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日本将棋脚。中国式膳型で無く切り立つ山裾状は理由が仏教卓越か(長さん)

今回は、将棋の駒ではなくて、将棋盤の、しかも脚について議論する。
中国の長春市に設立されている中国・東北師範大学の、日本人の客員
研究官の菊地真氏が、3年ほど前の2015年に、日本の将棋の歴史
に関して、大学の研究論文集に論文を発表されており、PDFの形で、
web上にも、ありがたい事に公開されている。表題は、
「棋と仏教説話」で、その中の最初の方の一章に、今回論題の、
将棋盤の脚の形についての、詳細な記載が有る。本論文の主要な論旨
に相当するもので、ずばり、

日本の将棋盤は、仏教の須弥山がモデルである

と主張するものである。また、こう結論する論の大きな柱は、今回本
ブログの表題に書いたように、

中国の囲碁やシャンチーの盤が、日本の旅館で、食事を出すときの
お膳に似た、須弥山が全く連想されない形である事

を指摘している。以上の事から、日本の将棋の例えば駒名が、全て
仏教の経典から取られて、成立したものではないかと推定していると、
私はこの論文を読んだが、

そうだとして、この論旨は正しいのだろうか

というのが、今回の論題である。何れにしても、それを論じるために、

駒に使われている漢字が出てくる経典を、丹念に拾われている事は、
将棋史研究者にとっては、その労苦から考えて、とてもありがたい事

である。
 そこで、残念だが、最初に結論を述べると、
日本で仏教が飛びぬけて盛んなために、将棋盤の脚が須弥山型になっ
たというのが、論文の主要論だとしたら、この結論は

正しくない

と本ブログではみる。本ブログでは、

日本での将棋成立時代に、東アジアの中で日本が飛び抜けて仏教の
盛んな国であったために、将棋盤の形が、須弥山型になるほど、影響
が強かったのでは無くて、

中国の後周~北宋初期にかけての、中国シャンチー揺籃期に、華北の
開封・北京・洛陽等で、仏教勢力が、さほど強くなかったのが、須弥
山を連想させないお膳型の象棋盤等の原因と、

逆に見る

のである。
 つまり、日本で仏教が強かったからではなくて、後周~北宋初期の
中国の都付近で、仏教が逆に低調だったのが、余り仏教らしくない盤
に、中国の囲碁・象棋の盤が、なってしまった原因と見ると言うこと
である。
 では以下に、上記について補足する。
 まず、日本の将棋盤が、須弥山を少なくともその一部は、引っ掛け
た形になっているという点については、

賛成である。須弥山が影響していると私も思う。

なお、本ブログでは、摩訶大大将棋の初期配列も、須弥山を連想させ
るものだと、考えている。
 しかし、中国の史書には、五代十国の時代には、特に華北で儒教
が、仏教哲学を圧倒するようになり、国の経済政策上から、後周ない
し、北宋の初代皇帝高祖の時代にかけて、仏教寺院が整理統合される
等、どちらかと言えば、廃仏的な政策が行われたと、記載されている。
従って、

日本がずば抜けて、平安時代後~末期に仏教が強いと言うよりも、
中国がずば抜けて、後周~北宋初期に、儒教等に仏教が圧倒された

と、考える事が出来るのではないのか。つまり、

普通に仏教が強ければ、その影響で、ゲーム盤も須弥山型になるはず
なのに、太陽のマウンダーミニマムのような、仏教の停滞が、華北で
は、たまたまシャンチーが成立した頃に、起こっていたために、

中国の囲碁将棋盤は、旅館の食事のお膳のような、須弥山を連想しな
い形になり、日本の囲碁将棋盤との間に、差が付いたのではないかと、
考えても、少なくともそのような論を、簡単には否定できない事は、
確かなのではないかと、私は考えるのである。
 なお、後周の廃仏した国王柴栄も、最後にはその事を後悔したと、
仏教文化辞典(1989年、佼成出版社、菅沼晃・田丸徳善著)等の
成書には書いてある。だから中国仏教も、五代十国時代には、呉越国
等で迫害をシノイでいたが、北宋の時代には、じょじょに華北にも、
禅宗の各宗派の形で、再浸透していったのだろう。
 ただし、中国シャンチーが成立しつつあったのは、たまたま谷間
だったので、シャンチー盤が、唐王朝期の中国囲碁盤から須弥山型に、
変化する事も無かったし、元がイスラム・シャトランジという

異教徒イスラム教国のゲームであっても、シャンチーの母体になった

のではないのか。それに対し日本では、摂関期から江戸時代まで、
廃仏運動は、平清盛や織田信長等のように、僧兵という武装集団を
抱えた寺院等に対して、武力攻撃や焼き討ちを加える者は居ても、
思想として、迫害する為政者が出現する事は一度もなかった。つまり、
明治初期の廃仏に並び立つ、仏教の受難の時代は、中国や李氏朝鮮に
は有っても、日本には無かったのだ。
 そのため、

貴族仏教の国であった、中国雲南の将棋が受け入れられ、別のゲーム
に、ナショナル将棋が置き換える事も、少なくとも日本では、誰もし
なかった

のではないか。なお、菊地真氏は、今回話題にした論文の中で、
”日本の将棋は、将棋具の発生と同時に出来たという説が、全ての
将棋史研究者の間で認められている”と述べている。彼は、仏教機具
として、将棋具が使用された後に、日本の将棋ルールが発生したと考
えているからで、その点が彼の独自な考えである。つまり、

菊地真氏説は、将棋具先・将棋ルール後派である。

彼によると、

日本の将棋史の主流は、将棋具将棋ルール同時派という認識である。

ちなみに本ブログは、少なくとも将棋の駒に関しては基本的に、

本ブログ説は、将棋具後・将棋ルール先派である。

本ブログへの言及は無いが、その他の点に付き認識自体は、菊地真氏
の主張する通りであろう。
 なお、本ブログでは、五角形の木製駒を使用する以前に、黄金の
立体駒で日本の将棋は、ほぼ同じ系統のルールで、大理国で指されて
いたとみる。ので、ゲームルールの方が、先にあると見ているので
ある。ルールのうち細則に例外が一つだけあり、具体的には

本ブログ流の解釈での、”玉の自殺手に対する相対的な”裸玉の勝ち
ルールだけ、将棋具と将棋ルールとで同時発生と見ている。

これは、歩兵が、歩兵の成りの金将と、五角形駒として合体したとき
に、原始平安小将棋(取り捨て型)が”玉・成り金取り合い局面”で、
大宰府の将棋場が、盛り上がるようにするための、ルール改善と、本
ブログが独自に見ているためである。このルールだけは、いかにも、
後からできた細則臭く、しかも五角形の、金将ルールの”金・(点)”
等に成る、歩兵将棋駒の出現と関連している為、
平安小将棋のメインルール部分よりは、ずっと後に、逆に言うと、

平安小将棋のメインルール部分は、五角形木製将棋駒の発生よりは
ずっと先に

出来た事を、示唆しているように、私には見えると言う事である。
 以上のように、五代十国時代の後周の王の、仏教を低調化させる
政策というのは、史実と実在する。ので、

中国シャンチーには、東アジアのゲームにしては、仏教の影響が
少ない等、逆に考える事が、充分可能ではないのかと言う、疑念を
払拭しない限り、”日本の将棋が飛びぬけて仏教寄りである”とい
う菊池真氏の論へは、現状は手離しでは賛成できない

ように、私には思えるのである。(2018/07/08)

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