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幸田露伴の将棋雑考から、北周の武帝が発明したと見られるもの(長さん)

江戸時代の将棋本や事典物には決まり文句のように”象棋や将棋は、
中国南北朝時代の、北周の武帝が西暦569年に作ったもの”と、
記載されている。しかし現代では、周の武帝は何らかの、ゲーム書
籍を残しているらしいが、象棋や将棋を発明していないと見るのが
定説だ。たとえば、持駒使用の謎で木村義徳氏は、七世紀前半の唐
王朝で作成された、隋書経籍志の文献リストの、兵部のゲーム書が
並ぶ部分に、象経一巻周武帝撰がある事から”北周の武帝は、何ら
かのゲームを発明したとは言える”と結論されている。
 他方、その何らかのゲームの具体的な内容については、北周武帝
の臣僚のユ信による賦(解説文)が残っており、その内容を解読す
るという方針で、過去研究が進められたとされる。個人的に私には、
ユ信による賦の中身に関する情報が、今までは乏しかった。具体的
には漢詩のような文が、ユ信の賦として残っているらしく、数片が、
幸田露伴の将棋雑考に載っているのを、最近前に述べた将棋雑考の
口語訳を読んで知った。

断片的情報だが、数句も書いてある文献を、幸田露伴の文書以外に
今の所、私は知らない。

そこで今回は、南北朝時代の高官のユ信による、自身の指導者、
北周の武帝の象経(西暦569年)に関する、幸田露伴の将棋雑考
に書かれた、武帝の臣僚のユ信の”賦”から、象経とは何者と
推定できるのかを論題とする。
 回答を書くと、幸田露伴の将棋雑考に書かれた北周時代のユ信
による、北周武帝の象経に関する賦からは、

象経には、何が書いてあっても、だいたいおかしくない(解は不定)
と本ブログは考える。

では、以上の結論に関して、以下に説明を加える。
 まず幸田露伴が将棋雑考の中で紹介しているとされる、北周武帝
の臣僚のユ信による賦の断片は、次の通りである。

1.地理を方畦に回し、天文を円壁に転じ、荊山の美玉を分ち、
藍田の珉石を数う。
2.既に玄象を舒べ、聊か金秤を定む。
3.四方の正色を取りて、五徳の相生を用う。月建に従って左転し、
黄鐘に起こって順行す。陰翻れば即ち顧兎先ず出て、陽変ずれば則
ち霊鳥独り明らかなり。
4.たちまち図を披いて久しく玩び、或は経を開いて而してつらつ
ら尋ぬ。

 以上の事から、北周の武帝の象経を、武帝の臣僚のユ信は、

”陰陽五行道に則った、すばらしいものである”とほめ称えている

のは、確かと見られる。それ以上の情報は、私はこの賦の断片の中
には

全く無い

のではないかと、大いに疑っている。
 中国の南北朝時代の、上流階級による発明品は、概ね陰陽道の摂
理に則ったものと、臣僚に賛美される内容のものが、出来が良い場
合普通だったに違いない。しかしながら、臣下の前で、北周の武帝
が講義したとされる、

象経の内容を、カテゴリーのレベルで特定することも、以上の”賦”
からだけでは、相当に困難

ではないかと、本ブログは見るのだが、如何なものだろうか。
 幸田露伴はユ信の”賦”を、全文読んでいるに違いない。しかし、
文才の抜きん出た、彼の能力を以てしても、”ユ信の賦”から象経
の内容を割り出すのは、相当に難しかったのだろう。上記の4つの、
断片的な情報を記載した後、将棋雑考には次の主旨の内容が書かれ
たようだ。

以上は、ある実体を比喩する性質を持つ当時の賦であって、いまの
象戯(中国象棋)の実体とは、関係が有るとは考えられない。(露伴)

それに対し、本ブログの結論は、繰り返すと、

北周の武帝が象経で書いている内容は、ユ信の賦を見る限り、中国
象棋も含めて、何であっても、だいたい当てはまるので、内容がさっ
ぱり特定できない(本ブログ)

とみられる。ただし露伴は将棋雑考のこれより後に、中国シャンチー
(象棋)と関連の有ることの判る、中国の古文書の例を”象奕”で
示している。象棋の駒名が現われたり、駒の総数やプレイヤーの数
(2人)が特定されるので、

今述べている”ユ信の賦の例とは大きく違う”と、幸田露伴は結論

しているようだ。
 ようするに、いわゆる北周の武帝の象経の中身を、推定する情報
と称するものは、現在の研究の蓄積をもってしても、

実際には、存在量がごく少ない

のでは、ないのだろうかと私は疑っている。何れにしても、それに
関する”生データ”が、読み下し文で記載されている、幸田露伴の
将棋雑考は、それ自身が今ではとても貴重な史料だと、私には大い
に感心させられた。(2018/08/19)

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