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成り条件則変化。平安小将棋をどう変えた(長さん)

前に述べたように、二中歴の将棋は、平安小将棋も平安
大将棋も、相手陣に入った所で成れるだけの、ワンチャ
ンス成りルールだったとみられる。しかし、このルール
だと、不成りも選択できるとすれば、駒によっては、相
手陣奥で、身動き取れなくなる。そこで、持ち駒ルール
が西暦1300年前後に、平安小将棋についてだけ、発
生するとまもなく、ワンチャンス成りは現日本将棋の、
”その駒着手毎回自由成り型”へと変わったと見られる。
それによって、平安小将棋の人気は上昇したと考えられ
るが、今回は、その変化と理由について議論する。
 結果を述べる。
 8×8升目型が残存していたとみられるが、見栄え以
外で大差は無く、これについて変化はほとんど無かった。
9×9升目36枚制の標準平安小将棋は、旦代の難点が、
半歩改善されたので、まともな将棋類が他に無ければ、

我慢して、指される程度にまでなった。

 では、以上について、以下に説明を加える。
 8×8升目の原始平安小将棋の持ち駒有りタイプにつ
いては、将棋は変わってしまうが”スローな日本将棋”
のイメージに、差は無かったとみられる。学会でもマイ
ナーなこの将棋についての議論は、面白いと感じる方が
少ないだろうから、この位にする。
 問題は、皇族の標準将棋だったと出土駒王将分布から
本ブログの推定する、今の日本将棋から、飛車角を除い
た、持ち駒ルールの標準的な平安小将棋で、実際の将棋
試合の駒落ちと違い、平手で指す場合であろう。
 こちらについては、旦代型に行き詰まると、どうしよ
うもなかった将棋に、多少の薄日が差してきたようだ。
 所で、本ブログに於いて、旦代の難点というのは、つ
まりは以下の写真を、仮想的な初期配列とする、将棋が
成立するのかという、意味である。

旦代初期配列.gif

 写真でこのケースはここから、持ち駒ルールの有る、
通常の日本の将棋を、改めて指そうとしているという
意である。成書、持駒使用の謎(木村義徳、日本将棋連
盟)を参酌すると、どう攻めても、攻め側の駒損が、解
消されるような手が見当たらないため、

先攻め側に、有効な手が存在しないと見られる局面

とされると、本ブログではみなしている。
 そのため、このような局面に到達する事の出来る、
9升目36枚制の標準型の平安小将棋は、持ち駒ルール
にしたとしても、ゲームとしての難が残るという点で、
旦代の難点は、解消されないという言い方がされると、
少なくとも本ブログでは、理解している。
 それでも最もマシなのは、上から、桂馬損覚悟で攻め
る手と、私には思われる。つまり、以下▲2五歩、△同
歩、▲同桂、△同桂、▲2六銀、△2四銀と指したとす
ると、当然以下の写真のようになると見られる。

歩歩桂桂銀銀.gif

局面、無理攻めを開始した先手の桂損であるが、文字通
り”先手の得”は有る。ここで、先手の持ち駒に歩兵が
有るので、普通なら、▲2三歩と歩の打ち込みの手が、
自明に有る。が、西暦1320年前後までは相手陣内に、
後戻りの出来ない駒を打ってしまうと、

成れないルール

だったはずである。だから、この局面で

▲2三歩は成立しなかったとみられる。

ところが、陣奥で後戻りできない駒が、身動きできない
のが見苦しかったため、西暦1320年頃に、
成りの条件則が、ワンチャンス成りから、駒着手毎回
自由成り型に変化したと考える。すると、▲2三歩は、
一応意味が有る手として、遊びの将棋程度では、指され
るようになったとみられる。
 むろん、後手にも△2七歩打等が有るから、ヘボい手
ではあるが。一応、手が発生したという意味では、平安
小将棋についての、

問題解決への半歩前進

ではあったのだろう。そのため、
普通唱導集時代の1290年型普通唱導集大将棋(仮説)
に、自明定跡の問題が発生して、上級者の中で、指され
なくなると、上級者も敵が攻めてきたときには、将棋盤
を盾代わりに出来る事も考慮に入れた上で、平安小将棋
の9升目盤は、鎌倉時代末期、太平記の11に筑紫合戦
に記載が有り、その中に出てくる、九州の豪族少弐氏の
統領のものとみられる将棋盤の例に有るように、

少弐直資の身近に置く程度には普及したのかもしれない。

 ただ実際にはこの後で、中将棋という面白いゲームが、
しばらくして出来ると、そちらに人気が流れてしまう程
度ではあったのだろう。しかし鎌倉末期のこの時代の時
点で、小将棋類が、やがて日本将棋へ進化して行く着実
な歩みは、引き続き起こっていたとは言えるのではない
かと、結論できるように私には思える。(2019/04/30)

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鶴岡八幡宮・二巻物色葉大将基・将棋纂図部類抄の不成歩兵(長さん)

表題のように、駒数多数将棋の一種とされる
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の歩兵駒の一部墨跡の弱い物、
1565年写書、二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載
の大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りとされる。出土駒、文献共、これらの更に写しは別と
して、歩兵が”と金”等に成らないと主張する例は、
この程度だけであり、元来は少ない。
 そこで今回は、その発生のメカニズムを解明する事を、
論題とする。
 何時ものように回答から書く。

これらは全部、大将棋が指されなくなってからのもので、
二中歴の”如是一方如此行方准之”が、解読できる人間
による、ツジツマ合わせが原因である。

では、以下に解説を加える。
 まず、前提として、次のような事があると考えられる。
二中歴の将棋の最後に、相手陣三段目で、玉将と金将以
外が、金に成るとの旨あるが、この時代は

成りの条件則に関して相手陣に入った所でしか成れない

ルールだったと考えられる。

つまり、平安大将棋にしても平安小将棋にしても、相手
陣に入った所で、不成りは選択できたが、そうしてしま
うとそれ以降は、入り直さない限り、成れないルール

だったと、本ブログでは、先ずは考えるのである。
 しかも、このルールは、平安大将棋、1230年型
大将棋、1260年型大将棋、1290年型大将棋、
平安小将棋(持ち駒無し)型には適用され、
 西暦1320年以降の大将棋と、持ち駒ルールが発生
して以降の、西暦1300年以降の平安小将棋(持ち駒
ルール有り)には、適用されなかったと、ここでは見る。
西暦1320年頃を境に、成りの条件則は、

現在の日本将棋に近い形が大将棋と小将棋に適用された

と、簡単の為に考えよう。ただし、西暦1350年頃
発生した中将棋には、ここでは判りやすくするために、
今のべた旧大将棋の成り条件則に、更に相手陣内で相手
駒を取った時には、成れる、現代の中将棋の成り規則が
適用されたとする。
 次に、冒頭でツジツマ合わせが必要になった、
二中歴の平安大将棋項の”如是一方如此行方准之”に
関して、本ブログでは、以下の構成駒に関してだけ
適用されるという性質のものであると、考える。
平安大将棋、1230年型大将棋の奔車、注人。
1260年型、1290年型大将棋の反車、仲人。
なお1320年型、1350年型大将棋、その後の
後期大将棋の反車、仲人へは、二中歴の大将棋説明の、
末尾十文字は判読不能化して、適用困難となったと見る。
なお、平安小将棋(持ち駒有る無し)、朝倉小将棋、
日本将棋には反車、仲人が無い。また駒種ごとに個別に
どうするかを決める事にした、中将棋には本来は適用さ
れない。ただし、水無瀬兼成は、誤って中将棋と”如是一
方如此・・”に関連性が有るかのような、不可解な文書
を、実際には作成していると、後に述べるが我々は取る。
 なお、本ブログの以下独自の解釈だが、
”如是一方如此行方准之”とは、”初期配列に於いて、
該当する駒種が前後動き、その直ぐ後ろの升目に、前方
のみしか動けない駒があるケース、実際には

注人または仲人についての歩兵仲人等の列、
奔車または反車についての香車反車等の列の二通りしか
適用されるケースが無いのだが、

万が一、後方の駒が、不成りで相手陣に入った結果、
注人、仲人、奔車、反車、が後退できても、相手陣奥で、
後方駒(歩兵、香車)と道連れになって、身動きが出来
ないときには、注人や仲人は別として、奔車、反車は、
人間を表しているようには見えないのだが、その場合も
特別に、桂馬や香車のように、金成りとする”という旨
の内容とここでは見ている。
 つまり、そのような事は、
西暦1320年前後に、平安小将棋が持ち駒ルール化す
る以前に、いったん相手陣と中間段のラインを越えた所
で不成りで入ってしまうと、本当に2枚の自駒が、相手
陣奥で、固まってしまうという事が起こったために、
西暦1200年の二中歴大将棋には存在して、そのため
記載されたルールが、

のちに、判読不能になったもの

とここでは考える。
 ところが、西暦1320年の新安沖沈没船出土駒の時
代の頃になると、平安小将棋に持ち駒ルールが導入され、

敵陣に持ち駒を打ち込んだときに、自駒が成れないと、
ゲームに面白みが無くなった

と考えられる。そのため、平安小将棋(持ち駒ルール有)
タイプは、

西暦1320年以降は早々と、現在の日本将棋の成り
条件則に近くなってしまったと、本ブログでは考える。
 そして、ちょうどその頃、

大将棋が衰退期に入った。

 そのため、指す棋士が少なくなって、

大将棋の成り条件則は不安定化して、平安小将棋のルー
ルに、引きずられるようになった

と考える。
 それに対して、西暦1350年程度に確立された
中将棋には、安定して”昔の大将棋の成り条件則を、
更に改良されたもの”が適用された。
 また、中将棋駒の成りについては、個別に決められる
ように進化を初めていたので、成りがどうなるのかにつ
いて、上位概念を立てて、適用する事自体が、そもそも
不要になった。
 だから、
水無瀬兼成が後に”中将棋の仲人は、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、酔象に成る”とは
確かに書いているが、本ブログの見解では、中将棋の成
りは、繰り返すが個別に決められているので、こんな理
由付けは本来はそもそも不要である。従ってこの部分は、

水無瀬兼成が、調子のおかしい事を、散漫に書いただけ

だと、本ブログは独自解釈している。
 元に戻すと、大将棋に当時有った、仲人と反車は、
後続の歩兵と香車が、相手陣自由成りに、成り条件則が
西暦1320年頃に変化したために、
後続駒がうっかり、聖目ラインを不成りで入っても、
相手陣奥で、固まらなくなってしまった。
 そのため、これは本来良い事であり、その頃には、

大将棋の成り金の範囲が不安定化していたので、反車の
成りが金かどうかは、個別のバージョンで、規則を覚え
るシステムに、少なくとも西暦1350年タイプ以降は
変化

した。ところが、二中歴の大将棋の文書が、

仲人の成り規則についてだけ、ツジツマが合わなくなっ
た事が、西暦1320年タイプの大将棋の辺りから、
問題になったと見られる。

二中歴に合っているかどうかは、形として重要だった

のであろう。
 つまり、後方の歩兵は、相手陣内では動かすたびに
成れるので、”これまさに、動きが前方だけ”とは、
言えなくなってしまったのである。そこで、二中歴の
大将棋の文言に合わせるという、ほぼ、ただそれだけの
理由で、仲人をワザと身動きできなくするという、異常
た事が起こるようにした。すなわち、

ひょっとすると西暦1320年から、1350年の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒から、大将棋の歩兵駒に不成
りのものが現われ、

1565年写書二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載の、
大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りと、表現されているのではないかと、私は考える。
 なお、二中歴の”如是一方如此行方准之”とは、最後
の”之”を歩兵と解釈すると、仲人も不成りになってし
まうので、そうしたとしても本当は意味不明である。之
が歩兵だと、二中歴に書いて無いので、どこぞ別の金成
りの駒といっしょで、仲人は金成りだと、解釈させよう
と強弁しているだけだと、私は理解する。
 繰り返すが、西暦1350年以降に、実際に大将棋が
指される事はほとんど無かった。そのために、出土駒と
しては、今の所、

鶴岡八幡宮境内から、消えかかった歩兵駒に、そのツジ
ツマ合わせの痕跡が反映されている程度

なのではないかと、私には疑われる。また、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄では、水無瀬兼成の”中将棋の仲人は、
傍らにゆけ無いので、相手の聖目ラインに到達すると、
酔象に成る”のパターンの調子で、”後期大将棋の仲人
は、歩兵を無理に不成りにしたので、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、金将に成る”の
はずだが、実際には彼は、曼殊院の将棋図を写しただけ
だったので、後期大将棋では酔象、麒麟、鳳凰が成るだ
けの、かみ合わない文書を作成する事になったと見る。
 以上の論から、

二中歴の時代、平安大将棋の成りは、単純に1チャンス
で、相手陣3段目に到達したときに、成るだけだった

ようだ。本ブログの西暦2017年型大将棋では、
仲人、反車は金成り、成り条件則は、後代と同じく、
日本将棋と同じにして、各構成駒の、個別の成ルールの、
上位概念(一般論)システムの表現とみられる
”如是一方如此行方准之”との整合性は、現代的には
無視する事にした。
 そもそも1320年以降に廃れた後に導入したとみら
れる、不成り歩兵のようなツジツマあわせは、そうだと
すれば真似ても、意味はほとんどあるまい。
 なお、成り条件則の切り替えときは、繰り返すと西暦

1320年付近ではないか

と、本ブログは推定する。鶴岡八幡宮境内出土歩兵駒よ
りも、レトロな分、30年位タイプが古いと、本ブログ
では独自推定する、栃木県小山市の

小山義政の大将棋らしき駒が、更に栃木県小山市で発掘
され、出土駒として出現確率の高い、歩兵駒が、不成り
である事が将来判ったら、以上の仮説が証明されて、
おおいに興味深いと思うのだが

と、史料の更なる増加に期待をかけている。(2019/04/29)

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大将棋の読み。現代語の国語辞書の傾向(長さん)

前に、本ブログでは、安土桃山時代末時点で、大将棋
の読みとして、だいしょうぎ系のたいしょうぎ、
おおしょうぎまたは、おほしょうぎが、どちらも可の
状態だったと、邦訳日葡辞書に掛かれて居無いことを
根拠に推定した。また本ブログでは、現代人の都合で、
大将棋の読みは、どちらに決めても良いとも述べた。
 本ブログでは、近世~近代の状態は、書物に書かれ
て記録としては保存されたが、曖昧な伝承が存在して
厳密に同じルールが続かなかったと認識する。すなわ
ち、成りのルールがふらつき続けながら、後期大将棋
が、大将棋として存在自体は継続し、

流行らないで、”古記録にある”と記載された状況が、
現代まで続いている

との立場を取る。従って、日葡字典から推定された
状況は、その後現代まで同じと、基本的に見る。今回
は表題のように、現代の国語辞典に現われる、大将棋
の読みを調査するという方法で、本ブログの立場の根
拠を示す。結論から述べると、
大将棋が”だいしょうぎ”の読みも”おおしょうぎ”
の読みも、両方あるとする辞書が一種。
大将棋が”だいしょうぎ”の辞書が一種。
大将棋が”おおしょうぎ”の辞書が一種。
両方書かれて居無い辞書が、約17種類程度で、

本ブログの見解と、矛盾する情報は見出せない。

結論は以上であり、以下に調査経過を説明する。
 まず、私の知っている限り、最も大きな国語辞書で
ある、
①小学館の日本国語大辞典には、大将棋には
”だいしょうぎ”の読みも”おおしょうぎ”の読みも、

両方あると書かれている。

すなわち調べたのは、より詳しくは以下の辞書。
日本国語大辞典第2版(2001.2)、株式会社
小学館。発行者:佐藤憲正。
ざっと見渡した中では、

最も詳しい現代国語辞書の見解は、本ブログと同じ

である。
 次に、2冊物の国語辞書は2種類調査したが、
結果は、以下の通りだった。
②広辞苑:大将棋は、”だいしょうぎ”と読む。
③大辞泉:だいしょうぎ、おおしょうぎという大将棋
の項目は無い。
ただし、上記②・③は、以下の辞書のことである。
広辞苑第7版(2018)、新村出。岩波書店。
大辞泉(第2版:2012)、松村明。小学館。
2冊物以上の大型国語辞典にも、大将棋の項目が無い
物がある。

大将棋という単語は、日本に住む場合でも、知ってい
なければ困るという言葉とまでは、行かない事が判る。

 次ぎに、1冊で全体の語を含む単冊本の辞書につい
ては、17冊調査したが、大将棋の項目があるのは、
次の1種類の辞書だけだった。
④新編大言海:大将棋は”おおしョうぎ”と読む。
なぜ”ょ”が”ョ”と書かれているのか、辞書の凡例
を読まなかったので、私には良く判って居無い。
 なお、新編大言海には”大将棋は大將棊と書き、説
明は、将棋の項目の所に書いた”とされている。
④は、以下の辞書のことである。
新編大言海(1982)、大槻文彦。冨山房。
他の16種類の単冊本の辞書に、大将棋に関して、
”だいしょうぎ”や”おおしょうぎ”の項目は無い。
 以上の結果から、次のように言えると考える。

全体で、各々2回づつ(20種類中)しか出てこない
が、大将棋に読みとして、”だいしょうぎ”と”おお
しょうぎ”が、現代では拮抗

していると結論できる。
よって、本ブログの先に書いた結論で今の所、以上の
調査結果は、矛盾していない結果になったと考える。
(2019/04/28)

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川西奔横駒の消失。浄土真宗仏教語”竪超”出現が原因(長さん)

 前に述べたように、徳島県徳島市近郊の川西遺跡
出土の奔横駒(異説有り)が、西暦1360年まで
には消失していないと、本ブログの論とは整合性が
取りにくい。理由の候補として、”横”の訓読みの
中で”よこたわる”が強まったため、視線直角成分
以外が、弱まったのかもしれないとの仮説をチェッ
クしてみたが否定的結果に終わり判然としなかった。
 ここでは、日本語訓読み併用(”併用”について
は、本ブログの仮説)の仏教語として、

浄土真宗開祖の親鸞が、説法をするときに使った、
在来仏教の修業は”竪超”と書いて、訓で”たてこ
える”とも読める、現代の竪の訓読みが、
西暦1260年までには汎用化して、奔横の
横(よこしま)から、前後の動きを奪い、ルールと
ツジツマを合わせるために、奔王を発明する必要性
が生じた

という仮説を検証する。
 要旨は以上なので、以下説明に入る。
浄土真宗の開祖の親鸞は、草稿が西暦1228年迄
には出来上がり、その後他界するまで加筆を加えた
と伝わる、自書”教行信証”の中で、聖道門による
在来仏教の修業を、成仏のための”竪超(たてこえ
る(等))”、それに対して、浄土門の成仏方法を、
他力本願または、”横超(よここえる(等))”と
命名した等という。仔細はwebのページの複数に、
有るようである。また、横の音読み”わう”が、
元来仏教語であるという事に関しては、古語辞典、
”角川古語大辞典 第5巻”、1999等、複数の
古語辞典に載っている。
 なお、超が”こえる”で良いかどうか、私には良
く判らない。音読みで竪超を”しゅちょう”、横超
を”おうちょう”と、読むのが正しいらしいと、
大概の古語辞書には載っている。
 ただし色葉字類抄の二巻物によると、横の読みは、
前に述べたように”よこさま”だが、竪の読みの方
は、”たてさま”と”たつ(て)”が、元々両方有っ
たようだ。よって、親鸞の説法を満足するには、横
にも”よこさま”の他に、結局は”よこ”を作る必
要が、対の漢字にするためには必然なように見える。
なお繰り返すと、”併用”は本ブログの仮説である。
 何れにしてもここで重要な点は、浄土真宗開祖の

親鸞の出現で、横の字の中から、上下または前後、
つまり垂直の方向の包含が、許されなくなった

という事だとみられる。だから、それまでは、
奔横と書いて”ほんわう”と、読みだけ中国人の真
似をして読み、”前後左右斜め不規則に走る”の意
だったのだろうが、”親鸞以後”には、

”左右または斜めへ、比較的複雑なルールで走る”

と、日本語として解釈されるように、ルールを調整
しなければ、ならなかったという事である。そして、
たまたま、従前の奔横も、前後に走る、奔王動きが
ルールとして主流だったのだろう。このままでは、
変化してきた日本語の意味に、追随するためには、
奔横を、

奔王の動きから奔猪(中将棋)の動きに変えなけれ
ばならなかった

に違いない。しかし、そうすると将棋が変わって
しまうので、棋士の賛成は得られなかった。そこで、
やむなく、

より対応が簡単な、”ほんわう”同士で音が同じの、
奔横から奔王への名称変更が、概ね浄土真宗親鸞の
生存中、西暦1260年までに、将棋棋士の間で
行われたのではないかと、ここでは推定する

と言う事である。
 むろん、仏教が盛んと言っても、宗派は浄土真宗
だけではなくて、日蓮宗等複数あるから、奔横を変
える要因が、これ一つであると断定はできまい。が、

聖道門的な真っ直ぐな動き成分が、将棋駒の”奔横”
に含まれているのは、全般の日本語体系から見て、
言葉として変だ

という意味に取れる、浄土真宗門徒が大将棋の棋士
に対してしたとみられる主張は、それなりに、尤も
らしく受け取られた事も、確かだったのだろう。
 だから、横超や竪超が、仏教用語として現われた
時期が、奔横が駒名として、使えなくなった時期だ
と考えても、さほどおかしくないような気も、私に
はする。
 もしそうだとすれば、遺跡の遺物からは、遺物で
ある奔横の時期は、たとえば、西暦1200年~
1275年程度だとまでしか、絞り込めないとして
も、消失が、親鸞が出現し、教行信証等を著作して、
竪超などの言葉を、流行らせたのが原因とすると、

出土駒奔横の時期は、概ね西暦1200年~60年
となって、本ブログの見解で、問題になる、
西暦1260年~1275年程度の成分が消失する

のではないか。一応、以上のような論理を、私は
親鸞と教行信証に関する情報から、その後考えた訳
である。(2019/04/27)

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鎌倉中期(1260)塵袋には横笛の”横”が記載(長さん)

前に、横という漢字の意味は、将棋駒の奔横、横行
のルールの変遷や、衰退に影響し、西暦1235年
までは、アウトローな向き、1290年までは、
横たわるの横、それ以降、生活や身持ちの乱れた人
を横行が指すようになったようだと、本ブログでは
述べた。
 これらはそれぞれ、二巻物色葉字類抄、十巻物
伊呂波字類抄、日葡辞書が根拠だった。
 ところで、だいたい西暦1235年成立の伊呂波
字類抄と西暦1603年前後成立の日葡辞書の間に、
西暦1260年頃に成立したとみられる、塵袋があ
る。今回は、西暦1260年頃の大将棋の横行の袖
移行に対応するとみられる、塵袋の”横”の使い方
を議論する。結論を書く。

”ヨコザマ”という言葉を”視線に対して直角”と
いう意味で、横笛の説明で使っている。が二巻物の
色葉字類抄のパターンに、字の上では戻ってしまい、
”横たわる”が、今の所見つからない。

では、以下に説明を加える。
 まず横とか横行といった見出し名は、

塵袋には見当たらない。

横は別の語句の説明で、相手に伝わるのを当たり前
と考えて、著作者が使っている熟語として出現して
いる。場所は、

”吹(く)”が項目名で、塵袋第七”仏事、宝貨、
衣服、管弦”のNo.46

である。東洋文庫(平凡社・2004)、塵袋2、
校注者:大西晴隆等では、2の67ページに記載さ
れている。
 訳が下手で申し訳ないが、ざっと訳すと。”(問)
一つ。律書音図で、笛を横吹というのは、よこざま
に持つという意味か。
(回答)その通りである。但し礼記によれば、横吹
は普通に、笛を吹くという意味に過ぎない。それが
端緒で、”吹”という字が、笛の意味に充てられた
という事である。なので、横笛という熟語も、同じ
意味だとみられる。”
となるかと思う。
 問いの”よこざま”は、”よこさま”と実質同じ
字を書いたつもりとみられ、西暦1260年前後の
塵袋も西暦1165年頃成立の、二巻物色葉字類抄
の横と、

実質同じ読みをしている。

ニ巻物色葉字類抄の”よこさま”をアウトローな向
きと、現代語訳したのは、本ブログの管理人なので、

差の正確な所は、良く判らない

と結論できる。情報量が少なく、残念な結果だ。

横笛の持つ向きが、視線直角なのが明らかだから、
塵袋の”よこざま”に、”方向に関して不規則性が
有るという証拠が、簡単には見つからないようだ”

というだけの事である。つまり、

西暦1260年の大将棋で、将棋駒の横行を、竪行
と角行と3つ組にして、袖に移動する事はできない
とする、積極的な証拠は、少なくとも見つからない

というだけが、今の所結論できるとみられる。
 つまり、アウトローな向きのうち、視線直角以外
の向きを示すニュアンスは、西暦1260年の横に
は、無くなってはきたような、

漠然とした感触は、その時点の辞書:塵袋には有る

という程度の事だと、ここでは結論する。
 なお、浄土真宗開祖の親鸞が西暦1255年前後
までには著作した教行信証ないし愚禿鈔(?)で、
横を訓読みで”よこ”と読む仏語が始めて発生した
との、未確認情報が”角川古語大辞典 第5巻”等
にある模様だ。更に調べる事にする。(2019/04/26)

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中将棋の記録著者岡野伸氏。中将棋平安期出現説へ転向(長さん)

表題の将棋史及び、中将棋研究、また東・東南アジア
のチェス、象棋型ゲームの歴史、ゲーム研究家として
名高い岡野伸氏より、色葉字類抄ニ巻物の、中将棋の
記載により、彼の従来の立場だった、中将棋初出は、
”南北朝時代か?”を、改め、

”平安時代末期までに”に、転向した

との旨の連絡を2019年4月に受けた。これにより、
”従前のままである”との立場を取る本ブログは、

同規模の二つの派の、一方程度に後退

する事になった。
 では、まず連絡の要旨を述べる。西暦2019年4
月中に、前記の将棋史を含むチェス型ゲーム史、ゲー
ム自体の研究家の、岡野伸氏より次の連絡があった。
①高価だったが、問題の尊経閣文庫蔵、八木書店(西
暦2000年発行)、二巻物色葉字類抄は購入した。
②”と”の雑物に裏横行銅将。109ページ~110
ページに大将基馬名と小将碁馬名。”き”に玉將、
金將、飛車、銀將、堅行、香車、白駒などを確認した。
③中将棋は、大将棋から平安時代末期までに考案され
たと考えられると見る。(以前の見方を変える。)
④中将棋の日本将棋プロの対局の直近は、神崎健二
7段と、中田功7段の対局である。(水無瀬神宮客殿
の写真を紹介されていた。
 岡野伸氏からの連絡は、以上である。
 個人的には”①痛い出費だ”と言っているようにも
取れる、彼の冒頭報告には同情しない。八木書店の回
し者になるつもりは毛頭無いが、事の重大性からみて、
彼の取った行動は、彼の立ち位置からは、当然の事だ
と私は考える。
 それはともかくとして。
 今まで岡野氏は、著書中将棋の記録(一・二)で、
南北朝期の遊学往来を、1662年の写本である点か
ら、多少の疑問符をつけて、南北朝時代成立と結論
されていた。が連絡から、次回の同様な表題のコンテ
ンツの中では、今の所中将棋は、

「色葉字類抄二巻本」の成立期の西暦1144年~
1165年の平安時代末期に成立

に、切り替えるつもりのようであった。
 これにより、中将棋の南北朝時代成立派は、その分
支持者が減少し、

南北朝派と平安末期派が、現時点でほぼ拮抗の状態

程度にまで、南北朝派は後退する結果になったとみら
れる。
 岡野伸氏と会話される際には、私が聞いている限り
少なくともごく最近は、”色葉字類抄二巻本の中将棋
記載部を根拠にして、中将棋の成立は平安時代末”と、
以上のように、自身の以前の考えを、変えられたよう
なので、御注意願えればと考える。(2019/04/25)

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西暦1996年㈱おうふう発行祭礼行事猪俣百八燈伝説(長さん)

今回は表題のように、栃木県小山市神鳥谷曲輪一文字
金成り角行駒関連と、本ブログが独自に疑う、埼玉県
児玉郡美里町の、猪俣の百八燈に関する論文、成書の
㈱おうふう発行、祭礼行事埼玉県、埼玉の祭り探訪、
”猪俣の百八燈”にも書かれた加藤健司氏による
”猪俣百八燈の由緒”に関する記載を、話題にする。
未解明の問題とみる内容を最初に書くと、史料として
の記録自体に、

戦国時代以前には、猪俣党が先祖崇拝を、していなかっ
たように見える不自然さがある

というものである。そして、それは史料が無いため
であり、栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館の

西暦2000年代終わりの頃に撤去された、屋敷神の
稲荷が室町時代にも、猪俣党には、先祖崇拝があった
証拠かもしれない

との旨を論じ、将棋の史料に関連すると疑われる物品
の地方公共団体による、十年程度前の

撤去は遺憾

と結ぶ事にする。
 では、以下に説明を加える。
 加藤健司氏の㈱おうふう発行の祭礼行事・埼玉県の
埼玉の祭り探訪”猪俣の百八燈”の出だし、
”猪俣の地と猪俣小平六範綱”に猪俣百八燈の由緒が
記載されている。要旨は次の通りに、なっている。
①祭りが行われている堂前山は、平安末期に猪俣小平
六範綱が館を構えたところであり、武蔵武士・武蔵七
党の一つ、猪俣党が、埼玉県児玉郡美里町を本拠とし
て活躍した史実が有る。
②猪俣小平六範綱は、一の谷合戦で平家の越中前司
盛俊を討って勇名をとどろかせた。
③猪俣党は、鎌倉期、南北朝期、室町期に存在した。
④猪俣党の終期の惣領の猪俣能登守範直が、安土桃山
時代に、後北条氏の北条氏邦に加担し、名故桃城争奪
戦で、豊臣秀吉の小田原攻めの原因を作った。そして、
小田原攻めの際に、現埼玉県大里郡寄居町の鉢形城に、
北条氏方として篭城して豊臣秀吉に攻められ、一族
もろとも、西暦1590年に滅ぼされた。
⑤天正年間の末年(西暦1592年)頃に徳川家康が
関東に赴任すると、徳川家康との関連は書いてないが、
猪俣党の本姓を名乗る、小野満開という宗教家が、
猪俣小平六の守り本尊を背負って、堂前山に草庵を建
て、盆に先祖の霊を弔ったと言われる。(火を使用)
⑥⑤の後に、小野満開の跡を、地元の若者達が継いだ。
⑦百八燈を作るという工夫等は、⑤の後に形成された。

 ここで問題にしているのは、室町時代や戦国時代に、
猪俣党は存在はしたが、

先祖の霊は弔っていたかどうか不明

だと言う事である。つまり、

はっきりとした史料が無いという事

であろう。傍証は、この地域にも寺院があると言う事
で、小山義政の乱、小山若犬丸の乱、小田氏の乱、
田村庄司の乱等の合戦で、猪俣党を、かり出していた、
鎌倉公方の足利氏満が、西暦1386年前後に広木地区
に、大興寺を新設しているという点がある。また広木上宿
から南北朝時代の五色宝塔が出土しており、加藤健司
氏も言及している、猪俣百八燈の中央の塚は、五重塚
という名で呼ばれており、概念として共通性が有る点
で、無形有形の証拠のようなものが、淡く残っている。
 だから、”小野満開”という宗教家が、堂前山
で、盆に先祖の霊を弔った、発起人だというのは怪
しいと、本ブログでは見る。猪俣党は安土桃山時代に、

 豊臣秀吉に攻められる以前にも、堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を、盆には弔っていた疑いも有るの
ではないか。

 つまり宗教家の小野満開は、
安土桃山時代に戦乱で、盆に美里町の堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を弔う行事が、一旦途切れたのを、
復活させた、

中興の功労者という事にすぎない

のではないかと、私は大いに疑うという事である。
 そこで根拠となる史料としては、ほんの十年前
までは実在した、

栃木県小山市天神町の小野塚イツ子氏記念館の、
敷地の、ど真ん中にあった、実質的に屋敷神である
稲荷

が挙げられるのではないかと、言う事になる。
何故なら、

その小野塚家は、室町時代の旧家だったから

である。また猪俣党を名乗る人物は通常、小野満開
がその典型であるように、小野の付いた苗字であり、
小野塚の中に、小野が有る。なお残りの塚は言うま
でも無く、墓に繋がる。また稲荷が、先祖霊崇拝の
アイテムであるのは、文献を挙げるまでも無く、
例外が無いほど、自明であろうから略すとして、
何れにしても、撤去されたのは、誠に残念だったが、

敷地のど真ん中に、デンと座ってかなり破格に広い
場所を占拠している、見ていて余裕ムードの稲荷

とキツネの置物が、確かにあった事自体は、私自身
が、撤去される少し前の某年8月15日に、確かに
確認している。その頃、下野新聞に写真が載ってい
たが、付近の庭木を撤去すると、更にいい眺めの、
水天宮風の、御ヤシロが稲荷についていた。
 ここで大事な事は、以前に述べたが

埼玉県児玉郡美里町猪俣とは隣接する、某大字地名
と全く同じ苗字の、”小山のまちづくりを考える会
の会長”を名乗る人物

が、今も在職と聞く”小山市市長派”と、地元で見
られているらしい、建設業者による稲荷の撤去に、

尋常で無い、怒りをぶちまけていた

と地元の新聞で報じられていた点だ。撤去者が市長
派なのは”特定の宗教的な文物を、小山市が推奨し
て保護できない”というような、史蹟保護に対して
比較的慎重な旨の文書を、当時小山市市長自身が、
出している点が、証拠とされているようだ。何れに
しても、史的事実として、

室町時代からの旧家なら、敷地の真ん中に有る事か
らみても、相当に大切にされる、先祖供養のアイテ
ムが、室町時代からあったと、一応見てよい

のではないだろうか。
 なお、”事件”は、今からたった約十年前なので、
webにも未だ、怒りをぶち上げていた当事者の氏
名や、元の都内の女子大学教授で、政治活動家の
小野塚姓の、親戚の人物の職場連絡先等が載ってい
る。証拠となる史料として漠然とした、しかし妙に
大切にされていた稲荷は、無くなったものの、
当事者住人や、私のような目撃者が、存在していて
記憶が残っており、完全には消滅して居無い史料と、
見なせると言う事かと考える。
 なお南北朝時代の小山義政・若犬丸の乱では、
小山氏の全財産を、結局の所、嫡男小山若犬丸では
なくて、小山義政の姉の息子の、結城氏の次男、
小山泰朝(後に改名したとの説有り)が相続する事
になった。そして、その都内の某女子大学教授で、
親族で、政治家の小野塚姓の人物の大学学生時代の
専門は、

”戦後”の相続制度と、相続税制度

であると聞く。成立時、武力というイメージを払拭
させる為に、GHQの影響で成立されられた感が強
いとされる、

現在の民法相続制度(ポイント→男女同等)の起源

の研究にも詳しいようだ。つまり、西暦1382年
と西暦1945年とが、二重写しにされている世界
が有るらしいと言う事である。
 そのため先祖が、西暦1381年頃から、屋敷稲荷
のある、栃木県小山市天神町に確かに住んでいた事
を、あたかも、その専門分野自体が、

淡く示唆するような、大学での研究経歴の持ち主だ

と常々、個人的には不思議に思っていた。
 ちらりと内容を見たような気がするのだが、以下
を確認する事が、今ではwebページが消失して、
できない。すなわちその内容とは、この小野塚イツ
子氏の親類の大学教授で、政治活動もされていた
小野塚某女氏は自身の大学の学生ないし教員時代の
論文として、

歴史的な相続制度の変遷や、日本の中世武家社会の
相続について、本論を論じる準備として等で、論じ
たよう

である。それは東京家政学院大学の紀要だったと、
私はウル覚えで記憶しているが、今も納められてい
るとも聞いた事が有る。だいぶん以前、15年位前
だと思うが、今は大学教授も定年退職されている、
その女性の方の、大学学生時代ないし教員時代の
論文の表題および、コンテンツ内のセクション名が、
webに出ていたように記憶している。東京家政大
学の紀要の34号~35号に出ていた論文の事かも
しれないが、詳細不明である。
 代々家に伝わる口伝を混ぜながら、論じた論文だっ
たとしたら、本ブログにとっては、

中世史史料としても、たいへんなお宝

だ。
 何故なら本ブログの思惑からすると、猪俣百八燈
を西暦1381年起源程度に、遡りたいからだ。
 従って本当に、それが期待通りのものならば、そ
れも将棋史にとって、貴重な史料の一つとかと見る。
なぜかというと、本ブログでは、

普通唱導集時代の将棋駒の駒総数108枚は、
108燈の108。5将は五色宝塔、五重塚の5だ
とみていたから

である。
 何れにしても繰り返すと、猪俣党を名乗る人物は、
通常小野の付いた苗字であり、栃木県小山市小野塚
記念館の小野塚もいっしょだし、怒りをぶち上げて
いた人物も、埼玉県児玉郡美里町町史にも載ってい
るように、平安末期の猪俣小平六範綱の、孫程度の
代から始まる、支族の苗字と同じである。なお、後
者の方の苗字は、武蔵七党・猪俣党の、構成一族
苗字一覧表にも含まれていて、埼玉県児玉郡美里町
猪俣の、至近の地名でもある。ただし小山市の小野
塚氏の苗字は、問題の記念館の元の住人にとり、
母系だったと、公開されていると認識する。
 よって今の所、残念ながら”現小山市市長によっ
て撤去されてしまった”と、小山のまちづくりを考
えるの会の会長と名乗る人物が、十年程度前に、
怒りをぶちまけていた、小野塚イツ子記念館の稲荷
は、猪俣百八燈式の、猪俣党等、武蔵武士による
先祖崇拝が、安土桃山時代起源ではなくて、

室町時代や、戦国時代にも有ったと疑われる、状況
証拠の疑いのある史料物品である

と、以上のように、捉えるべきかと私は考えている。
 よって、以上のように、地方公共団体の一による、
栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館に、十年
程度前まであった、屋敷神とみられる稲荷の撤去は、

遺憾な、歴史資料の破壊活動だった疑いも、未だ残っ
ている

という結論を、本ブログでは独自に、下しているとい
う事になるのである。(2019/04/24)
 
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鯨鯢の意味は日葡辞書成立の時代にも”一頭のくじら”(長さん)

前に述べたように、鯨鯢は、室町時代~戦国期に、鯨に、
雄鯨の意味が、後付加された可能性が強い。今回は、し
かしながら、日葡辞書の”鯨鯢”の項目を見る限り、①
”一頭のくじら”の意味が、安土桃山時代末までは残っ
ていたと見られる事を、示した上で、ここでは以下のよ
うに結論を導く予定である。すなわち、

②伊呂波字類抄、塵袋、日葡辞書等の中世の字典は、
日本将棋の歴史の研究者と異なり、注目熟語の数の多い、
日本の駒数多数将棋の歴史の研究者、愛好家にとり、
どれも大切な史料である

との旨を結論する。
 まず、日葡辞書(江戸時代草創期成立)について項目
鯨鯢には、要約すると次の旨が書いてある。

Qeiguei(鯨鯢)は鯨。
”鯨鯢の鰓(あじと、意味:エラ)に縣く”という諺で
有名。鯨に喰われる事。(”舞本;腰越”等で使用。)

 以上の内容から、鯨鯢に複数の鯨を意味するニュアン
スは、記載されているとは解釈できない。

①安土桃山時代の末頃でも、鯨鯢は”一頭のくじら”を
意味する場合が残っていた

と解釈できると思う。
 次に、辞書を変えて、モンゴル帝国来襲時に著作され
たとされる、塵袋の”獣虫”の麒麟の項目を見てみる。
たとえば塵袋を、今では、平凡社、東洋文庫、塵袋Ⅰ
(西暦2004年)で、見る事ができる。
麒麟は、雄が麟で雌が麒であると、和名類聚抄に書いて
あると、平安時代の和名類聚抄を引用している。だから、

①’鯨になったり、麒麟になったりはするのだが、熟語
を雄雌に分解するという発想は鎌倉時代初期までに成立

していた事が判る。
 なお、たまたまだが、今度は安土桃山時代最末期から
江戸時代草創期の日葡語字書には、”麋鹿”という項目
がある。私の持論の仮説と思っているが、猛将の洒落の
猛豹、悪党の洒落の悪狼と同じく、麋鹿(びろく)が元
で、飛鹿になったように、日葡字典を見てからは思えて
ならない。ただし飛鹿は、当然日葡字典には無いので、
証明はできない。
 こう考えるときには、まず飛鹿が考え出されてから、

実在感が薄いという意味で更に妙な、飛牛が後で発明

されたと、言う事になるだろう。そして、次のような事
になるのではないか。すなわち、
飛鹿の元が麋鹿で、大鹿と同じなのに、雌鯨という、お
かしな駒名が、中将棋に有った。そこで、雄雌に分解す
るという発想が、西暦1565年成立ではなくて、鯨鯢
が駒名として発生してから、さほど経たない、室町時代
前期の西暦1400年頃でも、考え出せたのかもしれな
いという事。
 だから漢詩として、日本の禅寺で、鯨雄説が出たのが、
西暦1400年と諸橋徹次の大漢和辞典から推定すると。
 若き日の雪竹老人(二十歳そこそこ)が、鯨を”雄”
と説いて、中将棋棋士仲間から、喝采を浴びたのが西暦
1500年。色葉字類抄1565年写書で、手直しした
のが、西暦1565年、雪竹老人が八十余歳の時という
パターンも、有り得るのなのかもしれない。あるいは、
”鯨が雄”を考え出したのは、雪竹老人ではなく、又聞
きしただけ。しかし色葉字類抄ニ巻物では、雪竹老人は
”鯨は雄”を、さも既成の日本語と言わんばかりに、
西暦1565年にたまたま入れただけ、なのかもしれな
い。元々西暦1400年程度で、鯨は雄が成立していそ
うな事が、諸橋徹次の大漢和辞典で示唆されてはいるの
で、個別には、いろいろな可能性が有り得そうだ。
 そこで次に、鯨でなくて別の話題に移る。戻って今度
は、モンゴル帝国来襲時に著作されたとされる、先にも
引用した中世の辞書”塵袋”の、分類”人倫”の項目名
”龍象”53を、たとえば平凡社、東洋文庫、塵袋Ⅰ
(西暦2004年)で、見てみる。
 そこには、提婆、馬鳴(めみょう。アシュヴァゴーシ
ャ。西暦80年頃~150年頃)という、2人の人名が

”並んで”現われる。

”高僧と龍・象が似合いの字で有るのは、どうしてか。”
という旨の、答えとして、塵袋では存在する項目である。

これは、摩訶大大将棋の、提婆と無明が、対で有るとい
うのに、近い表現

だ。なお、中世の辞書”塵袋”の、分類”人倫”の項目
名、”龍象”は、項目名からして、そうだが、日本の駒
数多数将棋の立場では、よい僧侶、象、龍という将棋の
駒名を思わせる言葉が説明文中に並ぶので、この辞書中
では、最も注意が必要な項目だと私は思う。

 馬鳴は、提婆と異なりコワモテの無い、直ぐに改心し
た良い僧侶だったので、摩訶大大将棋に入れるときに、
むみょう(無明)と、語句を取り替えたのではないか。

つまり無明も元々は、猛豹、悪狼、飛鹿の洒落の類なの
ではないか。そのようにも疑われるという事である。
 前後して申し訳ないが、龍象の項目は、その時代の
大将棋の中央部に、太子(高僧)、酔象、龍王、龍馬、
特に後三者が、既に初期配列で既に入っていたという、
本ブログの仮説(西暦1260年モデル)と良く合って
いると私は思う。”良い僧は、力が大きく、勢いが盛ん
なので、その様を龍象に例えた”との旨、本文末備に、
説明が有るようだが、いかにも鎌倉時代らしい発想だ。
 以上のように、伊呂波字類抄、塵袋、日葡辞書等の
日本の中世を挟む時代の字典類は、平安末期の色葉字類
抄に限定されずに、

②中世の字典類は全部、中世将棋史の研究にとって大切。

以上のように見なせるように、私には思えるのである。
(2019/04/23)

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和漢三才図会の将棋周辺語の日葡辞典で出現状況(長さん)

言うまでも無く、岩波書店の邦訳日葡辞書は、安土桃山
時代末から江戸時代草創期に掛けての日本語の、復刻が
目的の日本語→日本語辞書である。もともとは、その頃
ポルトガル人が作った、日本語→ポルトガル語辞書であ
り、説明ポルトガル語を、再度日本語にしたものである。
 そこで今回は、中将棋が有る事が、

どの程度異例なのか

を、江戸時代の百科辞典、寺島良安の和漢三才図会で、
遊戯が書かれている、将棋付近の項目が、岩波書店の
邦訳日葡辞書に載っているかどうかで、チェックして
みた。
 結果を書く
囲碁は”ご”として載っている。
双六は”すぐろく”として載っている。
小将棋は”しょうしゃうぎ”として載っている。
中将棋も載っている。
将棋は当然載っている。
将棋倒しも載っている。
大将棋は載ってない。
八道行成は載ってない。
蹴鞠は載ってない。
投壷は載ってない。
弾碁は載ってない。

以上の事から、結論としては、当時のポルトガル人には、

中将棋は蹴鞠より有名だった

事が判った。
 では、以下に詳しく述べる。
日葡辞書に、日本の江戸時代草創期の遊びが、全部詳し
く載っているとすれば、中将棋が載っていても、さして
不思議ではない。だから、以上のような調査には、意味
が有ると見られる。
 結果を見ると蹴鞠は、明治時代には、一般の日本人は
余りやらなくなったが、

安土桃山時代の、中将棋を指す貴族層にも、蹴鞠が廃れ
ていたとは、少なくとも私は聞いた事が無い。

だから、ポルトガルの宣教師たちは、日本語を知らない
と不便だから、中将棋を調べたのではなく、

遊戯具が特殊な形態であったため、驚いて調べた

と、蹴鞠さえ載せなかった事との対比から、明らかに推
定できると私は思う。

サッカーの上位概念と聞く、フットボールが既に、
スペイン・ポルトガルでも盛んだったのか?

とにかく宣教師は、蹴鞠は見ても、余り驚かなかったよ
うだ。あるいは中国にも有り、名称が類似で、辞書に載
せなくても良い程度と見たのか。正確には判らないが。
 何れにしても一見して、日葡辞書中の項目”中将棋”
の存在は、いかにも異形だったが。更に良く調べてみて
も、その第一印象がやはり正しかったようだ。
 ちなみに更に、辞書に載っている将棋駒名を調べてみ
ると、日本将棋の初期配列を、西洋チェス類似と即断し
て間違ったようで、角行が、単に動かし方のルールが同
じなだけの、チェスのビショップ(僧侶)相当のものと、
説明されている。また日本将棋の駒の、多くの物が紹介
されているが、王将、玉将、金将、銀将が抜け、辞書の
見出し熟語としても存在しない。龍馬は有るが、龍王は
将棋駒としての紹介は無い。
 特に、玉将、金将、銀将が抜けているのは、角行を、
銀将と取り違えたため、わけが判らなくなり、将駒を辞
書作成者に、宣教師等が紹介しなかった、ためだろうと
考えられる。つまり日本将棋の初期配列は、西洋チェス
と規模が、概ね等しいと認識されて、宣教師の関心が
それ以降薄くなったと、判断できるように私は思う。
ただし、何故か”王手”が有ったと思う。チェックの意
味かどうかは、日葡辞書の説明では良く判らないが。
 なお中将棋等、駒数多数将棋の構成駒についての説明
自体は、日葡辞書には余り無いようだ。国語として語句
の説明のための熟語としては、複数出ている。
(2019/04/22)

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川西奔横駒は十巻物伊呂波字類抄成立1135年以前か(長さん)

徳島県の徳島市の近郊川西遺跡より出土した、奔横
(異説有り)とみられる駒を、少なくとも本ブログ
では、西暦1260年以前に奔王駒に変化終了した
駒と見ている。
 しかしながら、該遺跡の年代は、遺跡の発掘報告
等から察して、たとえば西暦1200年~1275
年程度の間でしか、今の所成立年代を絞り込めて
居無いと、私は認識する。
つまり、未だ

西暦1260年以降、西暦1275年頃までは存在
し得る駒

だと言う事である。この期間に奔横駒が存在し得る
としてしまうと、横行が移動した後に、奔横駒が、
何らかの別かもしれない将棋の何処か、別の初期配
列の場所に有るのかも知れないか、または、
成書の”将棋の歴史”等で増川宏一氏が書いている
ように”単なる奔王のあて字”と言う事になってし
まい、本ブログにとっては、かなり都合が悪い。
 そこで今回は、二巻物色葉字類抄と、
十巻物伊呂波字類抄の”横”という漢字の記載内容
の僅かな差に着目し、より年代を絞り込んで、
下限(早い)はそのまま(西暦1200年)として、
上限(遅い)に関して、

奔横駒は、西暦1235年以降は存在しない

とみられる事を、説明する。
 差が何なのか、先に書いてしまおう。

十巻物の伊呂波字類抄にだけ、横に”ヨコタハル”
と書いてある

のに着目する。つまり、水平方向に向きが限定され
た観が強まるのは、十巻物が成立したと言われる、
鎌倉時代前期、つまり西暦1235年程度以降であ
ろうという論法である。
 では、以下に詳しく述べる。
 最初に記載事実を述べる。
まず三巻物は”よ”が欠巻なため、議論できない。
二巻物の色葉字類抄で横は、”ヨコサマ”である。
十巻物の伊呂波字類抄で横は”ヨコシマ、と、
ヨコタハル”である。
ただし、二巻物の色葉字類抄の横は、西暦1164
年頃迄に成立したとみられ、十巻物の伊呂波字類抄
の横の漢字の意味は、西暦1235年に成立したと、
本ブログでは解釈する。
 つまり、逆さまの類似語と見られる”ヨコサマ”
は、”アウトローな向き”の意味が強いとみられ、

目線に対して直角な意味が、比較的強いものの、
不定な向きとの意味を、西暦1235年までは含蓄
していた

のではないかと、本ブログでは考える。それに対し
て、十巻物の伊呂波字類抄で、事実上意味がいっしょ
のヨコシマに加えて、

”ヨコタハル”が加わってきたので、目線に対して
直角な意味である、現在の横のイメージが強まった

とも見る。むろん、平安時代後期に、”ヨコタワル”
が、全く無いとは言わない。枕草子や源氏物語には、
少しは”ヨコタワル”が使われていたらしいからだ。
 しかし、ここで言っているのは、鎌倉時代前期の、
西暦1235年までは、”ヨコタハル”よりも横と
漢字を書くと、”ヨコサマ”の方が、使われる頻度
が、高かったろうと言う意味である。
そして、何れにしても、

奔横という駒名を作ったときには、不定な向きと、
横が取れたほうが、すっきりした名称だったはず

だ。横へ動くが更に、”その動きが激しい”では、
横行と、何が違うのかが、駒名を見ただけでは判然
としないからである。
 横は、どちらかと言えば目線に対して直角な意味
が、比較的強いので、横行のときには目線に対して
直角に動く意味だが、奔を付けると、比較的不定な
向きとの意味の要素が強まると、将棋棋士に解釈し
て貰えれば、意思が伝わったという事に、恐らくなっ
たのではないか。つまり、

横の意味として、西暦1235年程度に成立した、
十巻物の伊呂波字類抄の”ヨコタハル”は、無い方
が良い

という事になるように、私には思えるのである。
 結局の所、そうすると、

奔横という将棋駒の名称が存在した時代には、十巻
物伊呂波字類抄が無かったのではないか

と、私には疑われるようになった。
 つまり、川西遺跡の少なくとも将棋駒が出土した
地点の年代は、共出土遺物等から今の所、
西暦1200年から西暦1275年程度にしか、
絞り込めないようだとても、奔横の意味が、そのよ
うな駒を作っても、今の我々の感覚のように、意味
不明にならないように、するという制限から、

西暦1200年~1235年の間と、より狭める事
も、ひょっとしたら可能なのではないのか。

以上のように、色葉字類抄の”よ”の”横”を見て
から、私は思うようになったという訳である。だか
ら将棋史家は、複数の意味で”横”を疎かにはでき
ないようだ。なお更に後に、横に関しては、
横行が熟語として、鎌倉末期に日本でも普及した。
 結果、西暦1235年までは、アウトロー方向。
西暦1290年までは”横たわるの横”。それ以降
は、日葡辞書にも有る、”横行は、生活や身持ちの、
乱れた人”に意味が、近くなって行ったと見られる。
(2019/04/21)

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