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平安小将棋。歩兵~銀将の成りの金の、一文字化の経過(長さん)

本ブログでは、興福寺出土駒(1058年物)の歩兵~銀将の成りに
関して、次の点の認識が、木村義徳氏著「持駒使用の謎」日本将棋
連盟発行(2001)とは基本的に異なっている。すなわち、

成りの金の書体は全部楷書であり、その一部に、草書の金や、と金が
書かれたものがあると、本ブログでは認識しない

のである。
 木村義徳氏は上記の成書で”歩兵の多くの成りの金は(と金ではな
いが)銀将の成りの金のように楷書ではなくて、崩して書かれている”
との旨表明している。が、本ブログでは、

全部地中での劣化で字が擦れた事により、崩し字のように見えるだけ

と考えているという意味である。そもそも木村義徳氏は銀将の成りが、

金ではなくて”金也”であるとの点について、”廃棄の印である”と
して、簡単に切り捨てている点

も、本ブログとは大きく違っている。本ブログでは、成りの金が一文
字になる初出を、興福寺の10世紀の駒ではなくて、

岩手県平泉市の中尊寺境内金剛院遺跡出土の歩兵・桂馬駒(12世紀
後半~13世紀前半)が、初出時代として明解なもの、

とみる。なお、山形県酒田市の城輪棚遺跡の兵駒は、最近では、少し
時代が下ると見られていると、私は聞いている。
 以上の事から、
本ブログでは、伝来時”金将”表現だった歩兵~銀将の成りは、一足
飛びに、”字体の違う一文字金”となって、全ての遺跡に存在するの
ではなく、興福寺駒と、中尊寺境内金剛院遺跡出土駒のうちの多くが、
中間的な崩れた”也”付きの、金は楷書の

2文字表現である

とみるのが正しい認識と、私は考えるのである。そこで今回は、本ブ
ログの事実認識が、仮に正しいと仮定の上、以上を出発点として、

歩兵~銀将の成りの金が、一文字金化した経過を議論

する事にする。
 いつものように結論として言える事を最初に書き、説明を後でする。

(1)楷書で”金将”と最初期駒(推定・西暦1015年1~2月)
には書いた。が直ぐ後に、
(2)”金也”と楷書で書かれるようになった。ついで、
(3)金が楷書のまま、也だけ崩され始めた。そして遂には、
(4)也は長い”ヘ”や、点の形で、興福寺駒の時代は推移した。
更に、
(5)也はかすかに”・”と表現される状態にまで崩れ、その状態で
中尊寺境内出土駒のうちの、やや古い物の時代を経過した。しかし、
(6)”也”が消え、楷書で一文字金と表現される時代は、瞬間で終
わった。つまり、
(7)その後直ぐに、歩兵~銀将まで”ケ”を一筆で書いたような、
共通の草書へ置き換わった。中尊寺境内出土駒のうち、比較的新しい
ものが出来た頃に、草書成りは始めて、明確に成立した。
(8)ただし、南北朝時代だけ例外だが、戦国末期まで銀将や桂馬に
つき楷書の一文字金も表れ、これと(7)の草書の一文字金が、混合
した状態で使われた。しかも草書体は、だんだんまちまちに変化した。
ただ鎌倉時代末期~南北朝時代にかけてだけ、例外的に、現在歩兵の
成りとして使用される”と金”が、楷書の金や、他の草書体より多く
使われる傾向が有った。
そして、
(9)駒種により書体が違い、かつそれが同じ形の今の書体で、かつ、
歩兵の成りが”と金”に整備されたのは、安土桃山時代である。
ただし、適当に書体を別々にすれば、表の駒の種類は判るから、遅く
とも戦国時代に入ると、持駒ルールに適した、銀将~歩兵が発生して
いたと、本ブログでも考える。

以上のように結論する。
 では、以上の結論につき、以下に説明する。
 まず、興福寺駒の成りの書体についてだが、我々の見方は、

楷書にはどうみても見えない場合だけ、擦れた出土駒の字を、別書体
で見る

という考え方としている。だから、木村義徳氏の持駒使用の謎は、
絶対間違いとも言えないし、逆に本ブログの見方が、事実とは絶対に
は違う、という事は無いと見ている。どうして木村氏の見方を、
本ブログでは取らないのかと言えば、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
という成書でも、興福寺出土駒の成りの字の解釈の一部、銀将等に、
金也(?)と、2文字という指摘があるにも係わらず、木村氏の書籍
で”廃棄品の印等か”と簡単に切り捨てられ、あたかも現代流の成り
金書体の区別で、全てが説明できるかのように書いてある事に対する、

本ブログの不信感。その一点だけ

から来る事を、まずは表明しておく。
 興福寺出土駒の歩兵~銀将の裏面には、実は全ての駒について、
”金”と見られる字の下に、点とか”へ”の字の長い、墨跡があると
考えても、駒の劣化状態から見て矛盾が無いと、私は見ていると言う
事である。そして、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、その金の下
の墨跡に”也か?”という説明書きがついているのであるから、全国
全ての出土駒に対して、廃棄品たる説明をしているのなら別であるが、
少なくとも一旦は、”金也”と、読むべきではないのか。

そもそも、歩兵~銀将の裏に、金将と、楷書で書かれず、金也とみら
れる字が書かれたのは、元からの金将の位置に、これらの駒を、誤っ
て裏返して並べて、ゲームを開始しないようにするため

であると、簡単に説明できる事は明らかと、私は見る。
 ただし残念だが進化の段階で、金也全てが崩されずに、也だけ崩し
た理由は、それが駒名ではなくて、書いてある内容の説明の一種であ
り、軽いからかもしれないが、私には正確には説明できない。しかし
ともかく、中尊寺境内出土駒の銀将、桂馬、香車にも、点つまり
”・”だけ残って、”(楷書)金・”と、駒の裏に書かれた駒が、事
実として出土しているのだから、

興福寺駒と中尊寺境内金剛院遺跡出土駒を両方見ると、

時代が下るに連れて、也だけ崩していったとしか、私には思えないの
である。すなわち”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の、岩手県中尊
寺境内金剛院遺跡駒の、141番の香車、143番の桂馬、144番
の銀将、145番の銀将の裏面の”金”下の”ヽ”は、汚れではない
と、今の所、私は見ていると言う事である。
 このパターンが、

興福寺の”く”や”へ”や”・”付きの金と、中尊寺の”ヽ”付きの、
比較的、保存状態の良い4枚の楷書の金とでいっしょなのは、明らか

なのではないか。よって、擦れて良く判らないので証明は出来ないが、
少し条件がましに見える、中尊寺境内金剛院遺跡駒を参考にすると、

興福寺出土の(1058年物の)”く”や”へ”や”・”の付いた金
が、同じ書体の楷書の疑いは、かなり高い

と私は見るのである。
 また、中尊寺ではこの楷書金+”ヽ”のパターンだけでなく、草書
の金の一種と見られる、”ケ”を一筆で書いた共通の駒の裏の字の出
土駒も、少なくとも3枚は出土している。136番・138番の歩兵
が2枚と、142番の桂馬1枚である。このうち、138番の歩兵は、
天童の出土駒と全国遺跡出土駒では、”と金”とされるが、私には、
”と”の字の一画目は偽者で、更に下に”L”の字が続いていて、
これも”ケ”を一筆で書いた字のように、見えてならない。つまり、

中尊寺駒に関しては、くずし金の書体も、駒種によらず同じで、
裏側から、表駒を判断できるとの、確たる証拠は未だ乏しい

と見るという事である。なお、本ブログでは興福寺駒に関して以前、
銀・桂・香の裏は”金く”、歩兵の裏は”金・”と表明したが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の興福寺出土駒の16番の歩兵が、
”金く”のようでもあり、言いすぎであり、必ずしも興福寺1058
製出土駒の

歩兵が、他の駒でない事が、成りの字体だけから判るようになってい
るとの確実性は無い

と、最近思うようになってきた。
 私が知っている限り、表の駒種で成り金が、現在と同じ書体で、お
のおのの書体になってるのは、曼殊院の将棋馬写が初出で、それは、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の時代と、同じ頃だと思う。むろん、現
在と同じ書体の組合せで無くても、字体を互いに別にすれば、同じ理
屈で、裏から表の駒の種類は判るだろうから、冒頭述べた(8)の戦
国時代に入った段階で、持ち駒ルール用の、銀将~歩兵が発生出来る
事は、確かではあろう。なお、室町時代初期の駒については、出土例
が不足で、どちらとも言えないと私は思う。
 以上のように、日本の将棋駒の金成り表現は、当初”金也”という
表現方法を取る事から出発した。恐らく京都の雅という美的感覚から
だと私は思うが、駒種によらず草書体で、”ケ”を一筆で書いた共通
の駒の裏の字にしたのが、西暦1150年ないし、その少し後の、奥
州平泉文化、華やかなりし頃の、中尊寺境内金剛院遺跡駒の時代なの
であろう。言うまでも無いがその時代、麒麟抄の伝”著者”10世紀
末~11世紀初の藤原行成は居ない。当然だが、この事からはまた、

麒麟抄の将棋部分の著者は、平安時代ではなくて、南北朝時代の偽者

と断定できると私は考える。藤原行成の時代には、興福寺出土駒のパ
ターンを過去に外挿すると、成りの金は楷書で書き、ただし”也”と
いう字を、場合によっては崩して下に付け、”成りは金将で、これは
裏面で、成り駒を表している”という意味を、也または、崩し字の
”也”で示していたと、私には推定されるという事になる。(2018/09/17)

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