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大阪電気通信大学高見友幸氏”将棋の進化大から小”説は前から存在(長さん)

幸田露伴の将棋雑考を最近読むまで、日本の将棋が、摩訶大大将棋等
の駒数の極めて多い将棋から、小型の将棋へ進化したとの説は、

大阪電気通信大学の高見友幸氏以前には、考えた者の無かった説

であると私は信じて、疑っていなかった。さっそくながら今回はこの、

日本の将棋の大から小説が、最近、高見友幸氏より最初に考えられた
説なのかどうか

について、論題とする。
 結論から書いて説明を、いつものように後でする。

高見氏のオリジナルでは無い。
西暦1900年頃は、大将棋から小将棋へ変化したとの説が強かった

そうである。
 では、今述べた結論につき、私が得た知見を以下に記す。
 幸田露伴の将棋雑考によれば、
幸田露伴が小将棋系の日本将棋の、中国からの伝来を示唆するまでは、
日本の将棋史界では、結論としては高見友幸氏同様、

文献史料の解釈という観点から、大から小への進化説が強かった、

との事である。なお、幸田露伴が将棋雑考第1版を発表したのは、
明治33年、西暦1900年の事と雑考の中でも述べている。
 今では将棋史界ではたいへん強い、”小から大進化説”が、前々世
紀の末に振るわなかったのは、

二中歴が忘却された状況で、将棋の最古史料が新猿楽記ではなくて、
台記であったため

との事である。藤原頼長の”大将棋”の方が、将棋という単語の初出
よりも、早かったためである。だから、理由は高見友幸氏が
大から小説を唱える現在の根拠とは、当然全然違う。
 何れにしてもこうした事情から、幸田露伴の将棋雑考では”日本の
将棋”のセクションが、”先行研究”の紹介との兼ね合いから、後期
大将棋の説明で始まっている。第1版の時代には、二中歴の将棋・大
将棋の記載が、まだ埋もれていたので、最終版の昭和13年以降の記
載でも、藤原頼長の指した将棋が、平安大将棋に訂正されて居無い。
後期大将棋をあてているので、説明が後期大将棋から始まるのである。
 そして、西暦1900年時点で、幸田露伴は当時の多数派の”大か
ら小進化派”の中に在って、少数派の”小から大進化派”に属してい
たようだ。理由は大から小派を、次の点から困難と批判している。

1.そもそも大将棋がオリジナルなら、大将棋と名乗ること自体が変。
2.中国シャンチーかまたは宝応将棋と、駒の種類からみて現日本
将棋は関連するに違いなく、そのどちらかの子孫であるなら、駒枚数
や盤升目数は、前2者のどちらかは、現日本将棋とほぼ同じと見られ
る。この事から日本将棋の駒数・盤升目数の桁の、小型の”将棋”が
伝来したのちに、日本人が駒数多数将棋を作成したと考えるのが自然。

以上の2点を軸として述べている。この点は仮に、現在の高見理論を、
現在圧倒的多数の

”小から大への進化派”が批判するとしても、ほとんど差は無く同じ

やりかた、なのではないかと、私は考えている。つまり将棋史研究は

約120年間に進歩はさほど無い

という事である。
 将棋伝来時の様子を示唆する、史料が全く知られて居無いのである
から、大から小進化論を完全に駆逐する、決め手に欠いた状態である。
しかし今の所、”奢る平家は何とやら”のように、小から大進化派は、
多数派を自認して、ほぼ安閑としている訳である。が、実際には、

マスコミ等が高見理論を大大的に宣伝した程度で、”体制”はひっく
り返ってしまうというのが、現在の日本の社会の姿

なのではないかと、正直私は疑っている。
 小から大進化派は、よって本当はそのときに備え、

幸田露伴の将棋雑考の日本将棋のセクションの、大から小進化派批判
のプロセス位は、今からじっくり読んでおいた方が、利口ではないの
だろうか

と、私は思っているのである。(2018/08/22)

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