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上手が王将持ち、下手が玉将持ち。何時から発生したのか(長さん)

現行日本将棋では、上手が王将を持ち、下手が玉将を持って指すという
習慣になっている。今の所、11世紀には玉将が無かったが、経過は
謎であり、戦国時代の一乗谷・朝倉氏遺跡の朝倉小将棋の頃に、結果と
して、現実的に、そのような習慣になったという見方が一般的である。
 しかしながら、本ブログでは、

西暦1080年頃までは、玉将だけであり、西暦1080年頃に、日本
の朝廷で王将が発明されて、朝廷での小将棋では、双王であったとの説

を提唱している。西暦1080年から、平安末の1170年までは、
どうみても、出土駒の様子からみて、少なくとも平安小将棋では、

双王と双玉が、水と油で分かれていた

と、本ブログの管理人には見える。小将棋の双王は、藤原氏ゆかりの地
域以外の近畿地方では、以後、戦国時代末までは継続したとしか、今の
所、出土駒の状況から、考えるしか無い状況だと、ここでは考えている。
 特に、京都府と滋賀県では、戦国時代までの小将棋で双王が、徹底
していたように見える。それに対して、関東以北と、中国・四国・九州
では中世までは、小将棋も、最初からのままの、双玉だけだったとしか、
今の所、逆に考えにくい状態だと、本ブログでは、同様に出土駒の現実
から考えている。なお、

近畿でも藤原氏ゆかりの、奈良県奈良市付近では、他の近畿地方と全く
状況が異なり、双玉が、例外的に徹底していたように見える。

 なお、そのほかの地域、特に中部・北陸地方では、最初は双玉だった
が遅くても戦国時代までには、小将棋類に王将も使う習慣が入り込んで、

中部地方では、戦国時代までには日本将棋等で、双玉から、上手王/
下手玉になった

ように見える。では、概況は以上としても、それでは、いったい何時何処
で初めて、”天に二王は無いので、下手が玉を持つようになった”といっ
た、尤もらしい理屈をつけて、

上手王/下手玉という習慣が発生したのだろうか

と言うのが、今回の論題である。
 そこでいつものように、最初に結論から書く。

確定的な答えを、目下の所するのは無理

だとみられる。しかし、
以下のような仮説について、当否を検討するだけの価値は、あるように
思える。すなわち、鎌倉時代の西暦1252年~1266年の、

鎌倉第6代将軍の後嵯峨天皇の息子、宗尊親王の時代に、大将棋を
指すときに、上手王/下手玉という2種類駒習慣が、初めて発生した。

つまり、本ブログでは、大将棋の奔横が、成り太子酔象の導入による
横行の移動により、

奔王に恐らく名称だけ変わる、ほんの少し前に、もともと小将棋とは
違って、どこでも双玉だった大将棋にも、片方に王将が入ってきた

のではないかと、仮定するという事である。なお、大将棋はこの時代
には、京都・奈良・鎌倉、徳島県徳島市、栃木県小山市等では、少な
くとも指されていたと見られる。
 なおこの習慣は、恐らく水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄を安土桃山
時代に普及させて、

駒数多数将棋が双玉に戻ると、歴史の上からは、再度忘れ去られた

と、ここでは考える。一乗谷朝倉氏遺跡の、日本将棋や朝倉小将棋で
の上手王/下手玉は、京都等で小将棋は双王のままで、大将棋を指す
ときだけになされた、この”王・玉混合習慣”が、300年弱かけて
ゆっくりと伝来し、小将棋等へも、適用されたものと、この仮説では
見る。
 答えは以上だが、以下に少し詳しく述べる。
 まず、鎌倉将軍に、第6代の後嵯峨天皇の息子、宗尊親王がなった
時代に、上手王/下手玉という習慣が発生する理由だが、
鎌倉将軍は、第4代と第5代が、唐物の詩の書物が好きで、集めるの
が趣味の、ネフライト(玉)の好きな中国人に性格の似た、藤原道長
に象徴される、藤原摂関家貴族の、九条頼経、九条頼嗣であった。
つまり、

鎌倉時代には将軍として、玉将のような摂関将軍が、暗殺された三代
将軍の源実朝の後、それを継いで先に2代来た

訳である。ついで、第6代から9代までが、宗尊親王、惟康親王、久
明親王、守邦親王と、親王将軍が4代続いたわけで、

鎌倉時代には将軍として、皇族つまり、王族の王将が後に4代続いた

という事である。つまり、大将棋を指すような知識人には、第6代の

宗尊親王の将軍就任を見て、大将棋の玉駒を、先手は玉に後手は王に
する、駄洒落に近い動機付けがあった

という事である。それはちょうど、蒙古の朝鮮半島侵略時代と重なっ
ており、

本ブログでは、西暦1230年から1260年の間に、将軍にあたる
玉将が、無くなっても(日本は蒙古に対し)負けにならないルールの、
太子(釈迦)に成る酔象が、導入されたと仮定している時期に一致

するという事である。つまりたとえば、

西暦1252年に、後嵯峨天皇の息子、宗尊親王が鎌倉将軍になり、
西暦1254年に、大将棋の後手の玉将が王将に変わり、
西暦1256年に,大将棋に太子成り酔象が入って、横行が袖にどき、
龍王、龍馬、角行、堅行、仲人が入った後で、
西暦1258年に奔横が、新王将の存在のおかげで、奔王と名称変更
できれば、西暦1260年に、前に本ブログで述べた、その年型の
大将棋になれるので、話のつじつまがひたりと合う

という事である。ここで、上手王/下手玉と、後手王/先手玉の違い
があるのだが。これは、将棋棋士の羽生善治氏が、成書「先を読む頭
脳」で表明しているように、

取り捨て将棋の場合には、先手の方がどうしても、やや有利になり、
新人である下手は、鎌倉時代でも、最初は先手を持つ事が多いと
考えられる

と見れば、つじつまが合う。つまり日本将棋と異なり、大将棋や昔の
小将棋は、取り捨て将棋のため、後手が王将を持って指すというのは、
上手が王将を持って指すというのと、だいたい同じという事である。
 大将棋は、西暦1110年頃、藤原氏がもっぱら指す将棋であった
時代には、双玉固定だったと、本ブログではみている。しかしながら、
奈良県海龍王寺の禁止令や、普通唱導集の作者の様子から察して、西暦
1260年ごろになると、この将棋を指す階層は、藤原氏に限られな
くなった。その結果、安土桃山時代の水無瀬兼成が、化石の習慣のよ
うに、持っていたのではないかと、本ブログでは疑っている

王将に対する敵対意識も、鎌倉時代の個別の大将棋棋士には無かった

のではないかと、私は思う。よって、
鎌倉時代の将軍の素性に、調子を合わせて、将棋に王将と玉将を混ぜる
という事が、もともと双玉が五行説の習いから、固定だった大将棋に
ついては、平安小将棋(標準型)の双王の本場、京都市内でも、

余興の感覚で、最初は軽く導入された

のではあるまいか。
 恐らく最初は、駄洒落だったのだろうが。これより400年後の江戸
時代になると、鎌倉将軍の素性に興味を持つ棋士も減り、伝承も時代の
流れで失われた結果、

天に王は2人立たずといった、妙にかた苦しい理屈をつけて、尤もらし
く皆が、上手王/下手玉を、日本将棋でもやりはじめ、ひょっとすると、
平成の今も、その習慣が単に続いているだけ

なのかもしれないと、一度は疑ってみるのも、面白いのではないかと
私は個人的には、思っているという事になるのである。(2018/05/31)

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二中歴の将棋。”将棋”と”玉将八方”の間”棊一作騎”とは何者(長さん)

二中歴の将棋は、通常次のように、紹介される。”二中歴の将棋の項
では、将棋について、次のように書かれている。『将棋。玉将は隣接
八升目の何処にも動ける。金将は(斜め)下の2方以外の、隣接升目
に動ける・・』”。
 だが実際に、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の、前田藩書写の
二中歴等を見ると表題のように、”将棋”と”玉将八方・・”の間に、

”棊一作騎”と、小さく書いてある。

なお、”一”の横に、ワープロでは出てこない”亦の古字”が、更に
小さく書いてある。が、これは”一でも良いし、亦でも良い”という
意味であり、これについては、その通りで問題は無い。つまりは、
”すなわち”の意味の”一”でも、”又”の意味の”亦”でも良いが、
とにかく今回は、

”棊一作騎”とか”棊亦作騎”とは、どういう意味あって、どういう
意図で、小さくだが、書いてあるのか

を論題としたい。なお、このようなフォーマットは、二中歴の他の箇
所では、普通の表現である。
 何れにしても、回答を何時ものように、初めに書いてしまおう。

”将棋の棋は、将棋が複数種類の駒から作られている、事から来る”

と書いてあって、小将棋の説明について、盤や個別の駒の初期配列を
飛ばして、

各駒の動きのルールの説明から始める意図の、”呼び水”の働きをし
ている4文字である

と見られるようである。すなわち、小将棋の説明は、その後で二中歴
では出てくる、大将棋のルール説明とは異なり、盤や配列の説明を、
飛ばしても、

読者に不自然感を与えない、心理的効果をも持っている、呪文のよう
な、導入のための補足説明の文言

のように、少なくとも、私には見えるという事である。
 つまり、この二中歴将棋説明の、”棊一作騎”の注釈句の存在は、

二中歴の時代には、小将棋の盤の大きさには不確実性があって、小将
棋は定義として、盤升目や配列の明示では、表現し難かった証拠の一

なのではないかと私は疑う。この四文字も、私に言わせると、二中歴
の時代の小将棋のルールを推定する、一つのヒントになる、重要表現
なのでは無いかと、疑われる書き方のように、思えるという事である。
 ついでに蛇足だが書くと、二中歴の中で将棋や大将棋が、継子立て
とくっつけられて、芸能人の名前のリストや、その道の大家の名前の
リストに挟まれていて、おまけに書いてある内容のカテゴリーが、
全く以て、弧立的で独特なものなのは、将棋類が、ひとつには

”継子立て”のように、定跡がはっきりしているパズルの類に近いと、
西暦1200年当時は、見られていた証拠

であるように、私には思える。ゲームとしては、はっきりした定跡が
あるのは、出来の悪いものと、一般論としては判断されるが、将棋や
大将棋については、西暦1200年頃までは、

だいたいの解法のあるパズルの類のように、知識人には見られていた

のかもしれないと、二中歴の構成からは、想像できるという事である。
なお、鎌倉時代初期の貴族は、朝廷での会合等で、歴代の将棋の名人
の名前が出なくても、たいした強豪が居無いらしく、そそうにはなら
ないが、

小将棋と大将棋のゲームルールを把握していないと、”その遊戯史の
因縁を知らない無知な奴”と揶揄されて、冠位の上昇にも影響した

というのが、本ブログ独自の見方だ。
 何れにしても、800年以上前のゲームについて、そのゲームの
ルールらしくルールが、文書で表現され残されているという例は、

世界のゲーム史の中でも、幸運な例という意味での特異な存在

であると、私も認識する。従って、二中歴の将棋等の記載については、

一言一句たりとも、疎かにしては、懐中歴、掌中歴の携帯メモ書き書
を合体させて、二中歴にした編者や、書写した先人達の好意に対し、

全く以て申し訳が立たないと、私は認識するように心がけたいと考え、
以上の四文字の調査をも、今回は行ったという、経緯なわけである。
(2018/05/30)

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経帙牌状の名札が、古代より使用された証拠となる遺物(長さん)

将棋の駒は、一連の関連する経文を束ねて、布製の保護シート状物に
包んだ束につける名札である、将棋の五角形型の経帙牌が、もともと
の起源であろうと、1970年代に、将棋史研究家の増川宏一氏によっ
て提唱された。本ブログでも、その説を取っている。本ブログでは、
経帙牌には、用途によらず、名札としての機能があるという事を、日
本の将棋駒の原初の発明者は、当時も常識としてそう見ていたという、
仮定に基づいて論を進めている。しかし、平安時代以前に、「経帙牌
は経文の目印だけではなくて、一般的に名札に使える物」であるとい
う常識が、本当に有ったのかどうかは、ダメ押しのためには、できれ
ば史料として、示す必要があるだろう。一つには帙牌というものが、
一般に名札として使われていたとの証拠が、webにはあるようだ。
しかし、それが西暦1000年以前の例かどうかは、私には良く判ら
なかった。そこで、今回は、

西暦1000年以前に、帙牌状の札が有ったという史料を探してみた。

結論を書くと、平城京の左京三条にある遺跡で、下の写真のような、

”将棋駒状”とされる用途のはっきりしない、石製の牌

が出土しているとのページが、見出された。

平城京帙牌.gif

奈良県教育委員会が発行した、平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報
の1980年の報告書である。それによると、

将棋の駒型の牌で、ぶる下げる札として使用されていた事を示す遺物

として載っている。なお、西暦1980年は、冒頭で述べた増川氏の
”将棋駒経帙牌説”提唱後のことだ。よって、この報告書の作成者は、
この形の物体は、将棋駒と関連するという説を、知っていて”将棋駒
型”と遺物を表現する報告書を、書いていると見るべきである。なお
この発掘現場からは、西暦712年の年号を示す木簡も、共出土して
いるという。ただし、この牌は確かに

将棋駒状だが、明らかに将棋駒では無い。

もしそうであったとしたら、大発見なのだろうが。理由は、大きさが、
将棋の駒の7~8倍と大きい事だ。また、ぶる下げるための穴が、写
真のようにあるのも、将棋の駒とは違う。石製だという点も、将棋駒
の材質とは違う点である。

大きさから見て、お経を包む束に付ける、名札でも無い

事も確かだろう。なお、報告書を読む限り、両面とも何も書いてない
ので、用途が判らないようである。つまり、この平城京よりの出土遺
物は、

総合的に判断して、将棋駒というよりは、文字通り巨大な帙牌

である。
 しかし、ぶる下げる穴とその跡が有ったという事は、現代でも通用
する習慣だが、

将棋の駒型の平たい物体には、何らかの名札として、少なくとも奈良
時代の初期には使われる習慣があった事は、この遺物から見て明らか

なように、私には思える。従って上記の奈良時代の遺物は、少なくと
も西暦1015年1月頃には、経帙牌型の物体には一般に、経文を整
理するためだけでなく、任意の用途の名札として使えるという認識は、
当時の日本人にとって、当たり前だったと仮定して、問題が無い証拠
となる、史料の一つなのではないかと、私には思われた。
 なお、このような遺物を見ると、平城京から、もっと将棋駒が出土
しないのかと、期待したくなるのも本心であろう。もし10世紀以前
の将棋駒が、将来発掘されたら、それこそ、大騒ぎになるだろうが。
何れにしても今後も、奈良県の出土史料が増える事を、心より期待し
たいと考える。(2018/05/29)

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中将棋。歩兵以外の駒が、多彩な成りになった起源は何か(長さん)

現行の中将棋には、元駒として、お互いに事実上別種の駒が、21種類
程度ある。
玉将、金将、銀将、銅将、猛豹、酔象、麒麟、鳳凰、盲虎、香車、
反車、飛車、奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、歩兵、仲人、
それに獅子(師子)である。
 このうち、成らないのは、玉将と獅子と奔王だけであり、他は多彩な
成り駒を持つ。所で中将棋のこの成りのパターンには、少し前に述べた
通り、先行するゲームに前例は、国際的に見ても無いというのが、本ブ
ログの見解である。外国では、歩兵しか成らないのが、普通だからであ
る。では、どのような過程で、中将棋に、そのような多彩な成りが、生
じたのか、

その経過をここでは問題にする。

なおこうする動機は、本ブログでは、ゲーム性能を上げるためが、本質
だが、将棋馬写のような、習字の道具に、しばしば使えたから、という
理由も、有ったのかもしれないと考えている。
 そこで動機ではなくて、過程についてだけ、ここでは問題にするとし
て、その答えから何時ものように書く。
 そもそも酔象が、元駒として存在しない、太子成りになったのが、
外国でも普通な、副官成り、すなわち金将成りの、従来手法を脱する、
出発点だったものと、私は考える。また、前にも述べたと思うが、
麒麟が獅子に成るというルールを作る事が、日本の将棋では必然だった
と、本ブログでは考える。
 つまり、

太子成り酔象と、獅子成り麒麟を出発点として、中将棋の多彩な成りは、
国内のゲームデザイナーの独力だけで、日本では独自に発生した、

と、本ブログでは見る。
 そこで以下に、上記の見方について、若干の補足説明をする。
 まず、太子成り酔象は、西暦1260年の時点で、モンゴル帝国の、
朝鮮半島侵略期の日本の大将棋に、世情の不安を背景に導入されたと、
本ブログでは見る。また本ブログでは、その大将棋の一段目と四段目は
金将成り、そして大事な事は、三段目に既に存在したと見る、

奔王、龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車に、二中歴大将棋の成り
システムからの推定から、成りは無いと見ている

ことである。そのために、酔象が最初に、ユニークな成りを持つ駒に
なったと、推定されるのである。その結果、歩兵や将駒、桂馬、車駒、
仲人以外にも、成りが許され、

かつ、酔象のように金将成りで無く、それどころか、元駒の中に、その
駒種が含まれなくても良いという、前例が初めて発生

したと見る。
 ついで、西暦1290年の時点では、これも、本ブログの独自の見方
だが、麒麟が、普通唱導集時代の大将棋に、聖人が現われると、出現す
るという、麒麟・鳳凰の対で導入されたと見ている。
 そのとき、大事な点は、

麒麟のルールが、猛虎の動きを2回繰り返すという、初の踊り駒だった

と、ここでは見ているという事である。それは、猛虎動きが、ぎこちな
いので、何か気の利いた動かし方ルールの駒を、作ろうとした為だとい
うのが、同じく本ブログの、独自推定である。そして以下が、もっと
大事な点だが、

猛虎を2回繰り返すルールよりも、玉将を2回繰り返す動きを考える
事の方が、実は、はるかに簡単だったと見られる

という事実がある。
 そのため麒麟より強い動きであるが故に、麒麟の成りとして相応しい

獅子の発生は、麒麟の発生と、ほとんど同時だっただろう

というのが、本ブログの見方である。だから、獅子が麒麟の成りという
のは、指定席だったと見られる。なお麒麟と、当時はシャンチーの
象+嗔猪動きだったと、ここでは見る鳳凰は、聖人の出現と同時に現わ
れる聖獣であると考えられたために、対で入れられたと見る。そのために、
両方に成りを作る事に、なったとみる。すなわち鳳凰は、当初は走りの
升目数と、止まれる位置の両方制限された、走り駒であったため、その
鳳凰の成りには、対で、獅子と同クラスの強さの奔王が当てられたと、
私は推定する。
 つまり、西暦1290年の時点で、その時代の大将棋、すなわち
ここで言う”普通唱導集大将棋”の成り駒は、

水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄の後期大将棋と全く同じで、金将以外の
成り駒が、酔象、麒麟、鳳凰の3種だけだが存在していた

と、本ブログでは見ているのである。ちなみに、西暦1590年以降の
将棋纂図部類抄の、後期大将棋の成りが、

西暦1290年の普通唱導集時代の大将棋の成りの、記憶に基づくとい
う明確な証拠は、残念ながら、今の所全く無い

と、私も見る。
 すなわち、史料としての根拠は、今の所、成り奔王鳳凰のほかに、
いっけんすると、両面に何も書かれて居無いように見えるが、良く見る
と、表に”香”と書かれていて、裏には墨跡が無いと、発表されている、

鎌倉鶴岡八幡宮出土の、成り奔王鳳凰駒と不成り香車(?)駒を、
大将棋の出土物と見るという事しかない状態

である。裏づけとなる史料について誠に心細いが、以上が現実である。
 結局の所、中将棋は上記の、西暦1290年頃の、大将棋の状態、
すなわち普通唱導集大将棋を元とした、西暦1350年頃出現の後継
ゲームと、少なくとも本ブログでは考える。そのため、西暦1290年
の普通唱導集大将棋元駒には全く無い、

太子と獅子という名称の駒の前例に基づいて、順次、成り駒としての、
飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、飛鹿、飛鷲、角鷹が考え出されたもの

であると、本ブログでは見るのである。特に、

麒麟が踊り駒であった時代に、獅子のルールを考えるというのは、
いかにもゲームデザイナーの、技巧の世界といった感じ

である。実際には、

そのコンセプトを元に、元駒より少しづつ強い、中将棋の成り

という現存在するシステムが、構築されていったのであろう。そのため、
麒麟という駒を発明したことが、日本独特の、どれもこれもが、別の駒
に成る中将棋の、成りルールの、実質的な発生源だったのではないかと
いうのが、本ブログの考えという事に、今の所なっているという訳であ
る。(2018/05/28)

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栃木県足利市の足利学校跡の孔子廟前の発掘現場等を見学した(長さん)

前回述べたように、室町時代前期の事実上の遺跡である、栃木県足利市
にある、足利学校跡の中心的な建屋”方丈”の西隣にある、江戸時代の
ものである孔子廟の庭先で、3-4日前より、発掘調査が行われている
というので、様子を見に行った。
 大きなエンジン音がしていて、何か工事をしているのは、復元足利学
校の入場料金支払い所前の門をくぐると、たちどころに判った。実際、
孔子廟の所で、数人の発掘調査員と、すぐに様子でわかる人々が作業し
ていた。そして孔子廟の所には、以下の看板が張られていた。

足利学校.gif

ただし、これも一目で判ったが、水路や井戸等の水場には無関係で、
耐震工事で、地面に穴の空くと予想される領域でだけ、余り深くない
範囲で、遺物の有無が、調査されているような雰囲気である。
 下に、実際の作業中の様子の写真を掲げる。

足利発掘調査.gif

お昼休み頃に、再度行くと、作業員が引き上げようとしていたので、私
は一声掛けてから、遺物が無いかどうか、掘られている地面の場所に、
目を凝らしてみた。が作業員に確認もしたが、ビー玉が2個有る以外は、
少なくとも遊戯具関係の物品は、初期の時点では出土していないようで
あった。

残念ながら、掘っている場所が乾燥している点から見て、木製遺物の
出土は、余り期待できないような発掘

のようである。なお、足利学校自体には、前に2度行った事があったが、
大正時代の建築物である旧遺跡図書館へも、今回初めてお邪魔してみた。
蔵書はかなり充実しているが、将棋関係の新しい情報は、ざっと見た程
度では、見つからなかった。二中歴を収録した、昔の文献の収録書の明
治時代の全集らしきものを、ここでも見かけた。
 昼さがりにここを後にして、お昼をJR足利駅駅前でとった後、前回
最後の方で書いたように、足利学校の前身との説もある、足利市岩井町
の勧農城跡へ、散歩がてらに徒歩で、向かった。
 途中、渡良瀬川の土手に、カスリン台風の記念塔を見かけた。周辺
一帯が、この台風で水没したようだ。水に浮く遺物は、少なくとも地表
に近い所には、このへんでは残って居無いかもしれないと、記念塔の隣
にあった説明看板を見て、私は思った。
 さて目的地の勧農城跡は、一見すると、小さな山に建てられた神社の
ようであり、小山の登り口に、下の写真の看板が立っていた。

勧農城.gif

なお、ここが足利学校の前身だという話は、地名辞典に載っている程度
であり、この建て看板には写真のように、紹介されていなかった。
 実際に山の中に入ってみると、この山は墓地として使用されており、
赤城神社という名前で、管理はされているのだが、21世紀の今も、神
仏が習合しており、霊園の中にいるような、雰囲気の場所であった。
神社の管理は、かなり行き届いており、山の中に廃屋が一軒有って、そ
こは荒れていたが、山道はきれいに整地されていた。
 遺物としては、稲荷のキツネの像の残骸が、神社の社殿の横に放置さ
れていた。が、そのほかには、特に目立ったものは、表面を見た程度で
は、みつからなかった。
 なおこの山城には、平らな校庭が全く見当たらないので、少なくとも
私には、学校のイメージが、どうしても沸かなかった。(2018/05/27)

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栃木県足利市足利学校で、発掘調査(長さん)

最近見た、webの情報によると、栃木県足利市にある、日本最古
の高等教育機関、足利学校の孔子廟の発掘調査を、この記事の2~3
日前に初めて、2018年の6月末ころまで、やっているらしい。
 実質的な創建が、早く見る説だと、足利持氏の時代との説もあるた
め、同じ栃木県の、小山市神鳥谷曲輪遺跡付近に有ったとされる、室
町時代の尼寺、青蓮寺と時代に近い。後者の遺跡からは、本ブログで
も、何回か述べたように、南北朝時代の下野守護の、小山義政関連と
みられる、裏一文字金角行駒が、出土している。足利学校から、遊び
道具の将棋駒等が、出土のイメージは薄く、木製品が出土するような
井戸跡が、足利学校の孔子廟の周りに、あるかどうかは、謎である。
 が、できれば発掘している最中、見に行きたいものだと思っている。
 なお、地名辞典の栃木県版等によると、足利学校は、ここより南東
に2km程度離れた、栃木県足利市岩井町の勧農城跡という場所から、
室町時代初期に移転したという、説もあるらしい。できれば、合わせ
て、勧農城跡と言われる場所へも、今回は行ってみようと考える。
(2018/05/26)

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どんな将棋を指しても、人間は量子コンピュータには勝てないのか(長さん)

日本将棋に比べて、1000倍位の着手空間のある新作将棋でも、
今の日本将棋程度の強さで指せる、量子コンピュータ対策の将棋を、
今回は考えて見た。
この将棋は、ちょっと歪な、2001筋200段の、横に長い将棋盤
を使用する事にする。玉将は最下段の先手が1001二百の位置、
後手が1001一の位置に置く事にしよう。
 駒は双方、19万4100枚前後使用し、各陣が97段程度とする。

初期配列で、泰将棋のように、駒は隙間無くびっしり並べるタイプ

と、ここではする。
駒は、走りを多くし、特に最前列は全部走りとしよう。歩兵を最前列
には、置かないものとする。
 駒は、前に行くものが全体の5割、斜め前が4割、横が3割、後ろ
が3割、斜め後ろが2割程度とする。左右非対称駒が、かなり有って
も良い。
 しかし以下が大事だが、先手について代表して書くと、

1975百四の位置付近に、7升目まで単純に跳べる、大跳び駒が、
一枚有るとする。なおこの駒は、それより少ない1~6升目でも跳び
移動が出来る

ものとする。なお、10万種類近くになるとみられる、駒の動かし方
ルールを、人間が予め覚えるのは困難であるから、駒の名前から、個
別に、そのルールが、人間には類推できるようにしておくと、良いだ
ろう。
 この将棋を、量子コンピュータ相手に人間が指したとしたら、

ひょっとして、PCに人間が勝てるのではないかと、私は思う。

ここで人間の指し方は、次の通りである。
 上で述べた大跳び駒を、相手玉まで、相手の離れ駒を取り続けて
近づけて行き、

最後に、この大跳び駒で、王手を掛けて詰む。

最初の方で述べたが、初期配列で、びっしり並んだ駒には、駒は、前
に行くものが全体の5割、斜め前が4割、横が3割、後ろが3割、斜
め後ろが2割とすれば、0.5×0.6×0.6×0.7×0.7×
0.7×0.8×0.8を計算して、0.04になるから、確率とし
て、約25枚に一枚の割合で、陣の中に、離れ駒が有る事になる。
 だから、前記の大跳びが、最初に先手について代表して書くと、
1975百四位置に有るとすれば、ここから7升目離れた位置の中に
相手の離れ駒が、常に相手玉の所まで、続いて有りさえすれば、飛び
石状に、離れ駒を次々に飛んで、相手玉に王手が掛かる所まで行く手
を、人間側は、コンピュータの指し手には、あまり囚われる事なく、
指せば良い事に、なるはずである。
 そして上記のように、大跳びが7升目動きの場合、だいたい、相手
陣に、大跳びが突入したとき、合法手の中に、平均して特定の局面で
7~8手前後、離れ駒を取って、そこに移動する手が有るとみられる。
 このとき、運悪く、離れ駒が全く無い確率は、ポアソン分布表を引
けば判るが、1000~3000回に一回ぐらいである。他方、ほぼ
138手分位の独立試行で、大跳びは、2001筋ある今回の将棋盤
の袖から中央の相手玉の位置に移動できるので、

この作戦が失敗する確率は、1/10~1/20の間程度だ。

これなら、人間は、

出たとこ勝負で、大跳びを移動する手しか、自分から進んでは、指さ
なくて充分

だろう。
 そして、この対局で重要な事は、

量子コンピュータには、離れ駒の分布が、ポアソン分布に近い統計分
布であるという事が、自分の力だけでは、洞察する能力が無い

という点だ。従って、今より1000倍の能力のあるコンピュータは、
日本将棋の着手空間が一回に100手前後から、この将棋で10万手
前後に1000倍に増えれば、ちょうど打ち消されて、今のポナンザ
くらいの強さの感じになるはずだ。
 しかし、この場合人間の方は、

相手の浮き駒を捜して、大跳びを移動させる事に集中すればよいだけ

だ。数十枚の駒の利き筋をチェックするだけだろうから、2~3分で
人間の方は、手が決まるのではないか。持ち時間は、数時間あれば、
人間も充分だろう。
 しかし、量子コンピュータは、いつものように、全幅に近い検索を
するに違いない。

量子コンピュータは、充分に良い手は指すのだろうが、走り駒で人間
の前列の駒を取ってきたら、適当に取り返しておけば良い程度の感じ

だろう。そのような指し方で、この将棋が

280手前後で、終わるようには思えないから

だ。ようするに、このケースにコンピュータが量子コンピュータであ
っても、人間のように指せないのは、

離れ駒分布が統計学的なランダム現象だと、信じているのが人間だけ

だからである。つまりコンピュータの方は決定論的に、解析するのに
時間を使っているのである。これなら、圧倒的にコンピュータの方が
思考に時間が掛かるだろうから、

この将棋は相当に、人間にとって有利なように、私には思える。

 むろん、人間棋士の目論見を、コンピュータ将棋ソフトの開発者に
話して、人間がするように、コンピュータのソフトを変えれば、人間
には、当然全く歯がたたなくなるだろう。ただしこんどは、人為的に、
ところどころに、

大跳びが、相手に取られずに移る事ができないような、”欠損”配列を
故意に作れば、又様子は変わってくる

に違いない。コンピュータは正直なので、人間のように、そのときだ
け、例外処理するという芸当が、簡単にはできないとみられるからだ。
他方、人間の方は、具体的に何処をどういじって、そうしたのかが、
判ってしまうと、その部分だけ、なんとか方策を考えるだろうから、
すぐにまた、対応できるようになるに違いない。

結局の所人間が読書して、数学の面白さが判る、大学教養課程の学生
程度の学力に、人工知能のレベルが将来上がらない限り、コンピュータ
に勝てる、適当な将棋ゲームが作成できないという事が、実は無い

のではないかと、私は以上のような例から、個人的には現時点で
はっきりと、予想するのである。(2018/05/25)

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チェス系。歩兵だけ成りは何故。水無瀬・後期大将棋と関連する?(長さん)

今回の論題は、2つある。一つは、インドチャトランガ以来、日本以外の
チェス系ゲームは、歩兵だけ成りで統一されている理由。および、水無瀬
兼成が記載した、後期大将棋では、太子成り酔象、獅子成り麒麟、奔王成
り鳳凰を除いて、鎌倉鶴岡八幡宮出土駒を参考にすると、歩兵しか成らな
いのは、ひょっとして、1443年以降の室町時代から安土桃山時代の、

比較的新しい時代の大将棋の成りは、外国ゲームの成りルールの影響を、
少なくとも、部分的には受けているのか否なのか

という点である。まずは、後者について回答を書くと、ある程度

受けていると思う。ただし、シャンチーやチャンギの影響の方が、日本の
地理から見て強かろう

とみられる。
根拠だが、そもそも大将棋の13升目盤を15升目盤にしたのも、古囲碁
盤は17升目との、中国元・明代の、聖目と、盤升目の関係に関する情報
が、元だったのだろう。だから、シャンチーやチャンギの最下段駒が、成
らないルールであるという、中国の象棋のルールの知識が、鎌倉時代末期
からは入ってきていたと、考えざるを得ない。元王朝はイスラム圏を巻き
込んでいて、その文化も、交易が盛んになれば、日本に入ってくるだろう
と、推定せざるを得ず、チェス・象棋ゲーム類に、

歩兵以外の成りがあるゲームが、外国には無いという、淡い情報位は、
室町時代早期に、日本にもたらされていても不思議ではない

と、私は思うからである。

ただし、今の所、南北朝時代の大将棋の成りに関する、事実認識自体も、
ぼんやりとしたものであり、この程度の根拠と議論しか、目下の所は、
できないだろう

と、私は思う。
 それに対して、もう一つの論題の、チェス系の歩兵だけ成りの理由につ
いてだが。少なくとも私には、

四人制時代の二人制チャトランガで、そのようだった理由については、
全く判らない。

馬が敵陣で、副官に成っても、よさそうなものであるが。インド人に、そ
うした発想が無い理由は、私には全く不明である。むろん立体駒だから、
成りを表現するのに工夫がいるので、日本の将棋よりは、条件が悪い事は
確かだ。
 そもそも、それが強力な理由に基づくもので無い事は、インドから、
スリランカ、ペグー、ピュー、南詔と伝来して成立したものと、本ブログ
では推定する、玄怪録の将棋の元ネタの、南詔国原始平安小将棋(不成り
象が2枚で飛車動き)の成りから見て明らかであろう。すなわち、このゲー
ムで、馬と車も、金将動きの銀将に成ると、元駒の行き止まり動きから
推定して、そうなるとみられるのは、原始インドチャトランガの、兵だけ
成る伝統よりも、鉱山王国の、貴族の象棋に相応しい、銀の塊が、中盤
盤上に並ぶルールにする事を、より優先させているためと、推定できる事
から見ても、明らかなのではないかと、私には思える。
 それに対して、イスラム・シャトランジ以降の、チェス系については、

”兵以外は、不滅の天体”という、駒は星辰(惑星)に則るという思想が、
8世紀末以降に西アジアに広がれば、兵以外は相手陣奥で、別の駒に
変わるという発想が、インドの原始チャトランガよりも、起こりにくく
なる事だけは、確か

であろうと思う。西洋チェス系については、相手陣で成る”兵”以外の、
最上段には無い駒の意味が、”民”を超越した存在というイメージの方
に、時代が下るに従い、より傾いていったのだろう。そのため、動きも
上下対称だし、成って、別の駒に変化する事も、ほとんど無くなっていっ
たと、考えざるを得ないと思う。外国のゲームは、少なくとも日本より
は皆、イスラムシャトランジの影響が強いと、私は認識する。ので、前記
”日本に伝来する前の、原始平安小将棋”の歩兵以外の、馬と車または
船の成りは、大理国からタイのムアンに、モンゴル帝国成立時に分布が
南下しながら継承されるときに、タイの古マークルックになった時点で、
隣国他国の象棋文化に吸収されて、結果としては、消えていったのだろう。
 しかし、この点に関する日本での模倣は、中将棋に、成りが多い点から
みて、事実としては限定的だった。ゲーム性を追及する時点で当時の日本
人は、裏に字の書ける五角形駒を、使っていた事もあって、少なくとも
中将棋に関しては、

影響度が当時の日本人にとって余り強くないと見られる、成りに関する
”国際標準”を、厳格に守る

ようには、現実ならなかったと、みられるのである。(2018/05/24)

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平安~中世の日本人。なぜ惑星のように動く八方桂が作れないか。(長さん)

以下、かなり前に、論題の結論にした事があったと記憶するが、チェス史
の研究で名高い、H・J・R・マレーが、増川宏一氏の言い回しで言うと
ころの、”チェスの天文学起源説”を採る元になった、本ブログ流の解釈
での八方桂馬の発明は、イスラム世界では、プトレマイオスのアルマゲス
トの理解が、知識人の知識人たるトレンドで、あったためであろうという
事だった。すなわち、イスラム=シャトランジが、知識人のたしなみに相
応しい、高級感を持つゲームとなるためには、そのプトレマイオス理論の
雰囲気を、存分に取り入れた、”八方に等方に動くがゆえに、何手か繰り
返すと、軌跡が惑星の酔歩のような複雑な動きになる馬駒”への、インド
チャトランガの、桂馬動きの馬駒からの変更が、8世紀に必須だったので
あろうと言うのが、本ブログの見方である。
 これは逆に言うと、桂馬が桂馬のままであって、八方桂馬の動きになっ
ていないのは、平安時代の日本人が、”惑星の動きが複雑である”という
事実を、事実として認識できない、何らかの原因があった事を、意味して
いると考えられる。そこで、今回の論題は、

平安時代摂関期や院政期すこし後の日本人には、例えば”火星の動きには、
計り知れない複雑さがある”という事実に、気がつきにくい理由があった

としたらそれは何か、という内容としてみた。
 まずはいつものように、さっそく回答を先に書く。
”当時の日本の暦の元である、唐代の暦は、その惑星運公表(天文暦)の
計算が、太陽の周りを、全部の

惑星が楕円ではなくて、太陽を中心に真円運動していると考えるのに
実質近い、計算方法

の暦だったため”と、私は認識した。そのため、火星も中国唐代の暦では、
アルマゲストの、複雑なテクニックではなくて単純に、位置が推定される。
そのせいで日本人は、それで火星の動きについては、だいたい判ったよう
なつもりに、なってしまったようだ。
 つまり、中国の暦の書物としての理解に傾倒していた、当時の日本の知
識人は、誰も15年ごとに、火星が明るくなるといった、”不可解な現実”
には無頓着でありつづけた。特に火星が実際には、星座の中で酔歩のよう
な、複雑な動きをしている事には、誰も関心そのものが、向けられること
は、ほとんどなかったとみられる。そのため、イスラム=シャトランジ
を代表として、チェス・将棋・象戯ゲームが、”星辰(惑星)の動きに
則っている”と、中国の北宋時代に、中国経由で日本にも伝えられても、

日本人には、本当の意味が理解出来なかった

と、みられるのである。
 では、以下に調査経過を今回は、簡単に述べる。
 まず、日本の平安時代後期の暦法である、宣明暦の、天体暦(惑星運行
暦)部分のシステムについては、以下の成書に、概略の記載が有った。
 平凡社出版(1969年)薮内清著「中国の天文暦法」第2部”西方の
天文学”、一.唐代における西方天文学、2.”七曜譲災決について”。
ここに唐代作の、日本でも永らく使用の”宣明暦の惑星運行暦部分の計算
り説明がある。それによると、それより少し成立が前の、唐代五紀暦の算
法が、宣命暦の惑星暦部分でも、使用されている”と、どうやらとれる、
記載があった。ところで、五紀暦の惑星の位置推算方法は、使用する定数
が、地球や惑星の、近日点からの軌道角度には無関係で、いつも定数になっ
ていた。そこで、惑星が楕円ではなくて、真円運動していると考える場合
の計算方法に、なっている事が、私にも比較的容易に理解できた。ついで
に、水金地火木土・・の軌道の平面は、このケースは全て、同一とも仮定
しないと、同じく定数にはならない。また、惑星の運動は、この円軌道内
で、速度もいつも同じと、仮定している事にもなる。
 つまり、

惑星は、癖のある運行をするが、さほど複雑には動いていない

と、中国の唐代暦法は、ウソを教えているという事になる。これは、

事実と違うが、信じ込んで以降、実際の惑星を見なくなれば、盤上を複雑
に長手数で動きまわる、八方桂馬を考え出そうという、気力は起こらなく
なる考え

とは言える。どうやらイスラム天文学は、鎌倉時代にも日本でだけ生き残
り続けた、この唐代の、惑星推算方法の思想に完全にブロックされて、
平安時代や鎌倉時代には、日本には、その雰囲気を含めて、全く入って
こなかったようである。ちなみにこの状況は、中国では、その日本の鎌倉
時代、すなわちモンゴル帝国の時代に大きく変わる。それでも、

火星が明るくなると、暑くなるとかすれば、日本人も間違いに気がついた

のだろうが。四季の変化が激しく、日月の運行理論の方が、大事な国土に
たまたま住んでいたため、ギリシャ人のように、惑星の動きを予測するの
に、興味を集中する事も、我々の祖先には、余りなかったようだ。それが
日本で問題になったのは、上記の惑星天体力学の強い影響もあり、発達し
た科学技術の力で、世界を、西洋各国列強が、押さえ尽くしつつあるとい
う現実を知って、危機感を抱き始めた、江戸時代末期以降になって、日本
では、初めてだったという事になるのだろう。
 なお、今回じっくり調査を始める前には、恐らく、日本の暦計算家の、
土御門家あたりは、中国天文暦の算法技術だけを棒暗記し、中身を余り考
えていなかったから、アルマゲスト的な問題認識が、日本人の知識人階層
には出来なかったのだろうと、私は予想していたが、これは違った。唐代
の天体暦は、日月暦部分に比べて、内容が、著しく貧弱だったのが、根本
原因のようである。
 何れにしても、そのため日本では、”星辰(惑星:水金土火木)の動き
に将棋が則る”と、伝えられると、

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将と、根源五元素に対応して、将駒を5つ
持ってくるという、(古代の)化学と惑星学とが混同されたり、鼠・牛・
虎・兎・龍駒を持ってくるといった、地球の公転軌道の法則に基づく、
日月暦の道具に、惑星天体暦の中身が、すり変え返られたり

した。これは、当時一流の知識人たる陰陽道師等にも、天体力学が、実は
理解不能だったので、彼らによって、旨く誤魔化されてしまったという事
に、実質なるのであろう。
 以上の事から、H・J・R・マレーが、チェス史でいう”天文学”の、
実質的な中身である”惑星の運動学”の、一番のハイライト部分であった、
”火星の動きの複雑さ”等が、日本では、唐代天体暦の伝統手法という、
より”音量”が大きな情報に、圧倒されて伝わらなかったために、

盤の中央で、長手数に亘って、酔歩状の複雑な動きを続ける、上下対称
動きのルールの馬駒等が、日本ではついに採用されなかった

と考えられると、私はやはり推定するという結果になったのである。
(2018/05/23)

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何故15升目オスマントルコ大チェスに、獅子が入らなかったのか(長さん)

 少し前に述べたように、日本の駒数多数の将棋の情報は、室町時代頃
には、イスラム圏に、ゆっくりとではあるが、流れていたとみられる。
特にそのときには、太子が、合計123升目72枚制チムールチェスに、
取り入れられた可能性について論じた。
 ところで、日本の駒数多数将棋には、大将棋以下の盤駒の将棋に限っ
ても、これ以外に、ユニークな駒はまだある。
 一手で玉の動きを2回できると、簡単には表現される、日本の将棋の

獅子

が、典型的な例なのではないかと、私は考える。太子の情報が行くなら、
獅子の情報が行かないというのは、不自然なのではないか。ところが
実際には、上記のようなルールに類似の獅子というのは、イスラム圏の
中世の大型チェス類に、取り入れられたとの情報が、今の所ない。
 表題は、その主旨で書いたもので、何故15×15升目60枚制と、
増川宏一氏著書、ものと人間の文化史、23-1将棋Ⅰで書かれた、
オスマントルコ時代とみられる、大型中世チェスに、日本の獅子駒が、
取り入れられなかったのかという、内容のものである。なお話を15升
目に、限ったように表現した事については、後で理由を述べる。
 では、最初に答えから書くと、次のようになる。
日本では、繋ぎ駒の有る獅子が、獅子で取れるようなルールで、自由に
獅子を使う将棋、たとえば後期大将棋は、事実上指されなかったので、
”獅子に関する特別な規則”のある獅子しか、イスラム圏には紹介され
なかった。そのため、

日本式漢文の文章が難しくなりすぎて、外国人には、日本流の獅子の駒
の動かし方のルールが、事実上解読できず、放置された結果、日本の駒
の獅子は、結局イスラム圏を含めて、中世には外国に伝わらなかった

のではないかと、私は考える。つまり、15×15升目130枚制の
後期大将棋などは、確かに曼殊院の将棋図には、西暦1443年に書い
てあったのかもしれない。が、オスマン帝国からやってきた、ゲームデ
ザイナーにそれを紹介するほど、明王朝時代の中国人には、日本の後期
大将棋は知られておらず、12×12升目92枚制中将棋の獅子の情報
しか、中国人から回教徒へは、伝達できなかったのだろう。そのため、
15×15升目60枚制オスマントルコ大チェスに、15×15升目
130枚制後期大将棋の、”獅子に関する特別な規則”のない獅子が、
導入される事は、恐らく無かっただろうと、いう事である。恐らく、明
の時代の中国人の、日本語の通訳は、中将棋のルールブックを読んで、
必死に、獅子のルールを、オスマントルコからやってきたゲームデザイ
ナーに、説明しようとはしたのだろう。しかしながら、”繋ぎ駒の付い
た獅子”と”次の手で、獅子を取った獅子が取り返せる”というのが、
違うのか、同じなのか。”獅子が双方に2枚づつ有るようなので、繋ぎ
が有っても、返しで第三の獅子で、獅子が取れないような、レアーなケー
スは、合法なのか非合法なのか”といった質問を、明王朝の中国人が、
オスマン帝国のゲームデザイナーから受けても、日本式漢文で書かれた、
日本の中将棋のルールブックからは、中国等、外国人のレベルでは、
到底回答できない等の、ルールが複雑すぎるという問題が、私の個人的
推定では、有ったに違いないという事である。そのためオスマントルコ
のゲームデザイナーは、結局日本の獅子駒に関して、充分な情報が得ら
れず、彼の考えた、

15×15升目60枚制程度の、オスマントルコ中世チェスに、日本の
獅子駒を導入する事を、諦めた

のだろう。せっかく、スペインのグランドアセドレフ等を参考に、立体
駒の獅子は、デザインする事は、充分に可能だったのだろうが。残念な
事だったと私は思う。
 なお、本ブログでは、

中将棋には、獅子に関する特別な規則の有る獅子が、その発生当初から
限定的に使われている

との仮説をとっている。その仮説が正しい事を、オスマントルコ中世チェ
ス等に、日本の玉の動きを2回獅子が、取り入れられている気配が無い
事は、逆に示しているのではないか。つまり、
初期配列から獅子が有り、その獅子には獅子に関する特別な規則が無い
というゲームが、仮に有ったとしたら、その情報が元~明王朝時代の
中国人の書物や人伝情報を媒介にして、イスラム圏に流れているはずな
のに、そのようなチェスが、

15×15升目60枚制であって、本来は獅子に関する特別な規則が
無い獅子でも使えるはずの、イスラム・オスマントルコ中世大チェスに
は残って居無い

という事は、たとえば、

西暦1300年頃の普通唱導集時代の大将棋に、初期配列で存在する
獅子がある、とか、西暦1443年頃の後期大将棋が流行っていた、
とか

というふうに、特別な規則の無い、生状態で初期配列される獅子がある
ゲームというのは、事実上日本では、存在しないか、または有っても流
行ったという事が全く無い事を証明する、手がかりの一つであるように、
私には思える、という事になるわけである。(2018/05/22)

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