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西暦1015年、将棋具の伝来後、後一条天皇は何処に居たか(長さん)

本ブログでは、西暦1015年に大理国より、中国・北宋時代の交易
商人、周文裔によって、日本に伝来した、原始平安小将棋の、盤駒等
を黄金で飾った将棋具は、後一条天皇が、西暦1019年の刀伊の入寇
まで、自身の居所に置いたとしている。しかし、本ブログでは、その
後一条天皇の居所の推移を、きちんとは示していなかった。
 そこで、今回、思文閣出版(2017年)、大津透、池田尚隆共著書、
”藤原道長事典”という成書の、”内離”という項目を調査し、
後一条天皇の西暦1015年から1019年までの、居所の推移を、詳
しく調査して、黄金で飾った将棋具の無事を確かめてみた。重要なのは、
火災時に、将棋具が、消失する場所に居無いかどうかである。そこで、
調査結果を最初に書くと、

西暦1015年11月17日に、三条天皇が焦って再建した、大内離が
再火災のときには、藤原道長の家である、土御門第に、後一条天皇は
実は住んでいて、”玩具”も無事。
西暦1016年7月21日に今度は前記藤原道長の家である、土御門第
が、火災の時には、
その一ヶ月前の西暦1016年6月2日に辛くも、新造した一条院(亭)
へ、後一条天皇は引っ越していて、将棋道具もどうやら無事

と、判明した。つまり、本ブログで最初の頃に述べたとおり、

推定・黄金で飾られた将棋具は、当初、孔雀と同じく、藤原道長の家に
有って、同じく居所が一緒の、後一条天皇(敦成・あつひら親王)の
部屋に、玩具として置いてあった

という事のようである。
 なお、後一条天皇が、西暦1016年1月29日に、第68代天皇に
なった時点で、天皇の家は、藤原道長といっしょの家であり、いわゆる
”里内裏”の状態だったという事になる。
 以下、もう少し、わかりやすく書く。
 西暦1015年のたぶん年明けに、大鏡が示唆する、黄金で飾られた
将棋道具の玩具が、わが国に、(推定)北宋交易商人の周文裔によって、
大理国から伝来した時に、大内離は再建中で、当時天皇の三条天皇の住
まい内離は枇杷殿であり、そこには、三条天皇は住んでいた。
 ところが、次の天皇の皇太子は別の場所におり、将棋具は、その皇太
子である後一条天皇(当時、敦成・あつひら親王)とともに、少なくと
も、西暦1015年2月12日の、藤原道長の所へ”孔雀等が、大宰府
より来た頃”からは、土御門第に有ったと見られる。なお、天皇家が、
ばらばらなのは、その前年の西暦1014年2月9日に、金銀の熔融を
伴う、大内離の火災があったため、三条天皇が、枇杷殿へ移動し、
後一条天皇は、土御門第に居たという、事情等と見られる。又そもそも、
北宋交易商人の(推定)周文裔へ、藤原道長が金銀製物品を、再建予定の
大内離への飾り物用での物品の購入のために、急遽仕入れを依頼したの
も、この西暦1014年2月9日の、予期せぬ大内離火災が、原因だっ
たと見られる。なお、本ブログでは、周文裔は西暦1012年、西暦
1015年年初と、緊急事態により、恐らく続いて2回来朝したと、
仮定している。後者はもしかすると、当時大宰府の大監であった
藤原蔵規の”私貿易”の形を、形式上とったイベントなのかもしれない。
なお、藤原蔵規はこの直後、大宰府大監から同少弐に昇格している。
 次のイベントは、西暦1015年9月20日の、大急ぎの大内裏の完
成であった。その結果、内離は大内離で、西暦1015年9月20日か
ら、西暦1015年11月17日まで、三条天皇がそこに住み、
少なくとも、11月17日の再火災の日に限ってみると、将棋具は依然、
後一条天皇(当時、敦成・あつひら親王)とともに、土御門第に、有っ
たと見られる。そして、西暦1015年11月17日に、大内離は、放
火による火災で再度消失した。が将棋具は藤原道長の家に、後一条天皇
とともに、置いてあったので、このときは無事だったという、事情のよ
うである。
 ついで、西暦1015年11月19日から、西暦1016年1月25
日まで、内離は里内離状態で、枇杷殿に有ったとされる。そのときには
再度三条天皇は、枇杷殿にいたと見られるが、依然将棋具は、藤原道長
の家である、土御門第に、後一条天皇と共に有ったと見られる。そもそ
も三条天皇と、後一条天皇は、私の認識では、親子では無いようだ。
 そして、火災のショックから、西暦1016年1月25日に、三条天
皇は退位し、後一条天皇が、藤原道長の住まいである、土御門第を、
天皇の住まい(里内離)としたまま、第68代天皇となり、藤原道長の
全盛期となったようである。今述べた事から、西暦1016年1月25
日から、西暦1016年6月2日まで、内離は、藤原道長の家である、
土御門第であって里内離状態であり、そこには新天皇、第68代天皇の、
後一条天皇が住んでいた。つまり、

将棋具も、さいしょから、この時点まではずっと、土御門第に有ったの
である。

 ところが、再火災にあった、大内離が再び再建されるまえの、西暦
1016年6月2日に、結果としては、これがたいへん幸運だったが、

将棋具は、後一条天皇とともに、藤原道長の家である、土御門第から、
一条天皇ゆかりの、一条院(亭)へ、移動した。後一条天皇は、親元
(祖父元?)を離れ、将棋具も、そのお供をした

という事であろう。
 そこで、西暦1016年6月2日より、7月21日まで、内離は、
一条院(亭)にあり里内離状態は依然続き、後一条天皇が住んでいた。
将棋具も、幸いな事に、ずっとこんどは、一条院にあったとみられる。
 そして、西暦1016年7月21日、今度は、藤原道長の家である

前述の、土御門第が、藤原惟憲の家から出火した、火災の延焼で消失
した。藤原道長が、急いで唐物の書籍類を、避難させた事等を、本ブ
ログでも、以前紹介したかもしれない。

 他方後一条天皇の住まいは、西暦1016年7月21日を含めてそ
れ以降、西暦1018年4月28日まで、依然一条院(亭)にあって、
里内離の状態であり、上記の

藤原道長の、自宅の火災からも難を逃れたため、一条院(亭)に
将棋具は、無事に保管され続けたと見られる。そして、

 西暦1018年4月28日に、再再建された大内離が完成すると、
後一条天皇は、こんどは一条院(亭)から、再再建された大内離に移
動した。それより少しのちに、大鏡記載の藤原行成の”こま”が、献
上されたとみられる。その時点で将棋具は、大鏡の記載から見て、
再再建された大内離の、適当な納戸部屋等に、放置されていたと見ら
れる。
 後一条天皇の時代には、西暦1018年4月の再建以降、内離は、
大内離であり、西暦1019年の、刀伊の入寇の少し後の、藤原隆家
帰還直後の推定・御前将棋の際には、大内離にて、藤原隆家の、将棋
の腕前披露があったものとみられる。「指揮が旨く行ったのは、常日
頃から、こうして将棋で腕を磨いていたからだ」と、藤原隆家は、
後一条天皇と藤原頼道の御前で、吹いて見せただろうとは、私にも、
さすがに容易に想像できる事である。
 なお、後一条天皇の代に再建された、大内離は、次の火災等で又
使用不可能となった、西暦1039年6月27日までは、使用され続
けたとされる。

 以上の調査結果となった。黄金で飾られた(大鏡)将棋具は、結局
後一条天皇が強運であったために、それに随伴していて、辛くも火災
の難を、西暦1019年の刀伊の入寇まで、免れ続けていたようだ。
(2018/05/21)

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方行飛龍、横飛型嗔猪将棋。”虎猪龍牛”→”虎龍猪牛”はNGか(長さん)

今回は、前回の議論の続きである。
 前回、表題のように、方行の動きにした飛龍、大局将棋の動きにした
猛牛、後ろ方向に後退できない横飛の動きの嗔猪、盲虎の動きの猛虎を
2段目に、元の猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍ではなくて、猛虎、嗔猪、飛龍、
猛牛、と並べた、”別法改善13升目108枚制普通唱導集大将棋”
(普通唱導集大将棋の、オリジナル型自体が、本ブログの推定)でも、
嗔猪の代わりに方行を入れ、横行を2段目に落とす等して、配列を変え
た、前に本ブログで紹介した、

2017年型改善普通唱導集大将棋同様、普通唱導集唱和の定型定跡は
回避される

との旨を述べた。そして、それが実際の将棋史では行われなかったのを、
鬼門を守る、12支の方位の方向順序にならないために、普及できなかっ
たため、とした。
 この論は、2017年型改善普通唱導集大将棋と、”虎猪龍牛”型
改善普通唱導集大将棋(各駒の動きを無理に大きく変更・前回)とが、
実質的にその内容から、袖部が、類似の陣形になっているために、実は
考える事のできるアイディアなのである。しかし、実はこの論法には、
次のような

読み抜けがあった。

表題のように、”猛虎飛龍嗔猪猛牛”と、

飛龍と嗔猪を、更に入れ替えると、又方位12支の順番になってしまう

のである。今度は、右辺の方で見ると、猛虎と猛牛が、実際の方位では
隣り合っているのに、端同士なのは、不自然と言えば不自然なのだが、
つなげて輪にすると、この場合も、方位の12支の順番に合い、また配
列通りになっている。
 そこで”(中将棋)猛虎(方行)飛龍(横飛)嗔猪(大局)猛牛”の
駒の動かし方で、”猛虎嗔猪飛龍猛牛”並びを”猛虎飛龍嗔猪猛牛”に
変えたら、

普通唱導集唱和の定型定跡が、又現われる事を示さないと、本当はだめ

だったのだ。
 そこで、さすがにこれは、頭の中の考え程度で、可否が推定できなかっ
たので実際に、13升目盤に駒を並べて、今述べた点を再チェックして
みた。結論を書くと、

”猛虎飛龍嗔猪猛牛”型の方が”猛虎嗔猪飛龍猛牛”型よりも、角×2、
龍馬×2の攻撃に、確かに幾分かは弱い

ようだ。前回の論が、完全には潰れなくて良かったとは思う。

ただし、大差があるようには、思えない。

この場合の差は、やはり、横行の類に変貌した嗔猪が、駒の斬り合いで、
先に無くなり易いため、相手の麒麟が、幾分か、味方陣に成りこみ侵入
しやすいので、幾分端攻めに弱くなるという、事のようであった。
 蛇足だが、猛牛は、斜め走り駒になっているので、このケースは、横
行の下段に、必ず置かないといけない。そうしないと、角×2、龍馬×
2の、斜め走り駒に加わって、角×2、龍馬×2、大局猛牛×2の、斜
め走り駒総攻撃になってしまい、この場合は定跡が、逆にもっと強くな
ってしまうのである。
 何れにしても、
”(中将棋)猛虎(方行)飛龍(横飛)嗔猪(大局)猛牛”の配列では、
普通唱導集の大将棋唱和の定跡が、必ずまた現われるとは、言い切れな
いようだ。そのため、大将棋が何故、衰退を止められなかったのかとい
う、問いに対しては

猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍配列は、方位の12支と順番が同じで、かつ
平安大将棋の端が、猛虎と飛龍だったので、この順番を変更しようとし
ても反対者が多く、普通唱導集時代の大将棋は、改善しにくくなって
衰退した

と、かなり形へのこだわりが強かったように、理由を表現するのが、
より安全と言えば、安全とみられるようになった。(2018/05/20)

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大将棋。滅びたのは”猛虎猛牛嗔猪飛龍”配列へのこだわりのせい(長さん)

これまで本ブログでは、大将棋が普通唱導集(1300年)の時代から
振るわなくなった理由を、横行位置を実質的な焦点とする、端攻めが
定跡化し、それを改良しようとして、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍の4枚組
の、

鬼門の守護神駒を、減らそうとしても、陰陽道の勢力が強く、それが
出来なかったため

としてきた。しかし、最近熟慮の結果、
枚数をそのままにして、配列を猛虎猛牛嗔猪飛龍の一直線並びから、
変える事に対しても、反対者が多かったという、よりきつい理由が、真の
原因ではないかと、考えるようになってきた。判りやすく書くと、たと
えば

”猛虎猛牛嗔猪飛龍”配列を”猛虎嗔猪飛龍猛牛”配列に変えるのも、
反対が多く駄目

だったという意味である。そう考えるようになった根拠を、まず結論か
ら書くと、

”猛虎嗔猪飛龍猛牛”配列に変えると、ゲームの欠点が改善される方法
が見つかった

からである。
 では、以下に、まず”猛虎猛牛嗔猪飛龍”配列へのこだわりが、どこ
から来るのかから、説明する。これは、
普通唱導集大将棋の2段目の袖でも、右辺を見ると良く判らず、

左辺をみないとピンとこない。

つまり、2段目は普通唱導集大将棋の本ブログの推定によると、左辺か
ら、反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、麒麟、酔象、鳳凰、猛虎、嗔猪、
猛牛、飛龍、反車と並んでいると本ブログでは見るのであるが、2番目
から5番目に着目しなければならない。つまり、
飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎は、飛龍と嗔猪の間が、かなり空いていて、
ここが判りにくいが、方角の子・牛・虎・・の順番になっている。つま
り、龍はだいたい東南東、そこから時計回りに、かなり飛んで、猪、牛、
虎が、北北西、北北東、東北東と並んでいるのである。

つまり、恐らくこの4駒を、2段目から他の段に移すのにも、文句が
来ただろうし、そもそも、配置の順番を入れ替えるのも、NGだった
という、根拠が一応ある

という訳である。
 そこで次に、冒頭で少し述べたように、4枚組のうちの一部を、他の
段へ移動させるという事は、しないにしても、順番を変えると、
普通唱導集の大将棋で唄われていると、ここでは見る”いつもすぎる定
跡の存在”の難点が、どうやって回避されるのかを、以下に述べる。

飛龍と猛牛と嗔猪を入れ替えて、かつ猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍の駒の動
かし方のルールを、全部以下のように変えると、普通唱導集の大将棋の
難点は一応回避されると、私は考える。

(1)猛虎を盲虎の動きに変える。
(2)飛龍を、飛車と龍王の中間だと言いくるめて、むりやり方行の動
きに、跡形もなく変えてしまう。
(3)猛牛を、後期大将棋系の、縦横2升目動きから、斜め前に走り、
前後に歩む、大局将棋の猛牛の動きに変える。
(4)嗔猪について。中将棋では猛牛とは、飛牛、奔猪でペアリングし
ていると、こじつけて、(3)の大局将棋の猛牛の動きに対応づけ、
全く別の、以下私が今回、特別に作成した動き、すなわち、”後退でき
ない摩訶大大将棋の横飛”の動き、つまり、”横行の動きに類似”にし
ていまう。

 以上の駒の動かし方のルールの”こじつけだが、口実が一応有る”変
更を、飛龍と猛牛と嗔猪を入れ替えと同時に、普通唱導集の大将棋の
2段目について行うと、結局、
もともとの横行は、”端攻め定跡における、角×2、龍馬×2攻撃に
よって、質駒化はしてしまうが、

”横行化した嗔猪”が、駒交換の後に残る。

ので、横行の代わりを、このケースは嗔猪が、引き継ぐことになり、陣
を更に、成り麒麟によっては崩せなくなる。そのため、普通唱導集で唄
われている、大将棋の定跡戦法は、このやり方でも恐らく

成立しなくなる

と、私は見る。
 さて、上記の改善方法は、何年もに亘って、試行錯誤すれば、鎌倉時
代後期の、ゲームデザイナーにも、思いつけたものだったに違いない。
 しかし、実際には、上記のような解決策が、理論上は考えられても、
実際には、大将棋は、普通唱導集の後、振るわなくなっていったはずな
のである。この事から、

方角の並びとピタリと合っていた、”猛虎猛牛嗔猪飛龍”配列へのこだ
わりが、当時の大将棋の棋士に有って、誰も配列変えに賛成しなかった

と考えなければ、大将棋が滅びた本当の理由は、正しく説明できないよ
うに、私にはだんだん思えて来たという事である。(2018/05/19)

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平安大将棋の猛虎。”もうこ”古シャタルの虎と、同動きは偶然か(長さん)

 大将棋や中将棋には有り、日本将棋には無い駒として、猛虎または、
盲虎がある。”もうこ”と読め、猛虎については、熟語として、たいて
いの漢和辞典に載っている。ところで、少なくとも日本語では、
”もうこ”と発音すると、モンゴル共和国の別名の音にもなる。これだ
けなら、単なる偶然に、間違いない。ところが、モンゴルのチェスに、
シャタルという、この国独特の、固有の古典のチェス型ボードゲームが
ある。それについて、遊戯研究家の梅林勲氏によると、チェス型ゲーム
であるため、副官駒(日本式には、金将駒)があって、古くは、
シャトランジ型の動き、すなわち平安大将棋の猛虎の動きをしたとの説
があり、その駒をモンゴルでは、ベルスと発音するという。ここでベル
スは右腕、あるいは”虎”の意味との事である。つまり平安大将棋の
猛虎は、”蒙古の虎”の洒落言葉のようにも、いっけんして聞こえると
いう事になる。そこで、今回の論題は、表題のように、なぜ平安大将棋
の”もうこ(猛虎)”は、斜め1升動きで、もうこ(モンゴル)の
梅林勲氏調査の、古シャタルの右腕の虎と、動きが同じなのかである。
 そこで、いつものように答えを、ただちに書くと、
西暦1110年頃、もうこ(猛虎)にしたら、モンゴル帝国が、少し
後に偶然にも発生し、後に調べたら、モンゴル・チェスの虎と、動き
まで同じだったので、虎駒は、猛虎と呼ぶのが定番になって、固定され
た、という

偶然

だと、今の所考えられると、本ブログでは考える。
 もし本当に猛虎が、蒙古の洒落だとすると、西暦1206年頃に、日
本で、モンゴルを統一した同帝国が、認知される程度なので、

二中歴に平安大将棋を載せるのが、ぎりぎりになってしまう

のである。平安大将棋が西暦1206年頃の発明であるという説を、はっ
きりと否定する根拠は、今の時点ではたぶん、無いとは思うのだが、

いかにも無理筋

だ。他方、猛虎は、熟語として著名なため、虎駒を入れようとしたなら、
命名しそうな単語である。だから、全部偶然の一致だと、強弁されると、
敢えての否定は出来ないだろう。
 しかしながら、以上の事実は、記憶にとどめておいた方が良いことだ
けは、確かであると、私は思う。一般に、猛虎は銀将の前升目に、置か
れてゲームがスタートするため、銀将と関連があるのではないかという
見方が、今までは強かった。
 しかし、平安大将棋の猛虎の動きが、イスラムシャトランジの副官や、
中国シャンチーの副官である、士/仕と、動きが全く同じという事も、
事実である。
 従って、特に前後者から見て、猛虎と、イスラムシャトランジ等の副官
とが、全く無関係とも、決め付けられないのではないか。

まさか、モンゴルとか蒙古という言葉が、遼の一部を指すとして、平安
時代後期の日本人には、知られていたという事も、無いとは思うのだが。

 平安大将棋の発生のカラクリを解く鍵が、こんなところには無いとは
断言できないので。私も最近になって、発見した上記の事実を一応は、
記憶に留めておこうとは、考えているのである。(2018/05/18)

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摩訶大将棋の王子を真似、チムールチェスの王子は作られた。(長さん)

今回の表題は、すぐ後で書くが、論題の結論そのものとしてみた。
 すなわち、

摩訶大将棋の王子が親で、チムールチェスの王子が子であるという意味、

更に言い換えると、摩訶大将棋の王子を真似て、123総升72枚制
チムールチェスの王子が作られたのではないかと、言う意味である。
つまり、論題は、

摩訶大将棋の王子と、チムールチェスの王子との、親子関係はどうなっ
ているのか

という内容だという訳である。
 ついでに根拠も、とっとと書いた方が早いだろう。

チムール帝国(またはイランの、イスラム・チムール朝)は中国の明代
の王朝、日本で、王子や太子が作成されたのは、元寇の時代、すなわち
中国の元代である

と、少なくとも本ブログでは考えるからである。なお、

本ブログの王子(太子)の起点に対する推定は、将棋史界の現在の定説
よりは、実はたいへんに遅い。

興福寺の1058年酔像木簡等のイメージから、王子の日本での出現は、
更に早く、中国王朝の北宋の時代と見る意見が、今の所は根強い
からである。つまり、

日本の王子や太子の起点が、ペルシャのチムール帝国程度にまで下ると
いう説は、たてても現行は、たいへんに不利な状態

なのである。
 では、説明の順序が逆になったが、以上の議論が出る、背景について
以下に述べる。
 大阪商業大学アミューズメント研究室発行(2014)の、解明:将
棋伝来の「謎」に、将棋史研究家の岡野伸氏の作成したとされる、世界
のチェス・将棋のまとめ図が載っている。この中で、今のイランの所に
書かれている、チムールチェスについては、

いっけんして、中将棋の形に似ているために、私は前から、かなり気に
なっていた。 

 そこで今回、少なくともwebで、チムールチェスについての情報
を、ざっとだが、拾ってみる事にした。結果、

高見研究室の摩訶大将棋のブログ、194の記載が、最も判りやすい

ことに気がついた。高見友幸氏には、幾ら感謝しても、感謝のしようも
無い所である。理由は、
イスラム文字で上記サイトに図が出ているが、冒頭で述べた、総升目数
123升目72枚制チムールチェス(駒ぎっしり型)の駒名の内容が、
高見研究室のサイトで表示した図では、良く判り、それと英語で、
総升目数123升56枚制チムールチェスの、ルールを書いたサイトと
を比較すると、高見研究室のブログの写真から、私にもだいたいルール
が判るからである。
 また、高見研究室のブログには、”
総升目数123升72枚制チムールチェスが、総升目数123升56枚
制チムールチェスから派生した、後者より少し、後の時代のものであり、
他方英語のサイトには、総升目数123升56枚制チムールチェスは、

早くて西暦1336年、遅くとも西暦1405年までには存在したもの”

と出ている点も、私にはありがたかった。つまり、中国では明の時代に
存在した、チムール帝国(王朝)のゲームという事になる。
 ところが、高見研究室の摩訶大将棋のブログには、

”チムールチェスの王子駒が、摩訶大将棋の王子の起源であり、前者が、
後者の親である”かのように書いてあったので、私にはクエスチョン

となった。本ブログでは、摩訶大将棋の起源を1443年より、少し前
と、学会でも、最も遅く見ている。が、それでも”仲人型の4段目駒が、
特徴だ”と、高見研究室が指摘する、

総升目数123升72枚制チムールチェスが、それより古いとは考えに
くい。どっこいどっこいなのではないか

と、年代からは認識するのである。
 そして、本ブログでは、摩訶大大将棋の王子は、太子の言い換えにす
ぎず、その起源を、

西暦1230年~1260年の間としている。

これは、総升目数123升72枚制チムールチェスより少し早いと、高
見研究室の、摩訶大将棋のブログ、194から察せられる、総升目数
123升56枚制チムールチェスの1336年~1405年よりも、更
に早い。
 そもそも、本ブログの推定によると、太子に成る酔象が、1260年
型大将棋で導入されていたとみているのは、

皇族出身の鎌倉将軍である王将より、釈迦の方が、蒙古に対する、日本
の守り神として権威があると、当時の大将棋を指すような知識人の間で、
陰口がささやかれていた事の、反映と見て間違いない

という事からだった。実際、時の鎌倉将軍であった、鎌倉第七代将軍の
惟康親王は、後に蒙古来襲がひと段落すると、執権の北条氏によって、
籠に逆立ちに乗せられて、追放される程度の存在で有る事は、著名であ
る。よって、上記の釈迦駒導入の動機付けは、日本の鎌倉時代には、
充分にあると、少なくとも私には思われたのである。なお、太子が釈迦
であるという説は、さいきん、大阪商業大学アミューズメント産業研究
所主任研究員の古作登氏により、盛んに主張されている説で、本ブログ
も、この説には賛成している。
 以上の事から、

単純に年代の後先からだけ考えると、ペルシャ人が日本人のゲームのア
イディアを、室町時代前期に真似た

としか、考えられないのである。恐らく、日元貿易の時代に、日本の
風俗・文化に関する情報が、西洋ルネサンス少し前の、当時の第一線の
文明国、イスラム・チムール帝国にも、かなり流れていたのであろう。
その速度は現代社会の、西洋発のweb情報の流れの速度からみると、
桁外れに遅く、ごくゆっくりだったのだろうが。しかし、数十年という
タイムスパンでみると、チムール帝国には、中国や、日本の情報が、
すべて伝送されていたとみた方が、尤もらしそうだ。
 ところで話は少しそれるが、以前故溝口和彦氏のブログで”中国シャ
ンチーの砲駒は、私には特定できないが、総升目数123升72枚制
チムールチェスの駒起源である”と書かれていたのを、見かけた事も
ある。当時は、そんなものかと、私は見ていたが、これも変だ。

なぜなら、中国シャンチーの砲の導入は、北宋象棋の時代であり、
チムールチェスは、チムールのゲームだとすれば、中国の明の時代の
ゲーム

だからだ。これも、時代の後先が逆であり、どのような情報に基づいて、
中国の砲駒の起源を、チムールチェスにしているのか、摩訶大将棋ブロ
グの王子起源説とともに、謎

である。何か別に、総升目数123升72枚制チムールチェスが、古い
という根拠があるのであれば、

総升目数123升72枚制チムールチェスをチムールチェスと呼ぶのは
止めた方が良い

と、私には思う。この72枚制、駒ギッシリチェスの4段目と3段目の
兵駒のうち、中央の兵駒の”でっぱり”は、確かに王子の導入に、起因
するものである。

従って、この72枚制のチムールチェスは、大型チェス、
総升目数123升56枚制チムールチェスをペルシャ人が作ったのちに、
中国シャンチーの砲と、日本の太子、西洋流に訳すと、王子の情報を入
手してそれらを加え、その少し後に、同じくペルシャ人が、作成したよ
うに、見えるものである。
これが、摩訶大将棋の起源を、平安時代と、比較的早く見る高見研究室
の論理で、摩訶大将棋より古いと見るなら、どういう思考で、そう結論
するのか、溝口氏の中国シャンチーの砲の説といっしょで、

私には、さっばり判らない。

今の所は、ペルシャ人が鎌倉時代の大将棋を見て太子を、彼らの、ビッ
グチェス、チムールチェスに、たまたま室町時代に導入したので、彼ら
のビッグチェス、

すなわち72枚制のチムールチェスは、日本の普通唱導集時代の大将棋
に、見た目も内容も、結構似てきてしまったようだ

と、本ブログでは、はっきり表現しようと私は思っている。(2018/05/17)

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一文字”歩”駒。どうして興福寺からしか、出土しないのか(長さん)

現代では、一文字で”歩”と表現された、歩兵駒は、どこかで販売さ
れていると思う。が、史料としての出土駒には、余り例が無い。”歩兵”
が普通である。ところが、西暦1058年と1098年のものとみら
れる、興福寺の出土駒の中に、前者は2枚、後者は1枚一文字”歩”
が入っている。なお、興福寺の歩兵駒は、1058年が5枚、1098
年が7枚と聞く。特に、1098年の一文字”歩”は、鮮明であって、
”兵”が書いてある可能性は、全く無い。
 ところで、天童市資料館2003年発行の”天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒”の約500枚の、将棋駒のカタログには、略”歩”駒は、
興福寺の例しか載って居無い。他は一文字でも”兵”か、または2文字
目が消えて”歩”に見えていると、みられるものばかりである。
 今回の論題は、最後に蛇足で、玉、金、銀が興福寺駒では目立つよう
に描いて有る事には一部触れるが、この

興福寺から、良く出土する一文字”歩”の理由

である。回答をいつものようにまず書くと、実は、前にも少し触れたこ
とがあるのだが、

当時の興福寺で将棋を指す棋士のマナーが、特に悪かった

からだと、私は考える。一手で、歩兵を2升目動かして、反則の成り金
を作る事が、しばしば有ったので、それを防止するためだと、いう事だ
と思う。つまり、

”歩兵は、前に1歩づつ”というのが、伝来した世紀の末までは、充分
には徹底されていなかった

という事なのではないかと思う。これは、平安小将棋では、と金の数の
差が、死活問題になる事から、来ると見られる。それに、本ブログの
見解では、

当時の平安小将棋の升目が8升目

で、1歩歩兵が上がってから、成るまでにあと2歩であり、次の歩兵の
前進で、2歩上げの反則手が、出やすかったのも、あったのだろうと、
考えている。今のように、歩兵が4歩前進で、初めて成れるルールの場
合には、歩兵を、ひたすら前進させる手を指す確率が、当時よりも少な
く、反則の頻度が、やや低くなるとみられるのである。なお、持駒ルー
ルがあるので、初期位置からの、と金作りは、日本将棋では、いっそう
確率が減る。
 ところで、興福寺の出土駒で、特に1058年タイプの方には、冒頭
で少し書いたように、

玉の字を縦詰めに書かない。金と銀の字を、将より広く書く

という、傾向がある。将も書いてあるのだが、玉、金、銀の文字が、
いわば”太文字”あるいは、強調文字になっているような、傾向がある
という事である。
 これは、玉将、金将、銀将という駒が、それぞれ独立に、駒の動かし
方ルールが有ると認識して、玉、金、銀と、駒名を略称する日本将棋を
指す、現代人の”感覚”が、11世紀には、まだ無かった事を、示して
いるように、私には思われる。

将の中の玉将、将の中の金将、将の中の銀将と認識しているから、この
ような表現を、11世紀の駒師はする

のではないか。つまり、はっきり言えば、

玉(ネフライト)でできた将駒や、金でできた将駒、銀でできた将駒が
形が同じで、材質により色が違って見えた将棋道具が、少し前に有った
という記憶が、西暦1058年には、まだ有った

と、私に言わせると疑われると、いう事だと考えるのである。当然だが、
歩兵が歩なのよりも、”将でも玉将、金将、銀将と思っている”という
11世紀の日本人の意識の情報の方が、はるかに重要だ。(2018/05/16)

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天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の玉駒。王が4枚、玉が0枚は何故(長さん)

天童市の将棋資料館が西暦2003年に発行した、”天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒”には、500枚に近い、その時点で知られた出土駒
が掲載されている。その中で、一文字で王と書かれた駒が4枚、記さ
れているが、玉だけの駒は、はっきりしたものは無い。なぜ、王将、
玉将の他に、”王”という駒が特に出土しているのか、その理由が、
今回の論題である。回答を書くと、

王様の王という意味の駒を、しばしば作成しようとしたため

と、本ブログでは考える。本ブログ流に言うと、”王将”は、天皇家、
皇族の血筋を引く将軍のイメージだが、”王”は、更に一歩進んで、
天皇そのものが、軍隊の中央に居る感じである。なぜ、作者はそのよ
うな、平安小将棋を作ろうとしたのかと言えば、

”皇族の血筋を引く将軍”でも、”皇族の長”でも、ゲームのイメー
ジとしては、大して変わらない

と、考えたからだろうと推定する。中央に天皇や皇族がいて、大事な
事は、左右に対称的に、金将、銀将・・と、家来が並ぶゲームとすべ
きとの、西暦1080年頃と見られる、

大江匡房と、白河天皇の思考に素直に従った、9升目36枚制標準
平安小将棋用の道具として、これらは作られたものである

というのが、本ブログの見方だ。
 そこで、以上の点を、以下少し詳しく説明する。まず、
玉が出て居無いという点だが、
 玉一文字と、天童市将棋資料館の研究者には推定された駒が、実は

一枚だけある。

大阪府の、高槻城三の丸遺跡の、上記書籍で⑩と表現されている、中
将棋とみられる駒である。私見だが、この駒は、

普通の二文字の玉将に、私には見える。絶対の自信は無いのだが。

ただし、書籍の書き方から見て、逆に”一文字玉”と、絶対に見てい
るような、記述にもなっていない。字が擦れて、良く判らない駒であ
るからである。そこで、ここではこの駒は、カウントから外している。
 次に4枚、一文字王が、カウントされいるときに、一文字玉が、一
枚も無いのが、統計的に有意に異常かと言う点だが、

私見だが異常であり、なんらかのコメントをつけるべきレベル

だと、本ブログでは考える。
 そこで具体的に、本ブログがコメントをつけるとすれば、

玉を、玉と表現したり王と表現したりと言うフレは、平安時代末期に
至っては、日本人の漢字に対する認識としては、もはや無いのだから、
王は、王様の王という駒を、普通に作ろうとした証拠と見るべきだ

というものである。
 我々は、王という辺を持つ漢字を、おう(王)へんの漢字、または、

”たまへんの漢字”と、学校で教わったようだ。

これは昔、”ぎょく”を王と書いたらしく、この形を辺に持つ漢字は、
確かに大体、”球系”の意味があるからだろう。しかし、

”球や玉の意味での王では、紛らわしいから、王に点を付けて玉にし
た”というのは、将棋の伝来よりは、ずっと昔の事だ

と、私は認識する。だから、将棋の駒で”王”一文字の駒は、

本当は”ぎょく”と読ませたいのに格好を付けて、将棋史からみると、
ウルトラ古型の字を、気まぐれに書いたとは、すこぶる考えにくい

と、私は思う。平安時代の院政期には、日本では完全に、王は王様、
玉は”たま”つまり”ネフライトの”という、形容詞の漢字、だった
のではないのだろうか。

だからその証拠に、その反対の、気まぐれで元に戻した、新形の一文
字”玉”を書いた駒など、全く出土しない

のだと私は思う。板切れに”ネフライトの”と書いても、意味が不明
だ。だから玉という字を、将棋駒の名前として使うときには、必ず、
”ネフライトの将”の意味になるように、玉将と書いたので、一文字
玉という駒は、現実には皆無に等しい出土状態なのだろうと、私には
思われるのである。なお古い情報満載の諸橋漢和辞典でも、王という、
個別の漢字の説明で、”玉の事の意味にも書く”との超古代型の漢字
解釈は、特に書いて居無いように、私には読み取れる。
 現代では、誰も王と玉とは同じと見て居無いのに、漢和辞典の見出
だけを頼りにして、実際には幻の”王と玉同一神話”を、将棋史家は、
これまで、うっかり、作って来てしまったと言う事は、本当に無かっ
たのだろうか。
 幾つかの将棋駒の名前の漢字を、これまで当たった感触では、将棋
の漢字の書き方は、高々1000年の歴史では、漢字の、より長い歴
史にはかなわないために、現代と、さほどには差が無いというイメー
ジになっているように、私には感じられるのだが。実際には、どうな
のだろうかと思う。(2018/05/15)

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応仁の乱終了時(西暦1477年)に角鷹駒等は本当に有ったのか(長さん)

本ブログでは、中将棋の成り駒として特徴的な、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、
飛鹿、飛鷲、角鷹は、西暦1380年~1410年程度に出来たのであろ
うと、これまで表明して来た。白駒、鯨鯢は、室町時代専用の古語辞典に
載っているし、飛牛、奔猪は、本ブログの見解によれば、西暦1300年
頃の普通唱導集時代の大将棋に存在した、猛牛と嗔猪の、牛と猪にぴたり
と対応している。なお飛鹿は、思いつきとここでは見ているが、取り立て
て上記成立年を、否定する、強い根拠は今の所見当たらない。
 しかしながら、前から、飛鷲と角鷹の対については、私は対で出てくる
事自体に、違和感を覚えてきた。鷲鷹という表現は、今の生物学分類と、
同じだが、戦国時代以降の

鷹狩り大名が、典型的に使い出した、言い回しなのではないか

という懸念からである。つまり鷲だけとか、鷹だけとかが、将棋の駒とし
て採用されたなら別であるが、対で入ってきたように、いかにも見える点
が、西暦1410年頃の発明とすれば、何か不自然感があったと言うこと
である。
 そこで、とりあえずはまず、

鷹狩りという遊びが、室町時代前期に盛んだったかどうかを、歴史辞典で
当たってみた。

結果を述べると、文献によって、記載にばらつきが多いのだが、

室町時代は、鷹狩りが極めて盛んだったと、はっきり書いてある物が無く、
また、鷹匠の動向について、鎌倉時代から室町時代の文献は減少している

との調査結果となった。なお調査をした中で、最も詳細だと思われたのは、

株式会社平凡社の下中弘編集の、日本史大辞典(全7巻)(1993年)

の中の、鷹狩りの項目であった。これは、現時点でのwikipedia
の項目”鷹狩”よりも、”史料を、読者に当たるよう”にと、指示してい
無いと言う点で、結論がよりわかりやすい。
 つまりこの著書には、”仏教の殺生の禁止の戒律の影響で、平安末期か
ら、朝廷での鷹狩りが、形式化した。その後低迷期が続いた後に、戦国時
代に入ると、戦国武将の間で、急激にまた鷹狩りが盛んになった”との旨
が記載されている。
 鷹匠の動向の記録も、鎌倉時代に入ると、公的には重視されなくなって、
極少なくなり、動向を調査する事自体が、安土桃山時代に入るまでは、
推定になるようだ。なお、web上に、鎌倉時代に、源頼朝、源実朝、
それに第5代将軍の藤原頼嗣が、”仏教の戒律に基づいて、鷹狩りを禁止
した”との旨の、記載が載っている。
 そのためかと見られるが、”鎌倉時代には、幕府が鷹狩りをする事は、
実は無かった”と、記載している国語辞典も、一部にあるようだ。

以上の事から、応仁の乱が終わった、西暦1477年までは、少なくとも、
飛鷲と角鷹を、対にして、特定の将棋種に導入したという考えを、無条件
には、受け入れては、いけないのではないか

と、私は以前よりも強く、疑うようになってきた。ただし、戦国時代には、
各戦国大名が、鷹狩りを盛んにしたらしいとは、私にも納得できるように
なった。ちなみに、天竺大将棋と泰将棋にも飛鷲、角鷹があるが、これら
は、安土桃山時代以降の作なので、有っても問題にならない。問題なのは、

当然だが、南北朝時代に成立したとされる、中将棋だけ

だ。江戸時代の時点で、ひょっとしたら今でも、飛鷲と角鷹は、それぞれ
斜め前と、前の踊り型の動きをする方向について、隣接升目で止まれるか
どうかが不明なほど、ルールが不安定である。よってこの事からみても、
他の中将棋の成りで入った駒、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢、飛鹿よりも、
導入が遅くても、不自然感は無かったのではないかとも、私には思えてき
たのである。
 ただし、以上の結果に基づいて、飛鷲、角鷹の発明を、例えば、西暦
1470年~1500年にしてしまうと、

静岡県焼津の小川法永長者の築城した城、小川城で、裏飛鷲竜王(竜は
新字体)駒が出土しているのを、説明するのが苦しくなる。なぜなら
この城は西暦1476年頃に、今川義元の父親を、かくまったと言う事で
知られている

からである。もっとも、今川氏親をかくまった年に、小川城で中将棋を
指していたとは限らないし、飛鷲の発明が、たとえば正確には西暦14
75年で、指していたのが、西暦1476年なら、矛盾は無くなってし
まう。
 ちなみに、平凡社、下中直人編、歴史地名体系22、”静岡県”(20
00)によると、この遺跡では、”木製品の出土と共に、西暦1531年
の銘の入った、木簡が出土している”という、情報がある。つまり、
裏飛鷲竜王駒は、16世紀初頭の出土駒かも、しれないようだ。
 ともあれ、今回は次の調査として、

小川城出土、裏飛鷲竜王(竜は新字体)駒は、本当に、飛鷲と書いてある
のか

どうかを、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、調査しなおしてみた。結果
を、ただちに述べると、

裏とされる部分は、公平に見て”飛□”である

との結果であった。つまり、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、裏は
飛龍(旧字体)かもしれないと書いてあるのに、象徴されるように、

2番目の字は、読めないというのが、公平な見方

だと、私は考える。つまり、裏と思っていたのが、飛車であって表であり、
表と思っていたのが、実は裏で、楷書に近い竜王(竜は新字体)かもしれ
ないと言う事である。ただし、私見だが、この駒は、恐らく中将棋の駒に
は、間違いないと思う。共出土の裏飛鹿盲虎駒と、形が似ているからであ
る。つまり大事な点は、

中将棋の駒にも飛車があるという、当たり前の認識を早く持つべきだった

と言う事だろう。ようするに、

小川城遺跡からは、実は裏飛鷲龍王駒はまだ出土しておらず、出たとした
ら、不成り龍王駒が出るのかもしれない

と言う事である。なお、小川城遺跡の出土駒の中に、両面楷書駒があるの
は、長野県上田市の塩田城から出土した、裏竜馬(竜は新字体)角行駒と、
仔細不明だが、同系列の駒だからなのかもしれないと、私は思う。
 以上の結果から、問題になった小川城遺跡の駒は、この先、

第一面飛□・第二面竜王駒と、私は呼びなおす

事にした。以上の結果から、今後本ブログでは、

中将棋の成り駒は、大方が西暦1400年頃までには作られ、ひょっとす
ると、飛鷲と角鷹だけが少し遅れたが、遅くとも西暦1500年頃までに
は、これらの成り駒も、作られたのだろう

と、表現する事にしようと考える。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、今と完全に同じ、中将棋の成りが
書いてある。が、基になった曼殊院の将棋図の、本当の1443年版では、
恐らく、龍王と龍馬も、奔王や獅子のように、中将棋では、不成りだった
のではないかと、今では私は疑っている。
 なお以下私見だが、それによって、中将棋のゲーム性能が、大きく変わる
事も、実際には無いような気がする。(2018/05/14)

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将棋纂図部類抄では”猫股”が、なぜ”猫叉”と書かれているのか(長さん)

今回の論題は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の”猫股”は、なぜ”猫叉”
と書かれているのかである。すなわち、諸橋漢和辞典では、猫叉の正字
は、豹の辺に苗と書くネコに股である。ここで、猫が獣辺なのは、日本
での習慣での俗字あるとみられる。これは中国とは違う、昔からの日本
の習慣なので仕方が無いが、股が叉または又、あるいは江戸時代の将棋
書で、刃になってしまい、そもそも”ねこまた”ですら無いのは、全部
中国語には無い、日本での変形である。特に、現在では”猫又”と
標準的に表示されるが、元々は股と書くのが本来なのに、股の右下部分
だけで、済ましているという訳で、現代人は、単なる略字を、正解と
勘違いしているという、でたらめな例という事であろう。
 ともあれ今回の論題は従って、

安土桃山時代の水無瀬兼成が書いた、将棋の駒の猫叉が、猫股でも、
猫又でもなくて、猫叉という字になっているのはなぜか

と言う事になる。そこで回答から、いつものように書くと、
水無瀬兼成が猫叉を猫股、猫又と書かなかったのは、

たまたま、曼殊院の元の将棋図で、猫叉の字が当てられたから

だとみられる。
 まず、現代のように、猫又と書くのは、股が正しいとすれば、猫の
マタぐらを、”猫再び”と言い換えたことになってしまい、こんなのは
論外である。さすがに、西暦1443年に曼殊院では、今流の、そのよ
うな、でたらめな”あて字”は、行わなかったと言う事だろう。
 では、股が叉になった理由だが、フタマタに分かれるという意味で、
両方いっしょだったので、股が体の部位として、

品が良くないという、恐らくそれだけの理由

で、藤原定家に逆らって、叉を曼殊院等が選んだのだと私は見ている。
 前に、武蔵七党の猪俣党の話題を出したが、地名に使われる俣も、
叉と一緒で、”分岐する”の意味があるので、”猪の危険な体の部分”
の意味が、品の悪さから避けられて、猪俣という漢字の地名表記に、
なったと見られる。しかし考えてみれば”猫のマタぐら”を、”猫の
どこかが、二またに分かれいる”と漢字で、表現変えをしたからこそ、

”尾が2つに分かれた猫”という、それまでには無かったイメージを、
考える事が出来た

とも、言えるのではないか。
 他方吉田兼好の徒然草では、少なくとも成書の解説書では、皆、
猫股の股は、平仮名になっている。理由はわからないが、”猫また”
にしたので、徒然草も品良く、笑い話になったのは確かである。しか
し、将棋の駒の名前としては、仮名は使え無いので、敢えてそれまで
には、仮名で書くのが慣わしだったものに、漢字を当てるとすれば、
将棋の駒名にするため、猫叉が出来たというのが、そもそも尾の分か
れた猫が発生した原因だとも、考えられるのだろう。
 しかも、水無瀬兼成の将棋図が出来た、安土桃山時代の末と言えば、
”江戸時代の猫また”が発生する、100年以上も前の事である。

踊る猫の化け物を発生させたのが、将棋の駒名であると疑われても、
しかたのない早さ

なのではないか。
 従って、”九尾の狐”の古い姿を、猫股のイメージとして発生させ、
本来の猫股を”謎の姿”に変形させてしまった犯人が、元をただせば

実は、曼殊院の将棋図が、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄として、普及
したのが、そもそもの発端だった

という事も、全くありえない話では無いように、私には将棋纂図部類
抄を眺めていて、最近思えてきたところである。(2018/05/13)

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大理国原始平安小将棋が、ヴェトナムに根を下ろす条件は無いのか(長さん)

本ブログの主張によれば、原始平安小将棋は、西暦1014年現地発の、
大理国産の伝来ゲームであり、大理国原始平安小将棋は、不成り酔象が、
右銀の位置にある点を除いて、ほとんど8升目32枚制平安小将棋(原
始型)であったと、考えられる。
 そしてそれは、中国北宋交易商人の周文裔が、西暦1015年に、後
に藤原道長の所有物となる、東南アジア産の孔雀と共に、東シナ海の海
路を通って船舶で運んだ、黄金の将棋具であるとする。ゲームは、従っ
て、大理国から途中、当時ヴェトナム北部に有ったとされる、李氏大越
国を経由しており、その伝来経路は、大理市から、東南東に川を下って、
今のハノイへ出る陸路が、最有力だったとみられる。
 従って、松岡信行氏が指摘するように、今のヴェトナムに、原始的な
日本の小将棋の痕跡が、残って居無い理由を、述べる必要がある。本ブ
ログでは、国境警備兵や武族が、ヴェトナム国内の、経路上に存在しな
いために、兵法としての将棋に、現地のヴェトナム人が、興味を示さな
かったためだろうと、説明した。しかし本当に、西暦1014年時点で、
ヴェトナム北部の、将棋伝来経路上に、兵法と関連性が濃い集団が、そ
の当時、存在しなかったのかどうかを、ヴェトナムの歴史書にて、詳し
く確認した事が、実は私には無かった。
 そこで今回、ヴェトナムの歴史書で、経路上のヴェトナムの1015
年の状況を、少し詳しく調べて見たので結果を報告する。
 結論を書くと、

ヴェトナム北部の、将棋伝来の経路上は当時、言うならば、軍事的緊張
と言う意味で、氷河期の中間の、間氷期の状態であった。そのために、
その時点で、軍事的緊張状態にはなっておらず、”不幸な緊張”を利用
して、豪族化して巨万の富を蓄えつつある、武家集団ができつつある状
態ではない

とみられた。以下に、もう少し詳しく、内容を述べる。
 まず、伝来の経路は、大理国の国境を越えると、当時も大越国の首都
であった、現在のハノイへ、ほぼ真っ直ぐに向かう陸路である。そして、
更に下って、周文裔らが孔雀とともに船積みする、ヴェトナム北部の港
に出たルートとみられる。ここからは、海南島や台湾、沖縄等を通った
としても、基本的に、日本の目的地の博多まで、ほぼ途中停泊無しの、
海路だっただろうと、私は見る。
 従って、大理国原始平安小将棋の情報が、漏れるとすれば、大理国と
大越の国境地帯か、ハノイの近郊だけだ。しかし、大越-大理の国境に、
警備兵はほとんど居なかったと、想像される。そもそも、両国で戦闘が
あった痕跡すらないし、また大理国は諸侯が割拠して、実質群雄割拠状
態だったので、戦えばまとまりの良い大越国の方が、断然有利はずであ
る。つまり、

中央集権化し、当時の国王・李公蘊(リー・コン・ウアン)の力が、
かなり強かった大越国は、適当に見張りをつけておけば、大理国との
境の国境警備は、充分な程度だったと考えられる

と、言う事である。従って、九州の大宰府のような武者が、大越国の
奥地に居たとは、私には考えられなかった。
 次に首都であるが、初代国王の王権が、西暦1014年ころには、
李朝大越の勃興・発展期でかなり強く、比較的中央に権力が集中して、
軍閥や貴族が、王宮に入り込んで、利権をむさぼる”退廃の時代”では、
一応無かったと、みられる。
 そのため、首都に常駐する軍隊の、豪族化や貴族化も、この時代の
大越国には、無く、兵は徴兵制度で集められた兵とされ、金将に該当す
るような武家貴族の家は、ヴェトナムでは、この時点では出現し得無か
ったようである。なお、当時の李朝大越国の首都のハノイは、その少し
前に首都であった、西暦970年頃の華閭のように、”金銀で迎賓館を
飾る”という記録は無く、周りの景観を王族は楽しんでいたとの事であ
る。北宋との関係が不安定だった、やや大理国に似た、10世紀末の、
先代の国王の都を継承せず、別の場所に遷都したため、李公蘊時代の
大越は、大理国とは雰囲気が、かなり違っていたと見られる。
 更にはヴェトナム・大越国の、軍族にとって活躍どころである、外国
との戦争の相手国となったのは、周文裔の出身地である、北宋と、大越
の南にあった、チャンパ王国だったとされる。しかしながら歴史書、
株式会社明石書店、西暦2008年発行で、ファン・ゴク・リエン監修
の、「ベトナムの歴史(中学校教科書)」によると、

北宋との戦争は、西暦981年の次が、西暦1075年~77年

であり、西暦1014年当時は、西暦981年後の停戦が成立して、
北宋との国交が、一時的にせよ正常化した時代だったとある。従って、

ヴェトナム中部には、対チャンパ王国対策の、軍閥の駐屯があっても、
より北部の、ハノイ付近を、周文裔は通過すると見られるので、武芸で
身を立てる可能性の高い、武装集団等と、大理国産の将棋とが接触する
可能性は、ヴェトナムではかなり少ない

とみられた。そもそも北宋との関係が、当時一時的にせよ、良かったか
らこそ、北宋商人の周文裔は、大越国経由のルートで、大理国のゲーム
を、日本へ運んで来られたと考えるのが、自然だと私は思う。
 以上の結果から、たとえ周文裔が、黄金の将棋具をヴェトナム北部で
披露したとしても、暇だからするゲームであるのならば、

ゲームとして面白くなければ、当時のヴェトナム人の興味を、引き出せ
なかったに違いない

と、私は結論した。つまり実際には、周文裔の口車に乗って、石や板等
で、対応する将棋駒をヴェトナム人が作って、やってみると、それは
玉将の周りに、他の成ってできた金がやがて群がって、さっぱり、玉が
捕獲できない、奇妙なシャトランジ様のゲームでしか、なかったと、彼
らには認識されたと見られる。そこで、板に”金将”とかかれた駒を、
イジッて幾ら遊んでみたところで、実際に金塊が手に入るわけでもない
と、当然考えた西暦1014~15年当時のヴェトナム人は、その結果、
大理国の原始平安小将棋には、興味を持続して示す事は、もはや無かっ
たという事だろう。
 以上、前にも述べたが、中間地点のヴェトナム北部に、日本の将棋と
同じだが、ひょっとすると、立体駒で遊ぶようなゲームは、定着しない
のは、当時の、つかの間だが、平和なヴェトナム状況から見て、必然だっ
たと、私は確信するようになった。そして、恐らくその100年位後に、
南宋国から、完成したシャンチーが伝来すると、

シャンチーの方は、ゲームとしての出来が良かったので、ヴェトナムで
も広がった

のであろう。以上のような事が、実際には有ったのではないかと、やは
り私には、結論されたのである。(2018/05/12)

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