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二中歴の大将棋のルール。将棋のように七七調で何故書かなかった(長さん)

 二中歴の将棋の項は、将棋が文字数で七七調で書いてあり、一部
に不明確な点も発生するという事で知られている。所が実際には、
二中歴で漢詩もどきに七七調なのは、小将棋だけであって、大将棋
のルール説明では、特定の句の中での文字数はバラバラである。もっ
と厳密には、玉将の位置まで表した、1~2句目だけが七文字で書
かれ、第3句目から崩れている。
 今回はこの二中歴の将棋の所で、小将棋で七七調で書いた文の後、
大将棋のルール説明をするところで、急に七七調を止めた理由につ
いて、論題にする。
 では、何時ものように最初に回答を書き、ついで説明を加える。

七七調を止めた方が、まじめな書き方に見えるため

だと、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を書く。
 そもそも、七七調に書いたからと言って、漢詩になる訳ではない。
日本語漢文を尤もらしく漢詩のように書いて、読者を楽しませてい
る程度の意味だと私は考える。つまり今度は音の数だが、五七五調
で、将棋のルールを書いたとしても、

俳句ではなくて面白川柳になるというのと、同じようなもの

だとここでは見る。つまり、文字数の七七調で将棋のルールを書い
ているのは面白いが、多少の

おふざけも入っている

と見えるのではないか。
 大将棋ルール記載部分の筆者が、相変わらず、三善為康だったの
かどうかは謎で、懐中歴には将棋しか書いていなかったが、二中歴
で、将棋と大将棋が両方入ったのかもしれないと私は思う。ただし
そう言える確たる根拠は、今の所無い。文字数の七七調が小将棋に
しか無いから、後で大将棋を付け足したように見ても、おかしくは
無いという、程度のものである。大将棋が西暦1140年前後成立
の懐中歴には記載が無いとして、その事情も、正確には私には判ら
ない。前に”大将棋という言葉が、この頃に始めて成立したと”い
う、可能性については論じたが、新しかったから、間に合わなかっ
た可能性も否定できないが、確実であるとまでは言えないだろう。
 懐中歴に将棋だけしかなく、七七調なら軽い書籍の感じがある。
だが鎌倉時代の、二中歴編纂の局面になると、大将棋が実際に成立
した時代よりも更に、成立時の緊迫感は無いはずだ。なのに、かえっ
て没落しつつある貴族は、大将棋を知らないと、公的場で恥をかく
というのも変だが。しかし何故かそういうことが、あるいは個別に
有ったのかもしれない。実際にはまじめに勉強しないと、藤原頼長
の居た頃と違って、鎌倉将軍の方が朝廷より強かった時代に入って
いるのに、何故か立場上、貴族はマズかったという事らしい。
 さて、以上のような仮説とは別に、大将棋のルールは、癖物のた
め、七七調では表しにくいので、たまたま止めたのかもしれないと、
考える向きも、あるいはあるかもしれない。ところが、実際には、
一例を示せば以下のように、二中歴大将棋、恐らく平安大将棋とは
同じもののルール説明は、さほど苦労しなくても七七調でも書ける。

又大将棋十三間
玉将各住一方中
金将在脇次銀将
次有銅将次鉄将
次有桂馬次香車
銅将不行隅四目
鉄将不行後三方
横行在王之頂方
行前一歩脇任意
猛虎立銀将之頂
行前後角各一歩
飛龍在桂馬之上
行四隅不伝多少
奔車在香車之頂
行前後不伝多少
注人在歩兵之頂
中心筋行前後歩
不行傍入敵金也
 (加賀前田家写本”二中歴将棋”より本ブログ作成。2018年)

だから、面倒くさかったからとか、急いでいたから、七七調にしな
かったというのは、このケースに限って言えば、やはり考えにくい
ことだと、私は思う。
 やはり、大将棋の件については、軽いおフザケで表現してはマズ
い何らかの事情が、西暦1200年頃には、有ったからなのではな
いか。だが、西暦1140年前後の懐中歴の時代にはそれが無くて、
小将棋のルール→継子立ての回答という順序で、調子良く書物が書
けたのだろう。何か天の雷に打たれたかのように、西暦1200年
には、大将棋のルールは正真正銘、まじめな文面に、しなければな
らなかった、当時は何らかの事情が、存在したのかもしれない。
(2018/09/26)

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