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”大将棋”という言葉が、日本で始めて使われたのは何時(長さん)

本ブログの見解では、西暦1110年頃に、平安大将棋(13升目
3段型68枚制)が、恐らく陰陽寮の、安倍晴明の玄孫等の働きで
形成されたときに、

大将棋という名称はつけなかった

との解釈をする。”正しい日本の標準的な将棋”を意味するゲーム
名だったはずである。これを本ブログでは、平安将棋の第二標準と
仮称する。なお第一標準は、白河天皇と大江匡房が西暦1080年
頃に作成した、9升目36枚制双王型の標準型平安小将棋と、ここ
ではみている。
 しかし、藤原頼長が台記で、恐らく上記の”正しい日本の標準的
な将棋”と同じ物を指した西暦1140年過ぎには、既に大将棋と
呼ばれていた事も確かである。
 では、どのような経緯で、いつ大将棋という言葉が日本で定着し
たのかを、今回は論題とする。
 さいしょに、いつものように結論を書く。

中国北宋の詩人、李清照(易安)(1084~1153)の著書、
”打馬賦の序”(1136)の中国の大象棋の記載を、藤原頼長が
西暦1140年過ぎまでには読んでいて、日本の第二標準将棋に
その命名を転用した

と、本ブログは、ずばり推定する。従って、

日本で大将棋という名称が発生したのは、西暦1140年頃と推定

される。
 では、以上の結論につき、以下に解説する。
李清照(易安)の著書、”打馬賦の序”については、幸田露伴の、
将棋雑考の塩谷賛氏の口語訳に載っている。打馬という、すごろく
を複雑にしたゲームに、シャンチーとゲーム名しか判らない、幻の
中国大象棋の文字が出てくるとの、事のようである。実はこの話
は、日本の将棋史界でも余り知られておらず、将棋ゲームと歴史の
研究家で知られる岡野伸氏の自費出版書にも、中国大象棋の話が載っ
てい無い。それどころか、幸田露伴の将棋雑考のオリジナルに、
李清照の”打馬賦の序”の話は見当たらず、事情は不明だが、

塩谷賛氏が、将棋雑考を口語訳したときに、加筆した疑いが強い。

ともあれ李清照の”打馬賦の序”には、すごろく類似ゲームとして
の打馬ゲームのうち、駒数20枚制についての詳しいルール説明が
あるとの事であり、その書の序文に、中国大象棋の文字だけが現わ
れるということらしい。
 つまり私はその序を調べていないためそれ以上の事が判っていな
いが、webでゲームとしての片側駒20枚制打馬の説明を見ると、

ゲーム盤に背景画として、中国シャンチーの盤を描く事と、河が、
打馬の盤の升の一部として使用される事に特徴が有る

と記載されている。つまり、

藤原頼長にも、李清照の”打馬賦の序”を読めば、中国大象棋(表
示は、大象戯)が、第二標準平安将棋になぞらえることが可能であ
る事までは判る

と、予想される。
 他方、

李清照(易安)の書物は、日本では初期からたいへん人気があった

と見られる事から、西暦1136年に李清照が”打馬賦の序”を著
作すれば、その7~8年以内に、藤原頼長が、それを読んでいても、
特におかしくは無いように私には思える。つまり、藤原頼長が日記
に書くまで、特に平安大将棋は、大将棋とは言われていなかったの
だろうが、

たまたま藤原頼長あたりが、大将棋という言葉を、使い始めた最初

で、藤原長者の言だっただけに、普及したのではないかと疑われる
と、私は疑うのである。
 なお、実際の中国大象棋と、日本の平安大将棋は、駒の数と盤升
目が、それぞれシャンチーと平安小将棋よりも多いという点以外に、
類似性は無かったと、ここではみる。李清照は、”打馬賦の序”の
中で、打馬に、言わば大打馬と中打馬と小打馬があり、そのうち、
駒数片側20枚の打馬を、典型的なものとして、ルール紹介してい
ると聞く。よって、これが例えば中打馬だとすれば、webの打馬
の情報をも足せば、

背景の飾り画が、大打馬では中国大象棋だった可能性が高い

という事だろう。つまり

中国大象棋にも河があり、駒は交点置きだったという事

になる。これは、升目置きの日本の平安大将棋とは、明らかに違う。
恐らく”幻の”中国大象棋は、岡野伸氏の著書にあり、前に本ブロ
グでも取り上げた

朝鮮(雷淵集)の広将棋と類似の物

だったのではあるまいか。
 以上で、本論題の説明は終わる。何れにしても、幸田露伴の将棋
雑考を、塩谷賛氏が口語訳してくれなかったら、以上の話は、私に
は少なくとも簡単には判らなかっただろう。よって、たぶんだが、

幸田露伴の口語訳に、オリジナルに対して李清照(易安)の打馬賦
の序に関する加筆を更にしてくれた塩谷賛氏には、深く感謝したい

と私は考えるのである。(2018/09/20)

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