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摩訶大大将棋の王子。熊野信仰関連の王子とすれば何時の成立か(長さん)

大阪電気通信大学の高見友幸氏によれば、「古典的文献を検索する
限り、王子が先であり、その後に太子という熟語に、置き換わって
いるように見える」という。摩訶大大将棋または、彼の論文中の、
摩訶大将棋が、古い時代の成立であるとの根拠の一つとされている。
 しかしながら、いわゆる南紀の熊野信仰関連で、王子という熟語
が著名であるのも事実だと、本ブログでは、以前から主張している。
本ブログでは、熊野信仰の王子が、摩訶大大将棋の王子の起源だと
すれば、成立は中世であり、高見氏の論よりかなり遅くても、矛盾
は無いのではと、過去何回か表明してきた。しかしその際には、定
性的な議論に留まり、特に摩訶大大将棋の王子が熊野信仰なら、時
代は何時が最適値なのかについて等、定量的な結果を表明してこな
かった。そこで、今回はその点を論題とする。
 最初に結論を書くと、熊野信仰の王子なら、成立はたとえば平安
時代後期ではなくて、

南北朝時代から室町時代前期頃になるのではないか

と、本ブログでは考える。
 では、以下にその根拠の説明をしたい。
 そもそも以下の論は、王子は熊野信仰から来るという論を、前提
とする。従って、中国古代王朝の時代から、帝の息子を王子等と、
時代によっては呼称していたのであるから、

王子という駒は、作ろうと思えば11世紀初めから作れるのは確か

だと、本ブログでも考える。
 息子の意味ではなくて、熊野信仰の童子や、若一王子タイプの
王子だけを、ここでは問題にするのである。理由は、

摩訶大大将棋には、自在王、教王、法性という、仏教型の成り駒に
なる駒が、王子に成る、酔象に隣接しているという点である。

ただし、理由はとりあえずそれだけである。
つまり、単なる跡取りとか息子ではなくて、熊野信仰関連の童子や、
若一王子を連想させるような、王子という熟語を使う動機が、以上
の点で、比較的明解に有るように見えるというのが、熊野信仰関連
の王子に、摩訶大大将棋の王子の起源を、限定させる根拠である。
 そこで、摩訶大大将棋の王子が、熊野信仰の王子だとして、信仰
が最も盛んな時期でかつ、王子という熟語が、最も使われた時期を
オーバーラップさせると、2種の時期の相乗曲線のピークは、

南北朝時代から、室町時代前期頃になるのではないか

と、ここでは考えるのである。
 というのも、まずは、熊野信仰が最も盛んな時期は、室町時代後
期から戦国時代早期である。
 たとえば、岩波新書の小山靖憲著書の”熊野古道”(2000)
年に、熊野那智大社檀那売券の数が載っている。それによると、
西暦1300年~1349年は 11枚
西暦1350年~1399年は 25枚
西暦1400年~1449年は138枚
西暦1450年~1499年は385枚
西暦1500年~1549年は121枚
西暦1550年~1599年は 11枚
となっていて

信仰のピークは、室町時代の後期から戦国時代の早期にかけて・・1

になっている。
 ただし、王子という熟語は、室町時代には衰退する。つまり、
熊野信仰関連で、王子という熟語は、ほぼ以下の3通りの意味に
使われ、使用時期は、以下のようになっている。
九十九王子という意味での王子:平安時代院政期をピークとして、
鎌倉時代末期まで。
五所王子とか、若一王子という意味での王子:熊野信仰と同じく、
ピークは室町時代後期ないし戦国時代早期。
五体王子という前記2者の中間的な熟語の王子:西暦1400年頃
までは、盛んに使用されたとみられる。
 3者を足し合わせると、

熊野信仰の王子自体の言葉のピークは、鎌倉時代の中ごろ・・・・2

であり、熊野信仰自体が民間規模で盛んな頃には”大社の五所王子”
系の意味でしか、王子の単語は有力に使用されなかったと見られる。
 そこで、上記の1と2を改めて掛け合わせると、

合成ピークは恐らく、南北朝時代から室町時代前期頃になる

のではないかと、上に複数回主張したようになる。
九十九王子は、京都の朝廷や貴族しか、結局盛んには使わなかった
が、蟻のように、誰でも参るような熊野信仰の時代の方が、

五所王子の王子が有名だったので、王子という熟語は、熊野詣でに
限って言えば、南北朝時代から室町時代前期が、社会全体での頻出
語のピーク

だったのではないかと、私には思えると言う事である。
 なお、本ブログで前に例示した、東京都北区の中世武家の豊島氏
が勧進した北区王子の”王子”は、天照大神が神様の方の姿である、
若一王子の王子であり、熟語としては五所王子の類であると、本
ブログでは分類する。
 以上で論題には答えたと考えるが、最後に話題を少しずらし、
普通唱導集の時代の大将棋と、熊野信仰との関係について述べる。
 上で名前の出てきた、熊野三山うちの熊野那智大社では、熊野
十三社権現仏という御神体を祭っている。実は

これと、法事の十三仏信仰とは、関係がない

が定説のようだ。鎌倉時代には既に、熊野那智大社の熊野十三社権
現仏は成立しているのだが、普通唱導集で良季が、十仏信仰を推薦
しており、3つ仏数が足りない事が、仏教史では有名だからのよう
である。前から私は、良季がそれでも、13升目の大将棋を推薦し
て、唱導集を書いていると、ここでは仮定せざるを得ない点を見て、

普通唱導集時代の大将棋が、13升目であると仮定するいう点では
否定的な事実

だと懸念していた。しかし最近、熊野那智大社が熊野十三社権を、
当然だが、平安時代の院政時代から広報していると知り、南北朝時
代には、法事は十三仏信仰ではなくて、十仏だったという事実につ
いては、大きな懸念だとは見なさなくなった。なぜなら、

普通唱導集作者良季も宗派は別でも熊野三山信仰は当然知っていた

と、考えられるからである。”熊野信仰の神体の数等の関係で、
十三は将棋とは親和性が良い数値である”と主張されれば、

同じ僧侶の類の良季も、鎌倉時代にはそれを認めざるを得なかった

に違いない。なお十三仏を象った鏡が、熊野那智大社に残っている
らしい。13という仏の数は、いっけん半端だが、鎌倉時代のもの
という、その鏡の

丸い盤の上に置くには、都合が良い

という事だ。
 というのも、仏像の図は縦長なので、3行3列に9柱並べておい
て、横に2段で4柱並べると、丸い鏡の盤に、ちょうど尤もらしく
収まるらしいからである。

十三社権現.gif

 鎌倉時代の大将棋の時代から、熊野信仰の仏の図像は、仏の数が、
将棋の盤の升目数13と親和性が良く、何やら関連有りげだという、
認識が広まっていたのかもしれない。そのために、その中に含まれ
る、五所王子や若一王子の王子が、しばらくして、南北朝時代から
室町時代前期にかけて、摩訶大大将棋に、太子と交換して、取り入
れられたのかもしれないと、私は考えている。(2018/08/15)

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