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二中歴大将棋、如是一方如此行方准之の一方は各住一方中の一方か(長さん)

これまで何度か述べたが、表題の二中歴大将棋記載末尾の10文字は
難解で、解釈に定説が無い。定説では、誤写による意味不明化であり、
将棋Ⅰの増川宏一氏が、この説を取る。しかしweb内では”後手の
駒の動かし方は、先手と同じとせよ。”との見方が流布しつつある。
”明らかに、そう読めるではないか”との、将棋Ⅰへの挑戦とも取れ
る、ややいらだった主張が、webの該当の記載には、私には感じら
れるほどである。では、このweb上では有力になりつつある、

”対局者の他方のルール説”には、本当に弱点が全く無いものなのか。

これについて、今回は改めて、問題にする事にしたい。
 結論を最初に書く。
webの説は、核心的な点として、”一方”を、平安大将棋の説明部
の最初の方に出てくる、”云玉将各住一方中”の”一方”と、同じ物
を指すという、前提に基づいている。しかし、本ブログでは、二中歴
の平安大将棋の記載は、”又大将棊十三間・・・”というふうに、
”又”で始まっているので、同一筆者が、平安小将棋と平安大将棋を
続けて書いた、続いた文書と、解釈できると見る。だから、

平安小将棋部分で、歩兵の動かし方ルールを記載している、
”歩兵一方不他行”の”一方”こそが、”如是一方如此行方准之”の
”一方”と、同じ内容と考える。”先手と後手の、それぞれの一方”
の意味と見られる、”云玉将各住一方中”の”一方”とは、指してい
る物が全く別

だと考えると言う事である。従って、如是一方如此行方准之を、意訳
すると、

”後手の駒の動かし方は、先手と同じとせよ。”との類の訳は間違い

であり、如是一方如此行方准之は、

”注人は、歩兵が後ろに付いているので、実質的な動きが一方になっ
てしまう。なので、(成りが)歩兵と同じ扱いである”が正しい訳

だと、本ブログは考える。
 では、以上の点について補足説明をする。
 問題は、二中歴の将棋・大将棋では、”一方”が合計3箇所出てく
るのだが、どの”一方”が、如是一方如此行方准之の”一方”と、
内容が同じなのかが、問題だと私は思う。私が、”歩兵一方不他行”
の”一方”が、如是一方如此行方准之の”一方”と、内容が同じだと
考える理由は、

如是と不他とは強調という点で効果が同じであり、また”行”の字が
共通で現われるのは、
如是一方如此行方准之、歩兵一方不他行、云玉将各住一方中、の三者
で、前2者だけ

だという点である。なお”如是”と”如此”はほぼ同じで、二中歴で
は、一回づつ使っているが、どちらか一方へ、web辞書の文例を
見る限り、統一して良いらしい。つまりこうなるのは、

前二者だけが、駒の動かし方ルールという点で、観点が共通だからだ

という事だと私は見る。従って、

”云玉将各住一方中”でも”一方”の語が含まれるのは、単に偶然

と見てよいのではないかと、私は考える。ようするに、著者の癖だっ
たのかもしれないが”歩兵一方不他行”を”歩兵行前一目歩”などと、
表現しなかったために、如是一方如此行方准之は、歩兵一方不他行と
類似内容になった事が、判るだろうと、二中歴の筆者が、読者の読解
力を勝手に期待したのだろう。そして、准之の之(コレ)は、直前の
名詞の”歩兵”を指すのが当然のつもりで、”歩兵”の字も、1回で
済ませた。結局二中歴の筆者は、この最後の10文字前後部分には、
元からこの程度だけ、はしょって書いたのであろう。後に誤写で、更
に字が減り、完全に判らなくなってしまったようだ。つまり恐らく、

注人在中心歩兵之頂行前後如是一方如此行方准之は、
注人在中心歩兵之頂行前後如是行方一方如此成方准之の、例えば誤写
ではなかろうかと、

現時点で、私はかなりはっきりと、断定するのである。(2018/06/30)

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盤双六は、ルールを改善しても本当に蘇らないのか。(長さん)

以前に、将棋型のサイコロ双六ゲームを考案する以前に、それをする
位いなら本家の盤双六に加勢しないと、本家が消滅してしまう、危機
的現状なのではないかとの旨述べた。今回はこの、本家の危機を救う
方法が、原理的に有るのか無いのかを、問題にする。
 YES.かNO.か、回答を先に書く。

自駒を持ち駒にできる逆持ち駒制度や、逆向きに駒を後退できる、駒
の動かし方ルールの変更などが、改善には有効ではないかとみられる。

 つまり

YES.とみる

という事である。そこで以下、どんどん説明を書いていってしまうこ
とにしよう。
 そもそも、バッグギャモンの、ダブリングキューブルール導入の経
緯を読む限り、問題は、チェスや将棋の類に置き換えると、

取り捨て将棋に良く見られる、終盤逆転の可能性の欠如

に問題があるという事のように読み取れる。だから、滅んだ盤双六同
様、バックギャモン自体も、現状はモッていても、”かろうじてだ”
という事になるのではないか。

つまり、比較的面白い一局を、覇者を決める一局にしたとしても、変
化が緩すぎるゲームのために、極めて面白い一局とまでは生り得ない

という問題が残る、やり方だと私は思う。とすれば、本当の解決策の
典型的な手法は、

日本将棋の”持ち駒ルール”を応用する事

ではないか。
 であるから、話を終盤のダレを防ぐ問題に限ると、ともあれ

相手駒をヒットさせたときの、局面形勢変化が、現状よりも大きくな
るようにし、かつ、特に終盤で、増大が目立つように、ルールを変え
るしか無い

とみられる。
 それにはすばり、

ヒットした相手駒を、振り出しの位置に戻すだけでなくて、ヒットさ
せた、自分の駒は、自分で持ち駒にしても良く、次の手番から、1個
づつ、上がりの位置も含めて、相手の駒の無い、自分の駒の居る目も
含めて、好きな升目に、サイコロの出目とは無関係に、0歩扱いで、
打てるようにしたらどうか

と私は思う。つまり、自分の駒だったという意味で逆の持ち駒が有る
ケースには、サイコロ一回振りの自分の手番で、計3個まで駒が処理
出来るようにするという意味である。更に現行バックギャモンは、
24升目制であるが、ルールを変更すると、升目の総数を変えたり、
終局の条件を変えたりした方が、あるいは、良くなるのかもしれない。
 また、駒の数が30というのも、固定して考えない方が良かろう。
初期配列は、むろん更に、工夫が居るだろう。
 つまりたとえば、ヒットした斬られた駒の行方は、現状がベストと
も言えないのかもしれないし、終局のルールも、相手陣内に詰め込め
ば勝ちという、評判の良くない日本の盤双六ルールは、将棋の感覚か
らは逆に、”駒の視界からの消え”が無いため、もっと升目を増やせ
ば良い手になるようにも見えるのである。つまり、”バックギャモン”
というゲーム名が、最善だとは、限らないと言う事である。そして、
逆持ち駒が出来、また升目を現行より、多少多めに変更したなら、

そもそも駒は、サイコロの目だけ、後退して相手駒をヒットするよう
な手も、相手駒に当てる場合だけ、中国シャンチーの砲のように許す
変更を上記の変更とは組にして、導入しても構わないのかもしれない

と、私は思う。
 こうした発想は、駒を動かすという点で、双六といっしょで、更に
双六とは違って、いろいろな駒の動かし方のある、将棋のデザイナー
の方が、気がつきやすく、加勢があれば、将来双六ゲームの改善は、
今より、かなり旨く行くのではあるまいか。
 次にプライム戦術以外の、有効な戦術が生じるようにするには、
こうした、駒の動かし方に関するルール変更が、複数必要だろう。
 ただし、バックギャモンの場合は、個々の駒の、動かし方の
ルールに、成りのルールを導入するとか、複数のバリエーションを
付けるという手は、少なくとも余り複雑なやり方については、存在し
え無いように思える。逆に単純なやり方としては、自分の駒が3以上
の奇数個いる升目からは、駒を踊りのルールで動かしたり、幾つか以
上になるとか、偶数個になるとかすると、相手の駒は跳び越えられず、
その手前まで行くことだけが、許されるとか、逆に奇数だと、中の1
つが、相手に上空を跳ばれると、ヒットされたのと同じ”踊り喰い”
の扱いになるとか、いろいろ考える事は可能である。
 やはり、文献がありさえすれば、だいたい再現が可能と見られる、
特定の将棋種が滅ぶ事よりも、盤双六の方が、現状は孤立的で、明ら
かに、危ないように私には思われる。ので、将棋ゲームのデザイナー
やゲーム理論の専門家は、現時点ではたとえば、何とかなりそうな、
5五将棋や、普通唱導集大将棋を助けるより先に、5500年の歴史
を持つとも聞いている、本当に危ない盤双六を助ける事の方に、実際
には、ある時点で集中した方が、ゲーム史上は、更に良い結果を生む
のではないかと、私は正直思っている。(2018/06/29)

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泰将棋。水無瀬兼成将棋纂図部類抄で延年大将棋と名づけられた訳(長さん)

本ブログでは、25×25升目354枚制の水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄で初出の、”大将棊”を、一貫して将棋六種図式と同じく、
まぎらわしさを避けるため、泰将棋と表記してきた。そもそも本ブ
ログの見解では、泰将棋は、水無瀬兼成自身の作であるため、将棋
纂図部類抄に書かれた

ゲーム名は、作者自身が決めたもの

と、ここでは、解釈(決めてかかって)している。なお作者が特定
できる根拠は、将棋纂図部類抄の行然和尚のまとめ部の、大将棊の
明らかに、原本から、将棋纂図部類抄の編集の間の書き換えと判る、
”後期大将棋から泰将棋への意味の付け替え”のための、駒数
130枚から354枚への改竄である。つまりこれは、

泰将棋発明の依頼主とほぼ断定できる、豊臣秀次の大坂城客間等で、
泰将棋の水無瀬作の将棋具を飾りつけとして使用した際に、施工業
者にも、駒が間違えずに並べられるように、成りの駒種を中将棋ま
でに限ったため

という事である。すなわち水無瀬兼成の、お城への将棋道具の一連
の献上作業の過程で、行然和尚筆文書を改竄すると、水無瀬兼成
にとっては得だったという、固有の”犯行”動機が存在し、

泰将棋の作者が、これによって、みえみえになってしまった

というのが、本ブログの推定であった。なお、泰将棋の玉駒が自在
王なのは、中将棋の成りに変えたための”失敗”を、小手先でつじ
つまを合わせるために、急場手直ししたものである事が、

大将棊畧頌で、玉駒を間違いの”直し忘れ”を水無瀬がしている事

からも、実証できると、更に本ブログでは考える。つまり、余りに
慌てた玉駒変更だったため、大将棊畧頌の方も、玉駒を変えなけれ
ばならないのに、それを忘れたと言う事である。
 では、以上の論が正しいとして、今回の論題は、

こんな後期大将棋と紛らわしい、軽薄なゲーム名を、水無瀬兼成は
なぜわざわざ、苦心の自信作の、25×25升目354枚制将棋に
付与したのか

とする。そこで、何時ものように回等から先に書く。

豊臣秀次が「異制庭訓往来の”多いのは”将棋が、どのようなゲー
ムであるかのが知りたいので、示して見せろ」等と、水無瀬兼成に
依頼したのが、そもそもの、事の始まりだったため

だと、本ブログでは考える。つまり水無瀬兼成の主君の豊臣秀次も、
将棋の歴史の中身に関しては、

当時の学生の初等教科書とされる異制庭訓往来だけは、知っていた

という事になる。
 では、以下に若干の補足説明をする。
 結局の所つまり、泰将棋は、

豊臣秀次の依頼により、
”大将棊”という名になる事が、最初からほぼ決まっていた

と言う見解だという事である。
 こう考えて、矛盾が全く無い事は、水無瀬兼成が将棋纂図部類抄
において、

大将棊畧頌で大将棊を、”延年大将棊”と、更に言い換え、異制庭
訓往来の”多いのは”将棋が、360日という1年の日数にちなん
だ将棋であるという表現と、調子を合わせている事からみて明らか

であると私は考える。
 豊臣秀次は従って、それと名称の紛らわしい後期大将棋に関する
知識は、ほぼ無かったと見てよい。曼殊院の将棋図の後期大将棋は、
少なくとも安土桃山時代に、大阪の街中等では、良く見かけるゲー
ムでは、無かったのだろう。
 中将棋という名称には、殿様も興味が有ったため、後期大将棋か
ら来るものである事を、献上品に15×15升目130枚制の後期
大将棋も加える事によって、水無瀬兼成は、依頼主の豊臣秀次に、
示して見せはした。しかし、そもそも多い将棋とは、一年の日の日
数だけ、駒のある将棋だと、殿様・豊臣秀次は、初等教科書の、
異制庭訓往来等で信じ込んでいたので、水無瀬兼成としても、

泰将棋を大将棊ではなくて、別のゲーム名には、し辛かった

のではないか。そこで、泰将棋のゲーム名は、将棋纂図部類抄では、
大将棊になってしまい、将棋纂図部類抄では、後期大将棋を、
大象戯として、字を少し変えたものの、紛らわしい事には変わり
が無くなってしまったという事なのであろう。

つまり、研究者にとっての都合ではなくて、当時の大富豪の為政者
の考えに、あわせてしまったために、研究者には混乱の置きやすい、
ほぼ同じ名称のゲームが、別種に2種類出来上がってしまった

というのが正体ではないのかと、本ブログでは推定しているという
事である。(2018/06/28)

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草場純氏の江戸中期、盤双六が消滅した説は、その通りなのか(長さん)

今回は将棋の話からやや離れ、盤双六やバックギャモンを話題に
する。前世紀にはインド・チャトランガは四人制から出発したと
いう説がかなり盛んで、結局の所、これはチェス・象棋・将棋型
ゲームが、ナルド系の双六の一種から分岐したという、論の流れ
が強かったという事だと、私は理解している。現在では、実際の
戦時の作戦のシミュレーション研究のための、戦争国間の兵力消
耗のモデル実験が、インドチャトランガの起点とみられ、二人制
がインド・マウカリ国のナショナルゲームとして、西暦650年
頃に伸張したのが、チェス系ゲームの始まりという説が強いと、
私は個人的には、国際遊戯史学会の動きを捕らえている。
 何れにしても、盤双六はインドでは、サイコロ四人制チャトラ
ンガゲームとして、将棋とコンタミになっていた事は確かである。
よって、将棋と盤双六とは、全く無関係では無く、日本である時期
に、双六が衰退したという事実に関する諸説は、将棋研究にとっ
ても、全くかかわりの無いものとも、言い切れないと思っている。
 前置きが長くなったが、そこで、表題の論題に入る。
草場純氏の説によると、webに公開されている部分を読む限り、
終局条件を変えて、土壇場のヒットの頻発性を無くしたのと、

将棋の玉囲いに似た効果を持つと見られる、盤双六の相手駒進行の、
完全ブロッキング作戦というべき”プライム戦術”を、江戸時代の
ある時期に、貴族棋士グループが、禁手にした事が、滅んだ直接的
原因

という事のようである。
 そこで今回の論題は、その通りなのかどうかとした。
 最初に何時ものように、答えから書く。
終局条件の変更の影響については、前の方が良かったことは確かな
のだろう。しかし、これが効いているとすれば、ダブリングキュー
ブ・ルールが無ければ、終局条件の改善は、焼け石に水という定説
とは、つじつまが合わない。よって、終局を早めたからからといっ
て、直接的にそれが、滅亡までには繋がらなかったのではないか。
それに対し、

影響が大きかったのは、プライム戦術の禁手化の方

ではないかと私は考える。
”プライム戦術が、盤双六の衰退に関連する”という論には賛成。
ただし、禁手にしたからではなくて、

それしか、盤双六には優位な戦略が、そもそも無いと、上級棋士に、
その結果、発見されてしまったのが滅んだ本当の原因

の可能性もあると、本ブログでは考える。この場合は、禁手にして
ルール改善し、盤双六を継続しようとしたが、そうすると、他には
特に有力な戦法が無いのに、盤双六の棋士は気がついてしまったと、
いう可能性があるのでは、ないのだろうか。
 もし、盤双六のケースに、禁手にするという方法で、とにかくルー
ルを変えて、卓越した定跡であるプライム戦術を排除した場合に、

代替戦法が、ほぼ存在しないという問題が存在すると、ゲームが
滅亡する決定的な要因になりえる

ように、私には思える。このケースは、プライム作りを禁止にして
しまったために、

盤双六は、絵双六とレベルが類似

になってしまって、江戸時代後期に衰退したのかもしれないと思う。
 では、以下に上の結論について、もう少し詳しく述べる。
 ここは大将棋の歴史のブログなため、それになぞらえて少し、有
効な戦略の喪失という点を考えてみる。前に1300年型の
普通唱導集大将棋が、2枚龍馬2枚角の斜め走り駒による、集中的
な横行位置攻めの後の、端攻め戦術と、それを防ぐための、仲人位
置の嗔猪と桂馬とによる、位取り戦法という形が、強く定跡化して
しまったという問題の現代的(西暦2017年の)解決策として、
横行回りの駒をかなり入れ替えて、2017年型を試作した話題を
出した事があった。その際、それで、2枚龍馬2枚角の斜め走り駒
による、集中的な横行位置攻め・戦法が、成り立たなくなるために、

替わって棒銀、棒銅、棒鉄戦法等が、発生するだろう

と、本ブログでは推定した。つまり、普通唱導集大将棋の場合は、
ルールを変えると、別の戦法が現われて、それを補う可能性が強い
訳である。つまり、ゲーム性に関して、日本の伝統ゲームである

盤双六には、普通唱導集大将棋に比して、”定跡を禁止しても、
それとは別の、それに続く戦法が無い”という、深刻な欠陥が
根本的に存在する

のかもしれないと言う事だと、私は考える。
 今は論を、盤双六に限ったが、ダブリングキューブ方式でシノイ
デいるともとれる、バックギャモンは、将棋史の感覚で言えば同類、
すなわち事実上の、同名称ゲームに過ぎないと、私は見るため、こ
の問題が内在する事に、変わりは無いのではないかと、個人的には
予想する。
 なお駒数多数将棋の場合は、実際の歴史では、鎌倉時代末期から、
大将棋はそのまま放置されて、実質滅び、問題の定跡が発生しない
ような、配列改良をも行いながら、獅子に関する特別な規則とい
う、獅子を巧みに使う事を主な特徴とした、中将棋という、別のゲー
ムが現われて、普通唱導集で唄われた、大将棋に取って代わられた。
それにより、駒数多数将棋が継続するという道を、とにかく辿った
のである。
 現代に於いて、盤双六がバックギャモンに置き換わったのは、
掛け率を上げるという、別の切り口で、ルールを変えた外国のゲー
ムに、中将棋に例えれば、獅子に関する特別な規則を導入して、乗
り切るに例えられるような、策が有った事と、インターナショナル
化による、ゲームマインドの支えが、近代のバックギャモンとして
の復活に、効いているように見える。しかし本質的に、特定の一局
が勝負という、盤双六というゲームが廃れたというのは、それで、
問題が本当に消えた訳でもないように見えるし、そもそも残念な事
だ。
 更に、盤双六の江戸中期の衰退には、余り指摘されないが、次の
要因が加わるのかもしれない。実は、当時日本将棋の方は、将棋の
家の者の、手習い家元制度の、特に都市部での普及もあって、その
時代、日本将棋の戦法が、増加を続けながら発展した時期である。
だから、理由としては、一部でしか無いのかもしれないが、その頃

盤双六は、同じ二人制対局ゲームである、日本将棋に押される傾向
は存在した

と、私は考える。特に、江戸中期に徳川家重、徳川家治親子という、
日本将棋の強い将軍が出現すると、幕府と繋がるゲームの家の者と
いう階層が、存在しなかった盤双六には、一層逆風が、吹いたのか
もしれないと、私は個人的には考えるのである。
 以上で、一応今回の論題の議論は、中途だがストップとしよう。
 ところで話は変わるが、さいきん将棋史のブームも少し復活し、
従来日本将棋や5五将棋には、係わって来られたが、将棋史には遠
いとみられていた、電気通信大学の伊藤毅志研究室で、サイコロゲー
ム型の5五将棋が、さいきん開発されたと、webで私も読んだ。
 もともと5五将棋は、最善手が二番手以下の着手に比べて、評価
値が高い、通常の日本の将棋なため、サイコロで着手を、1/6区
切りで制限して、本当に更に面白くなるのかどうかは、私には謎だ
と私見はされる。持ち駒ルール将棋なため、サイコロ型四人制チャ
トランガとは、持ち駒を打つという手がある分、条件が違うが、

①ともかく、日本の将棋駒は、後ろへの動きが弱いので、玉を動か
す目が出たときには、玉を前に出す。
②多少余分に玉を固めておき、王手が掛かったときには、サイコロ
を振らずに対応手が指せる”上級ルール”の特性をフルに利用する。

といった”卓越した定跡戦法”が、持ち駒ルールゆえも有って、返っ
て存在してしまうのではないか。そのため、5五将棋のサイコロゲー
ムは、

かつての盤双六のようには、ゲームが流行らない疑いが有る

ように感じる。
 個人的には、日本はチェス型ゲームの発祥国ではないと、
松岡信行氏とは異なり、私は見ているので、

5五将棋のサイコロゲーム化よりも、草場純氏から”危機的”と聞
いている盤双六のゲーム研究の方にむしろ、伊藤毅志研究室には
参入してほしかった

のような気がする。前記のように、このままではゲームとして、
チェスや将棋の、数倍の歴史の有る盤双六は、本当に危機なのかも
しれないからである。むろん、どんな研究をするのも基本的に、
研究者個人の自由では、有るのだろうが。(2018/06/27)

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熟語・香象渡河が有るのに、シャンチー象。渡河できないのは何故(長さん)

前に、大大将棋の等の駒である、香象の起源を問題にした時に、
表題の四文字熟語、香象渡河を紹介した事があった。兎と馬と象
とが河を渡るとき、流れが速かったため、兎は最初から流され、
馬も川底が深くなると流されたが、象は丈が高く、重量もあった
ので、川底に足を付けてそのまま渡ったという、元は景徳伝燈録
という、仏教の禅宗の書の、法話から発生した熟語という事であっ
た。すなわち、象のように巨体でがっちりしたものは、世相の流
れに余り流されずに、主張や志を貫徹させるという、たとえとの
事である。
 さてこれが、大大将棋の香象という駒の起源というのは良いと
して、中国の書の言葉であるから、中国シャンチーについて考え
たときに、中国シャンチーの象が、渡河できないルールになって
いるという事と、全く合って居無いという問題が、当然ながら発
生する。ちなみに、岡野伸氏が、中国の諸将棋で紹介しているが、
中国のゲーム史研究家の胡元端の説によると”中国では象は使っ
てならない事になっていたので、士と同様、将を守る駒として、
敵陣には攻め込まないものだったろう”という説があるようだ。
この胡元端の説については、象駒は

使ってはならないというのなら、使わないだけなのではないか

と考える。ので本ブログでは、”今の所胡元端の説は、意味が良
く聞き取れない”との立場をとる。
 少なくとも、中国国内の書で、象を題材に説話を作り出し、そ
れが、熟語にまでなっている訳であるから、象は使えるはずだし、

この説話を知っているゲームデザイナーがシャンチーの作者なら、
渡河できない相/象というルールを、作りづらい事だけは確か

なはずである。にも係わらず、中国シャンチーでは、香象のよう
には、渡河できない事にしたにもかかわらず、シャンチーの相を、
象とも別称する事を、止めなかった訳である。そこで今回は、
この、香象が、景徳伝燈録では兎や馬よりも、渡河しやすいと
表現されているにも係わらず、中国シャンチーの象が、渡河でき
ないルールになってしまったのは、何故なのかとした。
 そこで結論から何時ものように、先に書く。西暦1100年頃

禅宗が北宋南部でしか当時盛んでなく、開封にいたと見られる、
中国シャンチーの作者が、景徳伝燈録を読んでおらず、南宋の
時代になり、中国シャンチーが蔓延してから後に、禅宗や、その
布教書が、南宋域内に普及したので、中国シャンチーのルールを、
後付で変更できなかったため

であると、本ブログでは推定する。
 日本では室町時代より、特に盛んになった禅宗だが、中国では
今でも禅宗の本場は、上海の南の寧波や、香港の北の、広東省の
広州付近だと、私は聞いている。恐らく、西暦1004年頃に、
北宋の禅宗の僧、道原によって著作されたという、景徳伝燈録が
普及したのは、寧波の近くにも、後に元に攻められ、南宋の壊滅
直前時に都であった臨安を含めて、中国南部の都市が大きくなっ
た、南宋の時代になってからだったのではないか。その証拠に、
wikipediaには”景徳伝燈録は、北宋の都の開封からは、
相当離れた所で、著作された。そこで、著作と著作者を報告する
ために、原典を持参して、開封の北宋宮廷に、報告しようとした

本当の著作者は、長い距離経典を、運搬しなければならなかった。

実は、その途中で現在著作者とされている盗賊=道原に、経典は
奪われ、盗賊=道原が、『自分が著作者だ』と、北宋皇帝に報告
したので現在、ニセの著作者の名が伝わっているとの説が、少な
くとも過去あった。”との旨が、書かれている。以上のような事
から開封で、景徳伝燈録の内容が広まるのは、11世紀末の中国
シャンチーの成立の後ではないかと、私には疑われる。そのため、
景徳伝燈録の、兎馬象の渡河話を基に作られた熟語、

香象渡河は、北宋時代の都の開封では、専門の僧は別として、
一般にはほとんど、使われない言葉だったのではないか

と、私は考える。尤も、中国シャンチーが全土に広がりつつあっ
た時点で、南下し上海付近を通過した所で、

”象の不渡河ルールはおかしい”と、南部の中国人から、一応
クレームが付いた

のではないかとも、考えられる。それでもルールが変わらなかっ
たのは、中国北宋の時代に、禅宗の普及に比べて、中国シャンチー
の方が、勢いが有ったからだと思う。だから逆に言うと、これは

中国での禅宗の領土拡大の勢いが、さほど早くはなかったために、
かなりの速度でシャンチーが中国全土に、12世紀になってから、
骨太に広がったという証拠

でもあると、私は考える。華北で充分に蔓延して、金王朝の支配
下でも、構わず指されるまでになってから、華南へも着実に、
中国シャンチーは浸透していったのだろう。しかも、

象の渡河ルールは、オリジナルのゲームデザイナーが調整し、
最初から付け加えていたルールであって、シャンチーの成立より
だいぶんたってから、出来たルールという訳でも無さそう

だ。もしそうだとすれば、中国でも香港付近では、チャンギの象
のように、相/象も、敵陣へ突入できるような、”古いローカル・
ルール”が残っていても、良さそうだが、そのような事を聞かな
いからだ。
 何れにしても、禅宗の普及に遅れてしまうと、象駒は渡河しや
すい事になる。禅宗は言うまでも無いが、朝鮮半島へも、やがて
普及しただろう。だから、この事は、

チャンギの成立の方が、中国シャンチーの成立よりもだいぶん遅
く、また、朝鮮半島への仏教の禅宗の普及の速度が、象棋ゲーム
の伝来速度よりも、逆にかなり速かった

事をも、更に示唆しているのかもしれない。(2018/06/26)

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中国シャンチー。象駒の名称を全部、相にしなかったのは何故(長さん)

中国の近代のゲーム史家の間でも、中国シャンチーの象駒が相になっ
ていない原因について、古くから議論があるようである。岡野伸氏の
自費出版書、中国の諸象棋(改訂版2018年)にも、周家森が、
象棋源流考の中で、その点を指摘していると、紹介されている。
 そもそもゲームの駒の名称は基本的に、適切なものに、幾らでも変
更はできるはずなので、中国シャンチーの象が、現在では、相や箱と
いった名称で伝わっていても、特におかしくは無いはずである。古く
は、欧州のゲーム史研究家により、これがチェス・象棋系のゲームの
起源が、中国では無いと言う、証拠の一つともされた事があるらしい。
 そこで今回の論題は、上記の中国シャンチーに、象が存在する原因
としてみた。何時ものように、答えから先に書く。

大修館書店が2009年に発行した、原宗子著「環境から解く 古代
中国」を読む限り、唐・宋代の中原の知識人は、その時代に身の回り
に象は居なかったが、象とは何者かを、簡単な字典等で知っていたの
で、駒の名前として残った

と、本ブログでは考える。つまり、

中原の中国人も象を知っている。知らないので、象は駒に入らないは
ずだとするのは、誤った認識

と、ここでは考える。知らないのは、古代末~中世では、宮中以外の
日本人の方であったと、考えられるという見解である。すなわち、

基本的に中国は、象の居る国であり、時代が下ると、寒冷化等により
その生息域が減少しただけだと、考えたほうが良い

と私は思う。
 では、以下に補足説明を加える。
 恐らく、欧州のゲーム史研究家には、

縄文海進に代表される、第四期の間氷期の気象変動による、太古の温
暖期に関する知識が、近代もごく最近までは余り普及していなかった

のであろう。そのため温暖な時代には、象が中国の中原に生息してい
たために、中国殷(商)の甲骨文字の時代から、象という字が存在
し、中国人の識字層は、中国中原の住人であっても、唐~宋代に、必
然的に、象をイメージできるように、越南から等の情報に基づいて、
国語教育を受けたものと推定できると、ここでは従って推定する。
 確かに唐~宋期には、今よりやや寒冷でさえあったが、都市部の識
字層には、象が事実上、文字や絵で字書等によって知られている状態
であったと考える。そこで象という駒が、イスラム・シャトランジ等
によって、外国からもたらされると、象と書いた字駒が、当然のよう
に作りだせる状況にあったと、本ブログでは推定する。

象棋の象は、中国では、動物の象も引っ掛けてあったとしても、
定説とは異なり、余り問題が無いのではないのかと言うのが、
本ブログの独自の見解

である。つまり、象棋は、天象の棋経であると同時に、象等の駒を
動かす遊びという意味が、シャンチーの前身と、本ブログでは見る、
イスラムシャトランジに含まれていたために、部分的にせよ、入って
いたと見ていると言う事である。

すなわち、たいへん古い時代の話であったとしても、中国には、漢字
や、その前身の甲骨文字といった文字文化があったために、日本の
縄文時代に消えた生物の情報が、少なくとも、3000年位は、楽々
と保存された

と、その更に1000年後の我々は見た方が、実際には、的確なので
はないかと、疑われると言う事である。チェス系ゲームが、中国起源
かどうかは、従って象という字の内容から判断するのではなくて、中
国シャンチーの、ゲームとしての内容、すなわち下段がイスラムシャ
トランジに良く似ているという点を、よく考証してみるべきだと、
私は考えるのである。(2018/06/25)

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山形県城輪棚遺跡から、成り今または金一文字兵駒が出土した理由(長さん)

出土した年代はかなり以前の1979年頃の事だが、当時平安時代
末期と言われた遺物に、表題の陸奥地方の山形県出土の兵駒がある。
 今では鎌倉時代の駒とされるという話を、webで読んだ事があ
るが、当時はより古い時代の物と考えられた事もあって、歩兵では
なくて、”兵”である事が、問題になったと聞いている。将棋Ⅰの
著者の、増川宏一氏が、”中国シャンチーが日本の将棋の起源”と
言う説にとって、有利との話もあったらしく、それに反対して、
”中国シャンチーの兵駒は、もともとは卒である”等と、論じてい
たようだ。また、純粋日本文化で生まれた将棋とは、別種のもので
あるとの旨の議論も、今でも一部のwebのページには、記載され
ている。
 そこで今回の論題は、山形県城輪棚遺跡の兵駒が、歩兵ではなく
て、

兵である理由

としてみた。
 そこで本ブログの見解を、まず最初に書く。

東北の方言で”歩兵”の音が聞き取り辛かったので、歩兵を兵に
変えただけ

だと、本ブログでは考える。以下にその根拠と、説明をする。
 一番大きな、”蝦夷の象棋存在説”等の難点は、
江戸時代ころの遺跡とされる、宮城県仙台城遺跡からも、

一文字兵駒が、西暦2000年頃に出土している

という点が挙げられる。なお、この兵駒の成りは”と”で、城輪棚
遺跡とは多少の違いが有る。表の兵の字は、どちらも達筆で、良く
似ている。
 なお、私が知る限り

他の地方からは、日本の将棋の一文字兵駒は、出土していない。

以上の事から、東北地方では言葉の関係で、歩兵という駒が、使い
にくいのではないかと、まずは予想できた。
 そこで、1992年に明治書院から出版された、現代日本語方言
大辞典(平山輝男・代表編)の、東北地方の方言の概要を、調べて
みた。仙台市については、都市化して、訛りが薄まっていて、近年
では、必ずしもそうではないのだが、歩兵(ほへい)は、東北地方
の方言では、すこし時代を戻すと、総じて

短く”フォフェ”

の発音になるようだ。つまり、音として

何だか聞き取りづらい駒名

だという意味である。
 これは、ハ行の東北近世方言に、鎌倉~室町期の日本語の発音、
ファ・フィ・フ・フェ・フォが、残っていたという事と、非拍方言
と訳される、シラビーム化で、”ほへい”の”い”の字が消えるた
めという事らしい。なお、兵だけだと、

”フェー”に近い音となって、ようやく意味が判るようになる

らしい。特に後者については、私も親戚に、昔から東北人が居るの
で、”らしい”は、ほぼ余計なように思える。以上の事から、
鎌倉時代にも江戸時代にも、表題の遺跡付近には、

東北訛りのある、典型的な日本人の先祖が住んでいた

とみる。ようするに聞き取りづらくて不便だから、歩兵を兵にした
だけで、鎌倉時代に異人が居たり、中国シャンチー系を指す異文化
があったとは、少なくとも断定はできないように思う。
 以上の事から、五角形の形で、日本の将棋の特徴そのものだし、
東北の別の場所から、江戸時代の類似の駒が、今では発見されてい
る。更には、他の地方で今の所、同じような遺物の出土の例が無い
という事なので、山形県の城輪棚に、鎌倉時代に、鎌倉幕府の支配
する文化とは、別の文化が存在した可能性は、かなり薄いのではな
いかと、本ブログでは疑っているという事である。(2018/06/24)

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埼玉県久喜市の鷲宮神社を調査した(長さん)

前に、埼玉県加須市の東武伊勢崎線花崎駅付近にある、小山義政の
祈祷寺、円満寺へ行ったとき、小山義政が、小山義政の乱で残した
遺物が、社宝として保管されているという、看板が存在するという
話をした事が有った。小山義政に関連する遺物として、栃木県小山
市神鳥谷曲輪遺跡の、出土将棋駒、裏一文字金角行駒があり、彼の
遺物が有りそうな場所は、元より調査する必要があると見られた。
所で、加須市の花崎駅付近の円満寺の社宝以前に、小山義政に関し
ては、表題の埼玉県久喜市の、鷲宮神社の太刀の方が有名である。
そこで最近、その鷲宮神社に調査に行ってみた。実際に、鷲宮神社
に行って感じたが、小山義政の

太刀が良く残っていたものだと、大いに感心させられた

ので、以下にざっとだが報告する。
 東武伊勢崎線の鷲宮駅の北200m位の所に、いわゆる久喜市の
鷲宮神社があり、神社の前鳥居は、下の写真のような様子で、久喜
市では、一番大きな神社とみられた。実際、建物は有名な割には、
やや小ぶりだが、敷地が広い大きな神社として、今もしっかり残っ
ている。

鷲宮神社.gif

参道に立て看板が下の写真のようにあり、社宝として、小山義政奉
納の太刀が存在した事を、文面より、明らかにトップで掲げている。

鷲宮太刀.gif

なお、上の写真では、左隅に切れて写って居無いが、小山義政と
小山よし姫が、”神社が七回倒壊したときに、社殿を建てる費用を
出して再興した事”等を記した、棟札を含めて古い記録も、この神
社には残っている事が、この立看板には書いてある。
 そこで、今は市のコンクリの建物である、埼玉県久喜市郷土資料
館にこれらの史料は有るにしても、元々置かれていた、宝物殿の類
はどこかと、神社内を見て回ったのだが、

宝物を置くような建物は、もともと無い

ようだった。つまり、8回目以降の災害に対し、そう堅固には見え
ない社殿に、もともと小山義政の太刀は、保管しあったのだろうが、
盗難、自然災害等で、久喜市の資料館に、置かれるようになったと
みられる42年位前からは別として、その前の

1376年~1976年までの約600年間、良く無くならずに、
今に伝わったものだ

と、私には痛く感心させられた。なお神社の近くの電信柱に、

カスリン台風で、水が、おとなの胴の辺りまで、浸水した記録

が、赤いビニールテープを巻いた形で残されていた。戦乱で盗まれ
ないにしても、この辺りも関東平野の低地なため、川の氾濫等で、

鷲宮神社が8回目か9回目に、倒壊したときに、小山義政の太刀も
流されて、消えてしまう恐れも、充分に有ったように思えた

のである。なお、見回してもこの辺りには、一時的に宝物を非難さ
せることが、可能と見られる

小高い山等は、特に見当たらない。

昔有った山を、平らにして住宅地にしてしまった話は、埼玉県には
良くあるとの旨も、他所で聞いているので、昔も”鎮守の小富士山”
が、ここには無かったとは、断言は出来ないのではあるが。
 そういうわけで、この神社の周りの地表を、今更見回しても、数
百年前の遺物が散乱しているという可能性が、薄いと感じられたの
で、私は、神社の横の林道も含めて、ざっとみた後、ここは引き上
げる事にした。
 実は、鷲宮神社というのがもう一箇所、ここの東2km強程度の、
JR宇都宮線の東鷲宮駅の北の、久喜市八甫という所に有ると、地
図に出ていたので、そちらにも抜かり無く、今回は行ってみた。こ
ちらの鷲宮神社は、東武伊勢崎線駅前の、いわゆる鷲宮神社よりも、
かなり小ぶりで、町外れにある普通の小さな神社という感じである。

八甫鷲宮.gif

久喜市の建てた看板によると、室町時代に鎌倉公方が作った、鷲宮
神社の分社という事らしい。境内には、瓦がまとめて片付けてあっ
たが、近代の普通の瓦であった。また、庭石の小ぶりの物が、山の
ように積まれていた。これらも、普通の庭石のようであった。その
他には、やはり地表を見ただけでは、この分社にも、何も無いよう
だった。なおこの地域には獅子舞が残っていると、立看板には書か
れていた。何れにしても、南北朝時代に、小山義政が亡くなった後
の分社の為、こちらの方は、将棋とは特に関連が無さそうであった。
 なお、この両方の鷲宮神社の間の道すがらに、久喜市郷土資料館
の、やや小ぶりのコンクリの建物を見かけた。太刀は”写し”だと
言うので、今回は、場所を確認しただけで、中には入らず、私は素
通りした。七回倒壊後の再興の棟札も、写真位は、あるいはここに
は、有るのかもしれないが。旧鷲宮町史、あるいは鷲宮神社社史
といった成書にも、同じ写真が載っていたように、私は認識してい
たので、本物で無いなら、見なくても良いのだろう。何れにしても、
元が南北朝時代と古いため、”日光街道沿いに、小山義政の宝物の
史料館が存在し、『写し』を置いている”という話は、今の時代の
話だけだとは、断言できないように私は思う。昔は、誰でもそれが
見れるという訳には、恐らく、なかなかったのかもしれないが。
(2018/06/23)

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一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒の歩兵・香車が細長く、縦4cmの別解釈(長さん)

前回述べたように、戦国時代の出土駒である、一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒
では歩兵と香車の形が、現在の日本の将棋とかなり、形が違い、細長く
なっている。前回は、”最下段にある香車の、駒文字を縦長にする事に
より、初期配列で、玉将から香車までの、字の横並びの高さを、合わせ
る効果があるのではないか”と述べた。今回は、同じ論題にして、

別解を考えた

ので、以下述べたい。別解を先に回答として、書いてしまうことにする。

歩兵と香車が横に動けないのを、駒を長くしてルールまで表現したもの

と考える。
 今は、前回よりこちらの方が、やや優勢と考えている。では、以下に
経過を述べる。
 前回は、表題の一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒だけを考えたが、当然の事な
がら、同じ戦国時代出土駒である、滋賀県の観音寺城下町遺跡の出土駒
や、歩兵や香車に縦長の駒がある、鎌倉時代末期の新安沖沈没船出土駒
(東福寺難破船出土駒)も良く調べてみた。

以上の3箇所の出土駒について、桂馬は全体として、銀将より縦横とも
小ぶりの傾向が有る

事が判った。最下段で少なくとも桂馬は、駒名の横のラインが揃わない
のである。更に、滋賀県の観音寺城下町遺跡の出土駒では、玉将の縦の
長さが、金将~桂馬よりも、更に大きくなっている。だから観音寺城下
町遺跡の出土駒では、最下段は玉将と桂馬の駒名が横に並ばない。

よって、香車が縦長なのは、少なくとも観音寺城下町遺跡の出土駒では
最下段の駒名の横ラインを揃えるために、そうしたのでは無さそう

であった。なお、観音寺城下町遺跡の出土駒では、一乗谷朝倉氏遺跡将
棋駒と異なり、歩兵が横幅が無いのは同じであるが、縦の長さが香車駒
より、短い傾向がある。歩兵は列が違うので、もともと、どのように変
えても、前回の議論には、影響が無いのにも、このとき私は気がついた。
 更に新安沖沈没船出土駒でも、桂馬が、金銀よりもやや小さいのは
観音寺城下町遺跡の出土駒や、一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒と同じである。

また、香車が2種類あり、他の遺跡と同じような傾向の香車と、桂馬よ
り、縦横とも大きな香車が1枚出土

している。

鎌倉時代末期には、戦国時代や現代とは異なり、車駒としての香車の価
値が、朝鮮チャンギ等も知っている棋士に、多少強めに認識されていた、
可能性が強い

とみられる。
 これらの事から、歩兵と香車が、戦国時代の遺跡等で、縦長の物が出
るのは、

駒の動かし方のルールが、横に動けず、縦、正確には前だけである

事を、駒の形で表現したためとも、取れそうだ。ただし、桂馬の駒の大
きさには、ばらつきがあるし、香車と歩兵の縦の長さを、玉将と同じ
くらいにしているという特徴が、一乗谷朝倉氏遺跡の出土駒に、ある事
は確かなので、昨日の結論も、完全否定はできないかもしれない。
 何れにしてもその結果、成った状態で、成り金の

元駒が何なのかは、戦国時代の駒の方が、今のよりもむしろ形だけで
判断しやすかった

事は、確かなように思えた。香車の形が使い勝手から、今のように、単
なる小振り駒に変わったとき、成り金の元駒が、裏を見ただけで判るよ
うにするために、

崩し金の書体を変える事を、戦国時代末期から安土桃山時代の初めにか
けて、我々の祖先は改めて考え、その結果、現在の成り金書体に到達し
て、落ち着いた

のかもしれないとも、思うようになったのである。(2018/06/22)

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一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒。香車が細長く、駒皆4cm長の訳第一案(長さん)

戦国時代の都市遺跡と言われる、一乗谷朝倉氏遺跡より、日本将棋と
朝倉小将棋のゲーム用が混合したとみられる、200枚弱の将棋駒が
出土している事は、著名である。
 駒は総じて厚みが無く、材料自体は安価に見えるが、形のばらつき
や、字体が崩れたものは余りなく、表題に書いたように駒形について、

歩兵や香車が、玉将、飛車角に比べて、縦が短くなく横が狭い、
細長い形に調節されている点が、特徴の一つとして存在する。

なお一般には、駒の数がまとまって居る事、成り太子酔象が、日本
将棋用の駒に混合して出土した事で、ここの遺物はさらに著名である。
 話を元に戻すと、今回の論題は、今述べた駒の形と、厚みの無さの
理由の特に主なもの、としてみた。回答を何時ものように先に書く。

出土駒は、実用性も無いとは言えないが、初期配列の形に並べて、
目立つような所に、飾りとして置かれる事が、しばしば有った

ものだからだと、私は考える。現在、同じような物を、天童市の将棋
道具関係の商店の店先で、見かけるける事が有るが、

当時は、一乗谷は将棋の街のイメージも、有ったのかもしれない

と私は考える。何らかの呪術の聖地の雰囲気を、かもし出しているの
かもしれない。では以下に、このような結論が、どのように導かれる
のかについて補足する。
 ポイントは、

駒の種類によらず、縦の長さを揃える利点は、いったい何なのか

という点を説明する事である。すなわちそれは、
看板を兼ねた将棋盤に、初期配列に駒を貼り付けるように置いた時に

駒の字の横のラインが揃う

という事なのではないかと、私は思う。現在の日本将棋の駒は、全体
として、玉・飛車・角から始まって、金、銀、桂、香、歩に向かって、
大きさを縦横とも小さくしているので、下の字で揃えても、上の字が
でこぼこになる。しかし、上記の順で大きさを、一乗谷朝倉氏遺跡の
大部分の駒のように、横だけ細くして縦をそのままにすれば、

駒の2文字が、最下段でも揃う

という特徴は出る。すなわち駒の縦の長さを4cm弱で

揃える効果は、初期配列で駒を並べたときの見栄えで特に発揮される

と言える。そもそも、一乗谷朝倉氏遺跡の出土駒は、基本的に現在の
将棋駒と、同じルールで使われるものなので、成りは金一文字で表さ
れる事には、今と同様変わりは無く、ゲーム途中の局面で、

今の駒と比較しても、縦の長さをそろえたメリットが、有るとは特に
は考えにくい。

むしろ、と金や香車の成り金は、横へも動けるので、イメージがズレ
る。つまり、一乗谷朝倉氏遺跡の出土駒には、ゲームとしての実用性
も、有るにはあるのだが、当時その都市に存在した、何らかの宣伝用
の商店の店先の飾りとか、呪い行事に使う各家庭の玄関先の飾りとか、

将棋盤の上に、初期配列で将棋駒を飾り、何らかの集客効果や、縁起
物としての効果を狙った、飾り用を兼ねた物品がたまたま、ここで、
多数出土している可能性も、否定は出来ないのではないか

と私は思う。
 以前私は、この遺跡の駒を見たときには、廉価品を効率良く作るた
めに、長さは、複数枚の板を一度に切断できるようにして、工程を
簡略化するためのものなのかと、考えた事もあった。
 しかし、この考えでは、横の幅が連続的に、玉・飛車・角・金>
銀>桂馬>香車>歩兵と狭くなっていて、手が混んでいる事が、余り
うまく説明できない。大量に駒木地を作るならば、

同じ駒種類をまとめて作れば良いだけなので、長さを揃えている説明
としてやや不足

と考えるようになった。また、前回のように、厚みが一定の駒ばかり
が、この遺跡からは出土しているため、木製の本格的な将棋盤を使う
実用的駒としては、もともと、貧弱感がある事にも気がついた。
 従って、将棋盤も板状の簡易的なものにして、多少色でも塗り、そ
の上に、たとえば

祭祀用の朝倉小将棋の初期配列に並べた、出土駒を並べた飾り物

が一乗谷朝倉氏遺跡の都市にはあっても、余りおかしな話でも無いと、
考えるようになってきた。
 なお、一乗谷朝倉氏遺跡以外には、たとえば例として、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、裏一文字金角行駒も、角行にしては、
やや小ぶりで、細長いという

特徴がある。この駒も、初期配列で並べて飾る用途で、小山義政か、
その少し前の当主の、小山朝氏が、誰かから贈答されたものなのかも
しれない。こちらの方はそうだとすると、本ブログの言う、江戸時代
の再生復刻物として、出土現物が作られた時点で、駒の原寸が、小山
市の廃寺青蓮寺等に、記録としてまだ残っていた可能性が強く、かな
り重要な知見だ。
 何れにしても、細長く厚みの無い出土駒を見かけたときには、これ
からは、陳列用を一応は疑ってみようと、私は考えるようになった。
(2018/06/21)

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