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鶴岡八幡宮出土の成り奔王鳳凰駒。なぜ歩兵と大きさが同じなのか(長さん)

以前、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮にて、西暦1980年前後に
出土した、5枚の将棋駒のカラー写真の載っている成書を、最近
綿密に調べてみた。前から気がついていたのだが、自身も歩兵よ
りは強く、かつ成ると、奔王という大駒に成る、鳳凰駒が出土し
ているのだが、他の駒に対する大きさが、余り顕著に大きくない。
今述べたカラー写真に載っていて、今回調べた「よみがえる中世
 武士の都鎌倉」(西暦1989)㈱平凡社。網野善彦監修、
(原広志氏が”さまざまな遊び”で出土将棋駒を解説)によると、
カラー写真の鳳凰が、歩兵よりも、幾分小さく見える。天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒に、駒の長さが載っており、歩兵と同じ
なはずなので、ものさしを当ててみると、目の錯覚も含まれる
ようであり、大体同じ長さが、確かに正解のようだった。
 そこで今回は、この比較的強い駒である、鎌倉鶴岡八幡宮出土
の駒の中で、鶴岡八幡宮出土の成り奔王鳳凰駒が、大きく作られ
て居無い理由を論題にする。
 最初に何時ものように、回答から書く。
この駒は、後期大将棋用だったので、鳳凰・麒麟・獅子がそれよ
り袖の小駒、悪狼、嗔猪、猛牛に合わせて、歩兵並みに作られて
いた。他方、最下段の駒と、奔王列の駒は、全体として、鶴岡八
幡宮出土の、鳳凰、歩兵駒より、長く作られ、特に出土しなかっ
た玉将や奔王は、鳳凰よりも幅も有って、かなり大振りだったと
予想される。
 では、以下に上記の結論に至る、説明を加える。
 まず、もしどんな条件ならば、大きな鳳凰が作られたのかを説
明する。もし

中将棋の駒だったとしたら、実際の長さ2.8センチではなくて、
角行並に3センチ以上に、長く作られたはずだ

と、私は考える。
この駒は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、鶴岡八幡宮出土駒
の4番の歩兵と、3番の香車とは恐らく組物であり、

装飾用に作られたもの

なのではないかと、私は考えるのである。つまり装飾用に、

列が同じなら、駒の字が一線に並ぶように、大きさが調節されて
いるフシがある

という事である。だから、もしこの鳳凰駒が中将棋の駒だとした
ら、袖の方に有る、角行に合わせて、長く作られていたはずだ。
ところがこの駒は、後期大将棋の駒であったため、袖には上記の
歩み駒しかなく、そのため並んでいた、獅子と麒麟と共に、陳列
した際の

見栄えから、小駒の大きさに、実用性を無視して調整されていた

のではないかと、推定するのである。つまり結局、鶴岡八幡宮に
存在する事になった、この後期大将棋の装飾品は、仲人と歩兵と
獅子と酔象の段の駒は、全部歩兵とほぼ同じ、長さ約2.8セン
チ前後に調節され、他方、奔王と玉将の列の駒は、共出土した、
不成り香車のように、3.2センチないし、それより少し大きめ
の長さにして、

装飾品としての形を、整えていた疑いがある

と、私は思う。つまり、やはり

この鳳凰は、後期大将棋の駒なのではないか。

 なおこの出土駒の埋葬年代は、定説では南北朝時代から室町時
代の早期とみられている。少し前に中将棋、前後して後期大将棋
と摩訶大大将棋が成立したと、本ブログでは、この時代を将棋史
上は見る。すなわち前に、埼玉県児玉郡美里町広木上宿近くの寺、
大興寺や、摩訶池関連が疑われるとして本ブログで紹介した、鎌
倉公方が、足利氏満、足利満兼、足利持氏の時代という事になる。
 さて「よみがえる中世 武士の都鎌倉」にカラー写真が出てい
た結果、私には新たに判った事について、次に述べる。

駒の木地の色が良く判り、鳳凰駒と似ているのは、天童の将棋駒
と全国の遺跡出土駒の鶴岡八幡宮出土駒の、4番の歩兵である

ことが、まずは良く判った。同書の2番の歩兵は、色が少し黄味
である。2番の歩兵と、駒名の良く判らない5番の駒は、鳳凰駒
とは、別の将棋駒セットである可能性があると、私は考えるよう
になった。残りの3番の駒だが、「よみがえる中世 武士の都鎌
倉」にカラー写真で出たおかげで、墨が消えながらも、下地が白
く残って、

香車の、特に”香”の字が、浮き上がったので、香車だと、判断
できた事

が、この成書のおかげで、私にも良く理解できた。裏面もきれい
なようだから、恐らく

3番の駒は、不成り香車と考えられた

のであろう。そこで、色は黄味がかっているのだが、水無瀬兼成
の、将棋纂図部類抄の後期大将棋の成りと矛盾しないので、私は
この3番の不成り香車も、4番の歩兵や、1番の鳳凰同様、後期
大将棋の同一駒セットと、みなす事にした。その結果、上記にの
べた通り、

3番の不成り香車駒の長さが3.2センチとやや長いので、最下
段の中央駒の玉将は、少し鳳凰よりも大振りだったのではないか

と、個人的に想像するようになった。
 むろん、たまたま駒木地の形の、出来の悪い駒が捨てられたと
いった事情で、上に述べた事が起こっているとしたら、鳳凰駒が、
中将棋の駒であるという仮定も、この程度の知見では、完全には
捨てられないのかもしれない。
 以上で、今回の論題の説明はだいたい済んだ。その他2点、以
下蛇足として述べる。
 まず、大阪電気通信大学の高見友幸氏が”奔駒ではないか”と
述べられている、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の鶴岡八幡宮出
土の5番の駒は、個人的には、少し以前から

成り不明の歩兵駒ではないか

と、私は天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真から、考えていた。
つまり、5枚のうち3枚は、歩兵なのではないかと言う事である。
今回、「よみがえる中世 武士の都鎌倉」にカラー写真で、この
駒をカラーで見たが、5番駒”表面”の各所の墨の色の違いから、

本物の墨跡は、駒上部のト印だけのように私には、やはり見えた。

このト印は、別の歩兵の歩の字の最初の2角と、形がいっしょで
あるように、私には思える。よってこの駒は、やはり歩兵なので
はないかと、私は更に、疑うようになったのである。

一番穏やかな解釈であり、失望を引き起こす説

なのではあろうが。
 なお今回紹介した成書、「よみがえる中世 武士の都鎌倉」
(西暦1989)で、原広志氏が”さまざまな遊び”で出土将棋
駒を解説しているが、それによると、この”謎の5番駒”は
”飛車成り金将”で、裏面が、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で
は、表面として、紹介されているという事らしい。なお、私には
定説表面の、良く判らない模様が、飛車のようには、個人的には
どうしても見えない。
 もう一つ、蛇足を述べる。
 4番の歩兵は、いかにも1番の鳳凰と色がいっしょなので、同
じ駒箱に入っていた将棋駒という感じを、私には抱かせる。が、
実はこの駒は、

不成り歩兵の疑いが有る。

裏に墨跡は無いのではないかと、疑われるという事である。
つまり、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、後期大将棋のルールは、
”歩兵も不成りである”という点を含めて、

水無瀬兼成の言い分が、完全に正しかった疑いがある

と、今回よく調べてみて、私は後期大将棋に関して、思うように
なった。
 蛇足は、以上の2点である。
 何れにしても、鎌倉鶴岡八幡宮の出土駒は、境内内の地下に有
るとみられる水脈のおかげで出てきた、奇跡の出土品とみられる。
だから将棋史上は、最も希少な史料の一つとして、注意深く見る
べき物品だと、私には以前に増して痛感させられる。(2018/07/31)

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後期大将棋(各々65枚大将棋)は二中歴成立の時代には作れない(長さん)

本ブログでは後期大将棋は、室町時代前期頃に成立したと考えている。
しかるに最近、大阪電気通信大学の高見研究室のブログで、後期大将棋
が、平安大将棋よりも早くに成立したとの旨の、主張が始まった。言う
までもなく、どう遅くても西暦1220年以前には、成立していたとみ
られる二中歴に、高見研究室と同じ認識の”片方34枚制の平安大将棋”
のルールが詳しく記載されている訳であるから、もし、高見研究室の意
見が正しいとすると、片側65枚制の後期大将棋は、平安時代末には、
成立してしまう事になる。前に、同様の議論を、木村義徳氏著の”持駒
使用の謎”に関連してした事があり、二中歴の時代には、大将棋は平安
大将棋を骨格としたものだったので、”廃れた平安大将棋”をわざわざ
書く”学術界の強化のための道義的責任”等が無い事を根拠にした。
しかし、そのときに65枚制後期大将棋の成立年代の室町前期説を、
ここでは強調はしなかった。実は本ブログではバラバラに、後期大将棋
は室町時代前期成立説との見解を述べているのだが、

後期大将棋自体が、南北朝時代まで無い根拠を、1ページにまとめた事
が無かった

ように記憶する。そこで、今回は、後期大将棋が室町時代前期作と鑑定
される根拠を、直接的に論題とする。
 最初に要旨からずばり述べる。

猫叉、悪狼、猛豹の3駒が、室町時代の成立と、本ブログでは推定する

からである。
 そこで以下に、以上の観点に関して、解説を加える。
 その将棋の成立年代を推定する上で、

構成される駒種の名称が、何時の時代から存在する物品・概念等なのか
は、大いに参考になる事柄

だと、本ブログでは考える。
その時代に存在しない名称の駒種があれば、その将棋種は、それより後
の成立だと推定できるだろうと、ここでは考えていると言う事である。
 本ブログではずばり、

後期大将棋の成立時にに初めて加わった、その時代最先端の駒名は、
猫叉、悪狼、猛豹の、実質的に3種類と断定

している。このうち、文献が揃っていて、二中歴の成立よりも、
後期大将棋の方が遅いと明らかに推定できる、根拠が最も明確な駒は、

猫叉

である。猫叉は”猫亦”として、

藤原定家の明月記が初出

だからである。藤原定家は、ほぼ二中歴の時代の貴族である。この頃
やっと現われる猫叉が、平安大将棋よりも早いはずの後期大将棋に、
もしそうだとすれば、有るはずが無い、つまりもし、最近書かれた
高見研究室の、日本の将棋に関する進化フロー図の通りだとすれば、

後期大将棋に猫叉駒が有るはずは無い

と、本ブログは考える。猫叉がよりはっきりと現われる次の文献は、
鎌倉時代末の徒然草であり、それ以降に、後期大将棋は成立したと考
えるのが、本ブログの、従来からの見解である。
 更に本ブログでは、悪狼は猫叉と同系統の妖怪であり、

悪狼は鎌倉時代末の悪党の洒落

だとみている。だから、この駒も、二中歴の成立である鎌倉時代早期
よりも、ずっと後に出来たの駒であると見る。また、

猛豹は室町時代の辞書で現われる、猛将の洒落

と、本ブログではみる。猛将を猛豹にしたのは、次のような経過とみ
る。もともと中将棋で存在する盲虎に加えて、そのメスとして、猛豹
を鉄将の前に置いた。だが、中将棋では角先が堅行に当たっていて、
それから堅行が、逃げられるようにするために、鉄将自体を除き、
猛豹を引く配列結果となった。そしてそのときに”獣駒が将駒と並ぶ
のが不自然だ”と棋士からデザイナーは非難されたが、豹を将の音に
類似と洒落て、デザイナーがお茶を濁したのが通ってしまったという
のが、本ブログの、猛豹の正体に関する推定である。だから猛豹は、
南北朝時代に発生したと、ここでは中将棋の成立年代の定説通りにみる。
つまり65枚制の後期大将棋は、その猛豹を後で取り込んだものなの
で、92枚化した中将棋より発生が後と、考えるのである。よって以上
の事から、後期大将棋は、南北朝時代に成立した初期中将棋の後の、
恐らく室町時代前期頃発生と、本ブログではみなしているという結果
になるという訳である。
 以上のように、

後期大将棋に、鎌倉時代末期から室町時代前期にかけての猫叉、悪狼、
猛豹、以上の3種駒があるというのが、平安時代末期には後期大将棋
はまだ無いと考える、最大かつ最も判りやすい根拠

だと、ここでは考える。
 なお以上の鑑定結果は、本ブログの私的なものである。他の鑑定
行為を拘束する意図が無い事を、テレビ番組の”開運何でも鑑定団”
のテロップと同じパターンで、予め表明しておきたい。
 最後に蛇足だが。ここで使っている”後期大将棋”という名称は、
近代になって、二中歴の大将棋と区別するために、付けられた名称で
ある。古文書では、二中歴の大将棋も、片側棋士65枚制の後期大将
棋も、単に”大将棋”と称され、

これらの2種類の大将棋は、同時には一文書に現われないという特徴

がある。
つまりこの点で、上で取り上げた2種類の大将棋は、平安小将棋と
日本将棋との関係に類似で、適当な日本の将棋種2種類間の関係とは
違っている。このため単純な見方をすると、高見研究室の論で行くと、

片側65枚制大将棋(=後期大将棋)は、西暦1200年前後に一旦
片側34枚制平安大将棋に置き換わった後、将棋纂図部類抄の安土桃
山時代までには、また復活した

ことになる。摩訶大大将棋のブログには、上記の事情の説明が、まだ
表明されて居無い点が、気になるところだ。よって高見研究室の、日
本の将棋の変化に関する御研究の更なる継続と発展を、本ブログでも、
大いに期待する所である。(2018/07/30)

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拾遺和歌集によると10世紀知識人クラスは象を知っていたらしい(長さん)

前に、酔象が日本に輸入されなかった原因の一つとして、大宰府の
武者や博多の写経の僧侶が、11世紀に象を知らなかったためとの
旨を、本ブログで書いた。北宋商人が、彼らに象を説明する手間が
面倒で、平安小将棋に本来有ったはずの酔象は、右銀将に取り替え
られてしまったというのが、本ブログの考えである。当時朝廷に、
贈呈されて存在したとされる、掛け軸の絵程度でしか、日本人には
象が知られていなかったと、今まで私は認識していた。
 さて最近、大阪電気通信大学の高見研究室の摩訶大将棋のブログ
に、和歌文学で名高い、表題の拾遺和歌集に”将棋史に関連した和
歌が載っている”との旨の書き込みが最近なされた。
 そこで、私も急遽1350句前後ある本題の和歌集を、ざっとだ
がチェックしてみた。その結果、驚いたことに、11世紀に編集さ
れた和歌集だが、象が載っている和歌が、あるのに気がついた。
 西暦950年頃に、物名に詳しい貴族の輔相(すけみ)という、
和歌で有名な人物の読んだ句で、390番という番号が、拾遺和歌
集関連の成書や、webの紹介ページ等には付いている。次の句で
ある。

怒り猪の石をくくみて噛みこしは象の牙にこそ劣らざりけれ

なお、この象は、”きさ”と読むらしく、この場合”きさのき”は、
”象の牙”と材木の”黄今の木”とを、引っ掛けた(何故引っ掛け
るのか、私には不明)という事らしい。
 言うまでも無く、10世紀の日本の貴族の中で、特に物品に詳し
い、和名類聚抄の編者にも、なれそうな貴族クラスの人物には、象
がどのような姿であるかが、はっきり判っていた事を、証明する、
象の顔を知っている、日本の古代末期の貴族の句だと見られる。
 だから、将棋道具を、北宋の商人のたとえば周文裔が、大宰府の
輸入品検査の下役人、大宰府警護の武家、輸入品経文の写経僧といっ
た、象を知らない、一般的な日本人には目に付かないように、こっ
そりと直接、後一条天皇に渡せる条件だったならば、日本の将棋に
酔象駒は、欠ける事が無く最初から存在した、と言うになるのだろ
うと私には、この句を読んで推定された。なお、”きさのき”は、
11世紀の当時の歌会のときに、主催者が、御題として別の機会に
選択した事があるとの旨も、表題の和歌集の別の所で判った。
 結局私が、拾遺和歌集を読んだ範囲では、今の所、上記の1句と、
”きさのき”関連のみが、将棋史関連和歌として、リストされた。
 大阪電気通信大学の高見友幸研究室のブログには、拾遺和歌集で
注目している句がどれなのか、書いてないので私には、良く判らない。
この輔相(すけみ)の句とはたぶん違うのだろうが、こんな句も、
確かに将棋伝来時代の表題の和歌集には、載っているようである。
(2018/07/29)

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二中歴大将棋の書写者。なぜ桂馬を書き忘れ、誤記したのか(長さん)

現代に残る、二中歴の大将棋の記載には、最下段の初期配列に、誤
記がある事で有名である。玉将から、片側を袖に向かって書くと、
本来、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車の、7枚のはず
だが、玉将、金将、銀将、銀将、銅将、鉄将、香車となっており、

銀将がだぶっていて、桂馬が抜けている。

ただし、二段目の配列を説明する際に、飛龍の位置の説明に桂馬が
現われるので、正しい配列が、容易に推定できるとみるのが、今の
所定説だと私は認識する。
 今回は、二中歴の書写者が、このミスをしてしまった原因を論題
にする。
 回答をまず、いつものように先に書く。
 二中歴の書写者が、平安大将棋の駒の動かし方ルールを、強い駒
の動きを初期配列に皆書き加えたときに、全体として、陰陽道の
五芒星の形になると認識していたので、

桂馬はだいたい端列の駒と、書写者は認識するクセがあった。

そのため、最下段の最後から2番目が桂馬でなく、鉄将と書いてし
まってあっても、

不自然感が彼個人には感じられず、桂馬が無い間違いを見落とした

と本ブログでは推定する。
 以上について、以下説明する。
 まず二中歴の初期配列説明図の間違いであるが、著者の三善為康
そのものが間違えた可能性も、ゼロではないだろう。しかし、その
証拠は全く無い。今の所、江戸時代の前田藩の書写の時代までには、
誰かが誤写したとしか言いようが無いだろう。だが、間違いの内容
からみて、平安大将棋に玉・金・銀・銅・鉄の将駒が有る事が、
書写者の平安大将棋に対するイメージとして、強く存在する事は、
ほぼ間違いないと思う。
根拠は、将駒を、本来より増加させてしまっているからである。
 つまり、間違えた書写者は、

中世の知識人一般と同じく、陰陽五行説の信者だった

と推定できる。将棋盤は、四角形であり、五行には角数が一つ足り
ない。しかし、仮に相手の方だけ玉将を後退させて、四角形盤を、
トポロジーの理論風に連続的に正五角形まで変形させると、平安大
将棋では、
①相手の横行の駒を厳密には一歩後退させた後に動かした動きの線、
②味方の飛龍の駒の動きの線を少なくとも、連続させて伸ばした線、
③味方の桂馬の駒を厳密には一升目袖に移動させて、端列に置いて
から、駒の動きの線を少なくとも、動きを連続させて伸ばした線、
の、

以上①から③の五枚の駒の動きの線で、五芒星型が作れる、跳び駒
走り駒の、駒の動かし方ルールになっている

のである。以上のように、二中歴の平安大将棋の書写者は、平安
大将棋の、初期配列上の、強い駒の動かし方ルールの俯瞰図を、
元々理解していたのではあるまいか。
 なお、上で②の飛龍は、角行動きと仮定すれば、その線がそのま
ま対角線だし、後の踊りの飛龍の動きと、異説のように仮定しても、
同じ方向に動かす手を連続して、6回繰り返すと対角線になる。
 ここで、間違いの元だったのは、③の桂馬の同一方向6回動きで、
相手の玉将の升目近くへ到達する、動きに関してだったとみられる。
つまり、桂馬を予め隣接した香車の位置に持っていってから、桂馬
の動きを内側に6回連続させると、玉将の位置に来るので、五芒星
型の一要素となる訳である。が、以上のように、書写者が二中歴大
将棋の初期配列に駒の動かし方ルールを、重ねて書いた図を俯瞰し
た結果、

桂馬は”端列駒の類”と、曖昧に誤認識してしまった

のではないか。そのため彼は、二中歴の大将棋の初期配列の、最下
段を書写したときに、玉・金・銀・銅・鉄の五行を強調したために、
うっかり銀をダブって書いてしまった上に、桂馬を忘れてしまった
のだが、後で見直したときに、

桂馬が端列駒だと、イメージしていたために、端から2番目が桂馬
になって、い無いという事に、うっかり違和感を抱かなかった

のではないかと推定される。そのため、桂馬の落としを見落として
しまい、二中歴の大将棋は、以降誤写され続けてしまったのでは
あるまいか。
 なお、この書写者の平安大将棋の大駒、跳び駒の駒の動かし方ルー
ルが作る、五芒星図形に対する全体イメージは、恐らく平安大将棋
のデザイナーと、いっしょで、正しかった可能性が強いと私は思う。
 恐らく、二中歴に記載された、平安大将棋の作者は、相手の横行
の動きと、2枚の飛龍、2枚の桂馬の連続で、五芒星型を作るよう
な、駒の動かし方ルールに、実際にしたのではないか。これは、二
中歴に記載された、平安大将棋が、平安時代の西暦1110年頃に、
陰陽寮関係者、たとえば安倍晴明の玄孫の陣頭指揮によって、原案
が作られたと本ブログで前に指摘した事と、良く一致する。ちなみ
に、西洋の星型と、現代人に考えられている五芒星は「吉川弘文館、
西暦2005年出版”文字と古代日本4 ”神仏と文字、平川南・
栄原永遠男他編 執筆者 山里純一氏 Ⅰ-2呪符の機能」によれ
ば、”日本の陰陽道に独特の記号であって、国内では呪符に書かれ
た記号として、多数出土するが、中国には無い”という。つまり
平安大将棋の駒の動かし方俯瞰図から、五芒星をイメージできると
いう点で、間違えた

書写者と平安大将棋デザイナーとは、信仰する宗教が恐らく同類

なのではないだろうかと、私は考える。
 なお、以上の仮説は、平安大将棋が定説通り、間口13升目、
奥行13升目の正方形升目ゲームであるという仮定が、前提とな
っている。最近、大阪電気通信大学の高見研究室のブログで、これ
とは異なる、

間口13升目、奥行き10升目の平安大将棋の仮説

が出されている。奥行きが10升目だと、相手の横行き走り、味方
の飛龍と桂馬の動きの連続で、五芒星状にはならない。
 今後、この高見研究室の新説については、どの程度の賛同者が現
れるかについて等、本ブログでは、注意深く見守ってゆきたいと考
えている。(2018/07/28)

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五色宝塔出土の埼玉県児玉郡美里町広木上宿遺跡は足利氏満関連(長さん)

本ブログでは、表題の五色宝塔は、西暦1380~1397年の小山氏
の乱、すなわち小山義政の乱、小山若犬丸の乱関連の、相手方白幡一揆
の武者の、戦死者追悼法事用具だろうと見ている。白幡一揆を南北朝時
代の特に末期に構成していた猪俣党等の地縁武家の居所、美里町猪俣等
にも近い地点の出土という点が、既に挙げた主な根拠であった。なお
美里町広木は、別の武蔵武士児玉党の住居、本庄市児玉町児玉にも近い。
 その後、webや児玉郡美里町町史等に、表題のような別の根拠が、
存在する事が判った。すなわち、

西暦1380年から82年頃の小山義政の乱と、それに続く西暦138
6年頃から97年まで続く、小田氏の乱、小山若犬丸の乱の、鎮圧者と
して知られる、第3代鎌倉公方の、足利氏満関連の寺が、児玉郡美里町
広木には有る

と、記載されていたからである。
 寺は、五色宝塔の出土した、広木上宿遺跡の南約700mにある、

大興寺という、禅宗系の寺らしい。

この寺の開山者は、webによると陽嶽元照と言い、足利氏満とも入魂
で、鎌倉公方の足利氏満は後に元照に帰依したと、webの大興寺の案
内に記載されている。しかも開山が、小山城へ、小山若犬丸が攻め込み、
足利氏満が出動した、小山若犬丸の乱の主要な戦闘や、小田孝朝を鎌倉
に留め置いたのちに、足利氏満が、茨城県笠間の小田氏の山城を攻めた
小田氏の乱の頃と、ちょうど同じ頃の、

西暦1387年に戦死の配下の白幡一揆の戦士を弔うためのような開山

だという。元々大興寺を中興開山しようとしたのは、その門前に住んで
いた公家の、小倉元英の運動で始まったという。しかし、実際に大興寺
が開山される11年前に、小倉元英は亡くなったと、美里町史にはある
ようだ。恐らく鎌倉公方の足利氏満が、陽嶽元照を開山者として、寺を
発足させたる活動を、引き継いだのであろう。
 なお、陽嶽元照は密教僧も兼ねており、1381年~1384年には
関東地方が、日照りの旱魃であったといい、雨乞いの儀式を行って、雨
を降らせる”活躍”を、同じ足利氏満の依頼で、してもいるそうである。
元照は当時は、現在の埼玉県本庄市(旧)児玉町小平の、成身院に居た
らしい。奇しくも、栃木県ではその頃、小山義政の乱の最中で、雨乞い
を頼んだ鎌倉公方の足利氏満が中心となって、討伐が行われている所だっ
た。陽嶽元照は雨乞いの合間に、本庄市・児玉町の、南北朝末期時代の
白幡一揆の戦死者を弔う活動も、恐らくしたに違いない。なお、大興寺
には、雨乞いの成功から名声を得た陽嶽元照が、朝廷から名僧として物
品を贈呈され、それが今でも寺に、宝物として残っているという。
 なお五色宝塔は、大興寺とは別の寺、宝山寺の境内内だと、私は聞い
ており、その当時、五色宝塔出土の寺も、かなり立派なものが、建って
いたとの史料が、風土記稿に有るという。こちらの寺の名前宝山寺は、
前に紹介した、㈱平凡社出版の”埼玉県の地名”(1993)に載って
いた。

なお”宝山寺”は、足利氏満関連寺の大興寺の北700mの所に有った

ようである。足利氏満に属する、小山氏の乱の討伐隊の白旗一揆のため、
1982年の小山義政の乱では宝山寺に戦死者を埋葬したのだが、小山
若犬丸の乱が1386年~97年にかけて更に起こり、宝山寺だけでは、

戦死者の安置が足りなくなったので、足利氏満が、実質的に後援者とな
って、1387年に大興寺を作った(実際には中興した)

ように、どう見ても私には見える。
 なお、かなり古い地名らしいが、

宝山寺のある遺跡の北側に”摩訶池”という、摩訶大大将棋を連想させ
る池が、更にある

そうである。この池は、普通の埼玉県の道路地図にも載っている。
 この池は、今まで登場しなかった、3番目の寺、常福寺というのが、
旧宝山寺の南西数百メートル、足利氏満の大興寺の北北西200m位の
所にあって、その寺の奈良時代の開山者、空興上人が、”摩訶般若経の
秘術をもって、出現させたもの”だと伝わっているという。この池は、
米作りの灌漑用のために、古くからあるものらしい。だから実際には、
室町時代の前期あたりに、第5代の鎌倉公方の、足利持氏等の号令で、

西暦1420~30年頃に、灌漑整備が行われた池

なのかもしれない。
もしそうだとすれば、本ブログの見解では、摩訶大大将棋が成立した頃
であり、池の名前が、その摩訶大大将棋というゲーム名の、引っ掛けも
含まれる事も、にわかには否定できないように、私には思える。
 何れにしても、埼玉県児玉郡美里町の広木上宿周辺に、第3代鎌倉公
方の足利氏満が、西暦1386年~1397年の小山若犬丸の乱の頃に、
鎌倉から見ると、支配地域のほんの一部であるはずの、そこの住人のた
めの行政サービスを、恐らく北関東の当時の合戦の主要な戦力という事
情から、かなり重点的にしていた事は、ほぼ確かなように私には、個人
的には思える。(2018/07/27)

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室町時代前期、関東申次役の公家、西園寺家縁者が角鷹を発明した(長さん)

以前、鷹狩りの勃興のイメージから、中将棋の龍王と龍馬の成りである、
飛鷲と角鷹は、戦国時代の1500年頃より少し前に、発生したのかも
しれないと、述べた事が有った。その際には、幾つかの文献は当たった
が、中世の鷹狩りの”一時的な衰退”について、明確に書かれている
書籍が、実は私には発見できていなかった。
 最近、少し前に紹介した、”人と動物の日本史4 信仰のなかの動物
たち”のシリーズ本で、吉川弘文館から2009年に”人と動物の日本
史2 歴史のなかの動物たち”(中沢克昭編)という本があり、その中
に、

中世における鷹狩りの一時的な衰退について、より詳しい記載が有る

のを私も発見した。結論を書くと、
表題の、公家で、鎌倉時代から室町時代にかけて、関東申次役を代々世
襲した、西園寺家は、

足利義満の時代には、鷹狩りをしていた

と記載されていた。つまり、結論を述べると

武家政権は平安時代末から、室町時代には鷹狩りをしなかった。戦国時
代に室町幕府は、鷹狩りをし出した。しかし、公家の一部が鷹狩りをし
て、獲物を皇族に献上するという儀式を、室町時代前期にしていた

と記載されていたのである。従って、

西園寺家が鷹狩りをする習慣を見た、自身も公家と疑われる中将棋の
デザイナーは、西暦1430~50年頃には、飛鷲、角鷹を発明できる
可能性が強い

と結論できた。
 では、以下に以上の論について、説明を加える。
 まず、この本には、
西暦1100年頃には、仏教の殺生禁止思想が広がり、公家が狩をしな
くなった、と記載されている。なお、大切な事は、ここで狩とは、
弓矢等で、鹿や猪を狩る狩り(獣の巻狩)、弓矢等で雀を狩る(鳥の巻
狩)、笠懸や犬追いを指す。貴族の鷹狩りについては、後世の絵画等に
は描かれているものの、はっきり記録が無い時代が、平安時代1100
年頃から1380年頃まで続いたようだ。
 次に、武家の狩について、鎌倉時代の源頼朝から、鎌倉時代の北条時
頼までは、弓矢等で、鹿や猪を狩る狩り(獣の巻狩)をしたとする。
ついで、鎌倉時代末の北条高時から室町時代の足利義政までは、弓矢等
で雀を狩る(鳥の巻狩)をしたと、紹介している。その間室町幕府は、
笠懸や犬追いもしたという。つまり、武家は狩はしたのだが、

皇族の遊戯の象徴である、鷹狩を幕府はしなかった

と、書かれていたのである。しかし戦国時代に入ると、室町幕府の足利
義晴は、前に調査の通り、鷹狩りを開始する。だから、

武家の幕府を見る限り、鎌倉時代早期から、室町時代には鷹狩りは無い
と見て、正しかった

のである。しかし、これだけなら、
飛鷲と角鷹は、戦国時代の1500年近くにならないと、作れなかった
はずだったのだが。室町時代の1380年頃に、朝廷と幕府のパイプ役
の公家、西園寺家が鷹狩りをしていたという記録が、上記成書に紹介さ
れていた。つまり、もともと中将棋は、以前述べたように、発明される
と実際に指す騎士が主に、藤原氏の末裔の貴族であったはずだから、

西園寺家の鷹狩りを目の当たりに見ていた、自身も恐らく貴族の中将棋
のデザイナーが、西暦1300年代(14世紀)の末から西暦1400
年代(15世紀)の初めに、角鷹(くまたか)と、飛車角の対を連想し
て、飛鷲という駒名を考え出す事は、思ったよりは困難ではない

と、私には思えるようになってきた。元々、中将棋では、飛車は端筋か
ら3列目の歩兵後ろ升目に移され、角行が、1段下げられて、飛車角が
動きで縦横と斜めの違いだけで対である点が、強調されるようになって
来ていた。更に、その成りが龍駒で統一され、ダメ押しに龍王と龍馬の
成りが、飛と角の付いた対駒、飛鷲と角鷹に遅くても1450年頃にな
ったのかもしれない。すると、

飛車と角行が、小将棋に取り入れられる条件は、西暦1425年から、
1450年の間には、揃ってきていた

のかもしれない。あとは、右に縦横駒を、左に斜め動き駒を、1枚づつ
入れる習慣が、摩訶大大将棋より、取り入れられるのが待たれるだけだっ
たのだとも、上記の成書を読んで、私にはイメージされるようになって
きたのである。(2018/07/26)

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和名類聚抄の”珍賓”リストと将棋将駒とは類似(長さん)

前に述べた通り、10世紀、西暦938年頃成立とされる、和名類聚抄
には、将棋という項目が無いという事で、良く知られている。双六こま
等ゲーム器具の名を、そのゲームとは別に別項で記載しているのが、
百科辞典として類似の、和漢三才図会や古事類苑と、少し違うところだ
が、そこにも五角形の駒は記載されていない。先行研究は、高見友幸氏
の考察等幾つかあると見るが、”術芸”の所で、将棋を疑わせるという
議論で、今の所、成功した例は無いと、私は見ている。
 ところが、和名類聚抄には、全く別の場所だが、宝石・貴金属のリス
トが並んでいる、”珍賓”という項目がある。10巻物と20巻物とい
う、版で分類名に違いが有り、より原版に近いと見られる和名類聚抄の
10巻物では、分類名が”八.珍賓”となっていると言う事である。
 ここで問題なのは、その項目でリストされている中身であり、

主な物を一言で言えば、平安大将棋の将駒の玉と貴金属リスト、および、
鉛と錫と、水銀と、ほぼ表現できるものである。

なお厳密に言うと、玉については和田玉以外に真珠が載っており、貴金
属には、そのものと、その貴金属の屑という項目が別に有る。最後に、
オマケのように、”貨幣”を珍品に含めている。また、和田玉と真珠の
玉2種類に続いて、水晶、瑠璃、雲母、珊瑚、琥珀、瑪瑙といった、鉱
物が書かれてもいる。ただし、和田玉までが”珍賓”のメインのように、
大体は見えると思う。そこで今回は、なぜ、
この和名類聚抄の”珍賓”リストが、将棋、特に大将棋の将駒の玉・貴
金属と、主な内容の中身が近いのかを、論題とする。
 回答を最初に書く。
 中国北宋商人の恐らく周文裔が、本ブログで西暦1015年の年初と
推定される時期に、九州の博多経由で、結論的には朝廷の、後一条天皇
に贈呈した、原始平安小将棋(8升目32枚制、象省略型)の将棋具は、

代表的な”珍賓”と認識して、北宋の周文裔が日本側に引き渡した物品

だったためであるからだと考える。なお、彼が珍賓と見た、他の贈答品
に孔雀が居る事は、藤原道長の日記等に、実記録が残っていると、認識
する。
 では、以上について以下少し、補足する。
 まず、和名類聚抄の分類”八.珍賓”に書かれた内容であるが、その
ものと屑とを、区別しないとすれば、”主力”は、

金、銀、銅、鉄、鉛、錫、水銀、玉(の類計2種類)

と、私は認識する。鉛と錫と水銀を除けば、

将を付けると、平安大将棋の駒になる。
従って、素材が木ではなくて、玉将はこのケースはネフライトの彫り物、
金将および、各駒成り金は純金の彫刻品、銀将は純銀の彫刻品という
黄金の将棋具が、もし実在するとすれば、

和名類聚抄が、中国語の翻訳辞典だと見なせるため、日本人が見ても、
北宋の商人が見ても、その将棋具は代表的な”珍賓”そのものである

ことを、和名類聚抄には確かに示されているのだと、少なくとも本ブロ
グでは考える。たとえば周文裔が、日本側に珍賓を引き渡そうと物品を
捜索した場合、和名類聚抄の中身が、中国人にとっても常識だったとす
れば、

金、銀、・・・玉が素材の物品しか、彼の頭の中ではイメージしないと、
ほぼ断定できるという事を、示している

のではないかと私は思う。つまり、珍品として珍鳥の孔雀しか、西暦
1015年の年初に、持ってこないと言う事は、

前年春の、日本の内大裏の火災による、貴金属の熔融欠乏が、そもそも
交易の動機とすれば、ほぼ有り得ない事

であろう。何らかの金、銀、・・・玉が素材の物品が、西暦1015
年に、博多経由で、内大裏の住人である後一条天皇に、中国からもたら
されたというのは、ほぼ自明であると言う事なのではなかろうか。なお、
大鏡の記載から、それが、例としてコマが挙がる”遊戯具”に、分類さ
れる物である疑いが、非常に大きいと考える。
 一般的認識では、藤原氏全盛時代に取引された”唐物”というと、多
彩だが、従って、

”珍賓というカテゴリーに限定すると、玉、金、銀、銅、鉄が代表であ
る”と記載されたに等しい、和名類聚抄のこの情報も、我々将棋史家に
とって、相当に重要

なように、私には見える。なお、玉以降の記載を除いた貴金属の記載、

金、銀、銅、鉄、鉛、錫、水銀・・は、貨幣を除けば、言うまでも無く
化合物ではなくて元素

である。もし、五行説にこだわらずに、和名類聚抄に、「この世界は、
金、銀、銅、鉄、鉛、錫、水銀等の根源元素が化合して、出来上がって
いる」と書かれていたなら、現代の世界の科学技術界にも、驚きの目を
持って見られていたことだろう。不思議な話があるものである。
(2018/07/25)

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中将棋の盲虎の成りの”飛鹿”の鹿は、”奈良の鹿”(長さん)

前に、現行のように、獅子・奔王・玉将以外の駒が成る、成り駒の
多い中将棋での成り駒のうち、盲虎の成り駒の飛鹿は、中将棋の成
駒成立時に、全く新たに考えたものであろうと述べた。その際、
中将棋の成立が、鹿に関連する地域でなされた事を、示唆するのか
もしれないと、本ブログでは指摘した。
 そのときには、具体的な場所は、特に示さなかったが、鹿と言え
ば、奈良県奈良市の鹿が有名というのは、自明ではある。従って、
中将棋の成立は、奈良県奈良市ゆかりであろうと、言ってしまった
のと、その時点でほぼ同じだったのだが、最近、根拠となる史料が、
幾分あるのに、私も気がついた。
 成書で次の物に、

藤原実資の日記等に、奈良の春日神社の鹿が、神の使いとして記載
されている等の情報がある

のである。文献名は、次の通り。
 吉川弘文館発行(2009)。”人と動物の日本史(4)信仰の
中の動物達”、中村生雄・三浦佑之編。第Ⅱ編神仏と動物、(一)
神となった動物達。小島瓔禮著。
 上記の書の小島瓔禮の記載によると、藤原実資の日記「小右記」
に刀伊の入寇のあった、西暦1019年の2月10日の所で、
藤原定頼と共に春日神社へ行った某武者が、鹿を射殺した話しを聞
き「古い伝えに春日神社に参る人は、鹿を見る事を吉い徴とする」
と、たぶん揶揄したように、記しているという紹介がある。その
武者が罰せられたかどうかは、私には良く判らない。
 更にその2番目の例として、藤原宗忠の日記「中右記」で、
西暦1104年11月10日の所で、”春日神社や興福寺で、鹿を
見たことを大吉祥とする”と書かれているとの紹介がある。
 また3番目には、藤原頼長が日記の「台記」で、1148年9月
25日の所で、”夢に鹿を見たのは吉祥であり、春日神社の加護で
ある”と記載しているとも紹介されている。
つまり、平安時代の藤原氏は、鹿は鹿でも、いわゆる”奈良の鹿”
には、大いに注目しているとの事のようである。
 ところで言うまでも無いが、

春日神社や興福寺は、藤原氏の関連宗教施設として著名

である。”春日神社の加護”と藤原頼長が書いているが、春日神社
に祭られた藤原氏の先祖が、藤原頼長を守っているという意味に、
当然取れよう。つまり、

中将棋を南北朝時代に流行らそうとするとして、ターゲットとなる
ゲーマーを、藤原氏の末裔に絞るとすれば、奈良の春日大社にちな
んだ、いわゆる”奈良の鹿”駒を選択するというのはうまいやり方

である。ようするに、子孫への遺言が目的の「平安時代の藤原氏
の日記」の、3つに”奈良の鹿”が記載されて居る事から見て、
中将棋に存在する動物駒として、鹿もあるのが当然という事になる。
3名の”奈良の鹿を信仰する、平安藤原貴族”の大先輩が居る訳で
あるから、陰陽道等、神仏宗教のの雰囲気が色濃く付いた、中世の
新しい駒数多数将棋である中将棋に、もし

不足があれば、”鹿”駒から加えるというのは、当然の選択だった

のかもしれない。逆に言うと、中将棋が成立した時代に、

中将棋のデザイナーにとって、それを指してくれそうなユーザーは
貴族で、しかも南北朝時代の籐氏系の上流階級の人間が多いという
点が、恐らく、初めから当たり前のように判っていた事

だったのであろう。そう考えないと、実際には

中将棋の成りのルールについて、全く混乱が有ったような痕跡が無
く、そのまますんなり、このゲームが流行ったのは何故なのか

を、説明し辛い事だけは、確かだと私には思われるのである。
(2018/07/24)

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”関東地方の中世城館、埼玉千葉”千葉についての木製品出土確率(長さん)

前回、城跡の井戸跡類から、木製品はどの程度の確率で出土しているのか
についての調査結果を示し、全体の城の数%程度であると述べた。その際、
文献として以下の物を引いた。

西暦2000年発行。㈱東洋書林。村田修三・服部英雄編。
関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉の埼玉編。
調査 埼玉県・千葉県教育委員会

この文献で、埼玉県についての104城を調べ、木製品の出土について、
言及しているのが4城あるとしたのだった。他方文献の名称の通り、

千葉県についても載っているので、調べないで素通りするのも、どうかと
思い、千葉県についても、この文献の内容を読んでみた。

結果を最初に書くと、

千葉県の教育委員会の、城跡に対する上記の調査文献では、埼玉県よりも
遺構遺物に関する記載が不十分で、本来ある10分の1程度に記載が減る

事が判った。前回述べたように、
埼玉県については、104の城が記載され、50位の城について、出土
遺物が、”関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉”には書いてあり、木製
遺品の出土遺跡が4~5箇所であり、将棋駒は騎西城の1箇所である。
 それに対して、千葉県教育委員会の記載は、

出土遺物について、上記の文献では記載がぞんざいであり、出土していて
も記載が無かったり間違いだったりして、9割位落ちている模様であった。

すなわち、
千葉県については、200程度の城が記載され、たった10位の城につい
て一般出土遺物が、”関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉”には書いて
あり、木製遺品の出土遺跡が1箇所書いてあり、将棋駒が出土した、千葉
県佐原市大崎の大崎城については、木製出土遺物については、書いてない。
なお、佐原市の大崎城では”成り金銀将駒”が出土したと、天童の将棋
駒と全国遺跡出土駒には書いてある。
 以上で、言いたい事は、ほぼ言い尽くされているが、千葉県で木製遺物
が、関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉に書いてある場所だけでも、以
下紹介しよう。
 それは、

千葉県鋸南町の保田駅東の、鋸南保田インターチェンジにある下ノ坊館跡

との事である。漆器の椀が出たようだ。
 他方、佐原市の大崎城については、”成り金銀将駒”が出土したはずだ
が、この城については、出土遺物の記載は、関東地方の中世城館(2)埼
玉・千葉では、なんと木製出土品について、現場の報告書等を、教育委員
会が見逃したらしく、

陶磁器だけ

になっているのである。つまり天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にはある、
木製出土遺物の成り金銀将駒が、落ちているのだ。
 つまり、千葉県の城跡が200記載されているので、遺物は100箇所
位から出ているはずだが。関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉の埼玉の
ようには、千葉県のパートには、正確に書いてないのである。実際には
10箇所程度の城跡についてのみ、出土遺物を言及している。ので、

千葉県教育委員会の文献記載は、実際には出土遺物のある遺跡数の約1割
程度が、”関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉”に記載されたと予想

される。
 埼玉の場合は、50箇所の遺物出土の紹介のうち、木製遺物は数箇所だ
った。他方千葉の場合は、

10箇所程度の遺物出土の紹介のうち、木製遺物は1箇所だから、
割合としては、一応埼玉といっしょ

だ。木製遺物:総遺物比がだいたい1:10だという点については、ひょっ
としたらやはり、日本全国、何処でも余り、違わないのかもしれない。
 他方、日本の中世に、関東の中心都市だった鎌倉市の遺跡からは、将棋
駒が複数出土している。この現実を、たいへん幸運だったと、我々は見る
べきだったのかもしれない。つまり、鎌倉市は地下で、木製遺品が腐り難
い都市だったのだろう。
 また、中世に関東には八屋形と言われる、八氏の豪族が居た。神鳥谷曲
輪で裏一文字金角行駒を出土した、小山氏も、そのひとつである。

八屋形しか豪族は、中世に居無いので、関東では豪族の館から木製将棋駒
が出土する確率は、出る城が百分の一だと、もうほとんど見込みが無い

のかもしれない。実は、鎌倉市の千葉氏の鎌倉住まいの館から、金将らし
き駒が出土している。しかし、他の豪族の居所から、”大将棋系の高貴な
者の持つ遺品”が出る確率は、もともと低いため、関東における史料の増
加はもはや、かなりきびしい状況のようにも見える。やはり、

一度将棋駒が出た実績のある、小山城群の発掘が再開されたとなれば、そ
こに集中して、更なる史料の出土を期待するのが本筋

なように、今回の調査を通して、私にははっきりと、イメージされるよう
になってきている。昭和の公民館の跡地らしいので、公民館建設のときに
だいぶん、今回の現場は擾乱を受けているのだろう。小山市には、井戸跡
がもしみつかったら深く掘って、木製遺物を発見してほしいものだと思う。
(2018/07/23)

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城跡の井戸跡類から、木製品はどの程度の確率で出土しているのか(長さん)

前に”埼玉県に関して今の所、将棋駒の遺物が騎西城の一箇所でしか
見つかって居無い”との旨、このブログで紹介した事があった。発掘
は各所で行われているから、騎西城がかなり、稀少な例である事は、
漠然と判ると思われるが、今回はもう少し、稀少の程度を詳しく調べ
てみる事にした。
 以下結論を先に述べる。
城跡の遺跡から、

木製品が出土する確率は、騎西城のある埼玉県を例として、計数調査
をすると、数パーセント

程度である。恐らく

城で将棋を指す確率は、平均に比べてやや低いのであろう。木製品が
出ている遺跡で、将棋駒の史料が出土する確率は、さらにその数分の
一程度

である。つまり、

約100城調査して、1箇所の割合

である。
 以上について、何時ものように以下に、もう少し詳しく説明する。
 文献として、以下のものを調べてみた。

西暦2000年発行。㈱東洋書林。村田修三・服部英雄編。
”関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉”の埼玉編。
調査団体 埼玉県・千葉県教育委員会

 上記書に、埼玉県の発掘調査城跡として、だいたい104の城が
記載されていた。恐らく、埼玉県教育委員会で調査した分なのであろ
う。埼玉県には、たぶんその2~3倍の城跡があるとみられる。この
埼玉県教育委員会の調査は、計数調査には都合よく、ほぼアトランダ
ムだったようであり、著名な川越城が抜けているが、大相模館跡等、
余り有名でないと見られる小規模な城も、逆に入っている。なお、前
に言及した、さいたま市岩槻区の岩槻城は、記載されているので、以
下の計数の中に含まれる。そして、

104の城跡の中で、”木製遺物が井戸跡等から出土している”と記
載されているのは、私が斜め読みした限り、4箇所

である。内訳は埼玉県川口市東本郷の石御堂遺跡、児玉郡美里町南十
条の新倉館、蓮田市黒浜江ヶ崎の江ヶ崎城、それに前に紹介した、
不成り金将駒の出土した、加須市根古屋の騎西城の以上4箇所である。
なお、騎西城のケースは、城に隣接した、武家屋敷の遺構で木製品が、
主に出ているという事らしい。
 この事から、

堀や遺構をほぼ伴っている城跡で、水に浸かって木製品が腐らずに
出土する確率は、私の読み飛ばしを1%加算しても、数パーセント

程度とみられる。

いかにも、小さな率だ。

しかも、上記のリストから明らかなように、

”当たりくじ”は、ほぼ気まぐれに、たまたま出てくるだけ

のように、少なくとも私には見えた。川口市の遺跡は工場の中だし、
美里町の遺跡は山の中、蓮田の遺跡は新興住宅地帯の中だし、加須
の騎西城は、タンボの中と、皆バラバラだ。なお、川口市の城跡は、
都心に近いが、農業用水の、見沼代用水の水路の一つに、たまたま
浸っていて、木製遺物が腐りにくかったようだ。
 ちなみに井戸跡や遺構があっても、合戦の後物品が持ち去られた
のか、全く遺物の出ない城跡も半分位は有る感じだ。従って自然の

恵みは、10%程度の城跡遺跡に、気まぐれに与えられている

という感じらしい。
 その結果、20の城を掘って、木製遺物の束が1箇所から出ると
いう程度になるらしい。ただし、武家は体育系の人種なのか、通常
よりも、

木製遺物の中に占める将棋駒の割合は、数分の一と、やや小さめ

になる。その結果、堀の水引の効果で木製遺物の出土確率は、やや
上がるが、もともと将棋を指す人間の居る確率がやや低くて、将棋
駒の出土確率が減り、相殺すると正確な数値ではないが、どうやら

100城に1城位の割合で、ランダムに将棋駒が出ている

ようである。中・近世都市等を掘ったほうが、効率が良いと言われ
ればその通りだが。”土中の90%の場所の木は腐る”というのは、
どのみち、いっしょなのだろう。
 なお今回はたまたま、埼玉県を例に取ったが、同じ関東平野で、
海無し県である事も同じなので、

栃木県は埼玉県と、ほぼいっしょ

だと私は思う。栃木県小山市の小山城群の、ほんの触りの発掘で、
神鳥谷曲輪遺跡と、曲輪一つに名前をつけた狭い領域から、摩訶
大将棋の駒のような、裏に一文字金と書かれた角行駒が、2007
年に出土した。
 従って、その城跡の発掘を再開したという情報が、今回のように
あったケースには、当然だが100城分の調査が、又再開された
という感覚で、発掘調査に注目しなければならない事は、どうやら

木製遺物の残りにくさからみて、自明

なように見えてきたのである。(2018/07/22)

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