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尊経閣文庫蔵ニ巻本1565年色葉字類抄にも象戯有り(長さん)

前に、国会図書館の電子図書で、外部から閲覧できる
色葉字類抄、色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本(三巻本)
に、象戯が発見できず、国会図書館の電子図書で内部
でなら閲覧できる、十巻物の伊呂波字類抄に象戯があ
るのを紹介した。では12世紀・西暦1165年ごろ
までには成立したとされる、二巻本の色葉字類抄の、
加賀藩前田家の、尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄
(1565年書写)八木書店(2000)に、象戯が
有るのかどうかという事になるが、

有る

ようだ。
 たとえばそれは、下のような字体である。

二巻前田本.gif

 ”平安時代の末期に成立した、色葉字類抄に、象戯
の字が見られる”と、将棋史界では言われるが、正し
いようである。それにしても、三巻物の色葉字類抄と
みられる、同じく尊経閣文庫関連の尊経閣叢刊丙寅本
に、象戯が見当たらないのは、何故なのだろうか。
(2019/03/31)

(追記)ちょっと字体がおかしいですが、
色葉字類抄の国会図書館、外部閲覧可能唯一
本(3巻物系)尊経閣叢刊丙寅本の”将棋”は、
以下のような書体のものかもしれません。

色葉国会3巻将棋.gif

 色葉字類抄を、だいぶん見慣れて、私は
おかげさまで見落としが、少なくなりました。
(2019/03/31追記)

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ニ巻本1565年写”色葉字類抄”上の上書誌解説に誤(長さん)

前に、ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上の
構成について、八木書店発行の、尊経閣文庫蔵2巻本
の古文書の、フルコピー現代本の解題部(解説)に書
かれた内容を紹介した。その中で、この本の主な内容
である、いろはにほへと・・の漢字群の書き方に関す
る、この本の、ほとんどの割合を占める部分の内容を、
巻末直前であるかのように紹介したが、

実際の古文書の内容と、この点だけだが全く違う

事を最近知った。
 書いた内容で、簡略に書くと

メイン部は9番目では無く、④の真ん中に有る。

つまり、①表紙→②序文→③凡例→④「イロハニホヘ
トチリヌルヲ、(よって)色葉字類抄巻上上」の後が、
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容→④「伊呂波字類抄巻上上」という尾題→
⑤→⑥→⑦→⑧→⑩となっている。そのため、
⑦・⑧は、⑥遊紙と⑩巻末に遊紙が3枚、その後に裏
表紙の部分となっている。結局、

大将基と小将碁は、遊紙と遊紙の間に挟まれた部分に
有って、
色葉字類抄のメインコンテンツとは、分けて書かれ
ている

という点を、はっきり認識する事が非常に重要だ。
以上が要略である。では、いつものように、
以下に、補足する。
 前に書いたときには、各項目を、以下のように、
ナンバリングした。

①表紙の見返しに墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
②遊紙を1枚挟んで、次ページに序文が書かれている。
③序文と離さず、意義分類部目と説明、墨書で「イロ
ハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返している。
④「イロハニホヘトチリヌルヲ」と行を離さないで、
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上上」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上上」である。
⑤続いて、いわゆる奥書が書かれているらしい。
⑥遊紙が1枚挟まれている。
⑦「大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が、酔
象の象を除くと、原則2文字単位で記載されている。
⑧「小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が2文
字単位で記載されている。
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容が始まる。全部で50枚である。
⑩巻末に遊紙が3枚あり、裏表紙も形成される。

上の書き方の番号を、順番だと思ってしまうと、

後期大将棋と日本将棋の記載が、いろはの漢字群の、
この本の本家・本もとの内容の前に有るように聞こえる
が、大間違い

だ。実際には、
”いろはにほへとちりぬるを”と、”わかよたれそつね
ならむ”の間に、後期大将棋と日本将棋の記載が有り、
第1冊(/4冊)の、裏表紙の前、つまり、第1分冊の
最後の所に、前後に遊紙を挟んで、大将棋と日本将棋の
内容が分けて書いてあるという事である。
 しかも、第1分冊/4の奥書の後であって、かつ、
上の下(第2分冊/4)の表紙、「我世誰ゾ常なら無」
の前の、

コンテンツの”外部領域”に記載されているだけ

と、言う点が重要である。
 この認識の間違いは、実に

致命的

だ。
 言い訳はしたいが、意味も無いので止めて置こう。

内題の次に、いきなり尾題の書かれる古文書など、
この世に無かった

ようだ。大ボケであり、穴があったら入りたいところだ。
 ようするに将棋の記載は、
第1分冊/4分冊の、⑤奥書の更に後に書かれていて、

色葉字類抄の内容からは、離れたコンテンツである

という事だ。だから第4冊/4冊の奥書後に、間に遊紙
を置かずに1行書かれた”異字”集を除くと、他の全て
のコンテンツとは違っている事が、前田本尊経閣文庫蔵
2巻物色葉字類抄(八木書店 色葉字類抄ニ 二巻物/
西暦2000年発行)には、かなり明確に、示されて
いるという事になる。
 つまり大将碁馬名と書かれたページ⑦と、小将碁馬名
と書かれたページ⑧は、西暦1140年代の成立では、
ほぼ無いと、みられるのではないかと、言う事である。
(2019/03/30)

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二巻物色葉字類抄に中将基無く大将基の成り独特な訳(長さん)

今回は表題のように、江戸時代の加賀前田藩の文庫、
尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年書写)
色葉字類抄の、伊(イ)よりも更に先に有るという、
さながら巻頭特別企画を連想させるような、大将基
1ページと、小将碁1ページの内容の特徴について、

一番大事な以下二点のみ、議論する。

どうみても、後期大将棋と日本将棋が書かれていて、

①中将棋が無いのはおかしい。これは何故か。

また、後期大将棋が書かれているが、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の、15×15の後期大将棋とは異
なり、
成りは、麒麟が師子、鳳凰が奔王、”酔”が太子だ
けではなくて、

②香車、反車、飛車、猛牛、仲人が、”駒の裏が金”
との旨書かれている。これは何を意味するのか、

を論題とする。つまり、1565年書写の二巻物
色葉字類抄に中将基が無く大将基の成りが独特な訳
を考える。いつものように、答えから書く。

①は作成者が公家か、それと繋がりの強い僧侶で、
中将棋の駒を恒常的に保持していた。そのため、
中将棋は駒の字が判らなくなったら、将棋駒を引っ
張り出して見れば、それで良く、色葉字類抄(2巻
物)に中将基という文面を書き足す必要が無かった

ため。

②作成した時代の後期大将棋が、各段で、一番端の
駒種を、金成りにするルールだとの情報を、作者の
公家か準公家が得ていて、その通りに書いただけ

と今の所、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 ①については、水無瀬兼成の将棋馬日記に関する、
増川宏一氏の研究で、公家は将棋と言えば、中将棋
だけを、西暦1590年頃には購入していたという
事柄が、証拠史料として挙げられる。小将棋も公家
は知っているに、だいたい決まっているのだろうが、
日本将棋の道具は、敢えて収集しなかったように、
水無瀬兼成の文書からは、見て取れると聞く。
 元々加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の二巻物
(西暦1565年書写)色葉字類抄は、京都の
公家か公家の家の出の在来仏教の僧侶かが、元巻物
を持っていて、それを西暦1565年に書写して、
尊経閣文庫蔵の二巻物色葉字類抄にしたのではなか
ろうか。
 僧侶になっていたとしても、かなり身分の高い者
だったのであろう。京都御所の儀式としての警護等
の名目で、大内離に出入りできる程度の人間が、書
写したのではなかろうか。大内離に出入りする身分
だから、自身はもともとは公家であり、小将棋は、
朝廷タイプの京都や滋賀で出土する、双王日本将棋
だったのだろう。小将碁と書きながら玉駒が王将な
のは、玉将に変えると豊臣秀吉に苦言を言うらしい、
後陽成天皇といっしょで、京都御所界隈が縄張りの
人物だった、証拠なのではないか。
 これは推定だが、公家が将棋と言うとき、遊具の
持ち物に関して中将棋なのは、将棋馬日記の時代の
±200年位で、いっしょなのではないかと、私は
疑う。
 だから、

例えば角鷹の字を忘れたら、中将棋の駒を持ってき
て確認するほうが、色葉字類抄新品自作4冊本の1
冊目を持ってくるより、彼や身内にとっては、速かっ
たはず

だ。そのため、

色葉字類抄尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年
書写)に、大将基と小将碁を足した人物は、中将基
等の項目は、自分と身内が不要なので作らなかった

のではないか。
 ちなみに、大将基の成りは、裏と書いてある。

1565年の書写者は、将棋には、さほど興味が無
く、成るというルールは知らない者に、読ませる文
書のつもりであった

可能性が高いと思う。それにも係わらずだが、想定
される、小将碁馬名等の読み手は、将棋の駒の字を
書く仕事に、何らかの関わりが有ったのだろう。
将棋駒の字を忘れたときには、中将棋についてだけ、
サンプルの駒で確かめる習慣が、元々頻繁に有った
ので、成りと書かずに”裏は金(と確認するんだよ
ね。”と、書いているのかもしれないと見る。

だからそれが”成”ではなくて”裏”という、将棋
駒を見て字を確認しているような、表現に出ている

のかもしれないと、私は疑う。
 更に、中将基等の旨の項目を作らなかったとして、
その理由には、
中将棋の駒名の漢字を書いてから、右下に、”裏□
△”等と書くと、そのケースばかりの中将棋の場合
には、他の色葉字類抄の、本物のページに比べて、
右下読み等を書いている注釈が、際立って目立つよ
うになり、

そのためニセモノ感が、大将基に比べてひきたつ

という問題を、ニセモノ中将基ページ作りを目指し
た人物が、気がついたようにも私には見える。構成
の体裁上の問題もあり、中将棋という項目を作ろう
か、どうしようかと、迷ったのだろうが。結局、今
述べた思考が、

最終的に、”・中将基”等という項目作りを、断念
させたのではないかと、私には考えられる

という事である。ちなみに、内容が日本将棋である、
小将碁の項目では、成りを全部省略している。
 セクション中将基が、尊経閣文庫蔵の、
二巻物色葉字類抄の、第1冊に無い理由の説明につ
いては、今の所、情報を限定したので以上のように、

西暦1550年には、中将棋は当然有ったが、書か
なかっただけと推定される

と、結論して終わりたい。
 次に、後期大将棋の記載の成りの問題について、
説明する。
 冒頭で述べた結論は、

すなおに、書いて有る内容を理解すれば、そう結論
するしか、他に道はない

と私は思う。
 このような、

後期大将棋の成りルールは従来全く知られて居無い。

全く新しい知見に見える。経過は史料として”その
前”が、西暦1335~80年頃かもしれない
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内出土駒であり、
”その後”が、西暦1590年頃の
将棋纂図部類抄を書いた水無瀬兼成の、大将棋に
対する認識のように、私には今の所イメージされる。
鶴岡八幡宮境内出土駒と、西暦1443年頃の、
曼特院の将棋図(水無瀬兼成将棋纂図部類抄大将棋
は、そのコピーと今の所考えられる)とは、整合性
が取れていた。

だから、西暦1335~1590年の途中に一回、
香車、反車、飛車、猛牛と仲人が金成りになってか
ら、また不成りにならないと、整合しない。

 先行研究としては、将棋史研究者としては恐らく
二巻物色葉字類抄、大将基、小将碁の第1発見者と
見られる、大阪電気通信大学の高見友幸氏が、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄が誤り

と、自身のブログ等で指摘した例が有る。
 なお以下、本ブログの見解だが、加賀前田藩の
二巻物色葉字類抄の大将基馬名は、セクション名の
将棋が将基になっている事から察して、

作成者は、情報をどこかの寺の記録から見て写して
いる感じ

である。目下の所、
二巻物色葉字類抄の大将基の時代には、各段の端列
駒が金成り、他不成りが事実と見て、
普通唱導集及び後期大将棋の金成りの範囲は、歴史
上、不安定に増減したと、漠然とイメージするしか
他に仕方が無いように私には思える。全体としては、

西暦1443年から戦国期に掛けては、後期大将棋
の金成りの駒種類は、少し増えるようにゆり戻した

と考えるしか無いと思う。なお、
水無瀬兼成は、西暦1443年頃の、曼殊院の将棋
図を受け売りにした。二巻物色葉字類抄の大将基の
記載は、西暦1550年時点の、従来空白期間であっ
た時代の状況を反映していると、上記の解釈では

とんでもなく貴重な、発見がなされた

と仮定している。
 こんな挙動の理由ははっきりしないが、

二中歴の大将棋の最後の十行の解釈が、時代により
変化すると、それによって、金成駒種類数が、増減
している

ように、私には思われるフシがある。この点につい
ては、後日別の所で、詳しく述べたい。何れにして
も、本ブログのように、

後期大将棋は、ゲームを実際にして、ルールを決め
たようなケースは、ほとんど無いと見なしての話

だが。
 まとめると、不確定性がとても大きいが、金成は、
1200年~1290年は減って。
1290年~1320年は増えて、小山市神鳥谷曲
輪駒ができて、50~60年位小山義政等が、小山
氏の城(祇園城か、小山義政館)等で保管。
1320年~1443年は減って。
1443年~1550年は増えて、二巻物色葉字類
抄に記載。
1550年~1590年は水無瀬兼成が、
曼特殊院将棋図を発掘し、その通りと主張したたた
めに減った。
1590年~は、中将棋の成りが導入される江戸時
代となり、流れが変わった。
近代になり、桂馬を兼用したいので、猛牛、飛龍等
も金成りになり、金成り自体は増えた。
 という感じか。
 何れにしても、二巻物色葉字類抄の大将基の発見
は大きかった。私は高見友幸氏からの情報は知って
おり、色葉字類抄に大将棋の情報が有るのを、疑っ
ていたので、象戯の字を探した時点で、実際には、
他に何か無いかどうか、注意していたが。普通なら、
三巻物に”象戯”が無いのに焦ってから、十巻物に、
それが有れば、やれやれと思ってしまい、それだけ
の状態で私なら、更に将棋の情報は探さず、二巻物
に重大な情報が残っているのに、気がつかず終わっ
ただろう。
 何年か前に、二巻物色葉字類抄に大将基馬名等が
あるのに気づいた将棋史研究者として第一発見者の

高見友幸氏は、全くたいしたものだ

と、私はとても感心している。(2019/03/29)

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二巻物色葉字類抄の大将基・小将碁は1550年頃か(長さん)

今回は、前に紹介した、尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦
1565年書写)色葉字類抄の大将基と小将碁について、
最も大切な、成立年代を推定する。結論から述べると、

冊子に編集したときしか、大将基と小将碁の内容を差し
込めないと仮定すると、巻物の時代から、冊子へ変わる、
書写の頃に作られた大将基と小将碁の、後追加物としか
説明できない。

以上について、以下に説明を加える。
 まず、色葉字類抄は、

漢字がイロハニホヘト・・の特定の物が、集められてい
るが、二巻物で問題の、・大将基馬名と、・小将碁馬名
の所の駒の漢字については、全くそうなっていない。

 駒名は、本来なら”:人事等”の分類の所に、歩兵
ならホ、玉将ならキというふうにバラバラに分けて、
書いてないと、この本では明らかにおかしい。

だから、2巻物が成立した西暦1140年頃から見ると、

大きく後代になって、全く別の人間が作成して、差し込
んだ物

だと、私は考える。
 マトメテあるからこそ、将棋駒種がそれぞれ判るので
はないかという批判が出るかもしれないが、色葉字類抄
では、

左下にそれぞれ、”将碁駒”とでも、小さく書いておけ
ば良かっただけ

なのではないか。
 わざわざほかのカナの所には無い、・大将基馬名と、
・小将碁馬名という、項目名を作ってまとめたのは、
将棋駒の字を、引きやすくしたからであるのは、判るが、
西暦1140年に、そうしたければ、イロハ順の辞書
にしないで、たとえば用途別に漢字を並べるとか、別の
配列の辞典に、創始者がすればよかっただけなように、
私には思える。つまり大将基等が、色葉字類抄自体を作
成した、橘忠兼の著作物というのは、いかにもおかしい。
 なお、・大将基馬名と、・小将碁馬名が、別文書の
差込と疑う根拠としては、フォーマットが似ているも
のの、
朱色の点が、少なくとも三巻物の色葉字類抄と見られる、
国会図書館デジタルコレクションの色葉字類抄:尊経閣
叢刊丙寅本で見る限り、

・大将基馬名と、・小将碁馬名に関して、先頭の朱色点
が、”:”と、2つ点になっていないといけないのに、
そうなって居無いで”・”と1つ点だけになっている

事が上げられる。つまり、分類名と、個別熟語の頭に
付けられた朱色の印に、差が無いのは

本物の、本文中の表現とは、違っていて不自然

だと言う事である。
 その他、駒名漢字毎に、・大将基馬名と、・小将碁馬
名では、朱色点(”・”)が付いているが、盤の段の最
初の駒に限定されるという程度に、”本物の本文”では、
跳びとびに付くような、朱点付与システムになっている
ように私は思う。ただしこれについては、書写者が、
1熟語づつ丁寧に、チェックしたという、印なだけなの
かもしれないが。
 そこで、・大将基馬名と、・小将碁馬名は、元々の
色葉字類抄の本文とは別人の作成による、フォントの
大きさや字体、フォームを色葉字類抄に似せたが、完全
には本物とは、一緒になって居無い差込部分だとして、
問題は、その差込文書を作ったのが

何時のなのか

だ。
 私は、物理的に

巻物等の時代に、2ページ差込をするのは、困難

なのではないかと疑う。二巻物尊経閣文庫蔵色葉字類抄
として冊子にするときに、入れ込んだのではないのだろ
うか。そうだとすると、成立は戦国時代の

西暦1565年

も、一応有力なのではないかと、疑っている。
 字体をよく見ると、・大将基馬名と、・小将碁馬名が
極めて古いというわけでは無さそうだと、次の点から
言える。
①猫叉が猫刃になっている。送り狼や山犬から、江戸時
代の、尻尾が2又に裂けた妖怪に変化しつつある時代で、
それと区別するために、猫刃という駒を誰かが考えてく
れた結果の、近世に近い時代成立の駒名なのではないか。
②小将棋の棋が、碁になっているのは藤原氏を、やはり
連想させる。が玉駒が、玉将ではなくて、王将になって
おり、院政型である。戦国時代になり、皇室が五摂家の
家系が絶えないように、姻戚関係を結ぶようになって
一つに溶け込み、文化が混ざってしまった、皇族貴族の
多難な時代に作られた、差込部分との事のように見える。
③”・小将碁馬名”の小将碁に酔象が無い。後奈良天皇
が、小将棋から、酔象を取り除いた年代よりも、少し後
だと考えると合うように思う。
 以上3点が、後期大将棋と飛車角を含む小将棋の記載
が何時有ったのかという、大問題に対して独立性の高い
根拠と考える。
 むろん、西暦1550年頃の将棋を反映しているとい
う仮説を、今述べたように立てれば飛車と角行が有って

日本将棋らしきものが、小将棋として書いて有る事とは
一応矛盾しないし

し、大将棋が後期大将棋のようになっているのは、全く
よく一致して、矛盾は起こらないはずである。
 ただし巻物等だと、別の文書の差込は絶対に無理かと
言うと、証明は困難だ。だから今の所、以上の成立年代
論のエラーバーは、
西暦1150年から1690年の間のどこかではあろう
が、西暦1550年付近も有力な所という

不確定性の大きな状況

だと私も思う。つまり、

日本将棋の出現には早すぎるし、後期大将棋の出現にも
早すぎる成立年代説を、完全には否定し得無い

という事ではあろう。(2019/03/28)

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新安沖沈没船将棋盤?以降に聖目3分割将棋台頭の訳(長さん)

本ブログによれば西暦1300年頃の普通唱導集大将棋
は、自陣4段、中間段5段の13升目将棋で、自陣段と、
中間段の段数に差が有った。それも理由で13升将棋は、
表題のように、西暦1323年前後の、新安沖沈没船で、
15升目将棋盤(?)が出土した頃から、後期大将棋の
15升目制へと、進化の歩みを始めたと見ている。
 そもそも自陣段と、中間段の段数に差が無い方が良い
のは、同じく本ブログでは、陣の印である聖目を結んで、

魔法陣型を象ろうとした

のが理由と言う事であった。つまり、易の類である

九星占いが、鎌倉末から、将棋棋士間で普及した為

と見るわけである。では、鎌倉中期まで、将棋棋士の階
層で、九星占いはさほど盛んでなく、鎌倉末期に台頭す
る理由は何かを、今回は論題とする。
回答を書いて、その次に説明を加える。

軍師が、地方の守護格の大名や、豪族間の合戦の運気に
関してする、戦の開始時点の九星占いが、鎌倉末期の混
乱の頃から、多く見受けられるようになった。
そのために、天一神の方向占いでは、ネタが不足するよ
うになって、九星占いが、広く知られるようになった為

だと考える。
 では、以下にざっと説明する。
 平安時代の、安倍晴明が活躍した陰陽道の盛んな頃に、
十二神将(天将)という占いが、有ったと聞いている。
そのうちの、天一神の方位に関する日の吉凶は、具注暦
にも記載されて、比較的初期に、一般にも知られていた。
この平安時代に具注暦にあった、天一神占いの特徴は、

凶となる方位が、客観的に天一神等の居る方向なので、
合戦の方位占いを、敵味方の軍師がそれぞれしたとして、
やり方が変わらなければ、凶の方位がいっしょ

だったとみられる。少なくとも、私が聞いた範囲では、
平安貴族が、いわゆる旅等で”方違え”をするのは、
天一神と称する、安倍晴明流の陰陽道で、12神将の
親分格の居る方位を、日の干支から計算して、避ける
というような、システムだったはずだからである。
 これを、

悪党が横行した鎌倉時代末期や、や南北朝の混乱の頃に
当てはめて、豪族が、他の勢力と合戦する場合に使おう
とすると、自分の軍師の思っている事は、敵側の軍師も
知っている事になり、そのような占い能力しかない軍師
を、合戦の前占いで雇っても、合戦には勝てない

事になると考えられる。軍師は軍匠を兼ねていて、合戦
の戦術を練る働きもしていたのだろう。だから、相手側
の軍師の知らないような、秘術を知っていないと、中世
の大名・豪族が雇い入れる事が無くなったのではなかろ
うか。
 他方、古くから存在したのだろうが、易の九星占いは、
西洋占星術といっしょで、合戦の将の生まれた時点の、
魔法陣の、特に中央の九星を基に、個人的なその年や
日の凶方を、

本命殺とか的殺と称して特定することができる。

これを、敵の将に当てはめて、主君に攻め方の方位を、
軍師が指示するような、占いが出来ないわけがあるまい。
 九星占いには、天一信仰の普遍的な神将・天将に関す
る、平安期普及の暦注占いには余り無かった、暦注外の
要素を加える事が、比較的容易に出来た。そのため特に、
中央政界の貴人に指揮されるのではなくて、地方豪族・
守護大名に統率された軍隊が、各地で衝突する事の普通
となった

政情が不安定化した鎌倉時代の末期の頃から、藤原一族
の貴族以外へも、文化が普及した

という定説は本当であろう。九星占いには、将棋の棋士
の階層である、武家・僧侶・豪商等一般人へも、元寇を
過ぎる頃になると、係わりが増えて、関心が増したので
はないか。その結果3×3升目の占い用の方陣盤も、将
棋指しが、良く見かける物品になったのではないか。
そのため将棋盤も、その形の方が、彼らには、より尤も
らしく見えるようになったのであろう。
 そうした状況で、12升目で自陣中間段が4段4段の
中将棋が流行ってきた。
 だから、その傍流に、少なくとも一時転落した小将棋
と、その後浮かび上がることの無かった大将棋も、その
将棋盤は、自陣と中間段が、正確に同じ段数の将棋盤に、

切り替わって行った

のではないかと、私は想像しているのである。(2019/03/27)

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ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上の記載内容(長さん)

旧加賀前田藩伝来の蔵書の文庫である、尊経閣文庫に、
色葉字類抄の3巻本(西暦1177~1181年成立)
の前田書写本があり、研究が進んでいると聞く。それ
より字の数が少ないのか、未完成と考えられているの
か、それとの関係は専門外の私には不明だが、3巻本
とは別に、尊経閣文庫には、
2巻本1565年書写”色葉字類抄”という、同系列
別古文書が有るという。なお尊経閣文庫には、
”色葉字類抄”系列本は、他にも有るのかもしれない。
 ともあれここでは、その、(成立西暦1144~
1165年とされる)2巻本または二巻本(1565
年書写)中の、上の上冊(全体の1/4)の構成事実
と、大将基馬名および、小将碁馬名のセクションの、
内容事実の紹介をする。
 まずは、第1冊/4冊と表現できる、
ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上は、次の
ような構成になっているそうだ。(八木書店
西暦2000年発行の、この古文書のフルコピー本の、
”解説部”による。)
①表紙の見返しに墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
②遊紙を1枚挟んで、次ページに序文が書かれている。
③序文と離さず、意義分類部目と説明、墨書で「イロ
ハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返している。
④「イロハニホヘトチリヌルヲ」とは行を離さないで、
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上上」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上上」である。
⑤続いて、いわゆる奥書が書かれているらしい。
⑥遊紙が1枚挟まれている。
⑦「大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が、酔
象の象を除くと、原則2文字単位で記載されている。
後で詳しく述べるが、適宜成り名が、右下に小さく書
かれている。
⑧「小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が2文
字単位で記載されている。
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容が始まる。全部で50枚である。
⑩巻末に遊紙が3枚あり、ついで裏表紙がある。
なお、比較の為に言うと、第2冊(上巻下)は、次の
ようである。
2-①表紙の見返に墨書で「ワカヨタレソツネナラム」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
2-②遊紙を1枚挟む。
2-④「ワカヨタレソツネナラム」の繰り返しは無い
らしい。
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上下」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上下」である。
2-⑨何も挟まずに、わかよたれぞ・・・の漢字群の
書き方の内容が始まる。全部で54枚である。
2-⑩「地名+牧」の特別記載を挟んで、前後に、
上巻下用のいわゆる奥書がある。
巻末に遊紙が2枚あり、ついで裏表紙がある。
 ここで問題にするのは、言うまでも無く⑦と⑧だ
が、国会図書館の電子図書(外から閲覧可能本)に、

無い部分について、まず確認

する。
 国会図書館の電子図書の二巻の色葉字類抄は、出所
が、次ぎのように記載されていて、旧前田藩の図書館
から、出た物、そのままでは無い。

色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本

もと3巻本なのか2巻本なのかさえ、私には正確には
判らないが、少なくとも、上の上に関連して、次の記
載が見当たらない。
①の墨書の「イロハニホヘトチリヌルヲ」。
③の墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返し。
ただし、カナの元漢字が「・・・わかよ」まで、”上
巻”には書かれている。
⑤のいわゆる奥書。
⑥遊紙が1枚。
⑦の「・大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が
2文字単位で記載されている等のもの。
⑧の「・小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が
2文字単位で記載されているもの。
 上記の事から、上巻の内容からみてwebで見れる
国会図書館の色葉字類抄は、3巻本に近いものと、私
には疑われる。冊分割が違うパターンなので、奥書は
削除され、墨書の「イロハニホヘトチリヌルヲ」も、
目障りなので除かれたようだ。

しかし、⑦の「・大将基馬名」と内容、
⑧の「・小将碁馬名」と内容を、削除して良いと言う、
自明な理由は無いので、理由は私が想像するしか仕方
が無い

のであろう。
 以上で、この古書の構成に関するまとめは、ひとま
ず終える。
 次に、「・大将基馬名」と「・小将碁馬名」の内容
事実を以下に表現する。
「・大将基馬名」は、表題が書かれた後で、誰かのチェ
ックを受けたらしく、朱色の点がそれぞれにあり、
熟語漢字は、次のように書かれている。現物では、別
の字で、適宜改行されているが、自然な改行である。

・玉将・金将・銀将・銅将・鉄将・石将・桂馬・香車
裏金・酔裏太子・(下巾字体の)盲虎・猛豹・猫刃
・反車裏金・師子・麒麟裏師子・鳳凰裏奔王・悪狼・
嗔猪・猛牛裏金・奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・
横行・飛龍・飛車裏金・歩兵・仲人裏金

以上である。これが後期大将棋であるという点につい
ては、説明するまでも無いので、次ぎへ行く。
「・小将碁馬名」も、表題が書かれた後で、誰かのチェ
ックを受けたらしく、朱色の点がそれぞれにあり、
熟語漢字は、次のように書かれている。

・王将・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵

以上である。内容そのものについて、説明する必要は
なかろう。今回は、ここまでにし、特定の問題につい
ての議論は、ごちゃごちゃするので次回以降にしたい
と考える。(2019/03/26)

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摩訶大将棋は序盤戦術で交点駒置17段に御利益無し(長さん)

前に、高見友幸氏の提案する19筋16段摩訶大大将棋
または、摩訶大将棋に関して、交点駒置きで、京都の
条理モデルでは、17段になってしまうと述べた。
 一条大路に新・旧があって、旧の時代から摩訶大将棋
が有ったと、高見氏は当然考えているので、18升目の
矛盾を避けるために、19路にした結果、段が16升目
から17路に、彼が実際に推薦している将棋の話と違っ
て、1路段が余計に増えた、

別のゲームになってしまった

という意味だと、個人的には理解している。
 では、ようするに

”土御門大路は、平安時代が始まった頃には無かった”
という古代史研究者の説は、高見氏が引用している

ように本当であって、摩訶大大将棋または摩訶大将棋の
段を16段から17段にする事によって、ゲーム性能の
点からも改善されて、その結果、
土御門大路は、平安時代初期には無かったという説が、

まさに今証明されようとしているという事なのだろうか、

というのが、今回の論題である。回答を先に書く。

ゲーム性能は改善され無い。

理由は17段の摩訶大大将棋または摩訶大将棋が、16
段のそれに比べて、序盤の駒の捌きで、ありありと、ゲー
ム性能が上がるという事は無いからだと、本ブログでは
考える。

つまり、本ブログでは、古代史研究家の瀧浪貞子氏の、
1991年の説に、少なくとも絶対の信頼を、置くわけ
にはいかない

と言う意味である。
 では、以下に説明する。
この将棋の序盤戦術は、
横飛の前の升目の歩兵が離れているのを、獅子で狙うた
めに、奔王や摩羯や龍王を浮かしておいて、獅子を出す
という手は、桂馬が桂馬跳びが正しいとして、一応無し
にするとすると、

角行または左車か右車で、それより強い、鉤行、摩羯、
奔王、龍王、龍馬のどれかに、睨みを利かせるのが、
第1手目の善手である事は明らか

である。睨みを利かせるには、相手の強い駒に、より弱
い角行か左車か右車の、斜め筋が通っているかどうかで、
それが実際に、可能かどうかは決まる。つまり、

段が16から19段までで、どうなのかで、条件が変化

する。ところで、ゲーム性能としては、

このような、自明善手が、初期配列に関して、バレバレ
なのは良いゲームとは言えない。

だから、何らかの手段で、初期配列を工夫して、角行筋
または左車筋、右車筋は、摩訶大大将棋または、
摩訶大将棋では、

通りにくいようにした方が、良いゲーム

である。できれば、

左車や右車で、龍王か龍馬かが狙える程度の配列になっ
ていた方が良い。

そのためには、角行筋が、仲人に当たるように、大将棋
系ゲームでは、工夫されるのが普通である。そうなって
いるのは、

19×19の盤となる摩訶大大将棋だけ

である。つまり、

16段から22段の摩訶大将棋等の中で、比較的旨く
出来ているのは、19段の場合だけ

だと、本ブログの管理人は認識している。
 以上の事を、少し詳しく以下に、書いてみよう。
 16段目から22段目までで、どちらか一方の角行と、
判りやすく、どちらでも良いのだが左車について、各段
のアタリ関係を、示すと次のようになっている。角行は、
左右どちらでもこのケースは、全く同じだし、右車は、
鉤行と摩羯へのアタリのパターンが、反対になるだけで
ある。

左角行について。
16段なら左龍馬。
17段なら左角行。
18段なら左仲人下歩兵。
19段なら左仲人。向こう横飛。
20段なら左横行。
21段なら左車。
22段なら左飛車。

左車について。
16段なら鉤行。
17段なら奔王。
18段なら摩羯。
19段なら左龍王。
20段なら左龍馬。
21段なら左角行。
22段なら左仲人下歩兵。

以上の事から、

左右の角行については、18、19、21段のとき良い
ゲーム、
たとえば左と右の車で左車については、19、20、
21、22段のとき、まあ、我慢できるゲーム

になっている事が判る。つまり、まとめると、19段と
21段の摩訶大大将棋または、摩訶大将棋以外は、斜め
走り駒の、出だし序盤の利きが強すぎて、

さほど良いゲームにはならない

事が判る。つまり、

16段の京都の条理モデル升目将棋も、17段の京都の
条理交点置き将棋も、どっこいどっこいだと見られる

という事である。17段のケースも、左車と右車で、
奔王の睨みが利いている初期配列は、余り気持ちの良い
形とは言えない。つまり、平安時代初期には

”土御門大路は無かった。なるほどそれで、17段にす
ると、ゲームが大きく改善される理由が、ようやく判明
した。19×16では、物足りなかったのはそのためか。
かくて、交点置きに、利点が有る事が判ったのであった。”

という

ストーリーには、全くならないと言う事

である。だから、土御門大路が旧一条大路だったという
説が、正しいという考えを前提にしたうえで、交点置き
摩訶大将棋(交点置き摩訶大大将棋)の別存在を主張し、
16と17とを両方立てている、高見友幸氏の主張に、
序盤のゲーム性能の改善という観点から見ても、

私は特に、意味が有るようには見えない。

19×16の将棋だけを、集中して宣伝するように、今
後、論を整備した方が普及戦略上、より得策なのではな
いかと、疑われる。
以上のような、結論になるという事である。(2019/03/25)

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升目列数3の倍数将棋盤は九星占いの道具と類似(長さん)

本ブログでは、鎌倉時代末以降、中将棋の成立と共に、
将棋盤は、9・12・15・・と、3の倍数升目列数
へ収斂して行ったと見ている。理由は、九星占いの図
と、将棋盤の形を、聖目を等間隔に置く形式で、類似
させるべきであるという論が、ゲーマーの間で広まっ
たためとみる。そのため、西暦1300年頃の13
升目108枚制と見る普通唱導集大将棋は、行き詰まっ
て、廃れると同時に、大将棋の13升目制も、15升
目制主流へ、移行すると同時に、ゲーム性が劣化して、
中将棋主体になったと、本ブログでは見る。
 九星占いは、暦として頒布されたため、将棋のゲー
マーに、紙媒体で、実体が普及した事は確かと見られ、
それでも充分ではないかと、私は見ていた。具注暦が、
中世には、充分普及していたと、私は認識したためで
ある。
 しかし、将棋盤と似たような物品で、九星占いの道
具が有れば、中世の将棋棋士にとって、あるべき将棋
盤のイメージは、益々確かな物になって行ったに違い
ない。調べてみると、そのような物品は、昔実際に、
有ったらしい。下の写真の、兵庫県赤穂の大石神社の
吉凶分占盤というものが、それである。

吉凶分占盤.gif

確かにこれには、方形の盤を9つの区画に区切ってあっ
て、縁起のよいまたは、縁起の悪い神様が居る位置を、
何かの駒で置く等すれば、その日や年で、その方向に
居る人物と友達になったり、行ったり来たりしてはい
けない方向といったものが有るかどうかを、暦を読ま
なくても、その場で占えそうだ。
 大石神社というのは、江戸時代の赤穂の家老の、大
石家等、忠臣蔵に関連する神社であると言う事が、
下記の成書にも書いてある。

「かたち」の謎解き物語。(建築家)宮崎興ニ著。
彰国社(2006)

 なお上記成書によると、大石神社には他に、
指南針と称する、陰陽師の使用する、式盤の類と見ら
れる円形盤がセットで有るという。指南針の中の五行
記号に、アルファベットが使われている事から、宮崎
氏の成書内での書き方を見る限り、残念ながら、この
遺物は

近世のもの

であるとのようだ。つまり、中世のものでは一応無い。
ただし、九星占いは、黄河文明が発生した頃からある
と聞くから、

吉凶分占盤自体は鎌倉末期の頃にも、作られただろう。

吉凶分占盤から将棋盤が発生したのでは、むろん無い
だろうが。鎌倉時代末の将棋の棋士は、

吉凶分占盤を連想させる、聖目パターンの将棋盤には、
そうでないものに比べ、より将棋盤のあるべき姿を感
じた事は、確かなのではないか

と、本ブログでは考える。他方、新安沖沈没船出土の
将棋盤(?)が、その形の聖目である。だからこれは、
どんなゲーム用であるかは、現時点で定かではないに
しても、そのようなゲーム盤が、鎌倉時代末期に有っ
た事を示唆は、しているように思える。
 また、将棋という

合戦シミュレーションゲームが、戦国時代には少なく
とも合戦で、軍師の勝機占いと関連していた事は、
ほぼ確実

だとみられると考える。
 軍師の占いには、中身から見ても、攻め方の好まし
い方位を占う、九星の方位占いが、含まれて居ただろ
う。そして、その際には、赤穂の大石神社に収められ
ていた、吉凶分占盤の類を使っただろうし、将棋は、
娯楽であると同時に、戦略を練る際の、少なくとも
儀式的行為には使われただろう。だから、将棋盤の
模様の形は、吉凶分占盤の類と似ていた方が、似合い
と考えられて、自然なように思う。
 そのため室町時代に近くなったころに、だんだんと、
3の倍数の升目で、聖目が一辺升目数の1/3ステッ
プの将棋盤が、中将棋の流行も有って、優位になった
のではあるまいか。
 実際に木板の形で、九星占い用の道具があるのを見
て、以上のように、私は考えるようになって来ている。
(2019/03/24)

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乾兌離震巽坎艮坤の方位配当は木火土金水土に沿う物(長さん)

かなり前の事だが、反時計回りに北西から西に向かって
八卦の方位が、乾兌離震巽坎艮坤の八卦の順番とは異な
り、つまり八卦の並び順で言うと、乾兌坤離巽震艮坎と、
12835476の順番で並んでいるのを、問題にした
事があった。その際、魔法陣と九星占いを持ち出したが、
最近勉強しなおしてみて、

それは間違い

であるのに気がついた。答えを書くと、
八卦の順番は、金火木水土が、この順に明るい(陽)か
ら暗いもの(陰)に並んでいると考えた。そこで、
乾兌離震巽坎艮坤には、五行が金金火木木水土土と対応
すると考えた。そうして置いてから、方位が
北西から西に反時計回りで、金金土火木木土水と、
時計回りの木火土金水土の、金からの逆向きで、一部、
五行の5つから、八卦の8つにあわせるため、金と木と
土を2つに増やしておいて、当てはめて行き、金と木と
土を2つにした結果、

任意性が出る場合は、北を先にして対応付けしただけ

である。以上が結論だが、以下に多少の説明をする。
以前問題にしたのは、12345678と遠いような、
近いようなの、12835476の数列の謎である。
 しかし、前に説明したが、

五行は、季節の循環を表しており、秋、晩夏、夏春冬が、
それぞれ金土火木水と、予め決まっている

のである。だから、乾兌離震巽坎艮坤の八卦に、
乾兌の12は金、離の3は火、震巽の45は木、坎の6
は水、艮坤の78は土と対応させたからには、秋から夏に
戻すことに対応する、北西から西に反時計回りならば、
季節表示を方位表示にダブらせ、
(12)(7あるいは8)(3)(4か5)(7あるいは8)(6)と
並べるのは、別に魔法陣とは無関係に、
必然だったのである。
ここで、
①先頭を1にするか2にするかは、北西の方が西に比べ
て、より北に近いので、12の順。
②次ぎは南西で、北東に比べて南西は南に近く北からは
遠いので、7ではなくて8を採用。
③4か5かは、南東、東と対応させるので、東の方が南
東よりも、北に近いので5、4の順。
④北東は②で述べたが、南西より北に近いので8ではな
くて7。
以上①から④の理由で、北西から反時計回りに、

12835476の乾兌坤離巽震艮坎になっただけ

だったのである。なお、前に述べた新潮新書の永田久著
暦し占いの科学(1982)だけで、理解は充分出来た。
 蛇足だが上の成書では、”八卦を説明するところでは、
読者を混乱させるので、触れなかったが”と断った上で、
”先天易”の、方位への八卦対応についても触れている。
つまり九星占いの”色”を決めるときに使っただけで、
後には記録に残らなかった、韓国国旗模様が有るという
事である。そのやり方では、明るさでは夏が一番明るく、
次ぎが春で、次ぎが秋、冬が一番暗くて陰だと考えて、
季節への八卦割り当てを決めるという、五行と季節は、
度外視したやり方である。
 ようするに、別のパターンの、大マゼラン雲から見た、
地球の公転軌道黄経目盛りへの八卦割り当てが、時代を
前後して行われたという事である。その結果、それと
同一パターンで摩り替えられる、方位への八卦割り当て
に、2種類発生した経緯が有るので、韓国の国旗の八卦
模様も、流儀の差で、2通り出来ると言うことになる。
 以上の事から以前の説明は、今にして思えば、かなり
奇妙だった。

 お詫びして、訂正したい。

 なお結局は、これとは別だったが、九星占いの番号
数字に対する、五行の対応関係が、

意味ありげに規則的

なのは、魔法陣の数字で2と8を入れ替えると、
1234、6789が並ぶためで、その状況で、

2と8に、共通して土を対応させているから

だけである。つまり、3行3列の魔法陣は、1834、
6729が、5の数字の周りを、この順番で回って、と
り巻いている構造になっているのが、五行を九星の番号
に対応付けたときに、規則的になる原因であることが、
少し注意して見ると、簡単に判る。(2019/03/23)

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藤原明衡著作の新猿楽記十一の君の将棋の棋は基(長さん)

松岡信行氏の解明:将棋伝来の「謎」(2014)
の一覧表に準拠して、本ブログでは、表題の、
新猿楽記の十一の君の将棋の棋は、石が底に有る、
碁と、これまで指摘してきた。しかし、

残念だが、これは間違いで”基”である

らしい。私が気がついたのは、㈱新人物往来社の、
西暦1995年の図書、窪寺絋一著
”日本将棋集成”の記載だった。調べてみると、
新猿楽記自体が、

藤原明衡作かどうかも疑わしいというニュアンス

の内容を、増川宏一氏が、平凡社新書(670)
の”将棋の歴史”2013年で、更に匂わせてい
た。別の所で事情を調べてみると、作者の書いた
藤原明衡の役職に、藤原明衡自身が付いた記録が
無いらしい。遺贈された職階を、実際の作者が、
書いて、藤原明衡を立てているという、ニセモノ
を自分で匂わせているという雰囲気だ。ちなみに

新猿楽記の成立は、藤原明衡が西暦1066年頃
他界してから、少し後の11世紀末

との旨を、増川氏は将棋の歴史に書いている。
 では、以下に詳しく述べる。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏により、以前に、
易占いと摩訶大将棋(2015頃)という論文が
出され、その中で、川口久雄(訳注)、新猿楽記
(東洋文庫424)、平凡社、1983年の、
十一の君が、引用されている。川口久雄氏の解説
によると、

将棋の棋は基と書かれ、文献により差は無く、川
口氏により、”棊と書くべき所を、間違えたか?”

との旨コメントが付けられている。十一の君の
能力に関して弾碁の方は、弾碁と書いてある元本
も有れば、弾基と書いてある元本も有るようだが、

将棋の方は”将基”だけ

らしい。たぶんだが、解明将棋伝来の「謎」の、
表3を作表するとき、松岡氏が見間違えたのだろ
うと、私は思う。
 よって、

”藤原氏なら、将棋の棋は碁に限られる”という、
本ブログの説は、残念ながら怪しくなった。

残る可能性は、増川宏一氏の言う事から察して、

新猿楽記は、藤原明衡が関与しているにしても、
死後に、何処かの知り合いの坊さんが書写しなが
ら加筆、編筆して完成させた

とでも、考えなければ駄目だろう。
 つまり藤原明衡は、将碁と書いたが、新猿楽記
を完成させた坊さんは、碁の使い方が誤まりで、
弾碁を弾基と書く事が有り得る点から見ても、
将基が正しい(?)と見ていたと、言う事なのか
もしれないと、考えるという意味である。かなり
苦しいだろうが。
 よって負け惜しみだが、
”新猿楽記にはたった一言、将棋としか書いて居
無い”と、学会では軽視されていたが、将棋の棋
を、基礎の基で書くのは、僧侶関係と、少なくと
も本ブログでは見ているので、

本ブログが、興福寺出土駒期間の将棋の流行の
傾向について、始めて、お寺でだけ流行っていた
疑いがある事が指摘できた

と、今回の成果(?)を、強弁して見せる事位が、
今の所、できる事の全てと、いった結果になった
ように思う。なお繰り返すと、将棋で良く使われ
た字は、当時は、将棊(下は土でなくて木)であっ
たはずである。(2019/03/22)

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