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後期大将棋。中将棋の成りを取り入れたのは誰が初めか(長さん)

将棋纂図部類抄を読むと、安土桃山時代の後期に、15升目130枚制
後期大将棋は、成りが太子と麒麟と鳳凰と、ひょっとして歩兵が中将棋
と同じであって、その他の駒は不成りだったと読める。なお、歩兵の
金将成りは、鶴岡八幡宮出土駒からの、本ブログ独自の解釈であり、
水無瀬兼成は、歩兵も後期大将棋は、不成りのように書いている。
 江戸時代の将棋の書物でも、その点は概ね反映されるが、少なくとも
平成の現時点では、大将棋の成りは、中将棋の成りに準じるものとされ
る。
 では、現代の後期大将棋の中将棋型の成りは、誰が始めたのかという
のが、今回の論題である。なお、重要な点は、犯人ではなくて、何を根
拠に、そう結論するのかと言う点である。まず、犯人の答えを書くと、

将棋纂図部類抄に出てくる、行然という僧侶であると結論される。

 そして、より重要な点は、その根拠である史料が、

ほかならぬ、将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部の記載

とせざるを得ないと、言う点である。
 なお後者は、本ブログの独自の解釈である。以下、以上の結論につい
て、詳しく述べる。
 本ブログの解釈によると、行然和尚まとめ部の、大将棊の二行目の
成り駒に関する記載は、

泰将棋に関するものに見えるが、実は後期大将棋に関するもの

となる。すなわち、その一行目の”大将棊駒総数”に関する記載は、
以前述べたように、

水無瀬兼成によって、後期大将棋の130枚から、泰将棋の254枚に
改竄されたもの

と本ブログでは見ている訳である。つまり、この部分の著者の

行然和尚は”後期大将棋の成りが、中将棋に順ずるもの”と考えていた

と見られるわけである。
 そして、後世、明治時代頃の将棋の棋士は、当然だがこの水無瀬兼成
の改竄に、気がついていたので、

中将棋の成りを、後期大将棋に当てはめて、それまでの成りの少ない
後期大将棋を捨てた

と、ここでは推定する。そもそも泰将棋で、成り駒を少なくするため
の、”大将棊”という表現の意味を、後期大将棋から、泰将棋にすりか
える水無瀬兼成の改竄は、

泰将棋に関する泰将棋畧頌(原題:大将棊畧頌)で、水無瀬兼成が、
自在王と玉将を間違えており、その経緯すなわち、一つごまかしをした
事によって、更につじつまあわせが必要にという、よくあるパターンの
典型である事に、明治時代に気がつけば、明治以降の駒数多数将棋の棋
士には、その意味が明らかだった

だろうと、私は考える。
 またもともと、

後期大将棋は、成りの規則を、不成りから中将棋型に変えた方が、ゲー
ムとしても、マシになるし、近代の中将棋の棋士にとっても、ルールは
彼らが比較的頻繁に指した、中将棋と同じになって把握しやすかった

とみられる。そこで、安土桃山時代後期の

行然和尚案が、近代になって普及した

と見るのが、私の考えである。
 なお行然は”中将棋の成りについて、小将棋に準じる”と記載する等、

本当に、駒数多数将棋に詳しかったのかどうかは、謎の人物である

とも見られる。なお、当然だが、将棋纂図部類抄の中将棋には、成りの
図が、現代と同じ形で載っていて、金将が飛車に成る等、金将は不成り
ではないので、日本将棋や平安小将棋(群)とは、全く違う。
 しかし今となっては、安土桃山時代に、中将棋の成り規則で、後期
大将棋が指された事はなかったという、反証も困難である、なぜなら
たとえば、水無瀬の中将棋駒と、水無瀬兼成が、豊臣秀次に献上したと
見られる、後期大将棋の駒とを、適当に組み合わせれば、現代流の、
後期大将棋を指す事も、原理的には可能なためである。つまり当時、
そのような事は、絶対にしなかったとは、保障もできないと見られる。
 以上の結果から、

少なくとも史料に基づく限りは、後期大将棋の中将棋型の成り規則を
発明したのは、安土桃山時代の水無瀬兼成の知人の、行然である

と現行は、せざるを得ない状況なのではないかと、少なくとも本ブログ
では考えるのである。(2018/04/30)

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平安大将棋の奔車。どのような過程で”反車”に変化したのか(長さん)

さいきん諸橋徹次著の大修館漢和辞典を調べていて、
平安大将棋(西暦1200年)から、普通唱導集の大将棋(西暦
1300年)の間に、反車へ名称変更したとみられる

奔車の反車への変更は、奔王の導入ではなくて、飛車の導入が原因

であると、私は思うようになった。なお、本ブログでは、飛車は、
ゲームをつまらなくしているという、神話が走りが複数になり
解消すれば入るべき駒と、当ブログではみており、
西暦1200年から1230年の間に導入されたとしているので、

前に述べた、大将棋の年代別初期配列の仮説に内容の変更は無い。

さてその理由だが、前記の漢和辞典に、中国の古典に現われる

奔車という熟語が載っており、二中歴記載の、平安大将棋の奔車と、
もともとルールが合って居無い

のを、発見したからである。なお、前記の漢和辞典によると、奔車
とは、”乱れた走り方をする車”の事との旨が例示されている。つ
まり、前進と退くような走り方に限定される、奔車のルールとは、
元々合って居無い。
 以前は、奔は走り駒の修飾詞ではあるが、平安大将棋の時代には、
元の、この場合は、香車よりも走りが強いという意味で、奔車は、
当初は一応合理的な命名だったのだろうと、熟語を発見していなかっ
た私は、漠然と考えていた。そして、

奔王が出来たときに、歩みの方向に走るというシステムが形勢され
たため、後ろへも、走り所が多いという意味で単に命名された
奔車は、合理的な命名ではなくなったとみられて、反車に取り替え
られた

と私は、古作登氏同様見ていたのである。そのため、奔車から反車
への変化は、奔王や奔横の導入と、関連性があるのだろうと、仮定
されたのであった。
 しかしながら、

奔を、歩み方向に走る修飾詞だとするシステムは、考えてみると、
摩訶大大将棋が形勢されるまでは、存在しないと見るのが合理的

だった。つまり

奔車は、中国語の熟語として元々存在したので、駒名になっただけ

だったと見るのが、むしろ正しかったのである。
 なお、横道にそれるが、奔王という熟語は前記辞典には無い。
 奔王がどうして出来たのかは、奔車よりも、むしろ不思議なよう
である。もしかすると、奔には複数の意味があり、王につける場合
には”敗走する”の方が、奔王という和製熟語の意味としては、
むしろ近いのかもしれない。つまり、”逃げ足の速い王将(中原誠
の玉の事か?)”の意味である。
 そこで、話を奔車に戻すと、実は反車という熟語も、上記漢和辞
典には載って居無いので、将棋ゲームのデザイナーが考え出した熟
語である疑いが強い。そのため、反車という駒名自体が、どうして
考え出されたのかをはっきりさせるのは、かなり難しいようである。
 なお、横道に又それるが、反車の反が、退くの意味の場合、反車
は”はんしゃ”または、”ほんしゃ”と読むべきであって、通説の
駒名、”へんしゃ”には、ならないらしい。反が”へん”と読む
ケースは、前記辞書によると、反が”覆す”の意味の場合だけ、だ
からである。つまり、”へんしゃ”では、車がひっくり返りそうで
ある。以後私は個人的に、普通唱導集大将棋第1節は、発音として
”ほんしゃきょうしゃがみみをやぶり・・・”と読むことにした。
音が実は、”ほん”で同じだったので、その点だけでは、奔から、
反へは、変更しやすかったのだろう。
 さて話を再び戻すと、変えた本当の原因として一つ考えられるの
は、上記漢和辞典には、少なくとも、

奔走も、反走も載っている

点がヒントのように思える。すなわち、奔走と反走の意味の差に基
づいて、奔車を反車という、存在しない熟語の駒名に、もしかした
ら変えたのかもしれないと、私には考えるようになった。なお、
奔走は、冒頭の漢和辞典によると、”あちらこちらに走る事”のよ
うであり、これはたいていの、中型の漢和辞典に載っている意味と、
同じになると見られる。それに対して前記大型の漢和辞典によると、

反走という熟語が、古典的な中国語には有り、行って走り戻ること、
または、”行って走り退くこと”という、一次元の前後動きを指す

という。つまり、反走する車という表現をとると、反車にピタリで
あり、奔走では、やはり奔王の動きとも、飛車の動きとも区別のつ
かない、不正な行度である。以上のように、特定の文献だけだが、
漢和辞典を調べた結果、

以前考えた私の思考方式は、奔の修飾詞を、余りにも摩訶大大将棋
式で見すぎていた

と、反省させられるようになった。つまり、奔王、奔横よりも、

飛車が発生すると、奔車では、それとはほぼ区別がつかなくなった

と見た方が、辞書を調べた限りは、より尤もらしいと、考えられる
ようになって来たのである。
 以上の経緯で今後は、奔車の、反車への名称変更は、

奔王ではなくて、飛車の発生に関連付ける事に、本ブログでは訂正・
変更する事にした

という、結果になった。(2018/04/29)

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(コラム)72候は、瞬間か、ある期間を指すのか(長さん)

本論題は、将棋史ではなくて暦学の問題なので、コラムにした。
 前回述べたように、webのページによっては、72候の定義を、
日本の文部科学省管轄の、国立天文台の暦学ページとは異なり、
ある72候の時刻(A)と、次の72候の時刻(B)の間の期間を、
(A)という72候の期間を指すと、説明したものがある。ここで
の論題は、

国立天文台の解釈が間違いであるとしたら、なぜ彼らは間違えてし
まったのか

と、いうものである。以下は私見であるが、

期間と見る、一部のwebページに、多少の利がある

と私は見ている。根拠は渋川春海作の72候で、具体的内容を見る


大暑の次候と、大寒の次候が、それぞれ暑さと寒さの頂上という、
内容となっており、その他の70候は、動植物、生き物等の動きで
表現されている

という点が挙げられる。
 つまり土潤溽暑、水沢腹堅のように、地質・水質が暑さと寒さの
極みになっているという表現が、72候には含まれるのである。こ
の事は、

72候が、24節気の0点、1/3点、2/3点を示す時刻である
と、国立天文台のように解釈すると、かなり不自然

だ。

なぜ、24節気の1/3点という、中途半端なポイントを、極みに
わざわざ渋川春海はしたのかが謎

だからである。

1/2のあたりに、極大点を持ってくる方が、絶対とは言えないま
でにしても、かなり自然

なのではないかと、私は考える。つまり、

日本の国立天文台の72候の時刻解釈には、なんと約62時間もの、
”早すぎる”という誤差がある疑いが存在する

と言うことである。
 そこで次に、以上を前提にして、その原因について考えてみる。
 これは、国立天文台等が、72候の定義を瞬間ではなくて、期間
にしなかったのかを、説明するという内容である。
 答えを書くと、

国立天文台等が、期間に名前を付けるという仕事が余り無く、瞬間
や地点に名前を付け、その精度だけ問題にするという仕事を、ずっ
とする習慣が、長年に亘り続いたことによる、近現代の天文台文化
の影響

だと私は推定する。そもそも本ブログで、増川宏一氏著書の碁打ち
将棋指しの江戸を紹介した時に、渋川春海は、根っからの囲碁の棋
士だったと、結論づけた。だから少なくとも、彼自身の心の中には

天文方の文化は、もともと無く、だから日本式72候も、暑さ寒さ
の極大点を、24節気の、大暑~立秋と大寒~立春の真ん中に持っ
てくるという、どちらかと言えば、常識的感覚が強かった。

ところが、その点をチェックしないで、国立天文台等は、渋川春海
を、単なる自分達の類と見ているので、

渋川春海のきめた72候の、注意深いチェックが抜けてしまい

いつもの24節気の感覚で、72候の定義を、決め続けてしまって
いる。以上のように推定すると、事実が旨く説明できると、私は考
えるのである。(2018/04/28)

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大大将棋と摩訶大大将棋。駒数192枚は偶然の一致か(長さん)

 大大将棋は、摩訶大大将棋よりは小さな、17升目盤を用いるが、
初期配列で駒の密度が、摩訶大大将棋よりは高くなっており、駒の
総枚数が、同じ192枚である。今回の論題は単純で、

これが偶然の一致なのか、あるいは意味が有るのか

を問題にする。
 さっそくだが、回答を書くと、

どちらも24節気+72候の96枚を、片側の駒数、96枚とした
ものであるため、必然的な一致

と私は見る。太陰太陽暦が発生すると同時だと言うのは、24節気
については自明だが、72候についても中国にて、暦が作成される
と、さほど遅れる事なしに、6世紀に作成されたもののようである。
 なお72候の存在のため、一年は72に区切られる。
96に区切られるのではない。或節気の第n項と表現し、その時点
で、何処の季節なのかを示すために作られたもののように、web
の説明図等からは、理解される。ただし現在では72候は、72候
の起点時刻を指すような説明を、国立天文台等はしている。つまり、
72候はそれぞれ瞬間であり、特に初候の時刻と、各24節気の時
刻は一致すると、日本の国立天文台は、事実上説明している。同じ
概念に、別の名前をつける無駄を、国立天文台がなぜするのかにつ
いては、私見もあるが、将棋史とは関係ないので、ここでは述べな
い。余裕があれば、コラム等で論じたいと考える。

何れにしても72候の成立よりは、11世紀の日本への、
将棋の伝来の方が、遅いとみられる。

 以上のように、大大将棋と摩訶大大将棋の総駒数の一致について
は、更に根拠を示す必要の無い、気がついてしまえば、そのもの
ずばりの理由であろう。なお、摩訶大大将棋と大大将棋の後先関係
については、諸説ある。が、仮に本ブログのように、前者が先だと
すると、一方の側の左右袖のどちらか半分について、中段の空き升
目が2~4段に関して、摩訶大大将棋では3-4-3升目になって
いるのを、3段目だけ残し、6升目減らして、列が左右1列づつ減
り、6升目減少したのを補えば、大大将棋の配列は簡単に作れる。
 この事から、大大将棋も摩訶大大将棋も、異制庭訓往来との後先
関係も不明だが、ともかく

異制庭訓往来の、”数の多い将棋が、一年の日数に則ったもので
ある”という記載と、気候を関連付け、結果としてつじつまが合う
ように作成されたもの

である事と推定される。また以前、本ブログで指摘したように、
恐らく

17升目の大大将棋については、囲碁盤が古代17路制であった事
が日本に普及してから、古式の囲碁盤にちなんで、”大きい将棋”
を作成したという経緯のゲーム

と予想される。
 なお、本ブログでは、日本の将棋の成立年代を、室町時代前期と
遅く見ているために、異性庭訓往来の”大きい将棋”は、実際には
中国の、晁補之(ちょうほし。晁無咎と同一人物)が11世紀に作
った広将棋を、指すのではないかとの立場を、今の所とっている。
中国では、シャンチーが成立すると、シャンチーのゲームとしての
出来が良かったために、日本より駒数多数将棋の衰退は、明らかに
早かった。
 それに対して、日本では駒数多数将棋は、昭和の時代まで生き残
った。そして少なくとも日本の将棋は、陰陽道とも関連する、暦と
の関連へのこだわりが、江戸時代の大局将棋まで、続いたように見
えるのである。(2018/04/28)

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大大将棋の五段目動物駒。虎豹熊狼猪牛は、全部大理国の闘争動物(長さん)

大大将棋は、六段目が歩兵列の17升目192枚制の駒数多数系の日本
の将棋である。前から、歩兵の直ぐ下の段に、猛の付く動物駒が固まっ
ているのが、前から気になっていたが、土司の名から、中国雲南省が昔、
日本では、猛の国と考えられた疑いが出てきたため、大大将棋の動物駒
へは、個人的に更に注目するようになった。
 なお、大大将棋の五段目の配列は、端列の車駒が、左辺は左車、右辺
は右車に、なっている以外は、左右対称であって、たとえば右辺につい
て、中央から駒を並べると、次のように配列されている。

前旗、猛虎、猛豹、猛熊、悪狼、嗔猪、猛牛、横行、右車

つまり、前旗と袖の横行、右車以外の6種類の駒が、動物駒であって、

大大将棋の五段目は100%、中国雲南省で唐代以前に出土の造形物に、
闘争動物として彫刻された、動物種で占められている。

 これだけでは、意図的かどうかは謎なため、大大将棋の他の段の動物
駒をリストアップすると、次のようになると見られる。(ただし四神は、
入れない。)

奇犬、香象、白象、水牛、馬麟、変狐、変狸、猫叉、行鳥、踊鹿、飛龍、
老鼠、盲猿、獅子、狛犬、古鵄、毒蛇、奔獏、龍王、龍馬、

以上20種類位である。
 このうち、雲南省の造形物で闘争動物種として入ると疑われるのは、

水牛、行鳥、踊鹿、盲猿、毒蛇の、せいぜい5種程度である。つまり、

大大将棋の五段目以外は25%(1/4)だけ、中国雲南省で唐代以前
に出土の造形物に、闘争動物として彫刻された、動物種で占められてい
るだけである。なお、水牛、行鳥は、やや不鮮明であって、確実なのは、
踊鹿、盲猿、毒蛇の3種類だけ。しかも本ブログでは毒蛇は、猛鷲の設
定の、し直しの疑いを持っているので、踊鹿、盲猿だけが確実で、十分
の一、つまり10%程度しか、闘争動物を、その他の段に入れてい無い。
以上の結果から、

やはり、大大将棋では、五段目の動物種の設定が、意図的に、闘争動物
だけを選んでいる

と、言えるのではないかと、私は考える。
 そもそも大大将棋は、1~3段目の駒が、全部互い違いに、左右非対
称に配列され、本ブログの言う、本当の大理国原始平安小将棋の一段目、

香車、桂馬、銀将、玉将、金将、酔象、桂馬、香車

配列と類似の、非対称配列になってもいる。従って、私に言わせると、

やはり大大将棋は、大理国の将棋風に作られたもの

のように見えると言うわけである。
 なお、この将棋は本ブログの見解では、

戦国時代の末期から、安土桃山時代の初期に作られた、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の中では、水無瀬自身の作とみられる、泰将棋に次いで
新しいもの

である。なお以上の点を、泰将棋は、真似て居無い。従って、

”日本の将棋は、中国の雲南省から伝来したものである”との、
将棋史に関する記憶は、最も新しいという意味での、上限を取ると、
恐らく西暦1590年の天正の頃までで、消えたものとみられる

と言う事になるのだろう。ちなみに、大大将棋には酔象が無い代わりに、
香象という、いっけん意味不明な駒種を、それよりはずっと、もっとも
らしい白象とともに、加えている。なお、酔象を抜いて白象を入れたの
は、平安大将棋に酔象が無いのが、酔という修飾詞が不適切だったため
という本ブログの推定と、対応していると見られる。平安大将棋にも入
れる事のできるような、象駒を、大大将棋には入れたとの、自負が、
大大将棋のゲームデザイナーには、あるのかもしれない。また、

香象から、本ブログの推定では、中国側(北宋交易商人の周文裔か?)
が、西暦1015年に持ってきたが、日本側(結果として、後一条天皇)
には引き渡さなかった、象駒が、香木でできた彫刻品である事を、示唆
しているともとれる

ように私には思える。
 つまり、駒造りに於いては、水無瀬兼成のまねはできないが、

大大将棋は、将棋史については、水無瀬兼成よりも更に詳しかったらし
い、公家か僧侶の習字の師匠等によって考案されたもの

と、考える事ができるのかもしれないと、私は推定するようになったの
である。(2018/04/27)

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2017年型改良普通唱導集大将棋の棒銀。将棋の棒銀とどう違う(長さん)

少し前に、普通唱導集の大将棋で唄われている内容である、
角×2、龍馬×2、左飛車・反車・香車の連携攻撃による、端攻め
定跡や、それを防ぐための相手右仲人、嗔猪、桂馬による中段陣定跡
が発生しないようにするために、西暦1300年頃の、
13升目型普通唱導集大将棋の、嗔猪を方行と取替え、配列を変えて
改善すると、戦法に関して端攻めに代わって、一例として、日本将棋
でも知られる、棒銀戦法に似た戦法が有力になるとの旨を、本ブログ
では述べた。
 むろん、大将棋には持駒ルールは無いから、戦いが始まってからの
展開が、日本将棋の棒銀戦法と、普通唱導集大将棋系の棒銀戦法とで、
景色が違う事は確かである。ただし、序盤、持ち駒の無い局面で、
銀が走り駒と同じ列で、前進してゆくのは、両者で変わらないはずで
ある。でないと、棒銀戦法という名称自体が、適切ではなくなるはず
だからだ。しかし、

では、単にそれだけの違いなのか、というのが、今回の論題

である。
 そこで、いつものように答えを先に書く。

改良型普通唱導集大将棋の棒銀戦法の場合、泰将棋に類似の、下段駒
の掘り出しのための、いっけん無駄な手数のような大駒の、駒移動の
手順が必要になる。そのような手間は、配列が疎な日本将棋には無い。

 つまり今回は、具体的に、棒銀や棒銅、棒鉄戦法を取る場合の、

大将棋の指し方について論じる

事にする。
 下の写真は左半分だけだが、本ブログの13升目108枚制改良
普通唱導集大将棋(方行有り・2017年型)の初期配列である。

銀銅鉄生埋.gif

写真より自明だと思うが、

銀将、銅将、鉄将は最下段に居て、上部に駒がぎっしり詰まっている

事が判ると思う。日本将棋の場合は、右銀将の右斜め前に飛車が居る
だけだ。
 この事から、

そもそも、銀将、銅将、鉄将を前に出すこと自体、テクニックが要る

事が明らかである。そのような手順は、同じく出そうとする駒がかな
り奥に沈んでいて、しかも、駒がぎっしり詰まっている

泰将棋以外に、日本の将棋では余り例が無い。

すなわち、本来、調節されて面白くなっていれば、普通唱導集大将棋
には、泰将棋に似た、序盤の駒掘り起こし手順が、半ば定跡になって、
存在しなければ、ならなかったはずなのであった。ところが実際には、
左辺へ、角と龍馬を集め、右辺は仲人に嗔猪、桂馬で紐をつけるとい
う、駒の組み換えがほとんど無い、斜め走り駒でのみ攻め、車駒を単
純に同じ端筋で使い、相手は陣の上辺で受けるだけの、駒の組み換え
の乏しい、初期配列のまま終盤になってしまうような、中身の乏しい
ゲームに、たまたま、焦点、右横行点の守りが弱かったために、なっ
てしまっていたと、言うわけなのである。
 そこで、話を改良型に戻して、どのようにして、棒銀、棒銅、棒鉄
戦法になるように指すのかを、一例で示したのが、以下の写真である。

棒銀銅鉄.gif

この写真は、右辺で、駒組をする例を示したが、左辺でも同じである。
 中央列と端列の歩兵は、余り関係ないが、その他の前列の駒は、全
部前進させた後、走り駒や跳び駒である、龍馬、角行、横行、猛牛、
飛龍を、それぞれ移動させて、銀将、銅将、鉄将の前進経路を作成し
てから、それらを移動するのである。なお、鉄将を移動させてから、
龍馬は、写真のように上げないで、一段目に落としても良い。
 各走り駒はこの移動で、余り損な位置へ移っては居無い。しかし、

特に飛龍は、仲人と歩兵に挟まれて妙な位置だし、角行は、いかにも
邪魔だから、どかされたという手を指した移動

である。つまり、何らかの攻撃戦形に持ってゆくには、移動した上記
でのべた走り駒を、更に移動しなければならない。
 その点で、

ほぼまっしぐらに、駒組をするとみられる日本将棋と、小駒を繰り出
すために一旦どいてから更に、戦法の定位置に、攻め駒を移動させる
ことが、しばしば必要になる改良型普通唱導集大将棋とは、その点の
駒の動かし方の意味が、かなり違う

と言う事になるのである。従って、日本将棋同様、

普通唱導集大将棋も本来は、序盤からそれなりに頭を使う必要のある
将棋

だったはずだと、みられるのである。
 この将棋の戦法は、小駒である、袖の将駒の繰り出し以外にも、あ
るとみられる。そのため、本来の鎌倉時代の大将棋には、

初期配列がもともと、ぎっしり駒が充填された配列なため、泰将棋に
似た、ひとつの駒組手順の流儀の世界を作り出すという事が、本来は
生じるはずだったのではないか

と、私はこの将棋をチェックしていて感じるのである。(2018/04/26)

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普通唱導集大将棋から後期大将棋への進化。本当に5段目化が後か(長さん)

今の所、本ブログでは、後期大将棋が15世紀の初頭、曼殊院の将棋図
の作成年より、少し前に発生したと考えている。また、本ブログでの見
解では、後期大将棋が発生する要因は、大将棋の改善ではなくて、中将
棋というゲーム名と、つじつまを合わせるための形式的な、ゲームの作
成との、独自の見方をしている。従って、普通唱導集大将棋は、難が判っ
てから、しばらくは放置され、中将棋が隆盛しはじめた、14世紀の終
わり頃になって、徐々に後期大将棋の形になっていったと見る。
まず、普通唱導集の初期の駒配列は、以下の通りである。

普通唱導集の大将棋の配列(西暦1290年頃・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
二段目:反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

これが、14世紀の終わりごろ、大将棋の15升目盤化が起こり、悪狼
猛豹、猫叉のうちの2種類(以下では、猛豹と猫叉を例として選択)と、
石将が入った上で、4段目歩兵列のまま、一例では、次の配列になった
とみる。

15升目化した後の大将棋の配列(西暦1380年頃?・本ブログの見解)
五段目:口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
四段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
三段目:飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
二段目:反車猛牛猫叉嗔猪猛豹猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛豹嗔猪猫叉猛牛反車
一段目:香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

この歩兵配列4段目型は、15升目盤の聖目が仲人の上になり、「仲人
が聖目外であるのは、一説でしか無い」との旨の、水無瀬兼成の将棋纂
図部類抄の記載と、つじつまが合うため、以前に採用されたものである。
 そしてその後、歩兵段が一段上がって、悪狼、猛豹、猫叉のうちの
残りの1種類(このケースは、例として悪狼)が入り、獅子が加わって、
15世紀の初めに後期大将棋になったと、本ブログではみるのである。

後期大将棋の配列(西暦1410年頃出現。出現時期は本ブログの見解)
六段目:口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
五段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
四段目:飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
三段目:口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛反車
二段目:反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
一段目:香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

 しかしながら考えてみると、「仲人が聖目外であるのは、一説でしか
無い」との旨の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の記載は、安土桃山時代
に書かれたものであり、上記の進化の実年代が正しいとすると、
約200年差がある。だからひょっとすると、
悪狼、猛豹、猫叉、石将を加えて15升目盤に対応してから、歩兵4段
型を、歩兵5段型に膨らませたのではなくて、逆に歩兵4段型を歩兵5
段型に膨らませてから、悪狼、猛豹、猫叉、石将を加えて15升目盤に
対応した

形成順序が、あべこべの可能性が本当に無いのかどうか疑う事もできる

ように、考えられた。すなわち、普通唱導集大将棋を、予め膨らませた、
次のような、歩兵段第5列の将棋が、本当に無かったのだろうかという
事である。

(A)普通唱導集を最初に膨らませた仮想の大将棋の配列
六段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
五段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
四段目:飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛車
三段目:口口飛龍口口猛牛口口麒麟口口鳳凰口口猛牛口口飛龍反車
二段目:反車口口嗔猪口口猛虎口口酔象口口猛虎口口嗔猪口口反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

そこで、今回の論題は、上記(A)のような初期配列の将棋が、本当に
無かったと言えるのかどうか、というものである。
 そこで、何時ものように回答を先に書くと、

ゲームデザイナーは(A)のようなゲームは作成しなかった可能性が大

だと、私は考える。
 そこで、以下、そう考えられる根拠を述べる。
その根拠は、この配列から、以下のような戦陣が、簡単に作れるからで
ある。

(A)から作られる、大駒の消耗が爆発的な将棋となる戦陣配列
七段目:口口口口歩兵口口口口口口口口口口口口口△歩兵口口口口
六段目:歩兵口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口歩兵
五段目:口口歩兵口口歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵口口
四段目:飛車横行堅行角行口口龍王口口龍王口口角行堅行横行飛車
三段目:口口飛龍口口猛牛龍馬麒麟口口鳳凰龍馬猛牛口口飛龍口口
二段目:反車口口嗔猪口口猛虎奔王酔象口口猛虎口口嗔猪口口反車
一段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

先手と後手が、上記の同形の戦陣を作った後に、互いに手順に、
▲13七歩兵と、△1七歩兵の仕掛に出ると、互いに少なくとも
飛車2枚、反車2枚、香車2枚、角行2枚、龍馬2枚の、大駒10づつ
計20枚が、端列の七段目の地点で互いに相討ちになり、序盤で、突然
消えてしまう将棋になるのである。実は結果として、両者の玉には奔王
で、王手まで掛かる。

これではあまりに駒の消耗が早すぎて、その後の展開が、すこぶる
つまらなくなる将棋

である。
 つまり、後期大将棋系のゲームは一般に、膨らませた陣から出発する
と、急戦の後、駒枯れが起こりやすい将棋になりやすいのである。
 事実、後期大将棋でも、駒の配列変えは、上記の中間型よりは、ずっ
と多いが、同じような駒相討ち型の、戦陣も無理をすれば組めることを、
私は前から知っていた。
 従って、15升目で歩兵4段配列の、

駒がぎっしり詰まった将棋は、一見すると日本将棋の常識からすれば、
不自然かもしれないが、この充填型に、大将棋では比較的なりやすい
傾向がある

と、考えられるというわけである。(2018/04/25)

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猪俣の百八燈の五重塚。玉、金、銀、銅、鉄の大将棋の将関連では(長さん)

最近、埼玉県児玉郡美里町の猪俣の百八燈の灯火台のある、堂前山
へは、webを見る限り、訪れる観光客も増えたようだ。その証拠
に、美里町の紹介ページ等でも、灯火台の配置等の情報が、公開さ
れるようになって来ている。それによると、山の裾から山頂、また
反対側の裾へと、一列に、百八の灯火台が、並んでいるらしい。
 灯火台は、108のうち104は、ほぼ同様の形だが、中央の2
基と左右端の留塚だけ、大きく作られており、

中央の2基には”五重塚”という名前が付いている

と、私は聞く。なお、両端の灯火台である留塚も、他の104基よ
りは大きいともある。ただしここでは、前者の、”五重塚”という
名称について、まずは問題にする。
 今回の論題は、この猪俣の百八燈の中央の大きな塚に、五重塚と
いう名前が付いているのが、

(1)同じ美里町の広木上宿遺跡で発掘された五色の小型仏塔と、
五という数字で関連するのか、

(2)(1)がyes.だとすれば、西暦1300年頃の、13升
目108枚制の普通唱導集大将棋の将駒、玉将、金将、銀将、銅将、
鉄将に関連するのか。

という内容である。
 答えから書くと、

(1)も(2)も、yes.というのが、本ブログの見方

である。理由は、

”五重塚”が、他の並の百四燈に対して、5倍になっているという
要素もないし、何か複数の材料で、五重に作られているという話も
ない

からである。また、中央に有る事から、当然何らかの合戦で、戦死
した、大将の塚を示しているのは自明であり、しかも大切な点は、

2基であるという事

である。つまり、なぜ1基ではなくて二つあるのかと言えば、

普通唱導集の大将棋に限らず将棋は、半分に駒を分けて争うのであ
り、玉が2枚有る事に、五重塚がきちんと対応しているように、
明らかに見える

からである。しかも、五重塚が真ん中に置かれているというのが
本当なら、左右に並塚が、52基づつ並んで、最後に止め塚が1基
居る事になり、左右で54基、同じ数だけあるというのが、将棋の
駒の敵味方への配分と、同じと言う事になり

普通唱導集の108枚制の将棋に、きちんと対応している

からである。
 では、”五重”という名称は、どこから来たのかと言う事だが。
ずばり、

大理国のあった、中国雲南省大理市の崇聖寺三塔から出土した、
マトリョーシカタイプの五色宝塔の形が、モデルだった

と、私は見る。五重塚を外から見て観察できるのは、言うならば、
鉄の宝塔の部分であり、その中に、銅の宝塔、銀の宝塔、金の宝塔、
が入れ子で入り、そして中央部に、琥珀の中心宝塔が立っていると
いうのが、元々の五重塚のモデルだったのであろう。前に本ブログ
では、大理国崇聖寺三塔から出土した五色宝塔は、広木上宿遺跡で
発掘された五色の小型仏塔と、同類であると、説明している。
 つまり武蔵武士には大将が居なかったので、有力者は大将と呼ば
れずに、五色の塚として弔う将という表現が、合戦で亡くなった時
の法事で、堂前山でも、広木上宿でも割り当てられたという事なの
だろう。つまり、

五重塚と五色の小型宝塔は、もともと同一人物ないし同一人物群の
墓がモデルだった

と、考えられる。
 そのため

大将塚という名前にならずに、五重塚という名前になった

という意味も、込められているのだろう。
 従って少なくとも、

猪俣の百八燈の大将塚である五重塚の五が、広木上宿遺跡の五色の
小型仏塔の五という数字と、何らかの関連があるのは、後者の出土
地点が、堂前山から、さほどは離れて居無い点を考えると、明らか

に疑うべき要素なのではないかと、本ブログでは考える。
 従って埼玉県美里町広木上宿遺跡発掘の、五色の小型仏塔の謎の
解明では、

地元の伝統行事である、猪俣の百八燈との関連性を仮定するという
事が、研究のたたき台に、少なくともなるのではないか

と、言うのが、本ブログの主張という事になる。(2018/04/24)

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大将棋の猛牛駒。鬼門の番以外に、雲南の牛の意味も兼ねる(長さん)

さいきん、”旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル”という
webサイトに、雲南省昆明にある、雲南省博物館の2018年1月
訪問の感想を述べた記事が載っていた。記事を書いたのは、
”メイリン”という匿名の女性で、それによると、

雲南省博物館には、動物として牛の絵画、および牛の彫刻が多く、
雲南省では、牛が重要視されている事が伺える

との旨ある。
 なお本ブログでは、雲南省博物館の展示物のカタログの中では、崇
聖寺三塔出土の、ネフライト、金、金銅、銀、銅、鉄、陶磁、土製等
の仏象を大きく取り上げている。これらの遺物についての、前記トラ
ベラーの言及は無い。おそらくカタログとは異なり、小型である上に、
雲南省博物館内では、比較的地味な展示になっているのであろう。他
方、雲南省博物館からはカタログが、書籍として、日本でも出回って
おり、その中には、唐代以前の、牛を闘争動物種とみて、虎等と闘う
彫刻等が何件か、図版で収録されている。以上のように、カタログの
内容については、以前に本ブログでも紹介した事があった。
 しかし、現在の現地の展示で、牛が目立つようになっているとまで
は行かないとの印象を、私はカタログからは持っていた。これは、実
際に現地へ行った方だけに判る、

とてもありがたい情報

である。というのも、前に諸橋徹次著の大漢和辞典(1958)で、
”猛”の字を引いたときに、

猛のつく、雲南省の土司の名として、25氏も載っていた

のが気になってたからである。具体的に書くと、次の25氏である。

猛阿、猛烏、猛佳、猛角、猛夏、猛紀、猛洪、猛興、猛遮、猛丁、
猛邦、猛卯、猛板、猛豊、猛猛、猛蜜、猛郎、猛喇、猛蝋、猛龍、
猛旺、猛衣仏、猛乃村、猛野井、猛拉太。

ちなみに、土司とは、とどのつまりを書くと、漢民族以外の中国国内
の少数民族の豪族の、氏の事である。つまり日本流だと、武田氏とか、
上杉氏というのが、雲南省では猛阿氏、猛烏氏、・・・である。
 ただし、これだけでは、雲南省では”猛”のつく豪族ばかりが、住
んでいたとまでは言えない。しかし幸いwebには、雲南省の、ある
地域の土司の、リストが載っているサイトがある。それによると、
雲南のある地域には、

普、思、茅、普滕、茶山、猛暖、猛捧、猛臈、整歇、猛万、上猛烏、
下猛烏、整董、

という豪族が、清朝の頃に居たとある。13氏のうちの6氏に猛が着
いているから、雲南の豪族は50%弱が、”猛○”氏であって、

雲南は昔、”猛の国”と日本で言われていても、不思議ではない状況

だったとみられるのである。なお、前記の諸橋徹次著の大漢和事典に
は、

雲南省以外の土司で、”猛”の付く物は、実は一つも載って居無い。

 つまり、もうお判りのように、大将棋系の駒の猛牛に関しては、
”猛虎と共に、鬼門を守る動物”という意味のほかに、

猛牛には、猛の国雲南で重要視されている、闘争動物としての牛の事

とも、読めるのである。
 実は、以下が最も重要である。すなわち、

日本に中国雲南の、土司の名が紹介されたのは、西暦1360年以降

のはずである。というのも、南宋の時代までは、雲南には大理国が
有ったので、中国の王朝が、土司を指名した事が、無いのである。つ
まり、中国王朝で、雲南に対する土司政策が発生したのは、モンゴル
帝国、元王朝時代の、1360年以降のはずだからである。
 つまりこの意味も、”猛虎の対”の意味とは別に、ひっかけて、
将棋の駒の、猛牛が発生したと仮定すると、

将棋の駒の猛牛が出来たのは、だいたい西暦1360年以降である

と、確定してしまうと言う事になる。本ブログでは、何回か前に述べ
たように、猛牛は西暦1374年の、第一回の蒙古来襲の少し後の頃
までには、存在したのではないかと言う事になっている。これき恐ら
く蒙古来襲で、鬼門を守る必要が出来たので、猛牛と嗔猪を、猛虎と
飛龍へ加えて、4獣による守りとしたという事であろう。
 残念ながら上限(新しい)は、これだけでは不明だ。が普通唱導集
の大将棋には、同じ鬼門の守りの嗔猪が、もっと前からある、猛虎と
飛龍に加えて確かに有って、実際に唄われている訳である。だから、
嗔猪を入れると同時に、猛牛も入ると仮定すれば、

猛牛の導入上限(最も新しい)は西暦1300年に確定

する。

つまり、冒頭の雲南省博物館の情報は、猛牛の導入年を、
西暦1260年から西暦1300年までの、約40年程度に絞ること
を可能にする

という、実に将棋史研究家にとって、ありがたいヒントを含んだもの
なのである。よって日本のトラベラーによる、各国観光地の紹介の、
webへの書き込みが、今後益々盛んになる事を、私も心より願いた
いと、考える所以である。(2018/04/23)

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摩訶大将棋の桂馬は、なぜ4段目に配置されたのか(長さん)

通常、現在知られている日本の将棋で将駒が、玉将を中心に配置され
その左右に、金、銀・・と続く将棋類は、端が桂馬、香車で終わるケー
スが多くなっている。日本将棋、平安大将棋、後期大将棋、天竺大将
棋ではそうなっている。ところが摩訶大将棋は、これらとは異なり、
土将の更に袖は、桂馬を飛ばして香車が来る。桂馬は、四段目に配置
変えとなり、猛牛や驢馬と並んでいる。
 かなり前の事だが、昨年の6月頃に、このブログで、相手と味方の
桂馬同士を、13升目差にして、わざとぶつかるようにしたのではな
いか、と述べた事が有った。しかし、平安小将棋とは異なり、摩訶大
将棋には、走り駒がたくさん有り、この桂馬の配置と、旦代問題とは、
全く繋がらないと、私は今では考えている。
 なおこうすると、桂馬は跳びや、踊り駒に挟まれるので、跳び駒と
しての駒の格からみると、最下段で、将駒に並ぶよりは、格が近いと
言う点では、かえって合理的なのかもしれない。ただしなぜ、摩訶大
将棋では、

駒の性能としての格という、ただそれだけの理由で、通常は、袖が馬、
車と並ぶのが、世界の将棋でも通例なのにもかかわらず、桂馬を4段
目に、追い出してしまったのか

という謎は、多少なりとも、残るのではないかと思う。
たとえば、摩訶大将棋では現行、袖の方に
七段目:・・・・口口口口口口口口口口
六段目:・・・・歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
五段目:・・・・堅行横飛横行右車飛車
四段目:・・・・猛牛口口桂馬口口驢馬
三段目:・・・・口口嗔猪口口老鼠口口
二段目:・・・・古猿口口猫叉口口反車
一段目:・・・・鉄将瓦将石将土将香車
と、配列されるのであるが、これが仮に、
七段目:・・・・口口口口口口口口口口
六段目:・・・・歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
五段目:・・・・堅行横行堅兵横兵飛車
四段目:・・・・猛牛口口驢馬口口右車
三段目:・・・・口口嗔猪口口老鼠口口
二段目:・・・・古猿口口猫叉口口反車
一段目:・・・・鉄将石将土将桂馬香車
になって、桂馬が最下段のままだったとしても、ゲームに大差は無かっ
たのではないかと、個人的には疑うのである。
 そこで、今回の論題は、摩訶大将棋の桂馬が、他の日本の将棋では
しなかったにもかかわらず、敢えて4段目に、追われた理由とする。
 そこで、結論から、いつものように、先に書く。

中国雲南にかつて存在した大理国の、仏像で使われている材質を、
玉、金、銀、銅、鉄、陶磁、石、土、木、以上9種に将を付けて全部
使い、9種17将制の将棋を摩訶大将棋のゲームデザイナーが、作ろ
うと、当初狙っていた為

だと、私は考える。つまり、桂馬が邪魔だったので、予め配置換えし
たのである。また、この事は、

日本の将棋が、中国雲南省にあった、大理国の宮廷将棋が伝来したも
のである

と考える事によって、うまく説明できる事をも、示しているのではな
いかと、言う事だと言える。
 では、以下でより詳しく説明をする。
 まず、仏像の材質にちなんで将駒を作る習慣が、日本の古代~中世
にあったとして、なぜ、それだけで中国雲南の大理国関連と言えるの
かを、述べる。すなわち、仏像の材質は、東洋でほぼ、共通だからで
ある。しかし、そうなのかもしれないが、日本の場合は、時代により
仏像の材質に流行り廃れがある。最初は金等で作られていたが、後に
は木製が主流になったのである。これは、日本に鉱山が有っても、埋
蔵量に限界があった事と、日本では徐々に仏教が大衆化して、貴族的
な宗教では無くなったためである。
 それに対して、大理国のあった雲南では、貴族仏教のみが栄えたこ
とと、鉱山のため金や銀等、貴金属仏像が大量に作られ、木や土の仏
像の数と、最初から拮抗していたのである。そのため、大理国が起源
の日本の将棋には、

同一時代に、玉、金、銀、銅、鉄、磁器、石、土、木、の将が全て
入るのが、あるべき姿

だったのである。ところが、19升目の摩訶大将棋よりも、升目数の
少ない将棋には、例えば15升目の後期大将棋であっても、磁器の将
である瓦将や、土将、木将を入れるスペースが無かった。ので、我慢
して、それらの将を入れなかったとも、言えるのである。だが今度は
19升目になれば、17将制の将棋を作りえる状況になった。そこで
当初、摩訶大将棋のデザイナーは、玉を中心にして、金、銀、銅、鉄、
瓦、石、土、木、の将を、全部入れようとしたと、みられるのである。
 むろん、日本人のゲームデザイナーが、それには、大理国に対する、
知識が必要である。しかし、大理国から将棋が来たという情報が、少
なくとも南北朝時代までは残っていたと、少なくとも本ブログは、推
定している。だから日本の将棋のゲームデザイナーは、将棋の伝来を
きっかけに、11世紀中盤から始まった、大理国に関する国内からの、
北宋・南宋を経由した、積極的な情報収集活動によって、”日本の将
棋らしい、大理国の情報を、ふんだんに取り入れたゲーム”を、将棋
が伝来した以降の古代や、中世前期には充分に、作成可能だったはず
だと、私は推定するのである。
 ところが、ここに問題が発生した。2枚の

桂馬が邪魔だったのである。

そこで、15将に削るか、桂馬を抜くかの二者一択になった状態で、

桂馬を、踊り駒を置く予定の、第4段、飛龍猛牛の段へ移動させた

と、みられるのである。なお後日、デザイナーは更に、堤婆と無明を、
発明した。その結果、やはり将駒は1種類余計になって、結局、木将
を外したとみられる。ただしそれ以上は、初期の志から、将を削りた
くは無かった。ので、結局摩訶大将棋は、桂馬が4段目に残ったまま
で、将駒8種15将制の将棋になったと、考えられるのである。
 以上の事から、”単なる気まぐれ”という論を、無理やり持ち出さ
なくても、今では中国雲南省大理市の、崇聖寺三塔等の仏塔から出土
する、王宮に当時有ったと見られる、各種の小型仏像と言う史料に
基づいて、

日本の将棋は、大理国のあった、中国雲南省から伝来したと考える
からこそ、摩訶大将棋の桂馬の初期位置の謎も、すんなりと解ける

と言う事になるのである。(2018/04/22)

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