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唐代伝奇”囲碁”物。”くらやみの碁””日本の王子”から判る事(長さん)

前に紹介した、㈱平凡社が1964年に発行した、東洋文庫16
”唐代伝奇集”2/2巻、前野直彬訳には、玄怪録以外の怪奇話
が、玄怪録の4話を入れて、77話(作品数21作品)が載って
いる。なお、全2巻なので”唐代伝奇集”1/2巻という成書が
あるが、1/2巻よりも2/2巻の方が遊戯史に関連する情報が、
豊富とみられる。1/2巻と2/2巻は、物語の長さで分けられ
ているが、遊戯をする話で怪奇物を作ると短くなるためのようだ。
 そして将棋史のブログである本ブログでは、唐代の囲碁の怪奇
話には、近接するゲームなため、参考になる点がある。そこで今
回は、東洋文庫16”唐代伝奇集”2/2巻前野直彬訳の囲碁話、
集異記の「くらやみの碁」と、杜陽雑編の「日本の王子」という
唐代の囲碁を題材とした怪奇短編小説から、何が判るのかを論題
とする。
 いつものように、結論から書く。プロ級のブレーヤーだけに指
せる妙手や、定跡手が存在し得ないような、

ルール調整の不完全な、ゲーム性の低いゲームについては、唐代
中国人には術芸とは見なされない

事が、この二つの短編小説からは、明らかに判ると本ブログでは
考える。
 では、以上の結論について、以下に説明する。
以下が重要だが、囲碁話の出てくる、上記の2つの短編小説は
何れも、唐代の中国人作の怪奇短編小説とされる。
 まず”くらやみの碁”の集異記は、薛用弱の作とされ、唐代、
西暦821~835年程度の成立とされている。作者は河南省の
光州に在住していたと見られるとの事である。
 次に、”日本の王子”の杜陽雑編は、蘇鶚の作とされ、唐代、
8世紀末の昔話と西暦876年までの、伝えられた話をまとめて
編集したとされるとの事である。
 以上の事から、どちらもだいたい9世紀の作で、玄怪録岑順の
作られた、9世紀初め頃と、時代の差は余り無い事になる。
 次に以前述べたように、玄怪録岑順では、物語内で、宝応将棋
を指しているのが、小人の駒の2つ、金象将軍と、天那国の王と
なっているが、以上の囲碁話では、囲碁の駒の一部の器物霊等が、
囲碁を指しているという、設定にはなっていない。

普通に囲碁の盤駒で、器物霊ではなくて、人間ないし人間類似の
妖怪・幽霊の類が、囲碁ゲームをしているという設定

になっている。以上の点が「岑順」と「くらやみの碁」ないし
「日本の王子」では大きく違う。すなわち、
「くらやみの碁」では、山の中にあるヤモメの婆さん宅の、姑と
嫁という妖怪ないし幽霊が、囲碁を36手まで指す、設定になっ
ている。また、「日本の王子」では、長安の都の宮廷内で、日本
の何代目かの皇太子と、接待役の師言という名人の碁打ちが、同
じく囲碁を、33手ないし34手まで指す設定になっている。
 次に、「岑順」と「くらやみの碁」ないし「日本の王子」では、

棋士の一部が”名人”や”高段者”となっているかどうかが違う。

「岑順」では、金象将軍と、天那国の王は、互いに勝ったり負け
たりしているが、妙手や新手や新定跡を作り出すような、強い指
し手との、物語上の設定には、特になっていない。それに対して、
「くらやみの碁」では、前述のヤモメの婆さん宅の、姑と嫁が、
何れも他人の読みを許さぬ高段者との、設定になっている。また、
「日本の王子」では、日本の皇太子の相手をする、接待役の師言
が、唐の国の名人という設定になっている。
 更に、以下が最重要だが、「岑順」と「くらやみの碁」ないし
「日本の王子」では、

名人ないし、高段者にのみ指せる、定石か妙手に、物語上の用語
(名前)が、記載されているかどうかが違う。

すなわち、「岑順」では、金象将軍を岑順が褒めてはいるのだが、
特定の着手について、名称を付けるなどして、戦法や特定の着手
の巧みさを、賞賛褒めているような、表現は全く無い。
 それに対して、
「くらやみの碁」では、物語上に、「鄧艾開蜀流の定石」という
高段者の開発した、形勢判断が36手の時点では、他人に解析不
可能な定石の名とされるものが、現われている。また、
「日本の王子」では、物語上に、「顧師言が33手ののちの鎮神
頭」と後に伝えられたとの設定の、唐の碁打ちの名人が指した、
妙手名が記載されている。
 以上の事から、玄怪録「岑順」の将棋話は、当時の宝応将棋に
は、熟達した者だけに指せる、妙手や定跡が、生成されるような、
ゲーム性の調節が、特に行われて居無い、ゲームとして性能が
たいした事の無いゲームであるという事を、前提として書かれた
話であると、読み取れると私は考える。ゲーム性が低くても、当
時の宝応将棋は、負けて相手に殺されないようなするために、
読みの力を競い合い続ける、実戦の技術であると、認識するのが
当たり前と、(伝)牛僧儒にも、中国の小説の当時の読み手にも、
それが前提として、物語が展開されているのであろう。
 しかし、それに対して囲碁の話の方は、恐らく現在と、余り差
の無いルールが、中国では唐代に確立されていたので、今と同じ
程度に奥深さがあり、唐代には高段者も居れば、定跡、妙手も、
現実に幾つも存在したのだろう。当然だが、術芸とは、稽古によ
る熟達により、

新たな定跡や、妙手を生み出すような高段者、名人を目指すもの

であろう。よってこれら3つの話を比較すると、特に、その術芸
に上達した人間にだけに出来る、

定跡名や妙手名を示す事の出来ないゲームは、ゲーム性の低い、
気晴らしに近い、術芸の類とは見なされないゲーム

と、当時の中国人に考えられた事が、良く判るように私には読み
取れる。
 ちなみに、現在の中国シャンチーの入門書を見ると、”仙人
指路”とか、”横鋒賦詩”といった妙手や、終盤の定跡(駒捨て)
が書いてある。(「中国象棋」李木山著、鶴書房、1975年)
つまり、中国シャンチーは当時の囲碁と、肩を並べた術芸に属す
るゲームである、という事である。従って以上のように、中国シャ
ンチーと、宝応将棋との内容や状況が、大きく違う事は、少なく
とも、これだけの事からも判る。
 恐らく宝応将棋というゲームは、序盤の駒の動かし方に、一定
のパターンしか存在せず、終盤の詰めも、コツが決まっているか、
ないし、取り逃がし引き分けが、多いゲームだったのであろう。
であるから、和名類聚抄にも当然、少なくとも宝応将棋は、
練習による上達、奥義の習得という目標の無い”術芸では無いゲー
ム”と見られて、記載されなかったのではあるまいか。
 つまり、たまたま東洋文庫版の唐代伝奇集の2を読むと、囲碁
を題材にした、玄怪録以外の話が載っており、囲碁話同士には
一定の、物語の進行パターンがあるおかげで、将棋話と囲碁話と
の作りを比較する事により、背後に何が有るのか、かなり判りや
すく理解する事が、できるように私には思えた。
 以上で、論題の解説は済んだように思う。
 その他、この東洋文庫版の唐代伝奇集の2には、続玄怪録の
「張老の物語」の注釈(1)で、”ペルシア人屋敷”という用語
の解説が載っている。その注釈内容から、ようするに長安の都に、
イスラム・アッパース朝の外国人町があった事が、示唆されてい
ると言える。他の中国歴史書にも書いてあるので、自明なのだろ
うが、”大食人”と言われた、イスラム・シャトランジをプレー
する事のできる、アッパース朝から来た外国人が、長安に唐代、
外国人街を造っていたと言う事を、この伝奇集だけでも確認でき
た。
 よって東洋文庫版の唐代伝奇集の2は、将棋史の史料になりえ
る情報を、玄怪録岑順物語以外にも幾つか、ぽつりぽつりと含む
成書と、言えるのではないかと私には思われた。(2018/09/01)

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