So-net無料ブログ作成

”大将棋”という言葉が、日本で始めて使われたのは何時(長さん)

本ブログの見解では、西暦1110年頃に、平安大将棋(13升目
3段型68枚制)が、恐らく陰陽寮の、安倍晴明の玄孫等の働きで
形成されたときに、

大将棋という名称はつけなかった

との解釈をする。”正しい日本の標準的な将棋”を意味するゲーム
名だったはずである。これを本ブログでは、平安将棋の第二標準と
仮称する。なお第一標準は、白河天皇と大江匡房が西暦1080年
頃に作成した、9升目36枚制双王型の標準型平安小将棋と、ここ
ではみている。
 しかし、藤原頼長が台記で、恐らく上記の”正しい日本の標準的
な将棋”と同じ物を指した西暦1140年過ぎには、既に大将棋と
呼ばれていた事も確かである。
 では、どのような経緯で、いつ大将棋という言葉が日本で定着し
たのかを、今回は論題とする。
 さいしょに、いつものように結論を書く。

中国北宋の詩人、李清照(易安)(1084~1153)の著書、
”打馬賦の序”(1136)の中国の大象棋の記載を、藤原頼長が
西暦1140年過ぎまでには読んでいて、日本の第二標準将棋に
その命名を転用した

と、本ブログは、ずばり推定する。従って、

日本で大将棋という名称が発生したのは、西暦1140年頃と推定

される。
 では、以上の結論につき、以下に解説する。
李清照(易安)の著書、”打馬賦の序”については、幸田露伴の、
将棋雑考の塩谷賛氏の口語訳に載っている。打馬という、すごろく
を複雑にしたゲームに、シャンチーとゲーム名しか判らない、幻の
中国大象棋の文字が出てくるとの、事のようである。実はこの話
は、日本の将棋史界でも余り知られておらず、将棋ゲームと歴史の
研究家で知られる岡野伸氏の自費出版書にも、中国大象棋の話が載っ
てい無い。それどころか、幸田露伴の将棋雑考のオリジナルに、
李清照の”打馬賦の序”の話は見当たらず、事情は不明だが、

塩谷賛氏が、将棋雑考を口語訳したときに、加筆した疑いが強い。

ともあれ李清照の”打馬賦の序”には、すごろく類似ゲームとして
の打馬ゲームのうち、駒数20枚制についての詳しいルール説明が
あるとの事であり、その書の序文に、中国大象棋の文字だけが現わ
れるということらしい。
 つまり私はその序を調べていないためそれ以上の事が判っていな
いが、webでゲームとしての片側駒20枚制打馬の説明を見ると、

ゲーム盤に背景画として、中国シャンチーの盤を描く事と、河が、
打馬の盤の升の一部として使用される事に特徴が有る

と記載されている。つまり、

藤原頼長にも、李清照の”打馬賦の序”を読めば、中国大象棋(表
示は、大象戯)が、第二標準平安将棋になぞらえることが可能であ
る事までは判る

と、予想される。
 他方、

李清照(易安)の書物は、日本では初期からたいへん人気があった

と見られる事から、西暦1136年に李清照が”打馬賦の序”を著
作すれば、その7~8年以内に、藤原頼長が、それを読んでいても、
特におかしくは無いように私には思える。つまり、藤原頼長が日記
に書くまで、特に平安大将棋は、大将棋とは言われていなかったの
だろうが、

たまたま藤原頼長あたりが、大将棋という言葉を、使い始めた最初

で、藤原長者の言だっただけに、普及したのではないかと疑われる
と、私は疑うのである。
 なお、実際の中国大象棋と、日本の平安大将棋は、駒の数と盤升
目が、それぞれシャンチーと平安小将棋よりも多いという点以外に、
類似性は無かったと、ここではみる。李清照は、”打馬賦の序”の
中で、打馬に、言わば大打馬と中打馬と小打馬があり、そのうち、
駒数片側20枚の打馬を、典型的なものとして、ルール紹介してい
ると聞く。よって、これが例えば中打馬だとすれば、webの打馬
の情報をも足せば、

背景の飾り画が、大打馬では中国大象棋だった可能性が高い

という事だろう。つまり

中国大象棋にも河があり、駒は交点置きだったという事

になる。これは、升目置きの日本の平安大将棋とは、明らかに違う。
恐らく”幻の”中国大象棋は、岡野伸氏の著書にあり、前に本ブロ
グでも取り上げた

朝鮮(雷淵集)の広将棋と類似の物

だったのではあるまいか。
 以上で、本論題の説明は終わる。何れにしても、幸田露伴の将棋
雑考を、塩谷賛氏が口語訳してくれなかったら、以上の話は、私に
は少なくとも簡単には判らなかっただろう。よって、たぶんだが、

幸田露伴の口語訳に、オリジナルに対して李清照(易安)の打馬賦
の序に関する加筆を更にしてくれた塩谷賛氏には、深く感謝したい

と私は考えるのである。(2018/09/20)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

裏二文字金也歩兵駒が西暦1010年代発明時、どう読み下されたか(長さん)

前に述べたように、本ブログでは日本に将棋が伝来して、日本の
推定博多で五角形駒が発明されたとき、発明品には歩兵駒の裏は、
金将と書かれていたと見る。そして、この駒を使用した棋士から、
”配列時に元から有る、不成りの金将と間違える”とクレームが
つき、”金也”に名称を変えたとした。五角形駒の発明は、西暦
1015年1月~2月と推定され、恐らく刀伊の入寇の後の、ま
とまった将棋駒の生産時、西暦1020年年初には、楷書の金也
にしたのであろうと、本ブログでは見る。
 また本ブログでは、この金也の字には、ユーザー棋士の願いが
こめられており”金”で貨幣や黄金ではなくて、”金の将校”が、
しっかりイメージされなければ、ならないと見る。しかしながら、
将という字が省かれてしまうと、以上のように、ユーザーから、

願掛け五角形駒として、歩兵の裏の字の表現が弱い

と再度、文句が来る可能性が無いのかという、懸念があるとも考
えられる。つまり生産者である、(推定)博多の写経所寺院では、
こうした、(推定)”藤原隆家および、その配下からなる将棋棋
士としてのユーザー

武者”の要望を、どうにかして処理しなければならなかった

はずである。では、どのようにして、ほぼ西暦1020年までに、
将棋の歩兵駒の意匠を、

金也から、更にユーザーが喜ぶように変えたのか

を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、後で説明を加える。

”金ニ也”と、金の右下にカタカナのニを補い3文字駒を作った

のかもしれないと、本ブログでは推定する。では、以下に説明を
加える。
 この論のポイントは、興福寺出土駒(第1期)の頃、すなわち、
西暦1058年には、実際に出土していると本ブログでは見なす、

金也駒のこの字は、普通は”金(レ点)也ノ”と読まれたはずだ

という事である。つまり、元から金将で、成りは無い駒とは違い、
成りで発生する金であると表現されているという事である。しか
し、これでは、将の字が無いので、推定されるユーザーの苦情に、
的確には答えられていない。しかし、我々も以上のように金也の
字を解釈するのは、五角形の

経帙牌が将棋の駒であって、将棋のルールブックではない

と、決め付けているからである。つまり、”金也”を、武者の階
級マークのようにイメージするからである。しかし、恐らく大宰
府の武者から、上記のように文句を言われたとき、博多の写経所
の五角形駒を発明した僧は、雲南大理国将棋(原始平安小将棋、
持ち駒無し8×8升目32枚制)が説明会で、北宋交易商人(一
例)周文裔によって、ルール紹介されたときに、経帙牌を、自ら
がルールブックとして使用した事を、思い出したのではないか。
つまり、歩兵について記入した、ルールブックとしての経帙牌の
裏には、ルールとしての、雲南の将棋の歩兵の成りを、

”成ハ金将也”等と書いた可能性が高い、

と、私は考えるのである。すると、武者から来た、歩兵駒の裏の
表現についての苦言は、

成った駒名を書くのではなく、表の”歩兵”に引き続いて、ルー
ルを、短文で書けば解決できるのに、発明者は当然気がついた

に違いない。つまり、歩兵駒は、表に歩兵、裏に金也と書くので
はなくて、

表に歩兵、裏に金ニ也と書いて、歩兵ガ金ニ也(也は成ルの洒落)

と、ユーザーである藤原隆家の部下の武者に読ませれば、問題が
解決すると、当然見たのではないか。そこでとりあえず、
歩兵の裏は、西暦1020年の頃、

”金也”から”金ニ也”と3文字にした事があった

のかもしれない。だが、当時は漢文が標準的書き文字で、補うカ
ナは書かなくても普通だったので、発明者から聞いただけで、

将棋駒ユーザーの武者は、金ニ也と書かなくても、金也でも、
”金(レ点)也ノ”とは読まずに、”金ニ也ル”と読んでくれる
ようになり、元の字に戻すことが出来た

のではないか。そのため、そんなやりとりが有った以後は、元の、
裏2文字”金也”歩兵駒が、歩兵である大宰府の武者が、活躍し
て金将に成る事を予言する、縁起の良い物品として、急速に普及
したと、考えられるのではないか。以上のように思えるのである。
 以上で論題には答えたと考えるが、この事は以下の意味を持つ
と思う。
 即ち以上の経過は、駒の裏に成りの字を、どう書くかという点
に関して、日本国内の事情で、自由に取り替える事ができた事を、
金也という表現が、少なくとも示唆しているように私には見える。
そもそも既に、有る程度使用淘汰された”おおもと”が、外国に
有りそれが輸入されたなら、”輸入した後都合で変えた”ような、
金也などという、ゲーム具の意匠として、説明文のような成り表
現の有る駒など、普通は出土しないのではないか。

つまり、特に歩兵の裏二文字金也駒が、11世紀中の物品として
出土しているという事は、裏側に成り駒を書くという手法が、
外国の伝来技術では無く、日本国内での発生である事を強く示唆

しているように、私には見えるという事になるのである。
(2018/09/19)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩手県中尊寺境内金剛院遺跡出土の裏2文字金将歩兵は何故存在する(長さん)

前に、岩手県平泉市の中尊寺境内金剛院遺跡出土の歩兵~銀将駒
の成りを議論した。裏楷書”金”+”丶”駒と、裏一文字一筆書
き”ケ”金駒の2種類が出土していると、本ブログでは見るとい
う事であった。実は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のカタログ
によると、1枚だけ、この枠組みから外れる駒がある。
 表題のように、成りが金将と書かれた、いっけん尤もらしいが、
実はこの1枚しか、全国的に見ても出土して居無い、奇妙な将棋
駒が有るのである。上記カタログには”成りは金将か”と、コメ
ントされた、表は別の歩兵の駒と、同じように歩兵と書いてある、
歩兵駒である。そこで今回の論題は、表題に書いてしまっている
が、この裏2文字金将歩兵駒は何故存在するのか、とする。
 そこで、これについてもいつものように、先に回答を書いてか
ら、説明を後でする事にする。答えを書く。

予備の駒がたまたま出土していると、私は考える。

では、以下に説明をする。
 そもそも、ゲームを始めた際、この駒を使うと、間違って金将
の所に、この駒を置いてしまうという事故が発生するのは、明ら
かだと思う。だからこの駒は、実際には、なるべく使いたくない
駒のはずだ。しかし、こんな駒を作ったのには、何か訳があるの
だろう。
 今でも、将棋の駒セットを買うと、歩兵が1枚余計についてく
る。駒をなくしたときのため、本来は日本将棋の駒は40枚なは
ずであるが、たいがい余分に歩兵が一枚有って、41枚で、ワン
セットになっているようである。昔も、同じような事をしたのか
もしれない。ただし、中尊寺境内金剛院遺跡出土駒の場合、玉駒
が出土していないため、恐らく玉将2枚がどうなっているのかは、
謎なのだが、

金将・銀将・桂馬・香車・歩兵が、余り大きく駒の大きさ形が
違わない

という特徴がある。そこで考えられる事は、出土したこのへんな

裏2文字金将歩兵駒は、歩兵を1枚紛失したために、実際に使用
されたのではないか

とも、考えられるという事である。つまり、

金将と間違えてしまうのは我慢して、不足の歩兵を元々の予備の
金将を改造して、代用で急ごしらえして使ったもの

という事である。現在の日本将棋の一般的な商品と違い、歩兵を
1枚予備に作成したのではなくて、金将が元々1枚余分に有って、
余っているはずなのであるが、歩兵が無くなってしまったので、
その裏に歩兵と書いて、代用したと考えられると言う事である。
 このように、元々の予備駒を、歩兵ではなくて金将にする利点
は言うまでも無く、

歩兵の代用としてだけでなく、歩兵、香車、桂馬、銀将、金将が
1枚不足したときには、金将のケースを除いて字を書く手間はあ
るが、どれでも代用に一応できる

という点が、考えられる。ただし、裏が草書の一文字金や、楷書
の一文字金+”ヽ”では無いので、金将と間違えて使ってしまう
欠陥は、有るという事だろう。ただし、駒不足でゲームが不能に
なるよりは、その方がマシには違いない。
 そのため、ひょっとするとこの時代には、さいしょから

金将駒は、多少余分に用意する傾向が有った

のかもしれない。
 以上の話よりも、さらに信頼性は低いが、興福寺の出土駒に
金将が多いのも、予備の分が、ひょっとして入っているせいなの
かもしれないと、一応は疑える。(2018/09/18)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

平安小将棋。歩兵~銀将の成りの金の、一文字化の経過(長さん)

本ブログでは、興福寺出土駒(1058年物)の歩兵~銀将の成りに
関して、次の点の認識が、木村義徳氏著「持駒使用の謎」日本将棋
連盟発行(2001)とは基本的に異なっている。すなわち、

成りの金の書体は全部楷書であり、その一部に、草書の金や、と金が
書かれたものがあると、本ブログでは認識しない

のである。
 木村義徳氏は上記の成書で”歩兵の多くの成りの金は(と金ではな
いが)銀将の成りの金のように楷書ではなくて、崩して書かれている”
との旨表明している。が、本ブログでは、

全部地中での劣化で字が擦れた事により、崩し字のように見えるだけ

と考えているという意味である。そもそも木村義徳氏は銀将の成りが、

金ではなくて”金也”であるとの点について、”廃棄の印である”と
して、簡単に切り捨てている点

も、本ブログとは大きく違っている。本ブログでは、成りの金が一文
字になる初出を、興福寺の10世紀の駒ではなくて、

岩手県平泉市の中尊寺境内金剛院遺跡出土の歩兵・桂馬駒(12世紀
後半~13世紀前半)が、初出時代として明解なもの、

とみる。なお、山形県酒田市の城輪棚遺跡の兵駒は、最近では、少し
時代が下ると見られていると、私は聞いている。
 以上の事から、
本ブログでは、伝来時”金将”表現だった歩兵~銀将の成りは、一足
飛びに、”字体の違う一文字金”となって、全ての遺跡に存在するの
ではなく、興福寺駒と、中尊寺境内金剛院遺跡出土駒のうちの多くが、
中間的な崩れた”也”付きの、金は楷書の

2文字表現である

とみるのが正しい認識と、私は考えるのである。そこで今回は、本ブ
ログの事実認識が、仮に正しいと仮定の上、以上を出発点として、

歩兵~銀将の成りの金が、一文字金化した経過を議論

する事にする。
 いつものように結論として言える事を最初に書き、説明を後でする。

(1)楷書で”金将”と最初期駒(推定・西暦1015年1~2月)
には書いた。が直ぐ後に、
(2)”金也”と楷書で書かれるようになった。ついで、
(3)金が楷書のまま、也だけ崩され始めた。そして遂には、
(4)也は長い”ヘ”や、点の形で、興福寺駒の時代は推移した。
更に、
(5)也はかすかに”・”と表現される状態にまで崩れ、その状態で
中尊寺境内出土駒のうちの、やや古い物の時代を経過した。しかし、
(6)”也”が消え、楷書で一文字金と表現される時代は、瞬間で終
わった。つまり、
(7)その後直ぐに、歩兵~銀将まで”ケ”を一筆で書いたような、
共通の草書へ置き換わった。中尊寺境内出土駒のうち、比較的新しい
ものが出来た頃に、草書成りは始めて、明確に成立した。
(8)ただし、南北朝時代だけ例外だが、戦国末期まで銀将や桂馬に
つき楷書の一文字金も表れ、これと(7)の草書の一文字金が、混合
した状態で使われた。しかも草書体は、だんだんまちまちに変化した。
ただ鎌倉時代末期~南北朝時代にかけてだけ、例外的に、現在歩兵の
成りとして使用される”と金”が、楷書の金や、他の草書体より多く
使われる傾向が有った。
そして、
(9)駒種により書体が違い、かつそれが同じ形の今の書体で、かつ、
歩兵の成りが”と金”に整備されたのは、安土桃山時代である。
ただし、適当に書体を別々にすれば、表の駒の種類は判るから、遅く
とも戦国時代に入ると、持駒ルールに適した、銀将~歩兵が発生して
いたと、本ブログでも考える。

以上のように結論する。
 では、以上の結論につき、以下に説明する。
 まず、興福寺駒の成りの書体についてだが、我々の見方は、

楷書にはどうみても見えない場合だけ、擦れた出土駒の字を、別書体
で見る

という考え方としている。だから、木村義徳氏の持駒使用の謎は、
絶対間違いとも言えないし、逆に本ブログの見方が、事実とは絶対に
は違う、という事は無いと見ている。どうして木村氏の見方を、
本ブログでは取らないのかと言えば、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
という成書でも、興福寺出土駒の成りの字の解釈の一部、銀将等に、
金也(?)と、2文字という指摘があるにも係わらず、木村氏の書籍
で”廃棄品の印等か”と簡単に切り捨てられ、あたかも現代流の成り
金書体の区別で、全てが説明できるかのように書いてある事に対する、

本ブログの不信感。その一点だけ

から来る事を、まずは表明しておく。
 興福寺出土駒の歩兵~銀将の裏面には、実は全ての駒について、
”金”と見られる字の下に、点とか”へ”の字の長い、墨跡があると
考えても、駒の劣化状態から見て矛盾が無いと、私は見ていると言う
事である。そして、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、その金の下
の墨跡に”也か?”という説明書きがついているのであるから、全国
全ての出土駒に対して、廃棄品たる説明をしているのなら別であるが、
少なくとも一旦は、”金也”と、読むべきではないのか。

そもそも、歩兵~銀将の裏に、金将と、楷書で書かれず、金也とみら
れる字が書かれたのは、元からの金将の位置に、これらの駒を、誤っ
て裏返して並べて、ゲームを開始しないようにするため

であると、簡単に説明できる事は明らかと、私は見る。
 ただし残念だが進化の段階で、金也全てが崩されずに、也だけ崩し
た理由は、それが駒名ではなくて、書いてある内容の説明の一種であ
り、軽いからかもしれないが、私には正確には説明できない。しかし
ともかく、中尊寺境内出土駒の銀将、桂馬、香車にも、点つまり
”・”だけ残って、”(楷書)金・”と、駒の裏に書かれた駒が、事
実として出土しているのだから、

興福寺駒と中尊寺境内金剛院遺跡出土駒を両方見ると、

時代が下るに連れて、也だけ崩していったとしか、私には思えないの
である。すなわち”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の、岩手県中尊
寺境内金剛院遺跡駒の、141番の香車、143番の桂馬、144番
の銀将、145番の銀将の裏面の”金”下の”ヽ”は、汚れではない
と、今の所、私は見ていると言う事である。
 このパターンが、

興福寺の”く”や”へ”や”・”付きの金と、中尊寺の”ヽ”付きの、
比較的、保存状態の良い4枚の楷書の金とでいっしょなのは、明らか

なのではないか。よって、擦れて良く判らないので証明は出来ないが、
少し条件がましに見える、中尊寺境内金剛院遺跡駒を参考にすると、

興福寺出土の(1058年物の)”く”や”へ”や”・”の付いた金
が、同じ書体の楷書の疑いは、かなり高い

と私は見るのである。
 また、中尊寺ではこの楷書金+”ヽ”のパターンだけでなく、草書
の金の一種と見られる、”ケ”を一筆で書いた共通の駒の裏の字の出
土駒も、少なくとも3枚は出土している。136番・138番の歩兵
が2枚と、142番の桂馬1枚である。このうち、138番の歩兵は、
天童の出土駒と全国遺跡出土駒では、”と金”とされるが、私には、
”と”の字の一画目は偽者で、更に下に”L”の字が続いていて、
これも”ケ”を一筆で書いた字のように、見えてならない。つまり、

中尊寺駒に関しては、くずし金の書体も、駒種によらず同じで、
裏側から、表駒を判断できるとの、確たる証拠は未だ乏しい

と見るという事である。なお、本ブログでは興福寺駒に関して以前、
銀・桂・香の裏は”金く”、歩兵の裏は”金・”と表明したが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の興福寺出土駒の16番の歩兵が、
”金く”のようでもあり、言いすぎであり、必ずしも興福寺1058
製出土駒の

歩兵が、他の駒でない事が、成りの字体だけから判るようになってい
るとの確実性は無い

と、最近思うようになってきた。
 私が知っている限り、表の駒種で成り金が、現在と同じ書体で、お
のおのの書体になってるのは、曼殊院の将棋馬写が初出で、それは、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の時代と、同じ頃だと思う。むろん、現
在と同じ書体の組合せで無くても、字体を互いに別にすれば、同じ理
屈で、裏から表の駒の種類は判るだろうから、冒頭述べた(8)の戦
国時代に入った段階で、持ち駒ルール用の、銀将~歩兵が発生出来る
事は、確かではあろう。なお、室町時代初期の駒については、出土例
が不足で、どちらとも言えないと私は思う。
 以上のように、日本の将棋駒の金成り表現は、当初”金也”という
表現方法を取る事から出発した。恐らく京都の雅という美的感覚から
だと私は思うが、駒種によらず草書体で、”ケ”を一筆で書いた共通
の駒の裏の字にしたのが、西暦1150年ないし、その少し後の、奥
州平泉文化、華やかなりし頃の、中尊寺境内金剛院遺跡駒の時代なの
であろう。言うまでも無いがその時代、麒麟抄の伝”著者”10世紀
末~11世紀初の藤原行成は居ない。当然だが、この事からはまた、

麒麟抄の将棋部分の著者は、平安時代ではなくて、南北朝時代の偽者

と断定できると私は考える。藤原行成の時代には、興福寺出土駒のパ
ターンを過去に外挿すると、成りの金は楷書で書き、ただし”也”と
いう字を、場合によっては崩して下に付け、”成りは金将で、これは
裏面で、成り駒を表している”という意味を、也または、崩し字の
”也”で示していたと、私には推定されるという事になる。(2018/09/17)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

興福寺酔象と京都上久我荘遺跡の酔象の中間時代の酔象は有るのか(長さん)

西暦2018年9月の中旬現在、酔象駒で最も古いのは、奈良県
興福寺の西暦1100年より僅かに前の頃の、不成酔象であり、
次が南北朝時代の、京都市上久我荘跡遺跡の、成り不明と見られ
る酔象である。両者の間には、250年位のタイムラグがある。
なお、本ブログでは、普通唱導集より数十年手前で、酔象が、
大将棋の駒として、成り太子で復活と見る。これは、蒙古来襲の
時代に合わせて、酔象が将棋駒の世界に返り咲いたと、少なくと
も本ブログでは見るからである。
 では、西暦1100年から西暦1250年の間、たとえば、
西暦1225年程度の時代の遺跡、とみられる所から、今後酔象
が発掘される可能性が無いのかを、本ブログのこれまでの論を振
り返って、今回は論題にしてみる。何時ものように結論を先に書
き、説明を後でする事にする。

ありきたりの寺院や、合法的では無いような賭博場といった、
B級遺跡から、西暦1200~1250年頃の、不成り酔象は
今後発掘される可能性がある

と、本ブログでは予想する。
 では、以下に説明をする。
 以下私見であるが、本ブログでは

寺院型平安小小将棋というゲームが存在する

との立場を取っている。これは、

鳥獣戯画に描かれた、僧侶と庶民の将棋である

と解釈する。前に本ブログで述べたが、鳥獣戯画に描かれた将棋
は、7×7升目の将棋に見えるという見方が有力であり、本ブロ
グでは、正しくは以下の、6×6升目の将棋を、デフォルメして
描いたものと見ている。

香車酔象金将玉将銀将桂馬
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
桂馬銀将玉将金将酔象香車

 上図で、上の方の2段の駒は、相手の駒であり、下の2段の駒
が自分の駒である。そしてこの将棋は取り捨てで、酔象が角行の
動き。酔象・金将・玉将以外が、相手陣の2段目で、皆金将に成
ると、ここでは見る。ほかは、普通の将棋の動きである。
 さて橿原考古学研究所の清水康二氏は、庶民の将棋という概念
の実存在を、自身の論文の中で、かなり制限している。この点に
ついて本ブログは、

賛成の立場

を取る。しかし、上記で述べた鳥獣戯画が、問題の西暦1200


~1230年頃には、庶民の将棋が発生していた

と考えられる、史料と見ざるを得ないのではないかと、同様に、
本ブログでは見る。つまり、

鳥獣戯画は、”庶民の将棋”の初出史料と見るべき

ではないかとの立場を、本ブログでは取る。そして、上で述べた
ように、

庶民が最初に指した将棋は、寺院型平安小小将棋(仮称)と表現

される、取り捨て型の将棋だったと、ここでは見ている。そして
後に、西暦1300年を過ぎると、恐らく普通唱導集で表現され
た、小将棋(持ち駒有り型)に、”庶民の将棋”も変化したと、
本ブログでは見るのである。
 以上の仮説は、少なくともあらわに否定できるような史料が、
現在の所無い事だけは、確かなのではないかと、本ブログは見る。
 しかし、こう考えると、取り捨て型の、恐らく後鳥羽上皇の御
前で指された、9升目の標準的な平安小将棋や、鎌倉かと見られ
る今小路で賭博に使われたと、本ブログでは文献解釈する、8升
目型の原始平安小将棋を、西暦1300年頃までは、庶民が指さ
なかった理由を、説明する必要も出てくるだろう。
 上記の条件で庶民が居るような所から、将棋駒が出土していな
いから、史料とは矛盾していない事は、確かではないかとは見る。
そして、庶民が、将棋を指し始めるのが遅れたのは、

標準平安小将棋や原始平安小将棋が、玉が詰めにくいと言う点で、
賭博性、ゲーム性が無いのを、庶民および、場末寺院の僧侶も知っ
ていたから

だと、本ブログでは考えるのである。そもそも、6升目型の寺院
型平安小小将棋は、駒種類の構成が、9升目の標準型平安小将棋、
8升目の原始平安小将棋とほとんど共通であり、

更に不成の酔象が、小型であるにも係わらず余分に加わったもの

である。従って、識字の点でハンデの有る”庶民”にとって、
寺院型平安小小将棋も、平安将棋もほとんどいっしょである。
しかし、庶民は、

武家の願掛けが起源の原始平安小将棋や、白河天皇と大江匡房の
指示で上流階級が指していたとみられる、標準型平安小将棋を、
指さなければならない筋合いは、ゲーム性が無いなら特に無い

はずだ。庶民にゲームが広がるときには単純に、面白いので

ゲーム性が高いゲームが、自然に広まるだけ

なのではないかと本ブログでは見るのである。以上のような事と、

大江匡房が使用を禁止したとみられる、酔象を敢えて賭博では
使うという、いかがわしさ、怪しさが、返って庶民の間ではウケ

て、鳥獣戯画に記載されているように見える、寺院型平安小小将
棋は、案外B級寺院や、インフォーマルな賭博施設等では、地味
な形で庶民に指された、最初の将棋だったのではないかと、私は
思うのである。
 そして、この将棋には、本ブログでは興福寺出土の酔象の後継
と見られる、

不成りの酔象が1枚有った

と、ここでは見る。従って、
興福寺のような大寺院や、中将棋用ではないかと疑われる、上久
世荘のような、荘園の荘官等の屋敷ではなくて、ありきたりの寺
院や、中世民家に隠れた賭博場の跡のような、Bクラスの遺跡で、
木製遺物が保存されやすい条件なら、

西暦1200年~1250年程度の不成り酔象が、今後発見され
る可能性がある

のではないかと、本ブログでは見るのである。むろんそうなれば、
酔象の西暦1100年から西暦1350年までのタイムラグの、
ちょうど真ん中の

西暦1225年付近の酔象が有る事になり、

”酔象の存在自体は、連続的であった”と、事実上遊戯史界は、
誰もが認めざるを得ない結果になるのではないか。以上のように
将来なるだろうと、本ブログは予想しているという事である。
(2018/09/16)

nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

麒麟抄。”群書類従(続)古写本”の将棋は”将棊”(長さん)

本ブログでは、南北朝時代の文献とされる、ニセ藤原行成作が
文筆界で広報されているとみられる、表題の麒麟抄の将棋は、
”将碁”と書かれていると、表現してきた。しかし最近、この
情報は

厳密には正しく無い

事が判った。天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、表題の
”群書類従(続)古写本の麒麟抄”が転載されているのだが、
その将棋が、将碁ではなくて”将棊”と書かれているのである。
なお、大阪商業大学アミューズメント産業研究書発行(2014)
の松岡信行氏の「解明:将棋伝来の謎」には、”群書類従(続)
31の190ページの麒麟抄の将棋は将碁”と書かれている。
松岡氏の情報は、それ自身は正しいようだ。どうやら

麒麟抄(群書類従(続)収録)に群書類従に関する異本が存在

するようである。つまり、

西暦1800年過ぎに群書類従(続)を筆写しようとした江戸
時代の人間がいて、その筆写部の中に、麒麟抄も入っていた

と言う意味である。
 実際、松岡氏の群書類従(続)31-P190と、天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒に転写された群書類従(続)”古写本”
では、文面自体が違っていて、たとえば

”台に入れて手に持って、将棋駒に字を書く”という部分が、
後者には書いて無い。

一般的には、上記のフレーズも有名なため、松岡氏の方に理が
有るが、どちらが正しい群書類従(続)なのか厳密には、私に
はよく判らない。将碁は誤字だと、かなり昔から言われている
ので、

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の群書類従(続)”古写本”の
方が改変

した感触は、私にはあるのだが。今直ぐ私には、証明するのは
無理だ。
 とりあえず敢えて本ブログでは今の所、松岡信行「解明将棋
伝来の謎」紹介の群書類従(続)麒麟抄の”将碁”表現が事実
と仮定して、進むしか無さそうだ。しかし群書類従(続)かま
たは、麒麟抄だけなのかもしれないが、麒麟抄には写本により、
内容に、ひどいブレがある事はどうやら確かなようだ。なので、
今後も注意して調査は、続けるつもりである。(2018/09/15)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

日本将棋史界。中国シャンチーの交点置き・九宮形成は砲発生より先(長さん)

本ブログでは、岡野伸氏の”世界の主な将棋”(1999)で紹介
されている、中国の中国シャンチー史研究書、朱南鉄著「中国象棋
史叢考」(中華書局出版・1987)を参考に、(1)円筒駒・
交点置き・士の2枚化・九宮発生という、道具の変更による視覚上
の変化よりも、
(2)砲発生・兵の減少・9×10路・兵の中央成りという技術上
の改良の方が、むしろ先行との見解を取ってきた。
 ところが最近、橿原考古学研究所の清水康二氏が、西暦2013
年に公開し、web上にpdfの形で見る事の可能な「将棋伝来再
考」から、これとは順序が、全く逆の情報が有るのに気がついた。
その情報は、私も愛読している日本将棋連盟2001年発行の「持
駒使用の謎」が元であり、

著者の木村義徳氏の説なのであるが、中国の象棋史に関して日本で
は、どうやら、見栄えの(1)が先、中身の(2)が後の方が優勢

らしい。我ながら、木村義徳氏の成書に関する

ひどい読み飛ばしが、有ったものだ。

 ちなみに清水康二氏の「将棋伝来再考」には、朱南鉄著「中国象
棋史叢考」の、(1)駒は円筒で字書き駒、士はあるのかもしれな
いが、九宮も、駒の交点置きも無いまま、

駒は升目置きであって(2)砲があり、兵は減少して11升目の
北宋象棋

という主旨の紹介が、全く無い。
 以下著名だと思うが、
(1)士の2枚化は別として、”円筒駒・交点置き・九宮発生”と
いう現在の中国シャンチーの特徴は、将棋の歴史(平凡社・201
3年)にあるように、

将棋の伝来の東南アジア説を取る、著者の増川宏一氏の、中国伝来
説攻撃の際の、絶好の攻撃材料となっている項目

である。従って、(2)を先に持ってきて、日本に伝来させてから
(1)が中国で発生したと考えた方が、その逆の

(1)が先で、(2)の技術的改良を後に持って来るより、
中国伝来説にとって、かなり有利

である。そのため本ブログでは、どちらかと言うと、岡野伸氏の
”世界の主な将棋”の中国の中国シャンチー史研究家、朱南鉄氏の
説を採ってきたのである。しかし、日本では、将棋の中国伝来派の

清水康二氏の「将棋伝来再考」を読む限り、中国伝来派にとって
むしろ不利に見える、木村義徳氏の中国シャンチー進化説が主流

なようであった。
 なお、木村義徳氏の「持駒使用の謎」の該当箇所には、(1)の
円筒駒・交点置き・士の2枚化・九宮発生という、道具の変更だけ
が行われ、(2)砲発生・兵の減少・9×10路・兵の中央成り
という技術上の改良が、まだな状態を”現行直前の象棋(推定)”
と称している。それが、橿原考古学研究所の清水康二氏が、西暦2
013年に公開し、web上にpdfの形で現在見る事の可能な
「将棋伝来再考」にも採録されているのだ。
 ただし、木村義徳氏の「持駒使用の謎」を読むと、(1)と(2)
は”道具のつくりやすさ→流行→(棋士の棋力が上がって)技術の
進歩→行き詰まり→改良という工程で進んだ”との旨記載されてい
るので、

(1)は直ぐにできたが(2)は、それ相応の長い年月が掛かった

との印象に、文面が少なくとも私には取れる。つまり、
宝応将棋が9世紀初めなら、木村氏の言う”現行直前の象棋”は
9世紀末、日本に伝来したのが10世紀中から11世紀初、中国
シャンチーの成立が11世紀末との心象を、少なくとも私には抱か
せるという事である。
 だから”中国から将棋が10世紀中旬から11世紀初に伝来した”
と、例えば橿原考古学研究所の清水康二氏のように考えると、
日本の将棋駒は交点置きで、九宮も無ければならず、本ブログの説
とは異なり、皮肉な事に

増川氏の批判は、ずばり的を得て居る事になる

という結末になるように、個人的には危惧されると言う事である。
 もっと中国伝来派にとって有利なように、日本の将棋史界は、推
移しているのかと思っていたのだが。将棋史研究会の集まりで私が、

我流で他の著名な研究者に、妙な論題を発して恥をかいてしまう

前に、清水康二氏の正調中国伝来説である、「将棋伝来再考」を、
きちんと読んでおいて、本当に良かったと、この部分から最近私は、
しみじみ感じるようになったのである。(2018/09/14)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小山評定跡の発掘状況(9月中旬)(長さん)

以前本ブログでも紹介したが、市役所の立替に伴い、栃木県
小山市の、小山市役所前の小山評定跡(市役所)で、遺跡の発掘
作業が進行中である。年内いっぱい位、やる予定だったと、私は
記憶する。以前7月の梅雨明け直後に、一度見に行ったが、夏の
暑さも和らいできたので、最近再び確認に行った。なお、栃木県
小山市では、この地点より南に約1キロ行ったところの、小山市
神鳥谷曲輪遺跡より、裏一文字金角行駒が、西暦2007年春に
発掘されている。小山城群の近辺である事はいっしょなので、井
戸跡が有れば、特に木製遺物の出土は、市役所前の地点でも大い
に期待できそうだ。
 実際に発掘現場へ再度行ってみると、下の写真のように、部分
的に2m程度、数箇所、深堀りが行われている状況だった。

小山評定9月.gif

深堀している所が、井戸跡なのか、昭和の時代の市の施設跡から
外れているので、試験堀りしているのか、詳しい事情は判らない。
 また特に、発掘の進行をアピールしている表示や、途中経過の
成果を示す、立て看板等は無いようであった。
 初期の新聞記事には、”めぼしい遺跡の存在は期待されない”
との、市のコメントが載っていたようで、小山市の考古学の学芸
員が総出で、この遺跡の発掘をやっている訳でもないと、個人的
に聞いている。しかしこの地点は、他の遺跡と異なり、市民の出
入りが、極端に多い所であるから、人の目にもつきやすく、

小山評定跡という、遺跡名称が付けられた場所から、”遺跡の痕
跡の出現は期待できない”では、特に発掘に素人な、栃木県小山
市の市民は、皆クエスチョンであり、それでは納得しない

だろうと私は疑う。”徳川家康が、評定会を開くために作成した、
シンポジウム用の会場の、舞台の支柱を刺すために掘った跡位は、
判るのではないか”と、普通の小山市民でも、考えるのではない
かと、私は懸念する。そもそも、ここから何もでないと、小山評
定の小山も、開運の小山も根拠が揺らぎ、市の伝統的な観光政策
にも、陰りが見えてきてしまうのではないか。同じく新聞記事
によると、ここに存在した、昔の市の施設を建設する際、遺跡の
チェックをしなかったという経緯があるようなので、その瑕疵を
かばっているという事も、有るのではないかと、私には新聞記事
の、書きの調子が感じられた。
 他の遺跡のパターンから見て、例えば静岡県の今川館の発掘の
ように、近代に客土した地層が表面に乗っているので”2m位掘っ
た所までは何も出ないが、水脈にからんだ特定の場所を3m前後
掘り進むと急に遺物が出だす”というパターンが、小山城付近の
発掘では、どこを掘っても穏当な結末のような気がしてならない。
 何れにしても、まだ期間が有るようなので、特定の地点を数メー
トル程度は堀って、遺物が無いかどうかを徹底的に探してほしい
ものだ。かなり耐用年数のあるだろう、市役所の新ビルが建った
後、実は遺跡がかなり未調査のまま、破壊されていたという話が
発生すれば、新しい市役所の建設を決めた、栃木県小山市のお偉
方の、末代までの恥になる事は確かだろう。従って、埋蔵文化財
の法令の、そもそもの精神のように、このケースは徹底的に調査
して、以降破壊される懸念があっても、新市役所敷地の再調査は
不要なようにしてしまうのが、実は最も利口なやり方のように、
私には思える。つまり少なくとも、

以後調査不能になるのが判っている場所の遺跡を、調査不足のま
ま少なくともその一部を残すという考えは、私には理解できない

と言う事である。
 くれぐれも、法令に違反しない、形だけのような発掘で終わら
せないようにしてほしいものだと思う。井戸を掘ると、木製遺物
だらけの、この重大な遺跡に関しては、本ブログでも、小山市の
新市役所建設現場の遺跡に関する、本発掘での完全解明を、せつ
に願う次第である。(2018/09/13)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

増川宏一著「将棋Ⅰ」の”庭訓往来に小・中・大将棋記載”とは何者(長さん)

ここで述べる内容については、まだ正確には正体が判って居無い。
前に本ブログで、庭訓往来には将棋の項目が、発見されないとの旨
を書いた。しかし、思い出したのだが、表題の著書、増川宏一氏の
著書、には、西暦1386年頃作の庭訓往来に”将棋・中将棋・
大将棋に関する記載が書かれている”とされていたと思う。記載
されているのは調べなおした所、正確に言うと、

ものと人間の文化史23-1「将棋Ⅰ」の後期大将棋の説明部分

であった。だから”将棋の種類には、将棋・中将棋・大将棋がある
と庭訓往来に書かれている”との旨が、上記増川氏の著書、将棋Ⅰ
には、確かに記載されている。
 しかし、中将棋の南北朝期の文献は、岡野伸氏の自費出版著書
「中将棋の記録」等によると、

遊学往来だけ

のはずである。なお、岡野氏の上の著書には、遊学往来の正式名称
として、尊円流庭訓続遊学往来と記載されている。”・・・将棋・
・、賭博の種類として、・・大将棋、中将棋・・・がある”と書か
れた、有名な一文だ。

増川氏の将棋Ⅰの記載は今の所、この文献と錯誤している

と考えるしか無い状態である。なお、将棋Ⅰの文献集では、庭訓往
来は、石川松太郎校注の東洋文庫の”庭訓往来”(1973)と、
群書類従(1893年)の庭訓往来をリストしている。
 なお、増川氏の別の著書、将棋の歴史、平凡社、2013年では、
中将棋が発生した下りで、”異制庭訓往来に、大将棋、中将棋、
小将棋が記されている”との旨の記載がある。つまり庭訓往来が、
異制庭訓往来に、明らかに取り替えられており、

更におかしくなっているよう

だ。
異制庭訓往来に、将棋種の具体的名称が書かれているとの話は、私
は聞いた事が無い。
 ”将棋の歴史”の方は、明らかに間違いだろう。しかしそもそも、
”中将棋が庭訓往来に書いてある”という、同じく増川氏の将棋Ⅰ
の話自体が、”中将棋が遊学往来で初出する”という正しい話の、
そもそも間違いである可能性が、かなり高いと私は思う。
 その後、群書類従(正・続)を調べた限り、中将棋が出てくるの
は、遊学往来(”続庭訓往来”と群書類従には副題がある)であり、
他方”360の一年の月日将棋”の方は、やはり異制庭訓往来の、
しょっぱな1月6日の所に有った。可能なら更に、古文書を当たっ
てみるつもりであるが、増川氏の流儀は無視して、群書類従の古文
書の書名が間違えにくいので、それで、統一表記すべきであろう。
(2018/09/12)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中国闘獣棋は、始原的意味で摩訶大将棋と関連するのか(長さん)

現代中国の特に、広東省方面で、子供もプレーしていると私
が聞くボードゲームである、表題の闘獣棋は、駒の動かし方
ルールが、鼠型、獅子虎型、その他型の3通りだが有る事
から、軍人または行軍将棋よりは、中国シャンチーや将棋、
チェス類に近いゲームと、されているようである。
 そもそも駒の種類が、象、獅子、虎、狼、豹、狗、猫、鼠
なのは、中国雲南省博物館の、”闘争動物”という、古代の
彫刻品の題材から作られたゲームとの印象を、私は強く受け
る内容である。なお、このゲームについて、作成されたのは
恐らく近代とみられ、”少なくとも50年位の歴史があるで
あろう”との未確認情報が書かれた、日本の成書も存在する。
 他方前に本ブログでは、中央アジアの文化とされる、闘争
動物に着目して造形物・彫刻品を作成する、古代の雲南省付
近の文化が、日本に伝来して、

十二支よりも動物種の種類数が多い、摩訶大将棋を作り出す
ゲームデザイン上の基盤の一つになったとの論

を展開した。そこで、闘獣棋と摩訶大将棋の少なくとも一部
の動物駒の導入について、元となる事象が同じであるならば、

闘獣棋は、類似ゲームが北宋の時代にも有って、日本の摩訶
大将棋の形成に影響していると言う事は無いのかどうか

という点が、疑問として浮かび上がって来る。そこで今回は、
以上のように、中国の現代ゲームである闘獣棋と類似宋代ゲー
ムが、摩訶大将棋形成の、一要素であるか否かを論題とする。
 まずは以上に関して、最初に答えを述べ、ついで説明を
加える。

闘獣棋そのものは存在しないが、象、獅子、虎、狼、豹、狗、
猫、鼠といった駒で構成される、将棋的なゲームは、雲南省
を中心に、中国で北宋時代に作られた事のある可能性が高い

と私は思う。すなわち、

摩訶大将棋の、十二支に必ずしも属さない動物駒の導入は、
中国古代の、今は失われたマイナー将棋を少なくとも取り入
れ、駒名称に、闘争動物種を入れるという点で、真似た可能
性が高い

と本ブログでは見る。
 では以下に、以上の結論について補足説明をする。
 恐らくだが、軍人将棋や行軍将棋は、インドチャトランガ
の形成期、インドのマウカリ国に、西暦600年~650年
頃には無いとは思う。しかしながら、その将棋黎明期の将棋
駒の使い方と、現在の軍人将棋や行軍将棋の、駒の取り合い
ルールが、やり方としては類似なのは確かなのではないかと、
私は考える。つまり時代が違っても、ゲームデザインのアイ
ディアが同じと言う事は、良く起こる事なのではないかと言
う事だ。だから同様に、闘獣棋が雲南省や、雲南博物館の闘
争動物彫刻が作られるような、中国南部の古代中央アジアの
文化の影響を受けた領域で、ずばりが無いのは確かであろう。
しかし、近年の闘獣棋を作り出したゲームデザイナーと同じ
能力のあるゲームデザイナーが、雲南省に宝応将棋があると
言う条件下で、動物駒の種類として、似たり寄ったりの将棋
を作り出す能力が、北宋王朝の時代に無いとは、私にはとて
も思えない。
 駒の格で、取れるかどうかを決めないにしても、象、獅子、
虎、狼、豹、狗、猫、鼠が、酔象、白象、猛虎、悪狼、猛豹、
力士、猫叉、老鼠の動かし方であって、あとは、チャトラン
ガのように、動かした方が、静止した駒を常に取るルールで、
宝応将棋とは別の将棋を作る事位は、西暦800年から西暦
1000年までの200年も有れば、宝応将棋を、原始平安
小将棋(酔象有り)へと変化させるのとは別に、雲南王室
内でも、そのような闘獣棋類似ゲームとして生成しそうな気
がするのである。しかも雲南には昔から、闘争動物の彫刻品
を作る能力は有るのだから、黄金ではないにしても立体駒で、
金で装飾した将棋盤を使用するのは一緒な、将棋状ゲームは
明らかに作れるはずだ。たまたまだが、上記の動物種類は
8種類であり、8升目盤が使えるだろうとも思える。
 そしてこのケースは、特に雲南省から遅くとも西暦
1400年頃までに、今のべた8種類の動物を使う将棋が
日本に伝来しなくても、

そのような話を日本人の、駒数多数将棋のゲームデザイナー
が聞きさえすれば、酔象、獅子、盲虎、悪狼、猛豹、狛犬、
猫叉、老鼠駒位なら作れる

のではないかと、私は見る。従って現物が伝来しないにして
も、闘争動物種の彫刻品文化が、中国の雲南省を中心とした、
南部地域にありさえすれば、そこから駒の格は無い闘獣棋状
のゲームは、何れ発生すると見るのが自然で、その意味では、

摩訶大将棋の要素の中に、現代中国闘獣棋の文化が有る

と言えるのではないかと、私は推定する。
 次に、現代の闘獣棋の具体的なルールを見てみると、ゲー
ム性を持たせるのにしている工夫には、

本質的に摩訶大将棋を思わせる、ゲームデザイナーなら
概ね、誰でも考えるという意味での共通性がある。

そもそも、一点目として(1)獣穴が動かないのは、摩訶大
将棋の玉将の動きが、ゲーム中一貫して事実上無いのと対応
しているように私は思う。
 次に二点目として(2)落とし穴に入った相手の駒が格付
けに関係なく、取れるようにしているのは、摩訶大将棋で、
提婆や無明の成りで、逆転が起こるようにしていような工夫
と、対応しているように思う。ただし、このケースは、この
ルールに、実手順を考える限り、大きな効果は無いと思うが。
 さらには三点目として(3)狼と豹が並んで配列している
のは、日本の後期大将棋や摩訶大将棋と、駒の相対的強さの
イメージが、誰が考えてもいっしょになるためか、配列が似
ている。
 四点目として、狗(犬)と猫を入れたので、鼠が入ったの
かもしれないが(4)鼠駒が有るのが、日本の摩訶大将棋を
連想させる主な原因になっている。
 なお、鳳凰や麒麟、蛇を入れないのは、神駒が現代の中国
の子供に、意味が理解できないためだし、鳥駒を入れないの
は、飛び駒のイメージになり、嗔猪の駒の動かし方ルールで、
概ね統一しているのと、合わないからであろう。
 また、闘獣棋のゲームデザイナーが、盤升目置きとし、交
点置きのルールにしなかったのは、広い草原の中央アジアの
ゲームの雰囲気を出すためであろう。そしてそれに反して、
円筒形の駒のままにしたのは製造時、中国シャンチーの駒の
製造ラインのままで、駒を作りやすくするためだったろうと、
私には推定される。
 そもそも、この中国現代のゲームは、駒を裏返して遊ばな
いので、軍人将棋や行軍将棋の類で無い事だけは、確かであ
る。格で駒が取れるかどうかを決めたのは、雲南で出土する
闘争動物の彫刻品の中で、弱肉強食が表現され、勝つ動物種
がほぼ決まっていたのと、ゲームルールを比較的単純化する
ための、借用だったのであろう。ちなみに、このゲームは、
獅子を象の前に立てて、相手鼠の前に繰り出してゆく、自明
の戦法が有るように、私には思われる。よって恐らくこの、
中国広東省産の将棋ゲームは、

現在でも、子供向けの遊びの範疇であって、中国シャンチー
のような高いゲーム性は無い、性質のもの

なのであろう。
 以上の事から、ゲームデザイン上で使用したモデルが恐ら
くいっしょなため、冒頭で結論したように、中国北宋期に、
雲南省を中心とした、中国南部にあったであろうマイナーゲー
ムと、着想が事実上同じの

闘獣棋の元ネタを摩訶大将棋は要素の一部として取り入れた

可能性が高いのではないかと、私は以上のように考えるので
ある。(2018/09/11)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー