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摩訶大将棋の桂馬は、なぜ4段目に配置されたのか(長さん)

通常、現在知られている日本の将棋で将駒が、玉将を中心に配置され
その左右に、金、銀・・と続く将棋類は、端が桂馬、香車で終わるケー
スが多くなっている。日本将棋、平安大将棋、後期大将棋、天竺大将
棋ではそうなっている。ところが摩訶大将棋は、これらとは異なり、
土将の更に袖は、桂馬を飛ばして香車が来る。桂馬は、四段目に配置
変えとなり、猛牛や驢馬と並んでいる。
 かなり前の事だが、昨年の6月頃に、このブログで、相手と味方の
桂馬同士を、13升目差にして、わざとぶつかるようにしたのではな
いか、と述べた事が有った。しかし、平安小将棋とは異なり、摩訶大
将棋には、走り駒がたくさん有り、この桂馬の配置と、旦代問題とは、
全く繋がらないと、私は今では考えている。
 なおこうすると、桂馬は跳びや、踊り駒に挟まれるので、跳び駒と
しての駒の格からみると、最下段で、将駒に並ぶよりは、格が近いと
言う点では、かえって合理的なのかもしれない。ただしなぜ、摩訶大
将棋では、

駒の性能としての格という、ただそれだけの理由で、通常は、袖が馬、
車と並ぶのが、世界の将棋でも通例なのにもかかわらず、桂馬を4段
目に、追い出してしまったのか

という謎は、多少なりとも、残るのではないかと思う。
たとえば、摩訶大将棋では現行、袖の方に
七段目:・・・・口口口口口口口口口口
六段目:・・・・歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
五段目:・・・・堅行横飛横行右車飛車
四段目:・・・・猛牛口口桂馬口口驢馬
三段目:・・・・口口嗔猪口口老鼠口口
二段目:・・・・古猿口口猫叉口口反車
一段目:・・・・鉄将瓦将石将土将香車
と、配列されるのであるが、これが仮に、
七段目:・・・・口口口口口口口口口口
六段目:・・・・歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
五段目:・・・・堅行横行堅兵横兵飛車
四段目:・・・・猛牛口口驢馬口口右車
三段目:・・・・口口嗔猪口口老鼠口口
二段目:・・・・古猿口口猫叉口口反車
一段目:・・・・鉄将石将土将桂馬香車
になって、桂馬が最下段のままだったとしても、ゲームに大差は無かっ
たのではないかと、個人的には疑うのである。
 そこで、今回の論題は、摩訶大将棋の桂馬が、他の日本の将棋では
しなかったにもかかわらず、敢えて4段目に、追われた理由とする。
 そこで、結論から、いつものように、先に書く。

中国雲南にかつて存在した大理国の、仏像で使われている材質を、
玉、金、銀、銅、鉄、陶磁、石、土、木、以上9種に将を付けて全部
使い、9種17将制の将棋を摩訶大将棋のゲームデザイナーが、作ろ
うと、当初狙っていた為

だと、私は考える。つまり、桂馬が邪魔だったので、予め配置換えし
たのである。また、この事は、

日本の将棋が、中国雲南省にあった、大理国の宮廷将棋が伝来したも
のである

と考える事によって、うまく説明できる事をも、示しているのではな
いかと、言う事だと言える。
 では、以下でより詳しく説明をする。
 まず、仏像の材質にちなんで将駒を作る習慣が、日本の古代~中世
にあったとして、なぜ、それだけで中国雲南の大理国関連と言えるの
かを、述べる。すなわち、仏像の材質は、東洋でほぼ、共通だからで
ある。しかし、そうなのかもしれないが、日本の場合は、時代により
仏像の材質に流行り廃れがある。最初は金等で作られていたが、後に
は木製が主流になったのである。これは、日本に鉱山が有っても、埋
蔵量に限界があった事と、日本では徐々に仏教が大衆化して、貴族的
な宗教では無くなったためである。
 それに対して、大理国のあった雲南では、貴族仏教のみが栄えたこ
とと、鉱山のため金や銀等、貴金属仏像が大量に作られ、木や土の仏
像の数と、最初から拮抗していたのである。そのため、大理国が起源
の日本の将棋には、

同一時代に、玉、金、銀、銅、鉄、磁器、石、土、木、の将が全て
入るのが、あるべき姿

だったのである。ところが、19升目の摩訶大将棋よりも、升目数の
少ない将棋には、例えば15升目の後期大将棋であっても、磁器の将
である瓦将や、土将、木将を入れるスペースが無かった。ので、我慢
して、それらの将を入れなかったとも、言えるのである。だが今度は
19升目になれば、17将制の将棋を作りえる状況になった。そこで
当初、摩訶大将棋のデザイナーは、玉を中心にして、金、銀、銅、鉄、
瓦、石、土、木、の将を、全部入れようとしたと、みられるのである。
 むろん、日本人のゲームデザイナーが、それには、大理国に対する、
知識が必要である。しかし、大理国から将棋が来たという情報が、少
なくとも南北朝時代までは残っていたと、少なくとも本ブログは、推
定している。だから日本の将棋のゲームデザイナーは、将棋の伝来を
きっかけに、11世紀中盤から始まった、大理国に関する国内からの、
北宋・南宋を経由した、積極的な情報収集活動によって、”日本の将
棋らしい、大理国の情報を、ふんだんに取り入れたゲーム”を、将棋
が伝来した以降の古代や、中世前期には充分に、作成可能だったはず
だと、私は推定するのである。
 ところが、ここに問題が発生した。2枚の

桂馬が邪魔だったのである。

そこで、15将に削るか、桂馬を抜くかの二者一択になった状態で、

桂馬を、踊り駒を置く予定の、第4段、飛龍猛牛の段へ移動させた

と、みられるのである。なお後日、デザイナーは更に、堤婆と無明を、
発明した。その結果、やはり将駒は1種類余計になって、結局、木将
を外したとみられる。ただしそれ以上は、初期の志から、将を削りた
くは無かった。ので、結局摩訶大将棋は、桂馬が4段目に残ったまま
で、将駒8種15将制の将棋になったと、考えられるのである。
 以上の事から、”単なる気まぐれ”という論を、無理やり持ち出さ
なくても、今では中国雲南省大理市の、崇聖寺三塔等の仏塔から出土
する、王宮に当時有ったと見られる、各種の小型仏像と言う史料に
基づいて、

日本の将棋は、大理国のあった、中国雲南省から伝来したと考える
からこそ、摩訶大将棋の桂馬の初期位置の謎も、すんなりと解ける

と言う事になるのである。(2018/04/22)

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