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本ブログ”日本の将棋が東南アジア伝来では無い”と言う根拠(長さん)

本ブログでは、将棋の伝来元は、現在の中華人民共和国の雲南省に、北宋
の時代に存在した、大理国と、繰り返し主張している。大理国の将棋は、
伝来時点では、8升目型の平安小将棋と同じルールで、立体宝玉駒を使う
ものである。そこには日本将棋の特徴である、(1)歩兵が三段目に配列
されて、相手陣のそこで、少なくとも歩兵は、副官である金将へ成る(大
理の将棋では、日本の将棋そのものであるから、玉と金以外が皆金へ成る。)、
(2)銀将の動きが、東南アジアと、現代用語のインド・ャトランガの象
と一緒で、斜めと前の升目、計5方向へ歩みである、との東南アジア系ルー
ルの特徴を持っていると、している。
 ちなみに(1)は、タイとカンボジアの象棋では、この通りであるが、
他の東南アジア各国の象棋では、その通りではない。しかし(2)につ
いては、インドと東南アジア各国で概ね、現在このルールであると、
私は聞いている。では、以上の事から、日本の将棋が大理国伝来である
という、主張は判ったが、

タイまたは、カンボジア伝来ではないという根拠は何んなのであろうか。

 そこで、何時ものように答えから書く。
タイおよびカンボジアの象棋では、日本の8升目原始平安小将棋に近い
形に進化していたとしても、最良のモデルを採用した場合でも、上の
(1)の3段目で、ほぼ

全ての駒が金将に成るルールに、11世紀にはなっていなかった。

そのため、特に歩兵起源の金将が、多数出来ないので、大宰府の、やん
ごとなき武者が喜んで指すとの、流行の動機を持ち得なかったからだ
と、私は推定する。なお当時、タイはタイ人が大理国に居た為、存在し
なかった。だから、そもそもタイのマークルックが、日本の将棋の起源
とは、最初から本ブログでは考えて居無い。それに対して、増川宏一氏
が過去示唆したカンボジアに、11世紀のアンコール時代の王朝(仮に
アンコール王国とする)があったので、そこで指された象棋は、日本に
やって来た可能性があると見る。そこで、そこで指された象棋を、最も
日本の原始平安小将棋に、移行しやすいような、最良の形で推定したと
して、次のようなルールだったとみられる。
 まず、初期配列であるが、8×8升目象棋であって、

二段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
一段目:香車桂馬銀将王将金将銀将桂馬香車

となる。
すなわち駒名も、日本に着いたら、今の日本の将棋と全く同じに呼ばれ
ると、好意的に仮定した。
 次に成りであってこれが問題である。日本将棋と違って、歩兵だけが、
相手陣の最奥で、其処に居る、相手の駒に成るはずである。つまり、当
時のインドの、四人制時代の二人制チャトランガと、同じルールである。

二段目:香車桂馬銀将金将不成銀将桂馬香車
一段目:不成不成不成不成不成不成不成不成

 以上のように、カンボジア・アンコール王国の11世紀の象棋の推定
モデルで、最も日本の原始平安小将棋に近い、バージョンでは、
成り歩兵用に金将1~2枚と、銀将2~4枚の立体黄金駒を、推定北宋
交易商人、周文裔は、大理国ルールのケースと違って、用意するだけに
なっていたとみる。そのため、

将棋の道具の、金や銀の着飾りが地味すぎて、日本では流行るきっかけ
にならない

と、私は推定するので、アンコール王国起源ではないと考えるのである。
 以下、もっと詳細な説明に入るが、まずは上記、カンボジアのアンコー
ル王国推定11世紀の象棋(最も日本の将棋に近い例)の、詳細ルールを
少し説明する。
 元駒で王将は、たとえば少し大型の、金の塊で作成した、立体駒であっ
たために、日本に来ると王将と呼ばれただろうと、仮定する。その動き
は、玉将、働きも玉駒で同じである。ネフライトが、カンボジアでも珍
重されているかどうか謎なため、玉将から王将に、仮に名前を変えている。
 金将は、現地では参謀と呼ばれていたのかもしれないが、立体駒の材質
から、この名称になったと考えよう。ルールは金将の動きで、金将と同じ
と、好意的に仮定する。
 銀将は、現地では単に将と呼ばれていたが、やはり伝来駒の材質で、こ
の名称になったと考える。仏塔の形を考えると、実際に近いかもしれない。
この駒は、伝来の少し前に角行の動きだったが、大理国から銀将が伝来する
と同時に、銀将の動きに、東南アジア全体で変化したと、推定される。
 桂馬は馬の形であって、ルールは、この時代のチャトランガといっしょ
で、八方桂ではなくて、桂馬の動きであった。
 問題は香車である。本ブログの推定では、カンボジアの象が将に変化し
て、銀将の動きになると同時に、

香車は香車の動きから、飛車の動きに変わると考える。

つまり、走りが強くなって、象の代わりになったと考えられるのである。
この変動はカンボジアだけでなく、インドを含めて、東南アジアの全体で
起きたと、本ブログでは推定する。もともとこのルールに変えたのは、恐
らくインドで、その本拠地のインドが、イスラム文化の影響で、シャトラ
ンジのルールが進入し、象が銀将動きになった替わりに、ここでの香車が、
いわゆる、イスラムシャトランジの車の動きに変わって、攻めのバランス
を取ったと、考えられるのである。すなわち、推定される最良のルールの
ケースでも、

歩兵は、今度は香車に喰われて、大宰府の武者が望んでいるように、と金
が、余りできなくなる

と、考えられる。
 また、歩兵も多少問題がある。この歩兵は、前に一歩の動きであるため
日本に来ると、兵は歩兵と呼ばれたと考えるのは自然だが、相手駒を取る
と、斜めに進んだとみられる。これを日本の将棋にするには、日本で、前
の駒を取るように、変える必要がある。また、上で示した、王将以外の相
手陣の、初期位置に居る駒で成る成りのうち、桂馬に成るものは、行き詰
まりになる。そのため成りで発生する桂馬は、身動き取れない駒として、
残るものとみられる。いわゆる、四人制チャトランガルールの、”ガーター”
のケースである。
 以上のように、歩兵の成りのルールの違いと、香車が飛車動きで強いた
めに、この、東南アジアの当時の象棋文化の代表国、カンボジアのアンコー
ル王国から来た象棋には、

大理国のと金のたくさんできる将棋と違って、流行る要因が無い

事になるだろうとみられる。よって、中国北宋交易商人の周文裔は、

大理国の象棋は持参しても、同じく初期配列には金・銀で飾りは有るもの
の、中盤の盤上の駒に成り金が少なく、中盤の盤上の内容が地味な、東南
アジアの王侯貴族象棋は、海路で運ばない

と、私は推定するのである。
 そこで次に、カンボジアの象棋が、そのような流行しないゲームに進化
すると推定される、歴史的な原因についての、本ブログの見解を説明する。
 結論を先に言うと、冒頭で述べた(1)の歩兵が三段目に配列されて、
相手陣のそこで、少なくとも歩兵は成るというルールは、中国の雲南で
発生したとしか、現在のこのルールを取る地域の分布からみて、考えられ
ないのである。これも事実として、既に冒頭で述べたが、この分布は、

タイとカンボジアに限定されていて、13世紀のモンゴル帝国の時代に、
大理国から、タイ民族がインドシナへ拡散した領域と同じである。

つまり、他の地域で9~10世紀に、このルールが発生してしまうと、跡
としての分布が、この形にならないはずだという事である。その点、
松岡信行氏が「解明:将棋伝来の謎」で述べられている、「これだけでは、

伝来の謎を解く、情報になりにくい」との主旨の内容の記載に、私は反対

だ。逆にたいへんに重要な情報であると、私は考えている。冒頭の特徴
(2)の、象駒を銀将の動きに、インドでもしているという情報と、
”いっしょ”ではないと、私は見るのである。なおいっしょにならなかっ
たのは、

(1)を取り入れると、玉駒を詰ませるという、象棋・チェスゲーム本来
の姿からはズレてくるので、南詔国~大理国の周りの国が、誰も10世紀
ころまでには真似なかったため

である。従って、将棋具の副官金駒等が、立体金塊等で無い場所で、この
ようなゲームに移行する、視覚的な動機づけが無いという、性質をも持っ
ていると私は見る。
 よってこの事から、

タイ人が、まだ移動していなかった、現在のインドシナのタイとカンボジ
アには、歩兵が三段目に配列されて、相手陣のそこで、少なくとも歩兵は
成るというルールは存在せず、11世紀には、歩兵列は2段目で、成りの
ルールは、当時のインドチャトランガと同じだったはずだと、考えるのが
妥当

と、私は見るのである。
 なお、冒頭で紹介した仮説的な将棋から、日本の原始平安小将棋へは、
今述べた、視覚的動機の欠落から見て

10年20年程度の短期間に、日本では移行できない

と、私は見る。よって、カンボジア等、東南アジアの、11世紀初頭当時
の将棋が来ていたとすれば、

不成りの駒が、興福寺から大量に発見されるはずである。しかし、実際に
はそうで無い

から、日本の将棋は、11世紀のカンボジア、アンコール王国等、東南
アジア起源とは、考えにくいと私は思う。
 さて、先行研究の紹介が最後になってしまい、誠に心苦しいが、日本の
将棋が東南アジア起源ではない証拠として、前述の「解明:将棋伝来の謎」
で松岡信行氏は、
(1)その国の将棋だけを伝来させるほど、東南アジアには、文化の進ん
だ、模倣すべき強国が無い事。
(2)途中に、日本の将棋の伝来の足跡となる、副伝来地を発生させて居
無い事
を、根拠として挙げている。しかしながら、この2つの指摘は、

何れも、証拠になるのかどうか、怪しいものなのではないか

と、私は疑っている。なぜなら
(1)については、その伝来小国の伝来品の将棋具が黄金であって、それ
に強い棋士になれば、その黄金が自在に扱えるような、ご身分になるとい
う、金銭的欲求が満たされるという、欲望が満足される場合は、強国の文
化を取り入れる事によって、科学技術文明の担い手として社会的に評価さ
れ、出世して良い身分の人生が送れるという、きれいな立身出世ではなく
ても、曼殊院出土の「将棋馬写」記載の”邪”の心だが、金持ちになって、
良い思いが出来るという欲望を、とりあえず満たす起点として、国の
存在が、やっと確認できる程度の小国伝来のゲームが、流行るという事も、
充分に考えられる事。
(2)については、増川宏一氏が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」で示唆
したように、中国の交易商人が、途中に何処でも停泊せず、まっすぐ将棋
具を運べば、情報が漏れずに、日本だけで流行ると考えられる
ためである。
 以上のように私は、東南アジアから日本の将棋が伝来しなかったのは、

ゲームの中盤、盤上に銀ないし金塊を陳列して楽むという嗜好を、発明し
たのが東南アジアではなくて、インドシナより北にあった、今の中国の
雲南省の、南詔国~大理国の貴族棋士であったため

と、今の所は推定しているのである。(2018/04/05)

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