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江戸時代大阪高槻城三の丸遺跡の中将棋の小型駒はどう使ったのか(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(天童市将棋資料館、2003年)に、
大阪高槻城三の丸遺跡で、西暦1990年頃出土した、将棋駒と中将棋
駒が、記載されている。関西では、まとまって中将棋駒が出た遺跡は
ほかに無く、他に兵庫県の御着城遺跡の、成り飛鷲(?)龍王駒1枚と、
同じく兵庫県の宮内堀脇遺跡の、成り堅行銀将駒の一枚だけがある。
 それに対して、高槻城三の丸遺跡からは、中将棋の駒が20枚以上出
土し、そのうち駒名が判るものだけでも、10枚近くある。しかも、
この中将棋の駒は、普通の将棋駒が、長さ3cm程度なのに対して、

長さが2cm程度、幅が1.5cm程度と小ぶりで、薄い板を手作りで
切って作ったような駒

であるという、大きな特徴がある。このような小型駒は、少なくとも
中将棋に関しては、全国的にも例が無い。そこで今回は、この長さが
2cmの小さな駒が、存在する原因(1)と、何を意味するのか(2)
を論題にする。さっそく結論から、何時ものように書く。

(1)長さ2cm駒を作ったのは、囲碁盤で指すため

と本ブログでは考える。また、これの意味するところは、

(2)城でも中将棋は江戸時代には、レアーになりつつあり、その道具
は、比較的中将棋が盛んな関西に於いても、総じて不足していた

という事が言えると、本ブログでは考える。なお、(2)の点について
補足すると、

関西では、中将棋というゲームを保存しようと言う強い意志が、江戸時
代には、まだあったと感じられる

と私は見る。
 では、以上の点について以下補足説明する。
 まず、高槻城三の丸遺跡で出土した、中将棋の駒は、皆大きさが揃っ
ている。つまり劣化して、駒名が消えてしまった駒が、約12枚あり、
残りの9枚程度が、何の駒だか、わかる状態と認識する。内訳は、
成り”と”歩兵が4枚、成り飛牛堅行、成り奔猪横行、成り龍王飛車
成り獅子麒麟、成り不明の銀将、以上9枚である。そのうち、歩兵駒
とみられる4枚を除き、

残りの5枚の皆に、駒の動かし方ルールを示す線や打点が見られる。

この事から、これを”ひな壇”等に飾ったとは、考えにくい事が判る。
大きさは、最大の成り獅子麒麟でも、長さが2.2cm、幅が1.4
cmである。また、江戸時代の将棋駒と異なり、厚みはほぼ一定で
寸胴型なので、中世の駒のやや短い形で、箱庭の家型である。つまり、
頂角は典型的な将棋駒より、やや鋭角で、精巧な将棋駒の模型ではな
くて、”手作りの駒”の雰囲気が、良く出ている。
 そこでこの駒は、当然、普通の将棋盤より、升目の細かい遊戯盤で
指すためのものと、自明に推定される。この駒の大きさは明らかに、

通常の囲碁盤の升目(2.5cm×2cm程度)でちょうど良い。

また、聖目の内側の12升目だけを使えば、囲碁盤で中将棋が兼用
でき、天元の星は、余り気にならないだろうから、

囲碁盤の中央部に、出土駒を並べて指したというのが、最も可能性
が高い

と、私は思う。13路の囲碁の練習盤が、当時高槻城には無かったと
は断定できないが、数は囲碁の道具よりも少ないだろうし、聖目が、
升目で、3段目に打たれているだろうから、その盤では邪魔だろう。
 いっけんすると、急場凌ぎに、中将棋のマニアが小型駒を作り、
囲碁盤をかすめて中将棋を指したようにも見える。が、このケース
はそうではないと、私は考える。根拠は、
成り龍王の飛車駒の両面や、銀将に、駒の動かし方のルールを示す、
線と打点がある事である。

中将棋のマニアは、ほぼ100%日本将棋は指せると見られるので、
マニアの仕業なら、中将棋の飛車駒や銀将駒の表面に、ルールの打
点など、そもそも書き入れるはずもない

と私は思う。なお、高槻城からは日本将棋の駒が多数、共出土して
いるが、それらの駒に、駒の動かし方のルールを示す、打点等は無い。
 よって、この事から、

”中将棋の手習い講座”というのが、仰々しくその時代、高槻城に
存在して、そのとき使われた道具

にほぼ、ま違いないと思う。”中将棋の指し方講座”をするには、
日本将棋にも中将棋にもある、

飛車や銀将にも授業の進行上、動かし方ルールの打点を予めしてお
く必要がある

と、私は考えるからである。
 たまたま中将棋盤が無いから、このような遊戯具を、手作りで
作ったのであろうが。しかし、適当に手作りで中将棋盤を用意する手
間と、小型中将棋駒の駒木地を、手作りで作成するのとで、さほどの
手間の違いが、そもそも有るとは思えない。駒木地は日本将棋と同じ
なものを調達しておいて、中将棋盤を手作りした方が、むしろ中将棋
の指し方講座をするには、楽なはずだ。しかし、実際には、

何か理由があって、城にあった囲碁盤を、無理にでも中将棋では
使いたかったのだろう。

姫様が、持参した三面を使って子息達に、姫様の家では盛んだった、
中将棋を伝授する、イニシエーションでも行ったのだろうか。
今となっては良く判らないが、

三面等特定の機材を、授業の道具に、どうしても使いたかったので、
将棋駒の方を、それに合わせて作るという、何らかの事情が存在した

のであろう。今のは一例であって、はっきりとした理由は、不明で
ある。
 何れにしても、通常なら中将棋の普通の道具が、関西の大名の城
にはあって、それを使って、中将棋を指せば良いだけの話のはずだ。
 それはこの時点で、大阪府の高槻城では、たまたま出来なかった
ので、わざわざ小型の中将棋の駒は自作された。

全体としてみれば、関西の都市部でも、中将棋は衰退期に入って道
具は品薄であり、しかし熱意のある家柄の所では、教育が行われた

という事を、高槻城の例は、示しているのではあるまいか。
関西でも、宝物に近いため、廃棄されることのほとんど無い中将棋
道具は、江戸時代には生産されることも、かなり稀だった。したがっ
て、関西でもその程度だったため、ましてや、駒数多数将棋の勢力
の弱かった江戸では、加賀前田藩の屋敷跡から、成り太子酔象が一
枚出土する程度に、中将棋は次第に、寂れてきていたのであろう。
(2018/08/02)

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