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2017年から埼玉県児玉郡美里町は猪俣百八燈で花火大会中止(長さん)

遅ればせながら、さいきんwebで知ったのだが、毎年8月15日に
行われ、本ブログで、

解明が極めて難航中の、普通唱導集時代の将棋に関連の疑いがあり

としている、将棋史にとっては、極めて重要な、636年程度続いて
いると、ここでは見ている民間行事、

猪俣百八燈の花火大会が、650年近くに来て、やや危機的

になっているらしい。災害の発生が直接的原因だったと、記憶するが、

2017年の埼玉県児玉郡美里町猪俣の8月15日の花火大会は、行
われなかった

ようだ。今年は、その翌年になるが、6月の時点で、美里町観光協会
のwebページで、中止が発表されていた。
 猪俣百八燈自体の伝統行事が、650年を目の前に消えたとなると、
一大事だが、以下の匿名の書き込みがweb上に、か細く残されてい
る。

投稿者「ミムリン」さん。投稿日2018-07-31
”美里夏祭り花火大会は中止ですが、猪俣の百八燈の行事は開催され
ます。 花火大会ではないけれど奉納花火の打上げがあります。”

関係者からの投稿なようなので、多分信憑性がある話だとみられる。
 ただし、

美里町役場が、”なぜ行っているのか、役人である我々には、わけが
わからない行事だ”

との”心”で、撤退しようとしているのが見えているのも確かだろう。
2017年と2018年とは年が違うから、”事情について”のカテ
ゴリー記載が、本来なら再度必要なはずだが。特にWEB上に、美里
町の見解は見当たらない。
 なお、美里町には、この行事の縁起というべき”事情が”が、判ら
ないはずだと、本ブログで推定する根拠は次の通りである。

埼玉県児玉郡美里町が発行した”美里町史”で、西暦1380~2年
の小山義政の乱や、西暦1386~97年の小山若犬丸の乱、小田氏
の乱等の項目が、すっぽり抜けている。なお美里町史の記載では、
観応の擾乱(”サッタ山体制”)の後に、美里町広木の大興寺の再興
の話等が挿入され、その直ぐ後が上杉禅秀の乱になっている

のである。
 峰岸純夫氏等複数の研究者が、南朝方について没落した、武蔵武士
の児玉党や猪俣党は、小山義政の乱の前後に、上杉憲方や足利氏満が
働きかけて、公方方に取り込まれながら、後期の白旗一揆に再編され、
小山氏の乱の、鎮圧等にかり出されていたとの旨の論文を、かなり前
に出しているのだが。

美里町の町史を編集した時に、編集者が、それらの論文を読み飛ばし
たらしく、埼玉県児玉郡美里町広木の大興(光)寺の再興の項目だけ
の、関連事象とみられる史実の記載だけで済ましている

のである。その結果、その教育を受けた美里町の町役場の役所職員は、

埼玉県民なら、栃木県小山市からかなり遠い、一例として埼玉県春日
部市の市史等にも書いてある、栃木県の小山義政、小山若犬丸の乱に
つき、全く教育されない

という事態に至ったものと、推定されるというわけだ。
 なお、美里町史には、”足利氏満が鎌倉公方だった時代には、比較
的平穏だった”との旨記載されているのだが、隣の本庄市の市史には、
”鎌倉公方が足利氏満の時代には、世情が安定しておらず、関東では
戦乱が多かった”との旨、美里町史とは、正反対の内容が書かれてい
る。私見だが、ずばり

この点については、正しいのは埼玉県本庄市の市史であって、埼玉県
児玉郡美里町の町史の記載では、無い

と私は考える。
 小山義政の乱では、当然、栃木県小山市に居住した武家に、最も
戦死者が多かったのは確かなのだろうが。その次に多い戦死者は、

戦勝者の軍人であった、美里町の猪俣党とか本庄市の児玉党の武士

だったはずだ。たいへんな戦いだったようで戦死者多数であったため、

数百年経っても、お盆に古風な弔いの仏事が行われているほどのもの

だったのだろう。他人とはいえ、同じ地で暮らした先達の弔いなの
であるから、本来ならば、町役場が支援を続けて当然と、私は見る
のだが。

たまたま、町の歴史書を編纂するときの、前記の運の悪いミスが原因

で、猪俣百八燈から、美里町役所が腰を引きつつある事だけは、残念
ながら現状、確かな事らしい。(2018/08/11)

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