のようになる。

初期配列
三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口鴈飛口口口口飛燕口口口口臥龍口口(臥龍は大局将棋の)
一段目:香車桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬香車

なお、これらは、日本将棋と同じルールで、相手陣3段目を基準として、次
のように成る。

成り
三段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将
二段目:口口横行口口口口飛車口口口口大龍口口(大龍は大局将棋の)
一段目:金将金将金将不成不成不成金将金将金将

ここで以下、加えた駒の説明をする。今回は、新しい駒を、

大局将棋から、持ってきた。

そのため、同名の他の種類の日本の将棋の駒と、ルールが違う物が有る。
また、正式な名称を使わず、よりポピュラーな駒名と、置き換えたものが
ある。
 ではまず、2段目の新顔の駒について右駒から説明する。
 初期配列の臥龍は、縦横隣接升目にのみ動ける小駒である。同名の駒が、
摩訶大大将棋等に有るが、斜め後ろへは、大局将棋の臥龍は動けない。
江戸時代の文献の大将棋の嗔猪の動きと同じにして、対称性が高く、ルール
を覚えやすくしてみた。大局将棋の臥龍は、大局将棋の大龍に成る。奔龍に
は成らない。大局将棋の大龍は、角行の動きに加えて、前後に3歩まで、走
れるとここではした(大龍の前後走りはwikipedia型)。歩数は1
歩と、2歩と、3歩と、何れもとれる。走りであって、跳びではない。
大大将棋の同名の大龍と異なり、横には行けないし、横2、3升目へは、跳
べないし、前後は2歩まで走りではなくて、3歩まで走りだし、斜め後ろへ
も行けない。この大龍は、水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の泰将棋の大龍と
同じ動きで、のちにそれを大局将棋で、取り入れたと見られるものである。
 次に初期配列の飛燕も大局将棋の駒であって、斜め前に走り、後ろの
隣接升目にのみ歩む。飛燕は飛車に成る。
 初期配列の鴈飛は、前後と斜め前の、計4方向に歩む。後期大将棋や中将
棋の銅将と、同じルールである。成ると、本当は燕羽に大局将棋では成るが、
ルールが、中将棋の横行と全く同じであるため、ここでは、よりポピュラー
な、横行に変えた。横行は横に走り、前後に歩む。なお、同名の駒が和将棋
にも有り、ルールが鴈飛が燕羽に成る点でも、大局将棋と全く同じである。
 以上が、駒のルールの説明である。当然だが、そのほかの36枚の駒は、
日本将棋と全く同じとしている。実際に初期配列した写真を下に示す。

42枚.gif

なお、持駒を打つ禁手のルール等は、日本将棋と全く同じ、二歩、動き所無
し、打ち歩詰みを禁手としている。
 実際に指してみた限り、この将棋も、攻守バランス、ゲームの進行度が、
日本将棋と、さほど差が無いように見える。実質成らないと発生しない、
飛車・横行・龍馬の強さに近い駒の3種で、龍王成り飛車と龍馬成り角行を
置き換えたゲームである。それでバランスがほぼ日本将棋と同じになるため、
必要な玉の守備も、日本将棋と、ほぼ同じになっているように、思われるの
である。(2018/03/21)

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平安大将棋の銅将は、なぜ斜め前に行けないルールなのか(長さん)

銅将は、平安大将棋の他、日本将棋等の小将棋系を除き、ほぼ全ての
日本の将棋に、存在する駒である。銅将の有る日本の将棋のうち、
平安大将棋を除くと、銅将は、前後と斜め前に計4方向に歩むルール
であると、私は認識している。ところが、銅将発祥の将棋かとみられ
る、

平安大将棋では、銅将は、斜め前に動けず、縦横計4方向歩み

となっている。今回の論題は、その原因を追究するものである。
 最初に、いつものように結論を書くと、

二中歴の時代には、双六が盛んだったため、サイコロの4の目のデザ
インの影響で、たまたま一時、記録のようなルールになった

のだろうと、根拠は乏しいながら、私は考えている。
 そもそも、平安大将棋の銅将と、他のたとえば中将棋の銅将のルー
ルとで、違う事による主な影響は、中将棋等では、攻め小駒として使
えるので、斜め前動き銅将は成りやすいが、平安大将棋型を仮に取る
とすると、動きが鈍くなるという差が、有ると見られる。中将棋では、
銅将は横行に成る。が、元来平安大将棋では金将、また、
西暦1320年~1350年頃の幾分後期の普通唱導集の大将棋でも、
銅将は、金将に成ったものとみられる。その後室町時代初期の、15
升目型4~5段組大将棋では、不成りになったのだろうが。
 何れにしても、最下段の駒が、金将等に成りやすいようにするため
には、銅将は平安大将棋のような、ルールにしない方が、本来は良い。
 しかし、敢えて銅将を縦横動きにしたとすれば、

成りやすさよりは、動かし方ルールの覚えやすさを優先した結果

なのではないか。つまり金将が、昔から斜め後ろへ行けない動きであ
って、猛豹の動き等へは、変えようがないのは、しかたないにしても、
銀将は、五角形に近い動きで、サイコロの目のようだった。ので銅将
も、サイコロの四の目の動きに、将棋纂図型のルール表の図を作った
ときに、見えるように、少なくとも西暦1200年時点では、したか
ったのであろう。
 恐らく初期配列で駒を並べた動かし方ルール表が、水無瀬兼成の将
棋纂図部類抄のように、鎌倉時代初期にも有り、その行き方方向に打
った点が、サイコロの目の形に似ている方が、平安大将棋のルールを、
覚えやすかった。ので、たまたまその時代には、銅将を”斜めへは行
けない動き”と、していたように、私は思うのである。
 なおそうすると、

鉄将が、後ろ三方へ後退できない5方向動き、であって3方向で無い
事が、一見すると説明し辛い。

これについては、二中歴の”鉄将不行下三方”の説明が、”鉄将不行
横下三方”の脱落の疑いを、私は、個人的に持っている。こうすると、
7個点打ちという駒は無いので、イレギュラーは有るのだが、金将が
6個点打ち、銀将が5個点打ち、銅将が4個点打ち、鉄将が3個
(サイコロのように)点打ち、桂馬が2個点打ち、香車が1線引きと
なって、

将棋纂図部類抄型ルール図の打点が、サイコロの目を並べた形になる

とみるからである。つまり、少なくとも西暦1200年頃には、金将
の立体駒の輝きは、立体駒将棋を止めた、初期院政期から120年程
度経っており、五角形駒に置き換えられて、記憶が薄れていた。その
ため、むしろ盤双六のような、ポピュラーなゲームの、サイコロの目
から、連想できるようなルールの覚えやすさが、優先されたのであろ
う。また恐らく、南北朝時代の中将棋の作者も、こうした、平安大将
棋の将棋纂図を、見ていたのであろう。
中将棋で、

銅将の成りを、横方向が歩みから走りに変わった、横行に充てた

のも、平安大将棋時代の、銅将のルールも、知っていたからだと見ら
れる。
 ただし、今に伝わる銅将の動きは、平安大将棋の銅将のルールでは、
少なくとも無い。ので、どこかで、敵陣に進撃しやすい、現行の銅将
ルールに、変えた事は、確かだと思う。
 それが、どこでかははっきりとはしないのだが、1段目と歩兵段だ
けが、上下非対称動き駒、2~3段目が成りルールも含めて、上下対
称駒で、占められていたと疑われる、本ブログの仮説である、

西暦1300年頃の、普通唱導集の13升目108枚制大将棋の時代
に、銅将は、斜め前と前後歩みの、上下非対称型に変えられた

のかもしれない。つまり、十字銅将は、最短では西暦1200年から、
西暦1290年頃までしか、存在しなかった可能性もあると、私は疑
う。なお、普通唱導集で、前記のように1と4段非対称、2・3段
対称に、ひょっとするとした理由は、ルールが規則的でリズミカルな
形になるから、というのは、有ると思う。
それ以外には、

仏教、神道、陰陽道、五行説とが、渾然一体となるものであって、私
には訳がわからないほど複雑な理由もある

のかもしれない。ただし解明は、複雑で困難だろう。また普通唱導集
を指す棋士の中でも、信心は、いろいろ宗派もあるので、温度差が有
り、ルールが規則的で、リズミカルな形にすると、覚えやすいので、
反対が少ないという点で、最大公約数の賛成のコンセンサスが得られ
て、これになっていたという、程度なのではないかとも、私は個人的
には疑う。
 以上のように、二中歴が書かれた時点で、恐らく立体駒の将棋の時
代よりも、約120年経っていて、銅将を金将等に敵陣で、成らした
いという要求に比べて、双六サイコロと似通わせて、動かし方のルー
ルを覚えやすくしたいという要求が、勝っていた。ので、銅将は少な
くとも一時期、縦横歩みに、なったのかもしれないと、私は考えるの
である。(2018/03/20)

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対抗日本将棋である馬将棋の指し方例(長さん)

少し前に、本ブログの見解によれば、現行の日本将棋は、ゲームの
長い間の調整だけでなく、中世の龍神信仰により、飛車と角行が追加
されたものであり、単にゲームの調整だけから、作るとすれば、複数
の可能なゲームが、有り得たとの旨を述べた。その際例として、
龍王成り飛車を、大馬成りシャンチーの馬、龍馬成り角行を、龍王成
り龍馬に変えたゲームを、通常の日本将棋を、車将棋とも名づけられ
るとの対応関係により、馬将棋と名づけて紹介した。ここで、馬将棋
の大馬は、ここでは中馬と呼ぶ、シャンチーの馬に加えて、江戸時代
の嗔猪の動き、すなわち塞馬脚の部分でも、止まれるを、加えた駒と
する。
 この馬将棋も、中馬・大馬が、本質的に走り駒類なため、玉を囲う
戦略が有利である事は、日本将棋と変わらない。ただし、攻撃大駒の
ルールが変化するため、具体的な”良い囲い方”のパターンが変化す
る。すなわち、下の例のような

普通の金矢倉は、馬将棋では、余り良い囲いでは無くなる。

もともと、矢倉は横からの攻撃には、比較的弱いのだが、馬将棋では、
それが極端なのである。
 すなわち、下の写真のように、大馬が、金の斜め下の6九の
地点に攻撃側から置かれると、いきなり王手が掛かり、守り方に持駒

金矢倉大.gif

が無ければ、写真の例では詰んでしまう。つまり▲6八金引き等が、
間に合わないのである。
 それに対して、次の写真のような陣は、通常は美濃囲いの崩れた
悪形であり、日本将棋では、名前が特には無いとみられる。この陣で
は、日本将棋の場合、たとえば写真のように、

馬囲い.gif

龍王と龍馬で最下段から攻められ、攻め方に持ち駒の、金が有れば、
この例では詰んでいる。しかしながら、馬将棋では
成り龍王の龍馬が、片側に1個しかない。だから、相手の龍馬駒を、
予め取って、駒得になっていないと、このようには攻められない。

従って、下側の無名の囲いの方が、金矢倉よりも、馬将棋ではやや
堅い

と見られるのである。実際にゲームをしてみると、この

無名の囲いは美濃囲い同様、金矢倉より少ない手数で、簡単に組める。

そのため、持ち駒が在る程度有る状態では、両者にさほどの堅さの差
は感じられないのだが、手得と手損の差で、馬将棋では、金矢倉側が、
紹介した”美濃崩れ無名囲い”に比べて、不利になる場合が多いよう
である。
 以上のように、ルール変化により戦法は、当然変化するが、馬将棋
も以上のような点に注意すれば、指していて、日本将棋より、さほど
劣っているゲームとは、思えないもののように、私には見えるのであ
る。(2018/03/19)

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興福寺1058年木簡。”酔像”の位置(長さん)

少し前に、興福寺の出土木簡の酔像の像の字の、理由について、本
ブログで議論した。その際、酔像の位置が、確認出来なかったと、
書いたが、再度、落ち着いて見た所、ごちゃごちゃ墨の字が入って
いるものの、極端に字体が、特殊でも無い事が判った。

酔像木簡.gif

上の写真の、赤い四角の中に、確かに、酔像と私にも読める程度の
字が書いてあるようだ。なお、問題の木簡には、写真のように、
黒い5つの四角の中に、それぞれ歩兵と書いてあり、また、写真の
ように、黄色い四角の中には、金将と、これも読むのに、さほど
苦労が無い程度に書いてあった。そのため、明らかに、将棋の駒の
字の習字のためだと、見られたようである。

興福寺出土、西暦1058年木簡の、習字の字の解読は確かだ。

この字を解読したオリジナルな研究者の方に、無用な疑いをかける
ような書き方を、本ブログでかつてした事を、平にお詫びする。
(2018/03/18)

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江戸時代(1653年頃)の将棋書「中古将棊記」の伝説は無意味か(長さん)

ここでは以下、江戸時代(1653年頃)の将棋書「中古将棊記」の旧版
序文のうち、

将棋の中国人伝来者が、”日本の国に十のうち四つの駒を引きわたした”

と記載された箇所に、意味があるのかどうかを、問題にする。
 つまり、本ブログの見解によれば、西暦1015年に、北宋の交易商人
の周文裔が、日本の国の藤原道長を通し、後一条天皇に引き渡した、
雲南・大理国将棋の駒数が、運んで来た数よりも少なかったのかどうか、
という点が、問題という訳である。そこで、回答を書くと、

”十のうち四つの駒”ではなくて、「六十のうち五十四の駒」が、引き
わたされたのかもしれない

と、私は推定する。つまり、

江戸時代の記録は微かで正確ではないが、単なる作り話では無い

と言う事である。なお、実際に引き渡した駒の内訳は、

もともと、必要な52個に、予備に兵の、比較的小型の立体駒を2個加え
たもの

だったのかもしれないと思う。他方、周文裔は、このほかに、次の6個、

象駒を2個と、金将駒を4個を予備に持参しており、その6個は持って帰
った

のではないかと、私は思う。なお、元々の引渡し予定枚数は、54個より
も2個少なくて、52個のはずだった。”引き渡した数が、持参した数と
は違う”という事がけしからんといわんばかりの話は、元々正確ではなく
て、元々引き渡すはずだった数と、実際に引き渡した数が違う(むしろ、
最初の予定より、2枚増えている)という、象駒という一種が伝えられな
かったという主旨の話が元ネタであり、その話が、変形したものと私は見
る。なお、

そもそも、貰った駒が少なく、中国のゲームよりも、劣っているのが不満
で、中国並みのゲームをしたいのなら、松岡氏の一条サロン将棋自作説の
ように、自分で道具を足せばよいだけなので、そのせいで、大陸より劣っ
たゲームしかできなかったという話との、イメージを持つのは、そもそも、
冷静に考えれば妙な話

なのである。なお興福寺では、伝来より30年後には酔象を足して、中国
雲南流の将棋が、実際に指されたと、みられる。
 では、本ブログの見解に沿って、以下に、その経緯を詳しく見てみよう。
 すなわち、当初の予定の52枚とは、
ネフライト玉駒、銀の将駒が、各2個で4個、金の将駒は当初、初期配列
用が2個と、成り駒用が18個で、ここまでで24個。馬と車駒が各4個
で、ここまでで32個。更に兵駒が16個で、ここまでで48個。そして、

当初は象駒2枚を引き渡す予定だった

ので、計50個。更に、予備に兵駒を2個足すとすれば、52個である。
なお、当初は、銀の将の立体駒2個と、成り金将用の金の将の立体駒6個
を、元々多めに予備として、持ってきていたので、これら計8枚を周文裔
は、持ち帰る予定だったとみられる。
 所が象を知らない、大宰府の護衛兵と写経所の僧が、荷揚げの港で物見
に来ると判った事。象のルールが角行動きの大理国ルールで、この1種類
だけ不成りであるという説明が、めんどうな事。実戦で象に小駒が喰われ
て、中盤・金の駒が盤面に残りにくく、盤上がやや地味になる事。更には、
金の将駒は10%増量、銀の将駒は倍に増やせば、藤原道長等の機嫌も良
いだろう(特別増量商法)と気が付いた事。以上の事から、周文裔は、
この52枚から、象2枚をマイナスし、逆に銀の将立体駒、その銀の成り
用の金の将立体駒を、2枚づつ増やして、

当初用意した60個のうちの、恐らく54個を、日本側に、駒を引きわた
したと見られる

というわけである。ようするに、

興福寺出土駒の状況から見て、”酔象不伝来の語り草話”以外、この序文
の”十のうち四つ”話の元ネタの候補は、ほぼありえない

と私は見る。
”日本の国に十のうち四つの駒を引きわたした”という言い回しも、十を
60に、四を54に変えてしまうと、何かの受領の、事務処理古記録文書
を、そのまま、書き写しただけのような感じに見える。江戸時代、
西暦1653年には、将棋の伝来の言い伝えは、このように、かすかな
ものに、なってしまっていたようだ。
 つまり、

「中古将棊記」の旧版序文の指摘する数に、それぞれ50を加えれば、
実際の引渡し数になるのではないか

と、私はざっとは見る。よって、
持ってきた数より、実際に引き渡した数の方が少なかったとの、中古将棊
記旧版序文の記載も、単にそれ自身は、予備駒があったと常識的に考えれ
ば、通常の仕事の仕方であり、それ自身は中国側の周文裔の悪意ではない。
つまり、

わざわざ遠いところから日本に時間をかけて来るのに、予備駒が、不測の
事態に対応するために、多少余分に、用意されて居無いというのは、むし
ろ不自然

という事である。だから、象駒のトラブルも、実際には楽に、吸収できた
のであろう。
 なお、予備に持ってきた2枚の兵のおかげで、金の将駒は、元からだぶ
ついていた、成り用の分を回せば、後に

9升目制の標準的な平安小将棋も、宮中では、この立体駒を使って、8升
目盤は使わずに、国産9升目将棋盤を新たに調達すれば、やろうと思えば
出来た

のかもしれない。すなわちこの潤沢なゲーム材料が、後の院政期の、日本
の小型将棋の標準化にも、恐らく繋がった可能性が、充分に有り得るので
はないかと、私には疑われる。(2018/03/17)

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”安土桃山時代の駒師は、王将駒を書かなかった”との話がある(長さん)

少し前に、本ブログで、安土桃山時代の駒師で、将棋纂図部類抄の著者
水無瀬兼成の作駒に、王将が有るとの情報が見あたら無いとの旨を記した。
 その後、webをざっと見ていると、今年(2018年)の2月19日
に、現在の将棋駒の作家として知られる、熊澤良尊氏が自身のブログで、

安土桃山時代の少なくとも著名な駒師による作駒に、王将は無い

との旨の、記載をしているのを発見した。

熊澤さん、ありがとう。それはとんでもない話

だ。なぜなら、一乗谷朝倉氏遺跡からは、安土桃山時代よりも前の、

戦国時代の王将駒が、玉将駒と共に、複数発見されている

からだ。むろんもっと前、平安時代最末期には、大阪の四条畷市の遺跡
からも、ほぼ王将駒と見られるものが出ている。それにwebに一部有る
ような、”若干の不明な点”があったとしても、鎌倉時代に入ると、
京都鳥羽離宮から王将駒が出る。なお、京都府と滋賀県については、古代・
中世に、今の所、玉将の遺物が見当たらない。よって、安土桃山時代に

王将駒を、水無瀬兼成だけが個人の事情で作成しないのは、ほぼ確定的だ

と私は見る。なお近代になると、私もちょくちょく行く、奥野かるた店
の創始者の駒師の奥野藤五郎が、ほとんど王将駒を、書かなかった事で
知られるらしい。なお奥野氏は、江戸時代の旗本の子孫なら、源氏筋だ
から、王将駒を作成しても、特におかしくは無さそうだが。何れにしても、

やはり、藤原氏系の水無瀬家には、大江匡房という、藤原氏排除の初期
院政派勢力が、西暦1080~90年頃に、作ったとみられる王将は、
西暦1580~90年の時点から見ても、藤姓の者は、本来普及すべき
とは言えない

という、我々歴史の解明を目指す者には、とてもありがたい、言い伝え
のようなものが、恐らく家には家訓として、口頭等で伝承されて、残って
いたのではないかと、私には疑われる。この情報が、本朝俗諺誌等の痕跡
を除いて、ほとんど消えたのは、やはり江戸時代になってからの、事なの
だろうと、私は王将・玉将の件については個人的に思う。(2018/03/16)

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普通唱導集の大将棋唱導。何故堅行奥の嗔猪を繰り出しているのか(長さん)

普通唱導集の大将棋第2節は、15升目の後期大将棋を当てるにしても、
本ブログのように、13升目の仮説その時代の大将棋を仮定するにして
も、仲人を支える嗔猪は、縦走りの堅行の下から、繰り出してゆく事に
なる。そこで、常識的にそうするには、堅行の前の歩兵を、わかり易く
は、自陣の仲人より2段上、すなわち、将棋種は13升目だろうが、
15升目だろうが、中央段まで、上げておかなければならない。ついで、
堅行をその下の升目に走らせてから、嗔猪を1歩づつ上げ、仲人の横で、
腹を合わせるのである。一見するとこのとき、もし、嗔猪の上段に、
初期配列で、堅行がもともと居なかったとしたら、陣地を作るのが3手
早くて、更には歩兵・堅行のでっぱりが無く、自然なようにも見える。
当初、これが多少、

13升目普通唱導集大将棋のモデルの難点になりはしないか

と、私には気になっていた。つまり、角行・堅行・横行の行駒3つ組は
必要不可欠な角行と、平安大将棋にも有る横行の存在が確実なら、確か
に存在が自然なのであるが、

間違いなく堅行は、13升目の仮説普通唱導集大将棋に存在したのだろ
うかか

という、疑念が有ったのである。しかしその後、この疑念は少しずつ
晴れてきた。理由は、普通唱導集型の斜め走り駒の、タスキがけ攻撃に
は、龍馬2枚と角行2枚を、同じ筋で攻める、少し前に説明したやり方
とは別に、下の写真のように、龍馬の筋を角行とは筋違いにして、隣の
嗔猪の筋に当て、龍馬で、相手の守り駒の嗔猪を取り、嗔猪の仲人への
守りから外してしまう手が有るのに、気が付いたからである。

第2節.gif

すなわち、そのとき、

嗔猪には、焦点の仲人ではなくて、別の、この場合は堅行で、紐を
つけておく必要があった

のだった。写真のように、攻撃側の後手は、少し前の15升目の後期大
将棋で説明したように、角行×2、龍馬×2で、普通唱導集、大将棋の
第1節型の攻撃の準備を仕掛けてきている。先手はここでは普通唱導集、
大将棋の第2節型の陣を、仲人の回りに作成して、守りを固めたところ
である。ただし前とは違って、後手は、4つの斜め走り駒を、同一筋に
置いて、焦点・先手仲人位置には、攻撃を掛ないで、2枚の龍馬をその
筋を変えずに進めて、角行の筋とは、一つ筋違いになるようにし、仲人
の隣の、嗔猪に当てた所である。このとき、先手の嗔猪には、変則的な
形だが、上段の堅行が、繋ぎ駒になっている。実は、この堅行が無いと、
先手の端は破れる。しかしながら実際には、この堅行の存在のおかげで、
後手の斜め走りの龍馬が、1枚余計に消耗するので、先手の陣は破れな
い。むろん、このようなケースに、

先手の右嗔猪を取った後手の龍馬を、右仲人で取り返すのは、たとえ
仲人が、”「或説」では無い正しい説で、傍へ行けるルール”であった
としても、写真の後手二枚角で、先手陣が崩されるので論外

である。仲人はそもそも、この攻め側の作戦では、守り方は動かせない
のではないか。つまり、少なくとも普通唱導集時代の大将棋に関しては、

仲人は、平安大将棋の注人の、前後歩みのみのルールのままでも、平気

と私は見る。
 すなわち、写真より以下は、次のように進行すると見られる。
△3九龍馬▲同堅行△同龍馬▲9九歩兵△4九角行▲同歩兵△同角行
▲同桂馬△同龍馬▲3十二鉄将△3十一龍馬▲同鉄将。
このように12手進むと、後手は、斜め走り駒を4枚使いきったが、
それでも先手の袖は、かろうじてだが、破れてはいないのである。
 以上の事から、

普通唱導集大将棋の13升目モデルでも、嗔猪の前の自然な堅行の存在
は、陣を組むには手間がかかるが、役に立つ場合がありうる

と、結論される。そこで、この堅行の存在自体が、自然なものであると、
今度は逆に仮定すると、それが嗔猪の前方で、その繋ぎ駒になるから、
普通唱導集の大将棋第2節の、仲人陣戦法が成立すると言う事になる。
という事は逆に、角行の内隣に、それが無ければ、嗔猪が喰われて陣が
崩れてしまう、

龍馬という駒が、西暦1300年頃の鎌倉時代後期に既に、存在する事
の方を、確定付けている

と私は考えるのである。(2018/03/15)

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水無瀬兼成は”王将駒”を、書いた事が無いかも(長さん)

少し前に、本ブログで、安土桃山時代の将棋駒書家で、藤原氏一族の
水無瀬兼成が、自身の著書の将棋纂図部類抄の将棋駒配置図で、王将で
良いケースに、全部”玉将表現をしている”との旨の、指摘をした。
 その時点で、彼が書いた駒については、ユーザーの要求により、王も
玉も有るのだろうと、私は漠然と考えていた。しかし最近、手元に有る
資料を当たったところ、そうとも言えないと、思うようになった。

水無瀬兼成の書いた将棋駒で、王将と書かれた物が簡単に見つからない

事が判ったからである。
 たとえば、増山雅人氏の著書「将棋駒の世界」(中央公論新社)
2006年に、水無瀬兼成筆の中将棋の駒が、カラーで記載されている。
が、その駒の玉駒は、不成り玉将と、書かれている。
 また、増川宏一氏の将棋Ⅰ(法政大学出版局)1979年に、「日本
の美術」よりの転載として、水無瀬神宮所有の、日本将棋と中将棋の駒
の、ランダムな混ぜ合わせの写真が掲載されていて、その中に玉駒が2
枚入っているが、両方とも玉将(双玉型と言うそうだ)になっている。
 なお、下は水無瀬神宮の水無瀬兼成作の玉駒だが、水無瀬兼成の名が、
”実質的に”入った写真の駒は、確かに王将ではなくて、玉将である。

水無瀬駒.gif

 ひょっとして、水無瀬兼成は、将棋纂図部類抄で、王将表現を全くし
ないだけではなくて、自身の

書いた将棋駒にも、王将は全く無い

のかもしれないと、私はだんだん疑うようになって来た。
 なお、私は将棋駒の収集家とは、全く繋がりは無いので、以上は確定
的では無い。断片的な持っている知識によると、この他の水無瀬兼成作
成駒では「某財閥かその関連者が、相続税の処理の際放出した」と、
将棋遊具に詳しい、鵜川善郷氏から教わったケースを知っている。この
水無瀬兼成作の別の駒は、現在福井市の材木商の方が、所有されている
という。
 この個人の水無瀬駒は、テレビ番組「開運何でも鑑定団」に、8年位
前に出展されたものである。webで検索すれば、今も情報が出てくる
ようである。当然だが鑑定で2000万円前後と、べらぼうに価値のあ
る将棋駒セットと評価された。なお福井市という町の名から、私には、
下総結城氏が徳川氏に江戸初期に取り込まれて生まれた、越前松平藩の、
そのまた殿様の末裔の女性と結婚した、現天皇家とも繋がる、住友財閥
の御曹司の名が連想される。そもそも、福井市と住友財閥とは、母系の
先祖の江戸商人が、出が越前松平藩のある福井である等、複数の関連性
が有るようである。ので、

その水無瀬兼成駒は、住友財閥(将棋道具関連は父系)によって恐らく
保存された、”室町時代の最後の将軍、足利義昭を供養した縁者の遺品”
として、江戸初期から伝わるもの

と想像される。ただし私の上記の説明がもし間違っていたら、住友財閥
には、ごめんなさいと平謝りであるが。なお、三井財閥も、物持ちで有
名だが、紀州徳川家とは繋がっていても、福井市とは、余り繋がらない
ように思える。何れにしても、手元の史料以外も当たって、

水無瀬兼成将棋駒類の、王将駒不在の謎

については、手の空いたときにでも、更に調べてみようとは思っている。
(2018/03/14)

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9×9升目40枚制日本将棋型”馬将棋”(持駒ルール有)の作成(長さん)

前々回、本ブログで、日本の将棋はなぜ駒数が40枚なのかを考察した。
そのとき結論として、朝廷に龍神信仰が有ったために、ゲームとしての
調整で、結果として残りうるの候補は、複数あったものの、飛車角を入れ
たものだけが、宗教上の理由で選択的に一種残ったとの旨の事を述べた。
だとすれば、現行の日本将棋は、ゲームの調整だけで作られた、唯一無二
の奇跡的なものではなくて、

日本将棋は、単にゲームの出来だけから考えると、たくさんある可能性の
一つに過ぎなかった

と、いう事になってしまうだろう。これは従来の定説、日本将棋は稀有の
幸運によって作られた、

他の駒の組合せでは、到底作れないゲーム

という論と、大いに違ってしまう。実の所、飛車・角行の所を、別の駒の
組合せを持ってくると、どうなるのかについて、恐らく誰かが試している
のではないかとは思われる。がその結論は知らないし、私自身が、試した
事は、過去一度も無かった。ので今回、この天動説から地動説への転換に
似た、大胆な試みを、試しにやってみようと思い立った。結論を述
べると、日本将棋に近い性能のゲームは、

厳密に肩を並べるほど良いものは、直ぐには出来ないが、
そこそこ対抗できるゲームを作るのは、さほど困難では無い事が判った。

 そこで、とっとと具体的に、そのゲームのルール内容を書くと、その
対抗9×9升目の将棋ゲームの駒の初期配列は、次のようになる。

三段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
二段目:口口龍馬口口口口口口口口口口中馬口口
一段目:香車桂馬銀将金将王将金将銀将桂馬香車

次に、成りは日本将棋の現行ルールと、成りの条件は同じを採用した。
更に成り駒は、次のようになる。

三段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将
二段目:口口龍王口口口口口口口口口口大馬口口
一段目:金将金将金将不成不成不成金将金将金将

当然だが、1段目と3段目は、日本将棋と全く同じにしている。飛車と
角行を、中馬と龍馬に変えているのである。なお、龍馬の成りを角鷹に
しても、余りゲームに変わりは無い。角鷹と龍王では、後者の方が
ポピュラーなので、ここでは龍王にしてみた。
 問題は、飛車に変えて入れた、中馬と大馬であろう。ここで、

中馬は、中国シャンチーの馬と、全く同じルール

にしている。つまり、安直だが、中国シャンチーの馬なので、略して中馬で
ある。この馬駒は、日本の桂馬や、西洋チェスのナイトとは違い、塞馬
脚ルールの存在で、やや八方桂馬より弱体化している。また中馬の成りの

大馬は、シャンチーの馬と同じルールに加えて、塞馬脚の位置と称する、
隣接縦横升目へも行ける、シャンチーの馬よりも少し強く、行き所が、
計12升目になった馬の駒

である。ただし、相変わらず桂馬のようには跳べない。そこに味方の駒
があると、それ以上向こうにはいけないし、相手の駒なら取って止まる。
 つまり、

中国の象棋の馬だから、中国の馬を略して中馬、それよりも計4升目、
行き所を多くしたので、仮に大馬という、名前にした

だけと言う事である。
 そもそも、日本将棋の飛車・角行は、縦横と斜めという、組合せで
ある。それを、○と×のルールイメージに、取り替えてみようと、私は
思ったのである。当初、○は、縦横にも2升目先にだけ限定的に走る、
いわば塞牛脚のある、猛牛型の動きを、中馬には更に加えるはずだった。
が、実際にそれで、ゲームをやってみると、攻撃が防御に比べて強くな
りすぎるため、何回かチェックして、シャンチーの馬まで、だんだん弱
く動きを調節した。
 なお、角行を龍馬に取り替えたのは、

全体として角行では攻撃力が弱すぎるためではなくて、逆に中盤最初に、
玉囲いを強くする、防御力の増大効果が龍馬には有るため、防御力の
増大を狙って、角行から取替えたもの

である。結果として、馬駒が3枚から、5種類4枚に増加した。この
ゲームに名前を付けるとすれば、よってさしあたり、車駒を馬駒に交換
した、車の少ない

馬将棋とでもするのが、適切

かもしれない。
 このゲームは、当然ながら持ち駒有りの、普通の禁手条件、(二歩、
移動所無し、打ち歩詰め、の各禁止)で指すつもりで作っている。実際

この馬将棋を、持駒使用のルールでゲームをしてみると、だいたいだが、
攻防のバランス、進行の速度は、日本将棋と類似なのではないか

と、私には感じられた。
 従ってこのような論を出すと、将棋史学会ばかりでなくて、将棋連盟
からも睨まれそうだが。やはり日本将棋は、500年も前に成立した
ものだけに、単なるゲーム性を重視した調整の結果、ばかりではなくて、

”龍王・龍馬の龍信仰”と言った信仰や宗教が、ゲームのルールを、
その大枠に於いて決めている面の有るもの

との疑いが、かなり強いように、私には感じられるのである。
(2018/03/13)

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後期大将棋。普通唱導集大将棋部分の第2節と、どう合わないのか(長さん)

普通唱導集の”大将棋”を、15升目の後期大将棋で再現しようとしても、
①桂馬が有効な位置で、仲人を支えないため、第2節の内容の局面が、作
れない点が、一番大きな難点である。
 しかし、実際には桂馬では、支えられないのだから、第1節の内容のよ
うな、”香車・反車が耳を破り、飛車を退け勝ちを取る”と唄われる、
守り側に不利な状態は、一応作れる。ただし、玉陣が堅いので、この後、
②袖に麒麟を成りこませても、”勝ちはとれ”ないので、第1節の内容と
も、かなりヅレてはいる。
 また、そのほかにも、第3として、③第2節のように、仲人の位置で、
陣地を作り、支えようとは、守り側はそもそも、しないのではないかとい
う、疑問があると、前から私は見ている。そこで今回はその説明を、正確
にしてみようと思い、写真のような説明局面を、作成してみた。

後期大将棋.gif

写真で攻めて来るのは向こう側であり、この場合は、写真の灰色の四角で
囲った、攻め側の仲人を、守り側の仲人に当てた、局面である。普通唱導
集では、赤い細線で示したように、予め攻め側が、タスキがけに、相手陣
の初期配列の位置で言うと横行位置に、斜め走り駒を当てる訳である。こ
こで斜め走り駒の枚数は不明だが、ここでは最大限4枚(角×2、龍馬×
2)を使って、攻めるとしてみた。写真のように、こちらの守り側の仲人
は”嗔猪と腹を合わせても居無いし、桂馬で支えられ”ても居無い。実は
それどころか、守り方は、この後漫然と、相手仲人を取って、仲人位置の
陣地としての守りを、簡単に解いてしまおうという、温泉気分のように、
ヌルい手を指そうとしているのだが、この場合は、それでも

大丈夫だと見られる。

 なぜなら、相手斜め走り駒の攻撃方向には、端筋に達する前に、15升
目の後期大将棋では、初期配列で、飛龍・猛牛・空升目・桂馬と並ぶ筋が、
13升目型の仮説大将棋とは異なり、もう一列、存在するからである。つ
まり、初期配置で、猛牛、写真の現在の配置で言うと、黄色い升目で囲っ
た、

猫叉の位置で、相手の攻撃を受ける手が発生する

のである。写真のように、この猫叉には、嗔猪、鉄将、猛牛、それに横行
の4枚の比較的弱い駒が、繋ぎ駒として利いた駒組が出来うる。そこで、
攻撃側は4枚の斜め走りの大駒を、全部犠牲にしても、守り側には

横行という、成り麒麟の進出にとって、大いに妨害になる駒が1枚残る

のである。他方、写真のように、守り方の端筋の守りも、たいへん堅く、
端筋から攻め方が、飛車、反車、香車を犠牲にして攻めても、守り方には、
飛車は退けられるが、反車、香車が残る。つまり、

耳を破ったのは、守り方の方になる

のである。よって、守り方が、初期配列で猛牛の位置を、守りの焦点とす
るような陣を組むのが、普通唱導集型の攻撃を支える、唄の内容とは、全
く違う守りの定跡に、なってしまうのである。言うならば、元唄の第2節
”仲人嗔猪が腹を合わせ、桂馬を飛ばして支え得る”のではなくて、

”鉄嗔猛牛端に合わせ、横行退き支え得る”の方が正しい

と言う事に、なってしまうと言う事だろう。よって、普通唱導集の第2節
のようには、端攻めに対して、”仲人位置の陣”型では守らないという点
でも、後期大将棋が普通唱導集の大将棋だというのは、それは違うだろう
と、私は考えるのである。(2018/03/12)

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