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鶴岡八幡宮出土の裏楷書奔王鳳凰駒。初期配列で元奔王と誤るのでは(長さん)

前に、”(元)奔王を出して勝ち駒数多数将棋”では、鶴岡八幡宮
出土の裏楷書奔王鳳凰駒が使えず、従って、この駒は恐らく、中将棋
用ではなくて、後期大将棋の鳳凰ではないかとの論を展開した。
 その後、成りの書体の工夫には、表駒の判別ではなくて、その面が
成り駒なのか元駒なのかを区別して、元駒と別元駒の成りとを、初期
配列時に識別する機能が必要である事を、興福寺出土駒1058年物
の裏二文字”金也”各種駒を例に、本ブログでは議論した。今回は、
その興福寺型の議論を、表題の鶴岡八幡宮出土の鳳凰駒に対しても、
適用するものである。
 話の行方を見やすくするために、最初に以下の点をはっきりさせる。
 すなわち、元駒としての奔王が無いが、成り奔王鳳凰が有るという
将棋種は、実は日本の将棋種として、存在しないと見られる。
よって、厳密に言うと、

鶴岡八幡宮出土の裏楷書奔王鳳凰駒が使える将棋種は、日本には
過去全く無かったはず

である。そこで今回は、この

実用性の全く無いはずのこの駒が、なぜ現実には出土しているのか

を、論題とする。
 最初に回答を書いて、その後で説明を加える。

元駒と別元駒の成りとを、初期配列時に、区別する機能が無い為に
困るケースが、麒麟と獅子、鳳凰と奔王の2組程度なら、仕方ないと
諦めて、後期大将棋用の駒として鶴岡八幡宮出土の鳳凰駒が使われた

と考えられる。
 では、以上の結論について、以下で説明する。
 そもそも少なくとも本ブログでは、鳳凰よりも奔王の発明の方が、
徳島県徳島市川西遺跡の奔横駒の存在から見て先行し、奔王が以降、
駒数多数将棋から、抜ける事は無かったと考えている。従って、
成り(裏)奔王鳳凰駒の奔王の字体は、鳳凰が発明されたときから、
以降ずっと、崩してあった方が良い事は、確かと考える。
 しかし、鶴岡八幡宮出土駒の鳳凰は、どのような将棋種にせよ、
成りの奔王の字を、崩さなければ、初期配列時に、元駒としての奔
王と区別出来ずに困るはずなのに、そうしていないのであるから、
何らかの事情があり、かつ、鳳凰と奔王の区別については、

我慢した

としか考えにくいのである。そこで事情は何かだが、
この駒が、後期大将棋の駒だったとすれば、麒麟の成りが獅子、
酔象の成りが太子であり、これしか成る駒は無かったはずだから、

太子は崩しては判り難いので、全部楷書で統一した

と考えるしか無い。つまり、このゲームには成る駒が、もともと
3種類しかなく、そのうちの1種類の駒、酔象の成りが太子で、崩
し字を考えるのも億劫だったし、実は太子については、後期大将棋
については元駒も無かった。ので、全部楷書で統一したと考えるの
である。もしそうだとすれば、
麒麟と獅子、鳳凰と奔王の2組4枚、盤上計8枚だけ、初期配列時、
駒を拾っては、裏返して、元駒が無いかどうか確かめる必要がある
のだが、そうしなければならないのは、

65枚の駒の内の、4枚だけだったので、棋士に我慢させても文句
が出ないと、駒の字書き師は踏んだ

と考えるのである。つまり太子の草書体が、書体として今ひとつだっ
たのが、鳳凰の成りの奔王を、崩さずに、楷書にしてしまった原因
と考えるという事である。
 さて、だとすれば、この鶴岡八幡宮出土の裏楷書奔王鳳凰駒が、

中将棋の駒であるという説は、相当に苦しいと思えて来る。

なぜなら、中将棋の場合は、全部成りを楷書にしてしまうと、
飛車×2、角行×2、金将×2、銀将×2、銅将×2、猛豹×2、
鳳凰、麒麟の14枚(46枚のうちの)が、それぞれ元駒の、
龍王、龍馬、飛車、堅行、横行、角行、奔王、獅子と区別できなく
なるからである。全部楷書にこだわって、問題が生じるくらいなら、

中将棋の駒の場合は、太子は例外的に楷書にしておき、残りの成り
は崩した方が、駒の字書き師にとっては、処理が楽

である。実際、現在に伝わる中将棋の駒は、今述べたシステムになっ
ているのである。つまり、
初期配列時に元駒と、別の駒で裏かその字というパターンの配列を、
間違えないようにしたとすれば、中将棋の駒だとするならば、煩雑
さが著しく増すので、

鳳凰の成りの奔王は、崩して書いたはずだと、ほぼ断定できる

のではないか。むしろ今述べた議論の方が明解で、

鶴岡八幡宮出土の裏楷書奔王鳳凰駒は、後期大将棋系の駒と推定

できると、私は最近では確信するようになったのである。
(2018/09/30)

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興福寺(1058~1098年)出土駒。香車が1枚も無いのは何故(長さん)

以前表題の件については、”もう少し発掘が進んで、将棋駒の枚数
が2~3枚増えれば問題。”との旨を本ブログで、私が述べた記憶
がある。
 しかし、将棋具の1セットの中で飛車+角行は4枚だし、香車も
4枚である事には変わらない。だから、1枚も出土しないとすれば、

飛車・角行が無いなら、香車も無いのではないかと疑われるのが筋

だ。特に本ブログの場合、日本将棋の非存在を証明するとき、40
枚制が:検定されるが、香車の棄却検定では、32枚制の原始平安小
将棋(銀将・酔象各2枚)を検定するので、理論的存在枚数は、
香車の場合、飛車+角行の1.25倍になる。飛車・角行非存在検
定のとき、理論的平均存在枚数が2.9枚なら、
香車の場合は、3.6枚になり、確率1/8は稀少確率として、ポ
アソン過程で近似できるとすれば、出現確率3%(1/33)位だ。
つまり、今でも充分に、

香車が異常に少ないと、結論できる。

 だから、それでも興福寺で11世紀指された将棋に、香車が有っ
たと考えるのなら、

何らかの、出土しない理由を考える必要があるのは、実は当然

だったのだ。そこで今回は、飛車・角行非存在論の成功と対照的な、
この現代将棋史上の”日の当たらない、暗闇部分の謎”について、
原因を考えるという事を論題としよう。
 まずは、回答から書く。

公家世界で行われる、何らかの別のイベント用に、香車駒だけ
転用されて、同時に廃棄されることが少ないためではないか

と、本ブログでは考える。
 では以下に、以上の結論についての説明をする。
 まず、本当に香車が、11世紀の興福寺の将棋で使われなかった
という仮説は、次の点が説明困難である。

中尊寺境内金剛院遺跡の出土駒、および大宰府の習字木簡に香車
の記録がある。

実は、香車の出土しない領域は、玉将が出土しない関西の領域と、
やや似ている。

違いは、奈良県も含まれるかどうかだけであり、京都府および滋賀
県から出土例がないのが玉将といっしょ

なのである。ただし、滋賀県の坂本遺跡の駒は良く判らず、香車の
可能性も否定できない。しかし滋賀県では観音寺城下町遺跡駒の中
にも香車が無いため、興福寺駒を除いても、出土駒総枚数は、25
枚程度あり、香車駒が少ない傾向に、坂本遺跡を抜けば変化が無い。
 この事から、香車は京都の、恐らく公家が良く行う、何らかの
イベントに、転用されて消耗してしまうのが、出土駒が無い原因と
疑われる。つまりこの場合は、

興福寺を管轄していた、藤原氏の長者層も行う、何らかの行為に
関連するため、興福寺でも香車に関しては、出なくなっている

と、疑えると言う事である。香車欠乏現象が、近世から近代で、
かつ関東中心だったら、たとえば、

栃木県日光市の日光・滝の尾神社、香車堂への香車駒の安産祈願
での奉納

が疑われるが、地域も時代も合わないから、これは全然違うだろ
う。
 残念ながら、ここまでしか私には絞り込めないが、たとえば、

問香の遊びに転用する

とか、そのような貴族の遊びが、場合によって行われる、関西付近
の場所で、香車が燃やされて、無くなってしまうとか、そういう事
なのかもしれないと一応疑う。ちなみに、

福井県の一乗谷朝倉氏遺跡からは、香車駒が適量出土しており、
朝倉館には武家しか居なかったので、貴族の遊びをしなかったのが、
香車駒が欠乏しない原因

なのかもしれないとも思える。
 何れにしても、興福寺の出土駒の中に香車駒が無いのは、現時点
でも、問題である事だけは確かだと最近は見ている。(2018/09/29)

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元禄時代1651年の仏書「類雑集」の平安小将棋記載が物語るもの(長さん)

増川宏一氏の法政大学出版局(1977年)の、ものと人間の文化史
23-1、「将棋Ⅰ」に、江戸時代の平安小将棋の記録という、ウル
トラ・レトロゲームの記録の話が出てくる。前記著書には、仏書の
「類雑集」(1651年)に、「将棋は駒数36枚で、一方は悪神の
18、他方は善神の18と書かれている」と紹介されているのである。
これは、平安小将棋が、平安時代だけでなく江戸時代まで、存在して
いたゲームであるという、裏付けという意味であろう。平安小将棋が、
平安中期~室町時代、西暦1500年まで、主流の将棋であったとい
う、増川氏の論の、補強史料の一つという事である。
 そこで今回は、この仏書の類雑集のこの記載は、何を物語るのかを
論題にする。結論をまず書く。
類雑集は、中小の寺で著作された仏書とみられる。よって、寺院には、
それが規模の特段大きいものでなくても、その時代から見て、

150年程度前の文化財が存在するのが、寺というものの通常の姿

であると推定できる事を、示していると考えられる。
 では、以上の結論につき、以下に説明を加える。
 まず「類雑集」は、お経の本であろうが、たいへんマイナーである。
 webによれば浄土真宗の蓮如に関連するらしいが、私には、その
webの記事を読んでも、時代の関連性が理解できず、意味が良く判
らない。研究者が稀に論文を書いているが、内容は公開されて居無い。
 仏書解説大事典(縮小版 1999年)大東出版社、小野玄妙編集
のような書籍を当たっても、この本は、宗教に関する学科のある大学
の、2~3の図書館に蔵書が有る事が指摘されているだけで、内容に
関する解説はいっさい無い。なお、仏書解説大事典には8万程度の、
仏典や仏教成書が紹介され、注目度が高いものに関しては、内容の
あらましが、解説されている。つまり詳しい成書である。「類雑集」
は恐らく、法事の実務のために、中小の寺院で、江戸時代の
西暦1651年に作成された、その場限りのお経だとみられる。東京
の中央区築地の本願寺にも有るらしいが、関連性は良く判らない。
 何れにしても、その中に平安小将棋の記載が有ると言うことは、
そのお経が製作された、

当の中小寺院には、西暦1651年より見て、150年前の、
西暦1500年程度の、将棋に関する遺物が有った

と推定されると私は思う。他方、京都の大寺院である曼殊院には、
西暦1590年代の時点で、少なくとも摩訶大象戯に関する記載のあ
る、それより150年前の、西暦1443年程度の、将棋図が残って
いた事は確かである。従って、この2つの事柄から、

一般に寺院には、その規模の大小に関係なく、その時点からみて、
150年程度以前の史料が、眠っているという事が、良く有る事だ

と推定できるのではないか。これを、現在西暦2018年に置き換え
ると、

西暦1868年の明治維新程度の文化財が、適当なそのへんの寺には
あると言うのが、普通の姿だ

と言う事にもなろう。ただし、明治時代の将棋史については、記録が
多いため、誰にも余り注目されず、そのまま、多くが眠ったままとい
う事なのであろう。実際、栃木県栃木市星野町に、事実上の廃寺で、
規模は小さい大応寺という寺があるが、管理不能で、寺の物置を、地
元の業者が取り壊した、今から10年位前に、

寺の庭に、油を使う照明器具が、明治時代の年号の入った墨書付きで、
放置されていた

のを、私は眺めてから、通り過ぎた記憶がある。今から500年後に
これが発掘されたら、その時代の地元の市史にでも載るのだろうが。
明治時代は新しいので、発掘遺品状の、事実上の廃寺遺品を見ても、
明治時代の物だと私を含めて、誰も見向きもしないようである。

ようするに、水無瀬兼成は、たまたま京都の曼殊院と繋がりがあり、
当時はかなりの数で残っていたはずの、室町時代後期~戦国時代早期
程度の将棋史料のうちの一つ、曼殊院将棋図を清書したにすぎない

のではないかと、疑われるという事である。
 なお増川宏一氏が、仏教書大事典の数万の仏書を当たり、類雑集を
発見したのかどうか、私は本人等から確認していない。仏書というも
のには、表題に事実上、特定の漢字しか現われないという特徴・性質
がある。例えば「じょう」だと、”浄”という漢字で始まる、浄土経
関連の仏書ばかりであるというような事である。従って、仏書の表題
の最初の文字で、将棋の事が書いてあるかどうか、ある程度見当が付
くものと、私にも予想できる。たとえば、

”類雑”という言葉で始まる仏書はこれしか恐らく無く、かつ、雑芸
について書かれていそうな表題なので、増川氏も念入りに読んで、将
棋の記載を発見した疑いがある

と私は思う。逆に言うと、ありきたりの表題の、マイナーな流仏書に、
将棋の記載が有る可能性も、全く無いわけではないかもしれない。
 が”類雑集”のマイナーさ、かげんを見て私も、

これを発見した増川氏は、実際には仏書をどの位調べたのだろうかと、
興味を持った

事も確かである。(2018/09/28)

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木村義徳説のインドで発生の将棋が、2世紀後に立ち上るが何故無い(長さん)

現在の定説によれば、二人制チャトランガが、インドのマウカリ国の
カナウジ付近で発生したのは、マウカリ国史から見て、西暦600年~
西暦650年である。そして、玄怪録の岑順物語が成立したと見られ
るのが、西暦820年と約200年後。日本で立ち上がったと、増川
宏一氏が、ものと人間の文化史23-1将棋Ⅰで書き、本ブログでも
同じ見解の時代が、インドの将棋の発生の400年後の、西暦1020
年頃である。
 それに対し、持駒使用の謎の木村義徳氏は、概ね西暦820年には、
将棋が日本に中国と、同時漂着していると説く。現在この説が有力に
ならないのは、

和名類聚抄を初めとして、史料に将棋が見出せない

からである。しかし考えてみると、

インドと日本とは離れているが、200年も有れば、文化は伝来する
のが普通なのではないか

と、単純には見られるのではないか。そこで本ブログでは、何回か答
えを書いたが、そうならなかったという増川氏に賛成の立場に立ち、
何故かを考える。そこで何時ものように、答えを先に書くと、

中国の西暦820年~西暦1020年までの知識人が、日本の朝廷
と庶民に対し、”将棋を指しても無駄である”と、実質宣伝したのが、
ブレーキとなり、木村義徳氏の言うようにはならなかった

という事にしたのである。今回は表題を、以上が答えになるように
書いたのだが、むしろここでは今の所、その

根拠が、玄怪録の岑順物語の記載であり、しかもそれだけである

という点を、わかりやすくまとめておくことにする。
 そこで以下は、いつのように上記の結論の解説であるが、まず、
存在する史料である、玄怪録の岑順の、日本への将棋伝来、遅れ
の原因論の、根拠となる

重要部分の箇所を示し、ついで解説する

事にしよう。
 なお繰り返すが、中国人が、やめさせたとの論の根拠となる史料は、
私の知る限り、以下しか無いと考える。
そこでさっそく書くと、問題の箇所は、
以下、金象軍と天那軍が戦い、主人公の岑順が応援している、
金象軍が勝利した場面の下りである。

(前略)
順(岑順)がうつむきながら眺めているところへ、一騎が
走り寄って王(金象将軍)からの言葉を伝えた。
「陰陽は交錯するもの、その機をとらえた者は栄えるとか。
天威堂々と、疾風のおしよせるごとく、一戦して勝利を
おさめたが、貴殿にはいかが見られたか」
順は答えた。
「将軍には白日をも貫く英気を抱かれ、天の時に乗じてお
られますありさま、神霊のはたらきと愚考つかまつり、
およろこびに堪えませぬ」
 こうして合戦は数日の間続いたが、たがいに勝ったり
負けたりしているのであった。(後略)

以上で、物語を史料としてみたときに重要なのは、
(1)(特に、岡目八目の加勢もせず)”順(岑順)がうつむき
ながら(将棋の一局)を眺めている”だけである
という事と、
(2)(主人公が加勢している側の軍隊の勝利の原因を、)
”神霊のはたらきと愚考つかまつり”と表現し、

プレーヤーとしての金象将軍の特定の将棋戦法や、妙手を
特段褒めても居無い(裏を返せばゲーム性が無く、どうやって
も、そのような物は、誰にも考え出せない)という情報を
実質出している

以上の2点である。
 もし宝応将棋にゲーム性があれば、仮に金象将軍が、宝応将棋
の上級棋士だとしたら、こんな評は、高段者に対して誠に失礼で
あり礼儀をわきまえない、非常識な物だと、怒り出す所であろう。
しかしそれで金象将軍は喜んで、岑順に対して、接待をしている
という話になっているわけであるから、宝応将棋の勝利棋士には、
局後に、この程度の事を言えばよいという、(伝)牛僧儒による
教えがあると、将棋史家は考えるべきなのではなかろうか。
 つまり、背後に存在すると見られる宝応将棋には、ゲーム性が
無い為、上級棋士だけに発見可能な、戦法や妙手を考え出せる
という性質が無く、序盤の駒の出し方は、ほぼお決まりのパター
ン、中盤以降は、上将で玉駒を追いかけるといった、単純な指し
方のコツがあるだけであった。だから、
(伝)牛僧儒のごとくの中国唐代~五代十国時代の、中国人の
知識階級は、日本人から当時の将棋について問われると、
日本人は外国人の指す宝応将棋を、岑順のごとくに眺めている
だけで良く、のめりこんで指しても、稽古事が上達するような、
芸を習うといった効果は薄いと答えた。そして日本人に対し、

西暦820年から西暦1020年まで、将棋には手を出さない事
を、実質的に薦めていた

と考えられるという仮説と、上記物語史料の内容は、よく読むと
マッチしているのではないかと、本ブログでは見るのである。
なお、上の玄怪録の岑順物語は、東洋文庫版の”唐代伝奇集(2)”
西暦1964年発行、前野直彬訳によった。この岑順のセリフ部
分は、概ね日本の将棋史書では、

”中略”の中に含まれ、言及された例が少ない。

 しかし目下の所、私に言わせると、木村義徳氏の仮説が、どう
して日本の史料と、合って居無いのかを説明できる、ヒントに
関する客観的史料は、残念ながら

これしか無い

ように思う。だから、
(伝)牛僧儒作の玄怪録岑順物語の主人公岑順の、上のセリフは、
少なくとも目下の所、

将棋史にとってはかなり重要

なのではないかと、私は見る。つまり繰り返して言うと、ここで
言いたいことは、

主人公の言う”神霊の働きによる勝利”という意味は、高度な
定跡の発見や、上級者にだけ指せる妙手の発見という事柄が、
”誰にも出来ない原理的に不可能な行為”という、唐代の中国人
識者の、宝応将棋に対する一般認識を反映したもの

と、この部分は一度は疑って読むことには、それなりの意味が
あるのではないかという事である。(2018/09/27)

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二中歴の大将棋のルール。将棋のように七七調で何故書かなかった(長さん)

 二中歴の将棋の項は、将棋が文字数で七七調で書いてあり、一部
に不明確な点も発生するという事で知られている。所が実際には、
二中歴で漢詩もどきに七七調なのは、小将棋だけであって、大将棋
のルール説明では、特定の句の中での文字数はバラバラである。もっ
と厳密には、玉将の位置まで表した、1~2句目だけが七文字で書
かれ、第3句目から崩れている。
 今回はこの二中歴の将棋の所で、小将棋で七七調で書いた文の後、
大将棋のルール説明をするところで、急に七七調を止めた理由につ
いて、論題にする。
 では、何時ものように最初に回答を書き、ついで説明を加える。

七七調を止めた方が、まじめな書き方に見えるため

だと、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を書く。
 そもそも、七七調に書いたからと言って、漢詩になる訳ではない。
日本語漢文を尤もらしく漢詩のように書いて、読者を楽しませてい
る程度の意味だと私は考える。つまり今度は音の数だが、五七五調
で、将棋のルールを書いたとしても、

俳句ではなくて面白川柳になるというのと、同じようなもの

だとここでは見る。つまり、文字数の七七調で将棋のルールを書い
ているのは面白いが、多少の

おふざけも入っている

と見えるのではないか。
 大将棋ルール記載部分の筆者が、相変わらず、三善為康だったの
かどうかは謎で、懐中歴には将棋しか書いていなかったが、二中歴
で、将棋と大将棋が両方入ったのかもしれないと私は思う。ただし
そう言える確たる根拠は、今の所無い。文字数の七七調が小将棋に
しか無いから、後で大将棋を付け足したように見ても、おかしくは
無いという、程度のものである。大将棋が西暦1140年前後成立
の懐中歴には記載が無いとして、その事情も、正確には私には判ら
ない。前に”大将棋という言葉が、この頃に始めて成立したと”い
う、可能性については論じたが、新しかったから、間に合わなかっ
た可能性も否定できないが、確実であるとまでは言えないだろう。
 懐中歴に将棋だけしかなく、七七調なら軽い書籍の感じがある。
だが鎌倉時代の、二中歴編纂の局面になると、大将棋が実際に成立
した時代よりも更に、成立時の緊迫感は無いはずだ。なのに、かえっ
て没落しつつある貴族は、大将棋を知らないと、公的場で恥をかく
というのも変だが。しかし何故かそういうことが、あるいは個別に
有ったのかもしれない。実際にはまじめに勉強しないと、藤原頼長
の居た頃と違って、鎌倉将軍の方が朝廷より強かった時代に入って
いるのに、何故か立場上、貴族はマズかったという事らしい。
 さて、以上のような仮説とは別に、大将棋のルールは、癖物のた
め、七七調では表しにくいので、たまたま止めたのかもしれないと、
考える向きも、あるいはあるかもしれない。ところが、実際には、
一例を示せば以下のように、二中歴大将棋、恐らく平安大将棋とは
同じもののルール説明は、さほど苦労しなくても七七調でも書ける。

又大将棋十三間
玉将各住一方中
金将在脇次銀将
次有銅将次鉄将
次有桂馬次香車
銅将不行隅四目
鉄将不行後三方
横行在王之頂方
行前一歩脇任意
猛虎立銀将之頂
行前後角各一歩
飛龍在桂馬之上
行四隅不伝多少
奔車在香車之頂
行前後不伝多少
注人在歩兵之頂
中心筋行前後歩
不行傍入敵金也
 (加賀前田家写本”二中歴将棋”より本ブログ作成。2018年)

だから、面倒くさかったからとか、急いでいたから、七七調にしな
かったというのは、このケースに限って言えば、やはり考えにくい
ことだと、私は思う。
 やはり、大将棋の件については、軽いおフザケで表現してはマズ
い何らかの事情が、西暦1200年頃には、有ったからなのではな
いか。だが、西暦1140年前後の懐中歴の時代にはそれが無くて、
小将棋のルール→継子立ての回答という順序で、調子良く書物が書
けたのだろう。何か天の雷に打たれたかのように、西暦1200年
には、大将棋のルールは正真正銘、まじめな文面に、しなければな
らなかった、当時は何らかの事情が、存在したのかもしれない。
(2018/09/26)

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チムールチェスの成立が1300年以降と遅いのは何故か(長さん)

増川宏一氏の、ものと人間の文化史23-1将棋Ⅰ(1977)に、
イスラム社会の、駒数多数象棋として、アラブ、ペルシャ、トルコ
の例と称するものが、図だけだが載っている。最上段の10升目制
のイスラム社会のチェスは、成立年代や経緯が私には不明だが、
2段目のペルシャのゲームと称するものは、西暦1300年以降の、
チムールチェスの類で、駒数が少し少ない初期タイプ、最下段の
トルコのゲームと称するものは、更に時代が下って、オスマン帝国
時代のゲームとみている。
 最上段の、銀将と象駒が、両方とも有るような、モンゴルのヒャー
シャタルのように見えるゲームは、成立年代が私には謎だが、

イスラム社会の駒数多数象棋、一般には”大型チェス”と言われる
ものは、駒数が現実多かったという点で、チムールチェス類から典
型的に始まるとすれば、日本の平安大将棋よりも、約200年遅い

と、言えるのではないかと思う。ちなみに、日本で将棋が始まった
のは、西暦1000年すぎ、イスラム社会で、イスラムシャトラン
ジが始まったのは、遅く見ても800年より少し前と、少なくとも
ここでは見る。だから、小型の将棋ないし象棋の始まりは、イスラ
ム社会の方が、日本よりも、逆に200年強早い。つまり合計で、
小型が初出し、大型の典型が現われるまでの時間差が、

日本については約100年、イスラムについては約500年と、
数倍も違うという事

になる。今回の論題は、なぜイスラム社会では、発生するとかなり
流行ったとされる大型への移行に、時間が掛かったのか、とする。
 いつものように、答えを最初に書き、ついで説明を加える。
 イスラム社会の小型標準象棋ゲームである、8×8升目32枚制
イスラムシャトランジは、ゲーム性能ではなくて、

宗教的要因だけで、長期間同じタイプのゲームが存続

した。大型のチェスとされる、チムールチェスの発生が遅延したの
は、ゲーム性能の難点に関して、比較的中世のイスラム社会の棋士
が、無頓着だったからである。しかし、モンゴル帝国に侵略される
という現実を目の当たりにした彼らは、精神論だけで、外国の軍隊
に勝てるという訳には行かないという、現実を突きつけられ、象棋
についても、

現実に発生するまでが長かった、対外戦争の敗北の悲劇という、イ
スラム社会にとっての改善の動機から、チムールチェスが発生した

ため、時間差が大きいと、本ブログでは見る。
 では、以上の結論につき、以下に、説明書きを添える。
 イスラムシャトランジが、中世のイスラム社会で盛んに指された
事は、名人筆のゲーム本が残っている事から、明らかと見る。
しかし、私に言わせると、イスラムシャトランジのゲーム性は低く、
玉駒を詰めるのは、終盤で車の力に、頼るだけになっていると見る。
それでも、名人は、それが巧みだから、イスラムシャトランジの
名人ではあったのだろう。しかしイスラムシャトランジを、ビギナー
が、少し指してコツが判った時点で、更に名人を目指して、ゲーム
にのめり込むようにさせるためには、この難点は継続の動機付けに
とって、致命的なような気がしてならない。そして、そのゲームを
別のものに変える事によってのみ、本質的に解決可能な、多数の
熟練者の存在する、成熟したチェス・象棋型ゲーム社会の形成に
とっての、

ポテンシャルの山は、宗教への忠誠心が有ったがために克服された

のだろうと私は推定する。根拠としては、現実に

中国や日本という異教徒の国で、イスラムシャトランジが流行った
形跡が無い

という点が、挙げられると思う。そのように、
8升目32枚制イスラムシャトランジの標準型が、西暦800年~
西暦1300年まで、無変化のまま支えられたのは、持ち駒ルール
によってゲーム性能を上げた、ずっと後世の日本将棋等とは全く違っ
て、社会の創始者のモハメットも、戦争の軍師として有能だったと
いう古事から、それを指す事によって、アラーの神への、忠誠心が
示せるという事で、イスラムシャトランジを熱心に指す動機付けと
なった、

宗教の力だけ

だったのではなかろうか。だから、イスラムシャトランジのルール
が安定していたと見られるのは、そのためだったと考えるのである。
 そして、その状況が変化したのは、騎馬戦や火砲といった武器で、
モンゴル帝国に、イスラム国家が敗北するまで、続いたのではない
か。だから、ようやくモンゴル帝国が中国の明王朝に破れ、北元と
して後退し、後継国家として、チムール帝国が成立したときに、

イスラム教徒は、遊び心ではなくて、まじめに各国の象棋・将棋の
ゲームルールを調査した上、駒数多数のチムールチェスを作った

のではないか。だからチムールチェスの中の、女王の動きの駒も、
ひょっとすると、日本の大将棋の奔王や奔横に関する情報を、集め
た結果、得られたものなのではないのか。
 以上のように、私は疑う。
 そもそも、日本の将棋駒と違って、イスラムシャトランジは立体
意匠駒であるから、駒の種類を増やすたびに、駒の形を細かく考え
なければならず、ゲームをそのようにするのに、それ相応の覚悟が
居るはずである。
 何れにしても、イスラムシャトランジ発生から、チムールチェス
発生までのタイムラグは長すぎ、いつでも存在しそうな、遊び心で、
イスラム社会に大型チェス(駒数多数象棋)が発生したとは、安易
に決め付けられない事は、確かなのではないかと私は思うのである。
(2018/09/25)

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二中歴小将棋が飛車角行無しと見破った増川宏一氏の眼力を振り返る(長さん)

今でこそ、webに出ているので、日本の平安時代の小将棋は、
飛車・角行の無い36枚制だろうと、皆が考えている。しかし
ながら、今から120年前~41年前までは、興福寺出土駒が、
発掘されて居無いため、実はそう言っても根拠となる史料は、
明確なものは、まだ無かった。説明は後でするが、仮に興福寺
出土駒があるから、平安小将棋に飛車・角行が無いと、証明で
きるのだとしよう。

では、120年前の幸田露伴が、最後まで二中歴の将棋に飛車
角行が無いのは、書き忘れただけと将棋雑考に書いたのに引き
かえ、将棋史研究家の増川宏一が、二中歴の将棋に飛車・角行
は無いと、約41年前に見破れたのは何故だったのか

を、今回は論題にする。答えを先に書き”興福寺出土駒より、
平安時代の将棋に飛車・角行が無い事は証明出来る”等の説明
は、いつものように、その後でする事にしよう。
 ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ(1977)の記載を
見る限り、回答は、以下のようになる。

”異制庭訓往来の小さい将棋が36枚制”と記載されている事
を、増川宏一氏だけが、重く見たから

である。
 では、以下に回答に関する説明をする。
 まず増川宏一氏が、異制庭訓往来の内容を説明した上で、
飛車と角行が、二中歴の将棋に導入されたのは、異性庭訓往来
が成立した、14世紀半ばより後であるとの旨を、指摘して
いるのは、法政大学出版局(1977)、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰの、日本の将棋の”7 現在の将棋の完成”
セクションの、”飛車の名称”の部分である。
 それに対して、幸田露伴の将棋雑考には、少なくとも、塩谷
賛氏の口語訳を読む限り”小将棋の初出は、初代大橋宗桂の時
代だ”と書いてあるから、

虎関師錬の異制庭訓往来の内容を、幸田露伴が読み損なってい
る事は確か

とみられる。むろん既に述べたように、虎関師錬の異制庭訓往
来は中国の、日本の時代で平安時代の、北宋朝に成立した、
広将棋の序を下敷きにしているとみられるために、小将棋と
小さい将棋が、駒数同枚数ゲームと、単純には推定されるもの
の、構成に将駒や車駒が有る事が自明でなは無い。単にそこか
らは、桂馬があるらしい事が、36禽という表現から、推定さ
れるだけである。
 しかし、”小さいものは”と、”多いのは”という表現で、
多いの方の、360枚制の将棋が、泰将棋と明らかに関連して
いるように見えるために、

”小さいの”を、平安小将棋関連と、見破った増川宏一氏の
西暦1970~1977年における眼力はみごと

であった。幸田露伴が、異制庭訓往来の将棋自体を見落として
いたかどうかは謎であるが、泰将棋と、虎関師錬の言う、
”多いの”とを、関連つけてはおらず、従って

幸田露伴が、異制庭訓往来の”小さいほう”に、小将棋の枚数
や、飛車角行無しに関する、情報が有りと疑っては居無い事は、
明らか

とみられる。

我々は、二中歴の将棋に飛車や角行が落ちて居無いとする、
西暦1976~7年の時点での根拠が、はっきりとしたもので
はなくて、、南北朝時代成立の異制庭訓往来だけだったという
事実

を、この事実から、かみ締めるべきだろう。つまり、

史料は出来る限り集め、しかもユメユメ読み飛ばしが有っては
ならない

という教訓が、ここから明解に読み取れると言う事だと、私は
見る。
 ちなみに、増川氏がものと人間の文化史23-1将棋Ⅰを
世に出したのは、韓国で、10枚前後の日本の将棋駒に、飛車・
角行が含まれない事を示した、新安沖沈没船の将棋駒の発掘解
析が始まる、1976年と、ほぼ同時だった。つまり、
これ以降、日本の平安小将棋時代の将棋駒が、遺品として多出
土する時代に入る。

 何れにしても幸田露伴は失敗したが、増川宏一は興福寺出
土駒が出る前(寸前)に、今では明らかに正しい事を、証拠
がはっきりしない時点であったにも係わらず、あっさりと、
示していた

のだ。なぜなら彼は、二中歴将棋の説明をしているだけでなく、

それが当時の主な将棋であって、記載された駒に落ちは無い

と自書で明確に表現しているからである。その点、二中歴将棋
の実体説明を、正確にしてはいるものの、それだけである、当
時の将棋史研究者の大勢とは大きく違う。なお”平安時代に、
日本将棋は無かった”との論は展開していないものの、平凡社
が1968年に発行した世界大百科辞典の”将棋”担当執筆者
は、”二中歴記載の小将棋に飛車・角行を足して、日本将棋を
成立させた”との旨の記載を、正しくしている。
 では、つけたしになるが、興福寺出土駒を知っていれば、そ
れが、将棋に飛車・角行が無い事の証明になるという理由を、
説明して終わる。なお、興福寺の出土駒が現在の出土数になっ
たのは、西暦2013年、数枚少ない状態には、西暦1993
年頃にそうなった。以上の結果から、次のようになる。
 興福寺の出土駒は、全部で現在29~30枚相当とみられる。
この中には、棒の先に歩兵と書いた駒を1枚、習字木簡の各駒
名を、1枚づつとカウントした分を含む。習字木簡については、
飛車の字も角行の字も、本来習字すべき字ではあったが、たま
たま他の駒名を同じものは、実質一枚だが、習字なので複数書
いたという仮説を、棄却検定する。
 すると、現状の普通の駒の出土数が26枚前後であり、棒の
先歩兵1個と、習字が金将、歩兵、酔象の3種類なら、だいた
い29枚程度相当である。西暦1993年から西暦2013年
の間では、これがだいたい20枚前後だったとみられる。
 そこで29枚としたときの、飛車・角行の合計出現平均確率
枚数は2.9枚であるから、
ポアソン分布で近似して、飛車・角行が一枚も出ない確率を、
数表で引くと、6%(1/16)位になる。だから、飛車・角
行があると仮定する仮説では、異常値が出たと見てよい。つま
り、これを裏返すと、

ほぼ飛車・角行は、西暦1058年~1098年の頃は無かっ
たと、出土駒史料に基づき、現在では推定できる

と言う事である。
 今は誰もが、興福寺の発掘成果の恩恵を受け、平安小将棋に
は飛車角行の無い、今の将棋だと理解しているのだが、西暦
1993年以前に、それが理解できる上に

そうはっきりと確信できたのは、

増川宏一氏等、異制庭訓往来をよく読んでいた、将棋史研究家
の一部にすぎなかった、という事を、少なくとも今以降の将棋
史研究家が、きっちり覚えておかなければならない事だけは、
明らかではないかと、私は思うのである。(2018/09/24)

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増川氏の持駒遅延発生説に不利な興福寺駒形に関する彼の認識は違う(長さん)

今回の表題は、一見すると意味不明かもしれない。研究者は客観状況を
しばしば自説にとって、有利に解釈する傾向がある。が稀ではあろうが、
そのようなありがちな傾向とは間逆な、その例外も有るという、やや不
思議な話を以下でする。
 従来より小将棋で持駒ルールが始まった時期に関しては、木村義徳氏
の”興福寺出土駒1058年物より開始”との、極めて早い説から、
増川宏一氏の、興福寺出土駒はおろか”西暦1500年の厩図の将棋ま
で、有ったとの確たる証拠は無い”とする、極めて遅い説まで複数ある。
当然だが、駒を裏から見て、表駒が判るから、持駒ルールのある将棋は、
先が読めるのであり、興福寺出土駒が、裏面を見て銀将から歩兵まで、
それぞれ区別できなければ、持駒ルール”超早期説”にとり不利である。
 区別する方法は、おおよそ2つで、成金の字体に銀将~歩兵でそれぞ
れ差があるか、駒の大きさについて、銀将~歩兵までで差があるかであ
る。前者の方が確実性が高く、後者が補助的である点は、既に本ブログ
でも述べている。
 ここではその補助的な方の、新安沖沈没船の出土駒のいわば、興福寺
出土駒(1058年物)版である、興福寺出土駒(1058年物)の、
銀将~歩兵の駒の大きさについて、以下議論する。
 答えから書いた方が、この尋常な流れではない話は、理解がしやすい
ので、結論から、先にどんどん書いてしまうことにする。
 すなわち、日本将棋連盟発行(2001年)木村義徳氏の「持駒使用
の謎」には、

1058年物の興福寺駒の場合”玉将と歩兵のみ大きさの違いが判る
程度であり、金将・銀将・桂馬(香車は出土して居無い)の間に、有意
な大きさの差は無い。であるから、裏の金の書き分けが有れば、表の
駒が何で有るのか判るという、手がかりが1つだけの状態である。”

との旨が記載され、

この見解が正しいと、本ブログでは考える。

 つまり、銀将~歩兵駒の間に形についての差が無いので、超早期派の
木村義徳氏にとっては不利で、増川宏一には有利な材料の一つがあると、
木村義徳氏自身が、著書の中で認めているのである。
 だから、木村義徳氏は、銀将~歩兵の成りの金の字体に差がないかを、
興福寺出土駒に関しては、必死になって探していたのだ。
 ところが、超晩期派の増川宏一氏は、自身の著書”将棋の歴史”
平凡社新書(2013)で、敵に塩を送るような内容の、次の主張を
しているという事である。

興福寺出土駒1058年物について、玉将から歩兵まで、駒の大きさは
順次小さくなっている。

当然だが、本ブログではこの見解は、

間違い

であり、増川宏一氏の説にとり不利となる事実は、本当の所は、彼の懸
念するようには存在しないと、ここでは見ている。
 そこで以下では、第3の著書として”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”
天童市将棋資料館(2003)の、出土駒の測定表に基づき、

木村義徳氏の言い分が正しく、よって増川宏一氏の遅い持駒ルール発生
説にとって、有利な材料の一つになっているという、おかしな内容の話

の説明を以下でしよう。
 興福寺出土駒(1058)について、出土していない香車を除き、
玉将から桂馬のうち、劣化して形が崩れている物は、予め除き、玉将か
ら桂馬までは、最も小さい駒の長さと、上下幅の平均値を、センチメー
ター単位で順に書くと、次のようになっている。
すなわち以下、玉将から桂馬までは、最も小さい駒(min.)。
玉将 2.9,2.2
金将 3.0,2.0
銀将 3.0,2.0
桂馬 3.1,(不明)
次に同じく興福寺出土駒(1058)の歩兵のうち、今度は最も大きい
物で、劣化していない駒の、同じく長さと、上下幅の平均値を、センチ
メーター単位で順に書くと、次のようになっている。すなわち、歩兵だ
けは(max.)を考える。
(max.の)
歩兵 3.1,2.0

以上の結果から木村義徳氏の主張を上下幅の平均値に対して適用すると、

木村義徳氏が、ずばり正しい事は明らか

である。つまり興福寺駒は玉将が、僅かに太いだけと言う事である。つ
まり、銀将と桂馬は1枚しか無く、大きさは同じ。歩兵は小さいものは、
銀将や桂馬よりも、縦横それぞれ最大で0.5センチ未満の差で小ぶり
の、細長駒やチビ駒があるが、製造時の誤差が大きい。ようするに、
大きめに製造ブレした歩兵は、ほぼドンピシャ銀将や桂馬と大きさが、
いっしょで、

大きさで表の駒の名前を裏面だけで当てられるという保障は、1058
年物の、興福寺出土駒に関しては、ほぼ絶望的

なのである。
 実は本ブログで、興福寺出土駒と対にして議論する、中尊寺境内金剛
院遺跡駒では、歩兵とその他の駒とで、字体がいっしょだが、大きさの
方は、縦横共に2ミリだが、歩兵(max.)が小さい。なおこのとき、
以前問題にした、成り二文字金将歩兵駒は、本来は金将として、集計か
ら外しておく必要がある。ただし、2番手歩兵を持ってきても、その差
は概ね10%程度の差なので、個人的には、興福寺出土駒(1058年
物)同様、中尊寺境内金剛院遺跡駒でも、”裏から歩兵と、銀将等を大
きさで区別”するのは、相当に困難だろうと、少なくとも私は見ている。
 それに対して、鎌倉時代末の新安沖沈没船出土駒の場合は、前に説明
したように、状況が大きく変わる。銀将が出土して居無いので、それを
除くと、玉将から香車までのmin.駒は、同じく駒の長さと、上下幅
の平均値を、センチメーター単位で書くと、次のようになる。
(min.)
玉将 3.7,2.3 
金将 3.4,2.4
桂馬 3.0,2.0
香車 3.45,1.15
歩兵のMax.駒と、歩兵の細長い駒を参考資料として今度は考えると、
同様に次の寸法である。
歩兵 3.2,1.55
(max.)
歩兵 2.8,1.2
(細長い歩兵。参考)
つまり新安沖沈没船出土駒の歩兵は、桂馬とは細いので違い、香車とも
短いので違っている。差は幅につき、今度は20%強有る。
 だから概ね3者は区別できるが、小ぶりで細長い歩兵が、混じる事が
あり、実際には

香車と相似形になって、少し、歩兵と香車の区別が弱いという状態

である。前に、新安沖沈没船出土駒ついては、駒の格の、1つ跳びなら
区別可能と、本ブログで説明したが穏当だったと、以上から判るだろう。
 以上の事から、増川宏一氏の”将棋の歴史”は、細かい議論について、
誤りが散見される事が判る。察するに廉価な本なため、自身の研究ノー
トは、著作のときに参照せず、議題だけ揃えるようにして、後は記憶だ
けでスラスラ書いて、ケアレスミスしてしまったのだろう。
 前に指摘した、異制庭訓往来のミスと、似たパターンではなかろうか。
 従って増川氏の、上記の廉価な通俗史の著作については、将棋史を全
体として把握するときに、論題を順を追って確認し、通史の把握に漏れ
が無いのかどうかを確認するのには便利だが、細かい議論の情報の厳密
さについては、厳格に見ると当てにならないと見られる。だから、論題
個々については、この通俗本で読んだ後には、真偽の詳しい内容を、
木村義徳氏の持駒使用の謎や、今回行ったような、天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒、更には増川宏一氏自身の将棋Ⅰ等の専門書、または必要な
ら古文書の元文献等で、必ず確認するという使い方が安全だろうと、私
には、思えるようになって来ている。(2018/09/23)

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石名田木舟遺跡(富山県)の金将破壊(?)駒の意味を考える(長さん)

富山県福岡町の石名田木舟遺跡より、西暦1995年前後に、
将棋駒と見られる木製遺物が、7枚程度出土している。
王将または王駒が3枚、金将駒が2枚、銀将駒が2枚である。
飛車や角行は、出土記録は無い。このうち論題の、金将駒の一
枚が、墨跡が薄くはっきりしないが、割いて細長い駒の切れ端
にした、模式的に書くと以下のような、特異な形をしている。

石名田木舟.gif

 ”石名田木舟(B2)遺跡”の王、金将、銀将のうちの金将
駒と名がついた遺物である。今回は、この特異な形をした、
”将棋駒金将の改造物”の意味について論題とする。いつもの
ように最初に結論を書き、その後に説明を続ける事にする。
まず、結論を書く。
 持駒使用の謎の木村義徳氏とは、真っ向から対立するが、
室町時代になっても、銀将~歩兵の成りの金将を、駒種類に
よって崩し方を変えて表現していたとは

考えられない

事を示していると、本ブログでは見る。
 では、以下に順を追って、この事を説明しよう。
 この遺跡は、古墳時代末から近世に至るまで、比較的幅の広
い時代の、混合遺跡のようである。ただし遺物として15世紀
後半程度のものが有名だ。将棋駒を見ると、石名田木舟(SK・
SD)遺跡の金将駒は、近世のような形に見え、その他は、室
町時代のものに、見ようと思えば見える形である。以下、この
遺跡の将棋駒のうちの6枚は、15世紀後半程度のものと、仮
に仮定して論を進めてみる。
 なお、写真や模写図はいつものように、天童市将棋資料館が
2003年に発行した、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”中
に記載されたものに基づき、議論する。
 まず、金将ではなくて、2枚の銀将を見ると、成りは一文字
金で、2枚ともほとんど崩れて居無い楷書のようである。しか
し、7枚有っても、この遺跡の歩兵~銀将駒は、銀将の2枚だ
けなので、他の種類の駒の成り金の書き方についての情報は、
基本的に無い。
 が、幸いだが、表題の金将の改造物は、模式図の解釈が正し
いなら、

細長く、香車ないし歩兵として再使用したとみられる形

をしている。実際には、金将駒を頭の右側から、やや左斜め下
に、駒の左筋と平行に真っ直ぐに切断し、ついで、頭の左側を
三角カットして、細長い”香車・歩兵駒型切れ端”に改造する
という、手の混んだやり方を採用しているようだ。むろん、私
が知る限り、このような将棋駒の改造品は、この遺跡のこの駒
だけである。
 では、どうしてこのような物を、作成したかだが、前に述べ
た、中尊寺境内金剛院遺跡の、裏2文字金将歩兵駒の類かもし
れないと、私は考える。 つまり、予備の金将駒を使って、
紛失した香車または、歩兵駒を補うための、工作だったのでは
ないかと、言う事である。金将の裏だと発掘者が思っている側
に、消えてしまったが、歩兵か香車と書かれていたのではない
かと、私は推定する。そして、これから言える事は、

駒を細長い形にする事によって、歩兵または香車が表されると
いう常識が、15世紀後半にも存在した

と言う事である。他の歩兵または香車が、この金将駒の破壊物
と、たぶん類似の形だったのであろう。しかし、作り直せば
良いものを、このような改造品の追加で、プレーが再開できる
と考えたと言う事から、次の事実が浮かび上がって来る。
つまり、金将の右側の一部が見えていれば、成りの金の表現と
して、それで、使用上は問題ないと、石名田木舟遺跡では15
世紀の後半には考えられていたという事である。
つまり、以下がたいへん重要だが、

香車と歩兵をが、正確に分けなければならない将棋を、指して
い無かった

という事ではないか。だからここで指された将棋は、恐らく
日本将棋ではなくて

15世紀後半でも、小将棋には飛車・角行は無く、平安小将棋
持ち駒有りタイプの将棋が指されていた。

だから、裏から歩兵と香車が区別可能なような、成りの書体の
厳密さは、前に新安沖沈没船出土駒の所で説明したが、つまり、
この遺跡の駒も、新安沖沈没船出土駒の類という事であって、
必要無かったと言う事であろう。この事から、かなりの精度で
日本将棋の発生時代を、特定できる可能性があり、たとえば、

応仁の乱の時点で、日本に日本将棋は発生していなかった

と証明できてしまうことを、示しているようにも私には見える。
 三条西実隆の実隆公記の西暦1506年7月9日分の”駒落
ちで飛車を落とす”とも読める記事に時代が近く、石名田木舟
(B2)の金将駒の改造物は、日本将棋の発生年代の上限と、
下限との差を、ひょっとすると20~30年程度までに、絞り
込むことを可能にするほど、興味深いものだろう。
 また、前に本ブログでは、室町時代の成り金書体の、駒種に
よる区別は、”史料が少なく判定困難”との旨を表明した。
 しかし、直接的ではないが、この石名田木舟の金将駒改造
遺物は、成り金書体の駒種による区別は、15世紀後半時点
では、少なくともまだ徹底はされておらず、成りが金将である
事がわかりさえすれば、金将の字の一部等でも良かった事を、
示していると見られる。よって、現代のように、銀将~歩兵の
駒について、

成り金の書き方を見ただけで、表駒がわかるようにしているの
は、戦国時代の一乗谷朝倉駒や滋賀県の観音寺城下町遺跡出土
駒が初出で、室町時代には無かった

と、結論されてしまうように思える。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真では、不明瞭な、歩兵
~香車型の木片として写っている、富山県福岡町石名田木舟
(B2)遺跡の金将駒だが、その位置づけは、案外重いのかも
しれない。私には発掘者に、心より感謝したい気持ちにさせら
れる遺物だと思われる。(2018/09/22)

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新安沖沈没船出土駒の銀将~歩兵駒。大きさを、それぞれ変えた訳(長さん)

本ブログの開設当初の頃だったと思うが、表題の新安沖沈没船出土駒
に関し「成りの書体が、銀将~歩兵まで全て、”と金”であるため、
持ち駒ルールに適さない」との指摘をした事があった。今回は、この
点に関し、銀将~歩兵駒の大きさの違いから、再度持ち駒ルールか、
取り捨てルールなのかを、議論してみようと思う。最初に、結果から
書き、ついで説明を、いつものようにする。

銀将か桂馬と香車の多く、香車+歩兵とその他が区別できるように、
不完全ながら大きさを変えており、平安小将棋の持ち駒有りルールで
プレーした駒と推定できる

と考える。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、大きさだけで区別するという方法は、

慣れるまで、裏から表の駒名を読むのに時間の掛かる方法

である。しかし、玉将と金将の大きさがわかり、銀将の大きさが、
少し玉将と金将より小さいことに、プレーヤーである、このケースは
船乗りの将棋棋士が気がつけば、

イ.銀将が、香車かまたは歩兵では無い事。
ロ.桂馬が、歩兵では無い事。
ハ.香車が、銀将では無い事。
ニ.歩兵が、銀将かまたは桂馬では無い事。

のイ~ニの事だけは、出土駒から実際には判る程度と見られる。
なお、銀将は出土していないので、上記で銀将は、金将に置き換えて、
やや模式的に解釈している。
 ともあれそもそも、成りから元駒が何かが判らなくてもよいなら、
銀将~歩兵まで、同じかまたは、区別が出来ない程度の差で良い。し
かし、実際には、問題の”新安沖または興福寺(チャーター)沈没船
または難破船出土駒”は、イ~ニが判るという点に関しては”Yes.”
になるように、駒を作成している。だから本ブログの以前の見解のよ
うに、この出土駒が、

取り捨てルール用とするのは、工夫がムダであり、やや不自然

である。そこで仮にだが、

指している将棋が日本将棋ではなくて、平安小将棋の場合、イ~ニが
Yes.であって、持ち駒ルールの平安小将棋の場合、

イ’.銀将は桂馬と間違えたとしても、得は少ない。
ロ’.桂馬は香車と間違えたとしても、得は少ない。銀将と間違えた
としても、影響は軽い。
ハ’.香車は歩兵と間違えたとしても、得は少ない。桂馬と間違えた
としても、影響は軽い。
ニ’.歩兵は香車と間違えたとしても、影響は軽い。

と言う事が、仮に有るとしよう。そのような場合、

字体がそれぞれ、きっちりと違わず、跳んで一つ向こうの順番の駒と、
間違いが無い程度に、大きさが変えられているだけで良い

事になるだろう。じつは、日本将棋と異なり、平安小将棋は、

相手の陣の相手の駒の利き升目が、まばらである事が多い。

飛車角が居無い、分守りが弱いからである。つまり、

次に成れるように打つのが日本将棋に比べて、平安小将棋の方が簡単

だ。だから、どのみち1手掛ければ、成り金になるのは同じなので、

駒の種類による持ち駒の価値に、日本将棋ほどの差が互いに出ない

と、私は見ている。つまり、
銀将、桂馬、香車、歩兵の順位で、隣同士の駒に成り金の元駒を
間違えても、致命的な影響は普通出無いと考えられる。つまり、
成り金の金の字の書体を変えなくても、

駒の大きさで一つ飛ばした、向こう側の順位の駒と間違えないよう
な精度があれば、平安小将棋の場合、日本将棋と違って、かくべつ
の文句が、勝負師等から出にくい

のではないかと、考えられると言う事である。
 この事から、飛車角が入って日本将棋へ平安小将棋(持ち駒有り)
が進化する以前は、

成り金の書体の工夫という技術が、遅遅として進まなかったのでは
ないか

と、私は予想する。
論題の”新安沖または興福寺(チャーター)沈没船または難破船出
土駒”は、どうやら飛車角の無い、平安小将棋の駒のようである。
そのため、成りは”と金”と表示してあり、銀将が恐らく金将に近
い大きさであって、順次、

イ.銀将が、香車かまたは歩兵よりは大きく見える。
ロ.桂馬が、歩兵よりは大きくまたは太く見える。
ハ.香車が、銀将よりは小さくまたは細く見える。
ニ.歩兵が、銀将かまたは桂馬よりは小さく見える。

という、駒のばらつきも含めた、大きさの差がありさえすれば、

それで、持ち駒ルールの有る平安小将棋は、プレーヤーから文句が
出ない程度の精度で、実は指せた

のではないか。以上のように最近私は自分の、論を修正して考える
ようになって来たのである。(2018/09/21)

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