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ひょっとして朝倉小将棋の玉駒は全部、王将1/玉将1型なのでは(長さん)

少し前に述べたが、最初は双玉型であった日本の将棋は、恐らく
東海~関西にて、ひょっとすると西暦1252年の、宗尊親王の
鎌倉将軍就任直後に、王将1/玉将1型へ、当時の大将棋から最
初に、切り替わったものかもしれないとの事であった。
 ところで、本ブログで言う、当時の西暦1260年型の大将棋
や、普通唱導集大将棋は、成り太子酔象が、玉将または推定
王将の前の升目に置かれるという点で、既知の小将棋類である、
朝倉小将棋と同じである。この事は、ひょっとすると本来

朝倉小将棋は、ゲーム性の追及の結果、発生したものではなくて、
大将棋に酔象が加わった経緯の模倣、又は小型・お手軽品の作成

に過ぎなかった可能性を、示唆しているようにも見える。なお、
本ブログでは、

歩歩歩歩歩歩歩歩歩
口角口口象口口飛口
香桂銀金玉金銀桂香

という配列で現わされる、9×9升目42枚制朝倉小将棋は、
室町時代の謡曲「文禄本幸若(舞)信太」として、玉以外を全部
敵陣に、繰り出す戦法が示唆されたものが存在するため、取り捨
てで指される場合もあると見ている。が定説通り、持ち駒ルール
で指された場合も有り、持ち駒ルールの有無に関しては、混在と
の見方を、現在は取っている。
 問題は、将棋史の成書にも、だいたい皆書かれているように、
持ち駒ルールだと、玉駒である、玉将、酔象が、互いの存在のた
めに、リサイクルされてしまうという点である。定説では、
朝倉小将棋は日本将棋に比して、その点が難であり、普及度が
その分劣っただろうと、見られているわけである。
 他方本ブログでは持ち駒ルールの、成り角行猛豹入り小将棋が、
江戸時代の草創期に、徳川家康の保護を受けているにも係わらず、
釈迦への信仰が異常に厚い、将棋者三家の、”将棋の関連者は、
誰なのかを、深くせんさくしてはならない”何者かによって考案
され、実在するとみているため、この46枚制変形朝倉小将棋の
様子から、持ち駒ルールで、並みの朝倉小将棋を指すとき、

玉将は取り捨てだが、成り太子酔象はリサイクルルールであった

だろうと、現在独自に考えている。それでルールは安定いていて、
後奈良天皇の詔で、無理に廃止する筋合いが、無かった疑いも有
ると、言う見方をするのである。実は、今回の表題のように、
朝倉小将棋の玉駒は全部、王将1/玉将1型だとすると、

玉将と王将の所有は固定なため、玉将/王将だけ例外的に取り捨
てルールで、プレーしやすい

という利点が当然出て来る。そのため、西暦1252年の、宗尊
親王の鎌倉将軍就任直後に、当時の大将棋から切り替わった、

王将1/玉将1型について、そもそも朝倉小将棋では、それが
ルールで決まっており、完全に固定であった疑いもある

のではないかと、私は考える。逆に言うと、王将1/玉将1型
が普及するのに、龍と釈迦への信仰および、将軍は頼りにならない
という鎌倉時代の思想の入った廉価版将棋である、朝倉小将棋の
存在が役立ったし、

小将棋を双玉型で頑強に指していた所へは、朝倉小将棋が入り込
み難かった

という事さえ、あったのかもしれないと、私は疑う。
 事実、今の所

成り太子酔象は、その時代に双玉型であった地域からは、まだ
出土していない

と私は認識する。つまり、興福寺の酔象は不成りで、別の将棋用
だと、少なくとも本ブログでは見ているし、上久世駒は京都府な
ので双王将地域。一乗谷朝倉遺跡の酔象は、言うまでも無く王将
1/玉将1型地帯。江戸期の本郷元町遺跡の酔象も、江戸時代な
ので、関東でもその時代は、王将1/玉将1型地帯である。
 今後、成り太子酔象駒は、更に出土するだろうが、その時代の

双玉地帯で、この駒が全く発見されないようだと、王将1/玉将
1型将棋の普及要因については、朝倉小将棋の存在が、主な理由
という、重大な結論が、得られる可能性も充分に有り得る

のではないかと、私は期待している。(2018/06/12)

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