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京都市鳥羽離宮駒のうち54次、59次の発掘分は新しいらしい(長さん)

京都市伏見区竹田内畑町(当時)の鳥羽離宮跡からは、王将駒、
裏と(?)歩兵駒、不明の駒の他に、裏面墨跡有り金将駒と、
草書今金成り銀将駒が出土している。このうち、後二者の発掘
時期はやや早く、1980年の6月前後とみられる。発掘者は
この2枚については、京都市埋蔵文化財研究所のようである。
また、この金銀駒については、”鳥羽離宮の東殿から出土した”
という話がある。
 従来、私はこの遺跡の史料については、平安時代末期から、
鎌倉時代初期のころの物ではないかと個人的に認識していたが、

少し違うようである。

裏面墨跡有り金将駒が第59次発掘分で鎌倉時代末期、
草書今金成り銀将駒が第54次発掘分で南北朝時代のもの
であるとの旨が、以下の成書に記載されていた。

筑摩書房(1980年12月)「将棋文化史」山本亨介

上記本の、第一章の”三.各地の出土駒”の所に載っている。
なお、発掘次数は、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”
(2003)、天童市将棋資料館に載っていた。
 出土年が、山本亨介氏の「将棋文化史」の方の出版年といっ
しょなので、当時、ホットな話題であったようだ。山本氏の本
には、それなりに詳しく書いてある。
 時代の推定は、共出土した瓦器から推定したらしい。

草書今金成り銀将駒は、成りが極崩された字であるが、”と”
ではなくて、やや細長く変形した”今”の崩し字である。


そしてこれは、南北朝時代の駒のようである。”と金だけしか、
南北時代には出土していない”との旨の、

本ブログの以前の記載は、不鮮明

であった。極崩し字ではあるが、南北朝時代には、成りは
麒麟抄の記載通り、ばらつきの有る、金の崩し字のようである。
 それ以上に、問題だと見られたのは、鎌倉時代最末期頃とみ
られる、

裏面墨跡有り金将駒には、裏面に何か書いてある事

である。なお、上記成書には、裏の墨跡について言及は無い。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、裏面のスケッチと、墨跡の
コメントが書いてある。
 言うまでも無いが、

飛車と書いてあると、この駒が中将棋の初出になり、中将棋の
推定成立年が、数十年早くなる。

残念ながら、何と書いてあるのか判別は困難である。個人的に
は、両面金将かもしれないと、以前から思ってはいたが。鎌倉
時代初期の物ではなくて、晩期のものだとすると、飛車であっ
たら、中将棋が存在する事になり、大きな問題が残った事にな
る。
 山本亨介氏の著書が、この年に出版されたのは、幸運だった
と言えるだろう。遺跡の記録も、発掘年より経つと、だんだん
記載がぼんやりとしてくるのが、

将棋駒の遺物の場合現実

だ。何せ、関心を持つ者が、かなり限られているからだ。
 ちなみにこの本には、同じ京都市の南区久世上久世町城ノ内
の上久世城ノ内遺跡の酔象駒が、六勝寺研究会によって発掘調
査され、表面の酔象は、赤外線写真で判定された旨が、載って
いた。年代は、瓦器の種類によったとある。以上の事から、古
い将棋史書は、史料程度に貴重な物であるという、良い例だろ
うと、山本亨介氏の成書を読んで、私は思い知らされた。
(2018/10/21)

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摩訶大大将棋は、何故216枚制にしなかったのか(長さん)

前に後期大将棋が130枚なのは、摩訶大大将棋が192枚制
である事から来る、盤升目の比を考慮した計算結果であるとの
説を述べた。そこで、今回今度は、その摩訶大大将棋の駒の数
を、論題にする。
 本ブログによれば、普通唱導集の大将棋の駒数は108枚で
あるとされる。これは仏教、とりわけ密教系の曼荼羅思想とか
らんで、煩悩の数に合わせたものともとれる。が、108が除
夜の鐘の撞き数で有る事からも明らかなように、暦とも関連が
ある数である。すなわち108という数は、6煩悩6条件の
36の、過去現在未来の3倍という、仏教の教義と直接関連す
る数と見られる事もあれば、12ヶ月+24節気+72候の
108と見られる事もあるからである。
 よって、本ブログの論である、摩訶大大将棋の駒数も、表題
のように、24節気+72候の96枚の倍でもよいのだが、
12月+24節気+72候の108の2倍の216枚であって
は、ならないという、積極的な理由は、無いと言う事になる。
 しかしながら、実際には108の倍の216という数は、
19升目の摩訶大大将棋では、駒の数としては何故か、採用さ
れなかった。これがいったい、どういう理由によるものなのか
を、今回の論題という事にしたい。
 答えをいつものように先に書き、その後で説明を加える。
 本ブログの、この論題に関する回答は、以下の通りである。

216枚制にすると、空き升目列が1段だけになり、中将棋が、
摩訶大大将棋作成の手本である事がバレるためである。すなわ
ち、後期大将棋から、摩訶大大将棋が出来たかのように見せか
けるのには192枚制にして、袖の市松模様を3段にするしか、
道が無かった

と考えられる。
 では以下に、以上の結論について、説明を加える。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏は、摩訶大大将棋より、後期
大将棋が形成されたと、繰り返し述べられているが、

この考えに、本ブログは賛同していない。”ほぼ同時に形成され
た”という旨の考えを、本ブログでは前に表明している。が、

何歩か譲って、高見氏の意見が仮に正しかったとしても、

摩訶大大将棋の作者が、摩訶大大将棋が後期大将棋から形成さ
れたように、見せかけようとしている事だけは、間違いない

と、私は考えている。根拠は、

この将棋を摩訶大将棋とか、摩訶大大将棋とかいう名称で普及
しようとしている

という点を述べるだけで、充分であると私は思っている。その
点で、似たような主旨の主張をしている、幸田露伴の考えに、
私は賛成する。
 ところで、仮に摩訶大大将棋を216枚制にしようとすると、
19升目の1/3が6に近いので、6段制は必然であると考え
るが、単純にそう仮定すると、以下の問題が発生する。

三段目の獅子列以外に、空き升目を作れなくなる。

つまり、1列のみに、点々と空き升目があるだけの、大大将棋
型の配列になるという事である。ところがこうすると、
摩訶大大将棋が、大将棋を親とするようには見えないため、そ
れを避けるためには、

後期大将棋を、1段だけ空の升目のある、138枚制にしない
とつりあわない

事になる。2段空升目が、市松模様に付いている後期大将棋か
らは、その拡大版としては、3段市松模様で空升目がある、
将棋が相応しいから、空升目は後期大将棋についても、酔象・
盲虎の段には作らないように、別の駒種を移動するなどして、
埋める必要が生じるのである。なお、

中将棋が92枚制、後期大将棋が138枚制、摩訶大大将棋が
216枚制になっても、前に述べた後期大将棋の、両側の将棋
に対する、中間種としての、駒数の尤もらしさは、元の、
中将棋が92枚制、後期大将棋が130枚制、摩訶大大将棋が
192枚制と同様、満たしている

と私は見る。ところが、このように後期大将棋の空升目列を、
獅子段の1段だけにすると、今度は

後期大将棋の親が、中将棋であるかのように見えてしまう

のである。何故なら、中将棋も後期大将棋も、摩訶大大将棋も
全部空升目が1段だけに並び、大大将棋と似たような形になる

からである。
 これでは

後期大将棋が、全ての祖であると見せかける

のには、やはりまずい。蛇足だがそうしなくても”後期大将棋
は、中将棋が親ではないかと、普通唱導集の大将棋唄が注目さ
れるまでは、遊戯史界では考えられていた。”と、木村義徳氏
著書、”持駒使用の謎”に、記載されている。私に言わせると、
最初の直感の方が、より真理に近かったという例の、一つでは
ないかと疑っている。
 何れにしてもそこで、空升目の段数を、中将棋は1段だけ、
後期大将棋は2段、摩訶大大将棋は3段にして、

後期大将棋から、工夫して、中将棋と摩訶大大将棋が出来た
かのように、見せかける必要があった

と私は考える。
 なお、実を言うと、後期大将棋が138枚制、摩訶大大将棋
が216枚制という将棋は、

どちらも、良いゲームを作り易い枚数である

事が判っている。4段目の駒を、袖まで中央並みに強くして、
オフェンスをより、強くしたほうが、ゲームバランスが、現行
の後期大将棋や、摩訶大大将棋よりも、良好なのが判っている
からである。
 従って、現代社会のゲームデザイナーは、上に述べたような、
合理的でない小細工は、まずやらないだろう。

後期大将棋へ、西暦1110年から摂関貴族の長の、肝いりで
存在する、平安大将棋に、何か深い関連が有りそうな、ネーミ
ングを付与した結果、摩訶大大将棋に関して、ゲームとしての
性能よりも、形が優先されるという

合理性に欠けた事情が、南北朝時代から室町時代の前期にかけ
ては、あったと言うのが、本ブログの推論である。
 以上の結果、19升目の摩訶大大将棋では、

”尤もらしく、3段組の市松模様の、袖の空き升目を作るため
に、216枚制ではなくて、192枚制に作られた。”と、

以上のように、少なくとも本ブログでは推定している、という
事になるのである。(2018/10/20)

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15×15升目の後期大将棋の駒は、なぜ130枚なのか(長さん)

将棋の駒が40枚なのは、平安小将棋が36枚で、飛車・角を
加えて40枚という説が強い。飛車角を入れた原因は、通説で
は、ルール調整。本ブログの見解は、龍王・龍馬駒を加える事
が本質とされ、どちらが正しいかはまだ、良くわかって居無い。
 他方、本ブログの主な題材である、大将棋の駒数の理由に
ついては、大阪電気通信大学の高見友幸氏の先行研究がある。
 ”摩訶不思議大大将棋から62を引いて後期大将棋の130
枚、また62を引いて平安将棋が68枚”というものである。
 なお本ブログでは、平安大将棋について、11升目3段配列
で、注人が2枚加わった将棋が、平安大将棋に先行して試作さ
れ、11×6+2で68枚であったという説を、前にこのブロ
グで表明した。また、摩訶大大将棋については、24節気と
72候の和の96枚の2倍にしたと、表明している。しかしな
がら、本ブログではこれまで、

後期大将棋の130枚制については、特に原因を追究した事は
無かった。

そこで、今回はこの、後期大将棋の駒数130枚の原因につい
てを、論題にする。
 何時ものように、最初に回答を書く。
結局中将棋が、 92枚制で12×12升目で144升目。
摩訶大大将棋が192枚制で19×19升目で361升目。
そこで、(92,144)、(192,361)という点を、
方眼紙等にプロットしてから直線で結び、後期大将棋の升目数
が15×15=225なので(X,225)という点を通る

X座標を求めると、129.327・・となり、4で割って
2余る整数の中で、最も近いものが、130だった

ので、後期大将棋の駒数を130枚に調整したと、本ブログで
は推定する。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
 まず、後期大将棋の駒数は、普通に配列すると、必ず4で割
り、2余る数になる。
 理由は、5段配列だからである。仲人を注人にして1枚中央
に配列したなら、平安大将棋のように4で割り切れたのであろ
うが。相手の角筋を止めるため、仲人の2枚化は必然だったの
であろう。

だから、後期大将棋の駒数は12の倍数には、できなかったと
みられる。

暦学や陰陽道の匂いが、本ブログで推定する、普通唱導集の
の大将棋よりも薄いのは、そのためだろう。つまり後期大将棋
が、108枚とか、144枚といった駒数にならなかったのは、
15升目化のためだったと、本ブログでは考える。中央筋に空
白升目を作るのは、玉頭が薄くなるので、見た目に悪く、その
選択は、小将棋のように、全部を空白升目にするわけにも行か
なかったので、無理だったのであろう。
 では、なぜ暦に関連の薄いのは仕方ないとして。12の倍数
にならない、4で割って2余る数の中で、特に130枚を選択
したのかだが。

単純に、中将棋と摩訶大大将棋の中を取った

のではないかというのが、本ブログの見方である。後期大将棋
が成立した時代には、既に、

中将棋の猛豹は猛将の洒落で1段目に落とされており、92枚
制になっていた

と、本ブログでは見ている。そこで普通唱導集大将棋に対して、
獅子、猛豹のほかに、悪狼、猫叉、石将、不足の歩兵を加えて、
22増の130枚制にし、見た目にも中将棋と摩訶大大将棋の
全体配列形と同じにすると、冒頭の

結論で述べたような計算で、駒数が確定するような型になった

のではないかと、本ブログでは見るのである。
 なお、この計算には有る程度の算数の力が居るので、ひょっ
とすると、後期大将棋や摩訶大大将棋には、時の北朝武家方の
暦作成に関連している人間が、ゲームの作成に関与していた事
も、疑われるのかもしれない。
 つまり、後期大将棋、摩訶大大将棋は、空白升目が袖に計4
升目できた中将棋を、形を類似にさせながら、升目を多くして
作成した結果、

後期大将棋は、(92,144)、(192,361)という
点を結んでできる直線にほぼ乗る、(130,225)という
座標のX値である130枚になった

のではないかと、本ブログでは推定するのである。(2018/10/19)

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摩訶大大将棋の狛犬は、なぜ金将に成るのか(長さん)

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄によると、摩訶大大将棋の5段目
走り駒は、奔王、龍王、龍馬を除いて金将に成り、狛犬を含む
4段目中央5個組、仏教駒も金将に成るとされる。どのような
規則で金将にしているのかと言えば、

金将の6方向の隣接升目への行き所に関して、一箇所でも欠け
た大駒・跳び駒・踊り駒は、金将に成るとする

という規則であると考えると、鳳凰、麒麟は別格として、

狛犬以外は説明が付く。

しかしながら、狛犬に関しては、もともと8方向の隣接升目の
何れにも行き所があるにも係わらず、例外的に、金将に成る規
則になっている。これが何故なのかを今回は、純粋にルール・
デザインの問題という観点から論題にしてみる。
 いつものように、回答を先に書き、次いで説明を加える。

曼殊院の将棋図では、不成りだったが、水無瀬兼成が写すとき
に間違えた可能性が高い

と、本ブログでは推定する。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
 まず、狛犬以外の大駒に例外が無い事について説明する。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、たとえば最も原本に近い、
2014年の島本教育委員会発行の冊子”象戯図”を見れば判
るが、

獅子が摩訶大大将棋では、不成り

になっていて、奮迅には成らない。獅子も隣接升目へは全部行
ける事が、摩訶大大将棋口伝等に書いてあるから、金将の行き
所について、欠ける升目は無いので、不成になるのが妥当と考
えられる。また、たとえば金剛については、前と横へは3目限
定踊りなので、隣接升目へは行けず、金将の行き所に関して欠
けがあるから、金将に成るで、合っている。
 だから、水無瀬兼成の摩訶大大将棋で、後期大将棋の成りに
合わせたとみられる、麒麟と鳳凰は除くと、

おかしいのは狛犬だけ

である。
 次に大大将棋では、獅子が獅子+狛犬動きの奮迅に成る事に
したのだが、狛犬については、種切れで金将にしたという説明
を、たとえば苦し紛れにするとする。しかしそれでは、大大将
棋の狛犬の成りが、それなりに尤もらしい、斜め前には2升目
踊りだけの、教王の動きと見られる、大象にしていて、

狛犬の成りを考えようと思えば、考えられたわけで、問題は解
決済み

なのが説明できない。つまり、”行き詰まって狛犬の成りを、
無理やり金将にした”という説があるとすれば、それもおかし
な話なのである。
 そうなってくると、残りの解釈は、

水無瀬兼成が、将棋纂図部類抄の大大将棋初期配列の成りの
図を作成した時に、本来は空白にしなければならなかった
狛犬の成りの部分に、誤って”金”と書いてしまった

というふうにしか、説明できないのではないかと、私には思え
る。どうみても、狛犬は成らない方が、

獅子との対という説から見ても、このケースは妥当

だと思われる。よって今後は、獅子を奮迅に成らせないような、
将棋纂図部類抄の図の摩訶大大将棋を指す時には、本ブログで
は以降、

狛犬は不成りを提唱

する事にしたいと、考えているのである。(2018/10/18)

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本ブログの普通唱導集大将棋と後期大将棋。猛牛の場所が違う訳(長さん)

本ブログの普通唱導集大将棋では、2段目の配列が、猛虎から
外が、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車となっていて、猛牛は、
中央筋の3つ目、3/7の列の位置を占める。なお、猛牛は、
ジグソーパズルのように、何が置かれているのか不明な升目に、
”鬼門信仰”から、それが置かれたと仮定して、位置を推定し
ている。
 それに対して、15升目制の後期大将棋では、猛牛は端列の
隣の列の3段目に配置されている。つまり、7/8の列の位置
にあり、本ブログの推定する普通唱導集大将棋の猛牛よりも、
ずっと端に寄ったところにある。
 この差が何に起因し、前に述べた、亀山天皇の対モンゴル帝
国戦争勝利の勅願寺で指す将棋として、どちらが的確なのかに
ついて今回は論題とする。
 回答を先に書き、説明をその後でする事にする。

後期大将棋は、闘獣棋系の要素のある将棋で、それは中央アジ
アの文化を、恐らく晁補之の広将棋の序によりの知見から、取
り入れた結果、牛駒が袖に配列されるようになった

将棋である。従って、中央アジアに広大な支配地域を持つ、
モンゴル帝国に、既に征服された国の将棋のようでもあり、
少なくとも亀山天皇の、

対モンゴル帝国戦争勝利の、勅願寺付近で指す将棋としては、
必ずしも適切なものとは言えない

と、本ブログでは考える。
 つまり、東岩倉山の観勝寺に間借りしていた、東山光明院の

普通唱導集編者の良季が編集した大将棋としては、後期大将棋
は、不自然な初期配列のゲームである

と言うことになる。
 では、以上の結論について、下記に説明を加える。
 そもそも、後期大将棋の2段目および3段目には、動物駒が
主として配列される。
 獅子から斜め下、ついで斜め上に、ジグザクに辿ると、次の
ようになる。

獅子→盲虎→悪狼→猛豹→嗔猪→猫叉→猛牛→反車

この配列は、現在中国の

雲南博物館に造形美術品として展示されている、闘争動物種の
勝ち組から負け組に向かって、並べた順番とほぼ同じ

である。
 つまり、虎や狼や豹は、猪と牛を捕らえて食べてしまう側に、
回っているのである。恐らく晁補之の広将棋には、闘獣棋の要
素が有って、それが虎関師錬等により、南北朝時代に紹介され
ており、後期大将棋のゲームデザイナーに、取り入れられた為
と、私は考える。
 それに対して、平安大将棋に牛駒と猪駒を加えて、鬼門を守
る動物神として、2段目に4種類の動物駒を置いたと推定され
る、本ブログの普通唱導集の大将棋では、2段目が左から、

反車(左端)、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、麒麟、酔象(中央)
そして、
酔象(中央)、鳳凰、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車(右端)

となるから、猛牛は、比較的中央に近いのである。つまり
飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎というのは、嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍、
と、中央の位置を鬼門の北東方向に合わせると、中間の鼠と、
兎を加えてみると良く判るが、

・・嗔猪、鼠、猛牛、(鬼門)、猛虎、兎、飛龍、・・

となって、方位の12支の順に、きちんと並んでいるのである。
 ところで、本ブログの仮定した普通唱導集大将棋で、中央部
分に、麒麟、酔象(中央)、鳳凰、とおき、その袖に方位の
12支駒を、鬼門方向を中心に並べるのは、

江戸の北東に、仏教寺の寛永寺を置いて、仏の力で鬼門の鬼に
打ち勝つという、宗教思想と内容が同じ

である。つまり、酔象の裏が太子で釈迦であるから、”聖人が
現われるときに、麒麟と鳳凰は現われた”として、釈迦駒と3
組で中央に並べ仏教を象徴し、その隣に、鬼門の4つの動物神
を置いて、仏教が、鬼門に置かれて日本の国を守っているとい
う図を表しているのである。だから普通唱導集大将棋では、

邪神の束であるモンゴル帝国の侵略に打ち勝つ、仏門の国日本
を現している

という事である。
 ところが、後期大将棋では、その配列が全く崩れている上に、
雲南省付近の文化の取り入れとはいえ、この闘獣棋のような
ゲームデザインの配列は、その文化が中央アジアに支配力
の強かった、モンゴル帝国内の文化のようでもあり、

中央アジア高原の支配国に対する、その時点での日本の隷属

を示唆しているようにも見えるという事になる。ただし、実際
には、後期大将棋はモンゴル帝国の脅威から、だいぶん経った
ときに、中国の広将棋の知見を、その時代のゲームデザイナー
が取り入れる事によって、”日本で今流行の中国文化”として
取り込んだ

室町時代前期のゲームとしては、適正な形に仕上げたもの

と、見れば何ら矛盾はない。
 以上の事から、後期大将棋は、モンゴル帝国の脅威が喉元を、
だいぶん過ぎた頃の、ゲームではないかと、私には疑われる。
普通唱導集大将棋が、西暦1274~81年の蒙古来襲から少
し後の、西暦1300年の将棋とすれば、後期大将棋は

その100年位後の西暦1400年頃の将棋

なのではないか。そのように、猛牛の配列の違いのパターンか
らは、私には推定される。以上のような結論に、少なくとも、
本ブログの今までの流れからは、なってしまうと言う事である。
(2018/10/17)

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南北朝時代(西暦1356年)の貴族の将棋の記録(長さん)

南北朝時代には異性庭訓往来や遊学往来(続庭訓往来)等の
教科書物に、大・小将棋の記録があるほか、太平記で、九州
少弐氏が少将棋の将棋盤と思われる物を、所持していた等の
記録があると、認識している。ただし、将棋種を特定できる
ような、史料は乏しい。鶴岡八幡宮出土の成楷書奔王鳳凰駒
が、後期大将棋の存在を示唆しているほか、小山市神鳥谷曲
輪、成り一文字金角行駒が、摩訶大大将棋系の将棋の存在を
示唆している程度である。小将棋で、時代の長さが限られて
いる南北朝時代と、ぴたり特定できる駒は、京都市南区上久
我駒が酔象かどうか、はっきり私は断言する情報を個人的に
持たないので、むしろ酔象で無いとか、小将棋の変種で酔象
が使われたとか言うと、小将棋の証拠にはなるかもしれない。
そもそも、小将棋の遺物の存在は、はっきりとは聞いた事が、
無いように私には認識される。
 他方、南北朝時代の北朝方の公家で、武家方との取次ぎ役
をしていた高官の、洞院公賢という、藤原氏の子孫のがおり、
以下の成書に、日記”園太暦”の紹介がある。その日記
”園太暦”の西暦1356年2月27日の所に、

将棋が出てくる

との事である。近年著作の紹介文献は、以下の通り。
 林屋辰三郎著。”内乱のなかの貴族”角川選書(1991)
記載は、第十章戦争と平和の四”幻夢の世情”の最初の方に
ある。正確には、

”将棊興”と書いてあるらしく、将棋種は残念ながら、特定
できない

ようである。
 仮に”中将棊興”と書いてあったなら、遊学往来より早く
なり、将棋史上重要な文献になった事であろう。この日記は、
上記成書によると、戦国時代の公家で、将棋を愛好したので
著名な、甘露寺親長が日記の保存に絡んでいるため、選択的
に、将棋の記載が残される可能性が、むしろ高いとみられる。
そこで残念ながら南北朝時代に、藤原貴族の間で、将棋が極
めて盛んだったという証拠とまでは、言えないかもしれない。
 将棋種は、当てずっぽうだが、9升目36枚制の標準型の
平安小将棋で、持駒有りのルールなのかもしれないと思う。
 前に、小山義政に関連する、冒頭で言及した、栃木県小山
市神鳥谷曲輪角行駒は、小山義政は40年強保管しただけで、
もともとは、小山氏の殿様で2代前の

小山朝氏が西暦1340年頃に近衛経忠より贈答されたもの

ではないかと、述べた事があった。近衛経忠は南朝方の藤原
長者のため、

大覚寺統関係者の貴族は、鎌倉時代末の亀山天皇時代の、
良季の作成した、普通唱導集大将棋を南北朝時代に引き続い
て指し、
持明院統関係者の貴族は、南北朝時代作の15升目の大将棋、
中将棋、標準型平安小将棋を指す

といった、何か傾向があるのかもしれない。ちなみに持明院
統の後深草天皇は、鎌倉時代末の西園寺公衡の日記により、
”遺品に小将棋の将棋盤がある天皇”というので、良く知ら
れている。何れにしても、南北朝時代の将棋を記載した公家
等の日記文書等の資料は、余り例が無いと見られるため、
”いろいろな種類の将棋が有った”とされる、南北朝時代の、
洞院公賢の日記”園太暦”に現われる、

将棋種が謎の、”将棋興”の記載も、一応記憶に留めて置く
べき

ありがたい情報のように、私には思えた。(2018/10/16)

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徳島県川西遺跡奔横駒。奔獏駒だったとして大大将棋の駒なのか(長さん)

徳島県徳島市近郊の中世鎌倉時代中期の遺跡、川西遺跡より
出土した奔駒を、本ブログでは”不成り奔横”と読んでいる。
しかしながら、研究者によっては本横や奔獏と読むケースが
ある事については、以前述べた。本横と読めば、従来の将棋
種に前例が全く無いので、この駒の価値が減じる事は無い。
しかし、

奔獏と読むのは、大大将棋の駒ではないかとの推定が出来る

ので、旧来の将棋種の知見中に、いっけんするとこの発見が、
収まってしまう、かのようにも見える。
 今回は、この徳島の奔駒が、本ブログが考えるように奔横
ではなくて、仮に奔獏だったとして、この”出土駒が大大将
棋の駒である”と結論できるのかどうかを、論題にする。
いつものように、最初に回答を書いて、その後説明を加える。

結論できない。大大将棋は鎌倉時代には、存在しなかったと
考えられる。

では、以下に、以上の結論について、本ブログの見解を述べ
る。
 理由についても最初に答えを書いてしまうと、大大将棋が
室町時代以降に発生したと、少なくとも本ブログでは考える
のは、

盲猿の成りの山母が、室町時代にならないと、発生しない
妖怪、”山姥”の事

だからである。
 なお、山姥が山母になったのは、将棋の駒は音読みの方が、
体裁が良いので、字を姥から母に入れ替えたためと見られる。
 また、大大将棋の盲猿の成りが、山母であるというのは、
初出が安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄である。
 大大将棋が、鎌倉時代に無いと言うのは、この点の指摘が
最も平易だと、私は考える。なお、本ブログでは、大大将棋
の発生は、水無瀬兼成が生まれた後であろうと、推定してい
る。というのも、
(1)泰将棋の猛鷲が、本来の天狗と対になる、2回走り駒
の元駒のように見え、
大大将棋は、水無瀬兼成が、泰将棋を作成する少し前に、
プロト泰将棋として、助成者が水無瀬兼成が、豊臣秀次に献
上するための、泰将棋作りの手助けをしたという痕跡の疑い
を持っているからである。その他、大大将棋が古くないとい
う証拠として、以前このブログでは、
(2)盲猿という駒名の、古猿よりも起源が前の将棋種であ
るかのように、見せかけては見たものの、そもそもその駒名
自体の、将棋駒種名としてのおかしさ。
(3)老鼠の成りの、摩訶大大将棋の蝙蝠は、大大将棋成立
時の、古時鳥と、各々の将棋種成立よりも後の時代に、交換
されているではないかとの疑い。
以上の3点を挙げた。
 が、(1)~(3)は、山母の論よりも判りにくく、少な
くとも、川西奔”□”駒の時代に、大大将棋が無いという
論理としては、”盲猿の成り山母の室町時代以降の発生”の
方が簡単だろう。
 何れにしても仮に、徳島県川西の奔”獏”駒が、大大将棋
の駒であると将に主張する研究者が、今後出てくるとすれば、

山母の出現時期の問題に、言及すべきである事だけは確か

であろうと、本ブログでは断定する。つまり、奔獏だったと
しても、出現時代が早すぎて、大大将棋の駒では、説明でき
ないと見られるため、

川西の奔横駒は、たとえ奔獏と読むのが正しかったとしても、
将棋史に重大な影響を与えた発見である事に、変わりは無い

と、この出土を、少なくとも本ブログでは、極めて高く評価
しているという事に、なるのである。(2018/10/15)

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藤原頼長と無関係な東山区安井金比羅。鎌倉時代の観勝寺は違う(長さん)

表題に書いたように、webの情報を見る限り、京都東山区の安井
金比羅宮は、崇徳上皇と関連し、また平安時代の源頼政を祀るが、
恐らく平安大将棋を指した、保元の乱の関連者、藤原頼長を祀って
いるとの情報は無い。しかしながら、この状況が、鎌倉時代の
普通唱導集編者の良季よりも前、鎌倉時代前期、後鳥羽上皇の頃
になると、

一変する

との情報があった。鎌倉時代前期には、本ブログの表現での
”東山区の”観勝寺は、崇徳院社と呼ばれ、保元の乱で敗れた、
崇徳上皇と藤原頼長とを、

実は両方とも祀る宗教施設

であったという情報が、下記の成書にあるためだ。

㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」(下中弘)。

つまり、良季は、崇徳上皇の霊だけ鎮める、後の安井金比羅とされ
る”東山区の”観勝寺に居たからではなく、

崇徳上皇と藤原頼長の2名の霊を、同時に鎮める

崇徳院社(関連)の僧であったから、大将棋を指した藤原頼長の霊
を鎮める、立場に居たという事になる。
以上まず、言いたい事を先に書いたので、以下に補足説明を加える。
 論を判りやすくするため、時系列で、普通唱導集に大将棋を記載
した僧、良季の居た、後の京都東山区の安井金比羅宮の一部として
の”東山区の”観勝寺の歴史の流れを成書に従い振り返る。すると、
以下のような経緯で、結局安井金比羅宮の一部になったようである。
 ㈱平凡社(1997)「京都・山城寺院神社大事典」によると、
”鎌倉時代の早期に、後白河上皇が、京都市左京区にある聖護院の
位置に、保元の乱で破れて、霊が怪奇現象を引き起こしているとさ
れる崇徳上皇と、藤原頼長とを共に祀る、崇徳院社を設立した。”
とある。が、この宗教施設は、設立後数十年で荒廃してしまった。
 そこでモンゴル帝国の来襲の少し前、在来仏教の僧とみられる
大円上人が、前記の崇徳院社を、

”東山光堂光明院”と名前を変えて、京都市左京区の東岩倉山
で再興したと、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれている。

その際、大円は東岩倉山に元々あった、”左京区の”観勝寺を、
”モンゴル帝国の来襲を防ぐ、勅願寺にしたい”との、亀山天皇~
上皇の意思を恐らく受けて、それに協力し、

ここで言う”左京区の”観勝寺をもまた、整備した(中興した)。

そしてその際、”左京区の観勝寺”も、”東山光堂光明院”も両方
東岩倉山に置いた。すなわち、先に述べた、実質的に”崇徳院社”
である”東山光堂光明院”は、亀山天皇勅願寺の左京区観勝寺の
子院として”東山光堂光明院”という名称で、

同じ場所に置かれた

というのである。つまり、安井金比羅を説明する、”東山光堂光明
院”関するwebの情報は、

”東山光堂光明院”という名称だからと言っても、現在の行政区の
京都市東山区に、元から有ったとも断言できない

と言う事である。そしてその、東山光堂光明院という、モンゴル帝
国退散祈祷の勅願寺の子院の僧として、普通唱導集編集者で、
真言密教僧の良季が、ちょうどモンゴル帝国来襲の頃に、在来仏教
僧侶の大円の居る、京都市左京区の東岩倉山に住んで、唱導集の編
集を始めていたとみられるというわけである。結局その普通唱導集
は、来襲より20年近く経った、西暦1300年頃に、ようやく完
成したようだ。
 なお上記成書によると、鎌倉時代中~後期、”左京区の観勝寺”
と、同地の子院、”東山光堂光明院”との関係は、

”互住一味和合之思、

不可有偏執驕慢之意”とされたそうである。
本ブログの認識では、”左京区の観勝寺”は東大寺系在来仏教、
”東山光堂光明院”は真言密教だったはずであるが、交流があった
どころか、ある場所がいっしょだったのである。
 その後、戦国時代に入り、応仁の乱により、結局”左京区の観勝
寺”も”東山光堂光明院”も荒廃してしまった。後に江戸時代にな
り、崇徳上皇ゆかりの神社として設立された、安井金比羅宮が中興
され、更に少したったときに、東山区の

安井金比羅宮に”左京区の観勝寺”も、本ブログの表現での、
東山区の観勝寺、すなわちイコール”東山光堂光明院”も、両方と
もに取り込まれてしまい、

ついで、明治初年の神仏分離令により、両方の観勝寺共に消滅して、

後継の安井金比羅宮が、崇徳上皇の霊は鎮めるが、藤原頼長が特に
出てこない神社として残った

という経緯のように、「京都・山城寺院神社大事典」には書かれて
いるのである。
 以上の事から、

鎌倉時代に、普通唱導集編集者の良季の居た”東山光堂光明院”は、
藤原頼長をも、現在の安井金比羅宮とは違って祀っていた

事になる。ので平凡社の「京都・山城寺院神社大事典」を読む限り、
”東山光堂光明院”は、実質同じ、崇徳院社に藤原頼長への弔いが、
崇徳上皇に加えて存在していたため、

鎌倉時代には平安大将棋系の将棋にどんぴしゃ関連する、密教系
の寺だった

と見て間違いないように、少なくとも私には思えてきたのである。
(2018/10/14)

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本ブログ普通唱導集大将棋。麒麟酔象鳳凰の配列は実在するのか(長さん)

本ブログの大将棋モデルでは、2段目の、平安大将棋に元々有る
2枚の猛虎の間に、左から麒麟、酔象、鳳凰と並ぶ配列が仮定され
ている。が、このような将棋は、

日本の将棋としては、他に全く知られて居無い。

示唆しているのは、後期大将棋で、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄に
準拠する限り、成り駒が麒麟、酔象、鳳凰と3枚だけであり、後期
大将棋では、この3枚がばらばら、本ブログの推定する普通唱導集
大将棋では、2段目に3枚が並ぶという、それらしさだけである。
 今回は、当の鎌倉時代に、麒麟、酔象、鳳凰、厳密には、
麒麟、釈迦(太子)、鳳凰という組合せが、古文書文献で示唆され
る例がある事につき紹介する事にしたい。なお、他の時代のもので、
麒麟や鳳凰が出てきて、釈迦に関連付けられる古い文書の文例は、
古語辞典の類等に出てくるが、時代が普通唱導集からは遠かったり、
中国の書物に出てくるので、証拠にならないものが多いと考える。
ともあれ、証拠となる文書は、以下の物である。

摧邪輪(一向専修宗選択集の中において邪を砕く輪)巻下(2/3
ほどの部分)。著者:高弁(東大寺~高山寺の僧。別名”明恵”)、
西暦1212年著(鎌倉旧仏教、岩波書店、1971年に記載。)

箇所は、”設我雖(下)作(二)此書(一)防(二)菩提心(一)
以(二)正道門(一)喩(中)群賊(上)、世有(下)如(二)
汝等(一)之罪人(上)、道心不(レ)可(レ)絶、聖道不(レ)
可(レ)滅、何強致(ニ)憂愁(一)乎。”という著者高弁の自問
いに対して、彼が答えた部分の一部である。

”昔より大人(聖人)が世に出るとき、鶏鳥は鳳凰を孕み、牝馬は
騏驎を産すと聞く。”

と記載され、聖人が出現するときに、麒麟と鳳凰が共に現われる事
が、西暦1212年の史料に書かれている。中国の言い伝えとして、
前から、似た構文は在ったと見られるが、日本で鎌倉時代に、麒麟・
鳳凰が、聖人と同時に出現するとの説が、注目されていた事を示す、
上は一例とみられる。ここで、麒麟だけ、鳳凰だけの片方のみだと、
麒麟、酔象、鳳凰と、将棋駒が並ぶ配列が考え出せるという証拠に
ならないと見られる点が、重要である。

なお、高弁、別名”明恵”は仏僧であるから、聖人とは仏教上の
聖人、つまり一例では、釈迦のような人物を指す事は、明らか

である。このフレーズから、麒麟、釈迦(酔象)、鳳凰が鎌倉時代
に3つ並ぶ将棋が、不自然で無い事が、証明できると見られる。
 なお、自問いの内容については、答えからほぼ想像できるが、
難しい字が無い割りには、レ点や一ニ点の他に、上中下点まで出て
きて、漢文が構造として難しく、私には正確には把握困難である。
 この文書は前に、鎌倉時代初期の興福寺の賭博に関連して紹介し
た、”興福寺奏状”と同じく、法然が開祖となったの浄土宗に、
打撃を与えるために作成された、在来仏教側の反撃文書であり、
この文書には浄土宗の悪口が、延々と書かれている(らしい)。
 ちなみに、この”昔より・・”一文は私が読み下したので、正し
いかどうかは、確約できない。書いてあった、岩波書店の”鎌倉旧
仏教”には、”摧邪輪(一向専修宗選択集の中において邪を砕く輪)”
は巻上だけ、田中久夫氏の校注が載っていて、巻中と巻下は漢文に、
返り点等が付いた文が、載っているだけだった。解説部分を読むと、
著者は、3巻をいっきに書いたのではなく、それぞれの巻が、だい
たい同じような内容で、別々に3回書かれたものらしい。このケー
スについては、

探していた文の表現が単純だったので漢文だけ載っていれば済んだ

のが、幸運だったと言う事だと、私は認識している。(2018/10/13)

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京都の安井金比羅宮は、東山区の観勝寺と左京区の観勝寺を吸収(長さん)

西暦1300年頃の大将棋を記載する、普通唱導集の編者良季は、
京都市の東山区に在り、後に安井金比羅宮となった、真言密教の
寺院、光明院観勝寺の住僧だったとの情報が、webに有る。
 崇徳上皇を祭った寺であり、その御前で藤原頼長が大将棋を
指した事で知られるため、少なくとも本ブログでは、良季が、
普通唱導集に、小将棋だけでなく、大将棋の唱導をも載せる、動
機になったのだろうとみなした。
 ところで、良季の時代は、モンゴル帝国の伸張と、日本への
来襲で有名な、鎌倉時代中・後期であり、龍神や釈迦を日本の守
護神や守護者と見なして、祈祷をした事に習って、平安大将棋の、
従来の空き升目等に、龍王、龍馬、成太子酔象を導入する、動機
になったのであろうとも、本ブログは見なした。しかし東山区の、
崇徳上皇が主の観勝寺で、蒙古来襲の祈祷が繋がるという保障は
無く、108枚制の将棋が密教金剛界曼荼羅と関連するとしても、

中身の駒種類を特定する情報には、乏しかった。

ところで最近、これに関連して、以下の成書から、安井金比羅宮
は後に、もう一つの京都の観勝寺を吸収して、2寺合体で成立し
たとの情報を得た。

㈱淡交社(1984年)「京都大事典」佐和隆研他編集

上記書籍によると、左京区粟田口大日山町の東岩倉山に、もう一
つ観勝寺があり、のちにこちらの寺は、東山区の安井金比羅宮に、
近世にだけ、存在したという。この寺は、”もともと東山区の
安井金比羅宮にあった”と、webの情報からは読み取れる、
崇徳上皇を祭るための、”普通唱導集編者の僧良季の居た観勝寺”
と、繋がりが当初からあったようで、

左京区の方は亀山天皇の勅願寺で、奈良東大寺系の在来仏教の寺

だったと、されるようである。
 今回の論題は、普通唱導集製作の時代に、真言密教の寺だった
とみられる、東山区の観勝寺が、亀山天皇の勅願寺とみられる、
京都左京区の観勝寺と(関係は、wikipediaの、”安井
金比羅宮”の注釈を読んでも、私には完全には理解できないが、)

両方の観勝寺が関連する事から、どんな結論が得られるのか

とする。まずは答から書く。
亀山天皇が良季の時代に、左京区の観勝寺で勅願したとすれば、
護国の札を作成して、方々に配布していた事で著名な

亀山天皇は、京都市左京区の観勝寺で、モンゴル帝国軍の壊滅を
祈ったとみて間違いないから、良季の言う大将棋には、龍王、
龍馬、成り太子酔象駒が有る方が、より尤もらしい形である

と結論できると考える。では、以下に上記結論について説明する。
 まず、モンゴル帝国退散の祈祷の際、龍神を日本の守護神と
考えて、その力にすがった事については、たとえば、

岩波新書831、岩波書店(2003年)「龍の棲む日本」
黒田日出男

の、本カバーの題目の左部分にも書いてある。長野の諏訪大社が、
モンゴル帝国軍壊滅の祈祷をする際、龍神を守護神に据えた事等
も上の書籍の本文にはある。昔は神仏混合だったので、亀山天皇
が、寺で勅願する際も、八百万の神のうち、強そうな神仏である、
明王や龍神を選んで、異国排除の祈祷をしたと考えられる。
 この亀山天皇ゆかりの京都左京区の観勝寺は、良季が普通唱導
集を編集するときに居た、密教曼荼羅の寺院、東山区の観勝寺と、
寺の本末関係は、むしろ亀山天皇の勅願寺が上とみられるが、隣
組の関連寺であったと、当然みなせるのではないかと、私は思う。
 従って、108煩悩と金剛界曼荼羅に絡んで、13升目のまま、
ただし68枚制から108枚制に変化したとみられる普通唱導集
大将棋には、

亀山天皇のモンゴル帝国退散を支援するように、龍神としての、
龍王、龍馬が在り、また仏教の本尊であり、仏教徒の心のより
どころである釈迦を成りとする酔象が、西暦1300年の大将棋
にはあったと考えた方が、良季のいた環境上、より相応しい

と、私には思える。
 そして、酔象を玉将の上に置けば、横行は端列に移さざるを得
ず、対で堅行を作らないと釣り合いが取れないため、それはでき、
関連して、角行も生じると見るのが自然である。だから、
普通唱導集大将棋の第3段目の配列が、13枚の駒が並んで、
飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、
堅行、横行、飛車という、行き所のルールについても、規則的な
配列になるのは、必然なように、私には思えるのである。
 つまり、単に真言密教の寺だったばかりでなく、関連する寺と
して、モンゴル帝国来襲の排除の、皇族の祈祷寺ともグループを
作っていたという寺に住んでいたので、普通唱導集の大将棋の唱
導を編集した良季は、

本ブログの13升目108枚制普通唱導集大将棋が、ピタリと決
まった環境に、大将棋の唱導唄を作成したときには居たはずだ

と、少なくとも私はそう思えるというのが、結論となるのである。
(2018/10/11)

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