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西暦1480年代成立。温故知新書に象戯は何故無い(長さん)

前に塵袋等、中世鎌倉時代の辞書について触れた。
塵袋は色葉字類抄型ではなく百科辞典だが、漢字
の書き方辞典の類は、室町時代と戦国時代にも、
作成されている。室町時代のは表題に有るように、
たとえば温故知新書が有るし、戦国時代の西暦
1530年代成立のものとしては、進歩色葉集が
ある。象戯の字が出てくるのは、西暦1160年
代程度に完全成立の、色葉字類抄(二巻物)が初
出だから、象戯が、将棊等に字が代わる事が有っ
ても、前記の室町時代と戦国時代の、漢字の書き
方辞典には、何れも載っていそうな字である。
 しかし、実際には、室町時代の西暦1480年
程度に成立した、温故知新書に象戯は無いようで
ある。そこで、今回は、

その理由

を論題とする。回答から先に書く。
朝廷権力が衰微したため、将棋に”後代に教育し
なければならないナショナルゲームとしての性格”
が、この頃戦乱の為に衰退した。他方、名人と言
えるような、人物の出現には100年近く早く、
中将棋等にはエンターティナー性もまだ無かった。
だから熱心な貴族により、指され続けたが、所詮

娯楽であり、象戯を後代に教育する必要性が無い

と考えられた。だから、ある程度公教育的な位置
づけも、当時から有ったとみられる、温故知新書
等に、将棋類の字が見えなくなったと考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 10世紀の和名類聚抄に、象戯等が無いのが、
良く議論される。が、そのパターンと大きく違う
のは、

貴族の日記に、15世紀には多数の将棋の記録が
有る

という点である。現時点で、従って日本で、

15世紀に将棋類が、一旦廃れたという説は皆無

と、本ブログでも認識する。
 次に、16世紀の漢字書き方辞典である、進歩
色葉集には、将棋は載っている。

進歩色葉集.gif

そればかりか、ヒの項目に、飛車、飛龍、飛鷲と
繋がっている部分があって、

進歩字類抄2.gif

後期大将棋について知識があると同時に、
西暦1530年代に中将棋が盛んであったらしい
事も示唆されている。将棋存在の中間時代の有力
な漢字書き方辞典で、それが

無いのは温故知新書だけ

なのである。なお温故知新書には、博ばくや囲碁
が有るようだが、双六らしき字は見当たらない。
 西暦1480年代には応仁の乱以降、朝廷や貴
族が衰微して、ナショナルイメージのゲームが、
国家すなわち、ナショナル自体が傾いたために、

アナーキー社会での娯楽

に変貌したと考えられるのではないかとみられる。
西暦1530年頃の後奈良天皇が、裕福だったと
いう話は聞かないが、実際には1480年頃が、
国家の統一性という点での日本の、ドン底の時代
だったのではなかろうか。そのため、重大な字は
教育したが、命や心の拠り所となる、仏教関係に
関連する字以外の、

双六と将棋という字は、後代に伝来させるという
空気が低下

したのかもしれないと思う。そのため、賭博とい
う意味の、禁止用語の中のカテゴリーに、それら
は一くくりされて、標準的な辞書から、将棋等が、
一時的に消えたのではないかと私は疑う。ただし
囲碁はこのころ、水墨画のような絵画の題材にも
されたので、15世紀後半の辞書にも、有るのか
もしれない。
 しかし、中将棋や朝倉小将棋等の初期の将棋に、
賭博性も有る程度あったので、熱心な将棋棋士は、
幸い途切れなかったのだろう。盤双六も江戸時代
までは、もっていたようだ。
 逆に言うと”(1)天皇の持ち物にも将棋具が
ある”という情報か”(2)日本一の将棋指しが、
何処そこに居て、将軍様も注目している”といっ
た情報か、どちらかの話が、社会に重大と受け取
られる形で存在するか否かが、

社会全体として、将棋等のゲームを百年単位で、
伝承させるのには、結構重要らしい

と、結論する事ができるのだろう。つまり、応仁
の乱の西暦1460年代から西暦1530年まで
の約70年は、それ以上の時間の長さで、

日本将棋という、性能の良いゲームが現われ、
かつ将棋指しで強い人間が、大坂等から出て来な
いと危険な時間の長さだった。

以上のように、結論できるのかもしれないと思わ
れるのである。(2019/05/11)

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群書類従と日本教育文庫・教科書篇遊学往来との比較(長さん)

webで確認できるが、国会図書館蔵の遊学往来が
誰にでも見れる。群書解題から、群書類従本が、
”寛文二年板本か?”とされているのに対しweb
のものは、完全に”寛文二年による”と書いてある。
とりあえず比較すると、同じようにweb上で、
現在誰でも見れる遊学往来(西暦1662年本)にも、

中将棋、大将棋の記載はある。

群書類従本は、単純に作成した時に、月日があべこ
べになっているようである。
以下、もう少し詳しく述べる。
 web国会図書館本の遊学往来は”日本教育文庫・
教科書篇”とされており、続群書類従では無い。こ
の書籍では、上巻と下巻が有って、上巻に中将棋の
記載された、日付けの手紙文書がある。群書類従本
では、上の内容と下の内容を、日付順に合わせて合
体させだが、その編集のときに、6月5日を、5月
6日と間違えただけのようだ。岡野伸氏の言う通り
で、”加筆はされたのが江戸時代”でも、今の所良
く、webのツール程度では、問題は解決しないよ
うだ。
 ちなみに、国会図書館へ行っても、電子図書で辿
れるのは、これと続群書類従本だけだと聞いている。
 なお、石川本を持っている、石川謙氏も、辿れる
のは、西暦1544年までのようだ。
 よって群書解題から生じた疑問は、色葉字類抄の
パターンとは異なり、加筆の有無を、古い

別系列の写書で確かめることが、遊学往来にはでき
無いので、確定無理

だ。が、恐らく増川宏一氏等は、石川本位までは、
かつて、辿ったのであろう。以上のように結論され
た。(2019/05/10)

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山本亨助氏の近代将棋1977年2月号の上久世駒(長さん)

南北朝時代、西暦1350年頃の裏無地酔象駒と言わ
れる、京都市の上久世遺跡の出土駒については、画像
情報が簡単には探せない状況との旨、以前に紹介した。
最近ようやくだが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の
写真よりも、幾らかましな画像が、昔の将棋雑誌、
近代将棋の西暦1977年2月号の136ページに載っ
ているのを、私も確認した。
山本氏のコメントとは違い、写真としては成書、天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒と、元が一緒なようだが、

下の方に象の頭と右下側が、かろうじて写っているの
で、特に後者が有る為、天童・・の写真よりは駒字が
少し判るよう

である。山本亨助氏が、実物を見ているのは、確かな
ようで、発掘現場を訪問したときの様子や、”酔”だ
け見えた事などが、前記の雑誌の記事として確かに載っ
ていた。
 久世の荘園の歴史も聞き取っており、京都の寺の
東寺へ、寄進された時代が、有ったとのことである。
また少なくとも

山本亨助氏が、この駒の成りが、太子である等は、
確認していない。何も書いて居無いと思ったようだ。

また、本ブログの見解だが、写真を見る限り、酔が
確かにあるように写真からは見え無い。またこの駒が、

酔”像”と人偏付き象では絶対無いという、確たる
証拠も無さそう

だ。”ここに線刻のような模様が有る”と、言われて
しまえば、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、より悪
い画像でも、象の文字の、駒木地に対する”横倒しの
日”の位置は割り出せた。豚のツクリ部分が全く判ら
ないと、天童・・の写真は、字が有るようには見えな
かった。なお本ブログでも前に指摘したが、山本氏の
印象でも、”大きな駒”という感じは、現物を見たと
きに、確かに有ったようだ。

オモテの字も、やっとこさ残っている位なので、裏の
字は消えたのかもしれず、中将棋や大将棋の駒で無い
という、絶対的な証拠も無さそう

であった。何れにしても西暦1976年時点で、遺物
が確かに存在はしたと、私にも思われるようになって
きた。が、山本氏の成書でのみ、記載のある”赤外線
による判定の研究結果”は、少なくとも私には、未だ
確認出来て居無い。(2019/05/09)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札判読問題(長さん)

前に述べたように、問題の南北朝時代程度の遺物の
記載文字の判読で問題なる点は、字の崩し方が、規
則に則って居無い点である。誤読が起こるのは、一
つには、それが原因と懸念されている。本ブログで
最大の問題と、前に指摘したのは、上段2行目の、
本ブログ判読の”も”であり、標準的な”も”から
外れているし、いっけんして見える”う”とも、
”フ”型の右側トンガリが有るので、違う。この点
について、

わざと”う”にも見える”も”、”う”の後半部分
にも見える”し”を書いて、猛豹が、元の鉄将の位
置に有り、猛将の代理である事を、表現している

と前向きに捉えるのが、本ブログの説の特徴である。
 更に今回は、問題が他に無いのかどうかを、以下
論題にする。
 回答から書いて、ついで説明を加える。
”ま(万の崩し)うこ”の万が、間違っている。元々
万の筆順を、作成者は間違って覚えていると見られ
る。その結果”耳”の崩しである”に”の変体仮名
に、近い形になってしまっている。これは、識字が
出来ても、作成者の書の能力が低かったためであり、
楷書の”万”に、結果として、たまたま見える間違
いだったので、責任者・読者に許されてしまい、そ
のまま、本来の用途として、使われたものと考える。
 では、以上について説明する。
今回は表題のように、今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札の文字を判読する上での、問題点に
ついて考察する。本ブログでは、獅子に関する特別
な規則に関連して、トラブルがあったため、南北朝
時代に、鎌倉市今小路西御成小学校遺跡ゲームセン
ター等にて、狛犬を獅子と取り替えた”獅子に関す
る特別な規則”の無い中将棋を、

すでに今と、ほぼ同じ中将棋ゲームが存在する状況
の中で、敢えてした証拠

と、この遺物を解釈している。この解釈に、どの程
度の不安定性があるのかというのが、今回の論点で
ある。一番利くのは、基本配列が、中将棋である事
を示唆すると、本ブログでは取る”もしひゃう”で、
読みが合っているのかどうかだ。それについては、
”う”のような”も”が、本当に漢字の毛を、崩し
たもので、間違い無いのかどうかが大きい。それに
ついては、否定すべき積極的証拠は、今の所無いと
いう観点から、前に述べている。今回は、それに
比べて、余り効かないが、まうこのま(万)が、
へんな崩しである点についてを中心に、報告しよう
と思う。
 そもそも、本来この木札は、道具として、元々は
23文字書いてあったはずだというのが、本ブログ
の見方だ。話が見えやすいように、一覧で示す事か
ら始めよう。ただし()内の数字は字の読みの順番。
○(01)志。不安定性無し。
○(02)ろ。大きく書かれ、間違いなし。
○(03)い。不安定性無し。
△(04)ぬ。下が切れていて、”め”かもしれない。
×(05)も。いっけん”う”。しかし”つ”が”フ”
になっていて、かつ途中が少し濃くなっていて、毛の
3段目の一(横棒)を表現しているように見える。
本ブログでは”も”が、その上にあたかも、もう一つ
有るかのような、この書き方は、意図的と解釈。
○(06)し。これ自体は確かに、”し”。しかし、そ
もそも、”もしひ(やう)”という旧仮名遣いは無い。
○(07)ひ。不安定性無し。
△(08)や。上部がかろうじて見えているが、”や”
と断定までは残念ながら、写真だけでは無理。
×(09)う。全く見えて居無い。他の部分からの類
推で、そのように本ブログでは、推定しただけである。
×(10)ま。万の崩し字は、2画目が右下部分なの
で、筆順を間違えた、ニセ草書体になっている。耳の
崩し字の”に”に似ている。ただし、2画目が1画目
の横棒に、Tの字で接続していて、逆L字接続でない。
ので、比較的大きく書かれているものの、”にうこ”
とも読めなくなっている。結果として、

楷書の万にたまたま形が近いので見る側から許された

のではないかと、本ブログでは考える。”判読不能”
と従来言われた、所以と言える字であろう。
○(11)う。不安定性無し。典型的なうの字が、
(10)の字に、多少重なって書かれている。
○(12)こ。不安定性無し。
○(13)は。やや擦れているが、間違いないと見ら
れる。
(以下下段)
△(14)近。しんにょうが抜けているが、一応こう
読める。
○(15)く。典型的な久の崩し字である。
○(16)へ。狭い空間に押し込められているが、
一応、こう読めるのではないかと見ている。
○(17)行。少し平たく曲がっているが、この字に
間違いないと思われる。
○(18)く。(15)とほぼ同じ字が書かれている。
○(19)上。上の行書体に、間違いないと思う。
○(20)わ。大きく書かれ”わゐうゑを”のわに、
間違いないと思う。
○(21)ゆ。すこし傾いているが、こう読める。
○(22)け。不安定性無し。
×(23)ぬ。はっきり見えない。文として成立させ
るために、本ブログではこう仮定した。”め”か、
”ぬ”か、”無”か、どれかだと思う。ぬだが、怒の
崩し字のようでもあり、本ブログではこれを取る。
 以上の事から、下段が比較的安定している事が判る。
なお、(01)→(02)→・・→(13)→(14)→
・・・→(23)と、上と下とで分けて読むべき根拠
としては、(04)のぬ(?)と(08)のや(?)が、
部分的に欠けて見えているからである。すなわち上部
の下辺の一部が、南北朝時代に切断されてから、最結
合されて、1枚物として、後半使われたと見なせると、
本ブログでは、考えているのである。更に良く見ると、
右列の文字列の軸が、上側の方が、時計回りに角度で
約5~6°傾いていて、全体としてまっすぐになって
いない。以上の事も、もともと上段と下段で別々の木
片であったという考えの、根拠となりそうだ。
 つまり、
”口口は、近くへ行く。上は行けぬ”は、かなりの確
度で正しく読まれており、事物として、将棋駒の盲虎
が主語である事を、強く示唆しているように、明らか
に見えるという事である。だから、(10)の、万の
書き順の間違えた崩し字、

ニセ崩し字の”ま”は、国語の得意ではない識字者が、
遊びで書いた、笑って許される程度の誤字

と、他人から見なされたと考えて、大きな矛盾が無い
ように、少なくとも私には見える。
 盲虎が七方隣接升目歩みの駒であるのは、中将棋に
限るとまで行かないのが残念だが、

この木札に、将棋駒の盲虎については、書かれて居る
という事に関して、かなり確度でそうだと言える

ように、私は今の所考える。
 それに比べて”猛豹を元もとの鉄将の位置に配置せ
よ”の解釈が間違っていると、中将棋木札と証明する
のが困難になる。ので上段の2行目(05)~(09)
の確からしさは、この木札にとっては、とても大事だ。
 そもそも、本当は2行目は、好意的に読んでも、
”もしひ(や?)”としか、読み取れない。これから、

”もうひょう”と解するのは、バールフトの彫刻の字
をチャトランガと読むのに、これだけだとかなり近い

のかもしれない。そもそも、本当の旧仮名遣いは、前
に述べたように”まうへう”だ。将に洒落るだけで、
”ひやう”という、たまたま現代人に、判りやすい表
現に、本当に変えたのかどうかが、論点になってしま
うのだろう。蛇足だが、江戸時代になると、将棋六種
之図式では、”豹”を”へう”とは、カナを振らなく
なる。国会図書館電子図書本では”ひよう”になって
いるようだ。何れにしても、

研究者達は、書いてある字だけでなくて、”う”に
見える”も”かもしれない文字が、そのように書かれ
た動機付けすらをも、読み取らないと、中将棋とは結
論できない

という事だろう。ただし、元々”しし”のはずなのに、
(01)~(04)が”しろい(ぬorめ)”と、犬
辺の共通な一字目の、犬辺を削除した書体の言葉になっ
ているというのも、

これが、このゲームにとっては主役なので、冒頭だ

と考えれば、根拠かもしれない。つまり両者に共通の、
犬辺を略して、あだ名訓読みした業界用語を書いて見
せていると見れば、やはり、普通の中将棋がこの木札
の時代に既に有るらしいと言うヒントとして、情報
が加わってはいるのだろう。
 何れにしても、上段の下が少し切れているのは、

”しろいぬ”と”ひやう”が確定しないので、少し痛
たかった。

 そうしてみると(04)が部分的に見えて居無いの
と、(08)と(09)が見えて居無い事は、私の考
えだと、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターの
支配人は、部下のやった、2枚の木札の接続を見て、
そうは思わなかったのかもしれないが。遊戯史研究者
全般にとっては、打撃が全く無いとまでは、言い切れ
ない行為かもしれないとは、言えるように思う。
(2019/05/08)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の模型(長さん)

前に述べたように、平成の時代の初め、西暦1988
年前後に、神奈川県鎌倉市御成町の、今小路西鎌倉市
福祉センター遺跡で発掘された、競技しようとしてい
る中将棋のバージョンを、指定するための小道具とも
疑われる木札は、

中将棋の史料としては、最古になりうる。

そこで、実際に書かれている文字が、将棋のバージョ
ン指定のためのもので、本当に合っているのかどうか、

真偽が大事

となる。
 そこで今回は、筆跡を真似た書写を、手作業で行い、
更に、模擬的に同一の使用状態を作り、

その感触をつかむ事

にした。
 下の写真の左上の2片の文字の書かれた木片が、本
ブログの管理人が、成書”よみがえる中世3 武士の
都鎌倉”平凡社1988年の221ページの写真を見
ながら作成した、模型である。実際に使用される状態
に近いように、中将棋盤と中将棋の駒、プラス簡単な
狛犬の仮駒も、写真のように用意した。

中将棋木札使用法.gif

 なお今回から、カナ崩し字入門本の示唆に基づき、
”近くへ行が”は、本ブログでは”近くへ行く”と、
読み直す事にした。昔の平仮名の”く”が、現代の
”く”ではなくて、”L”の形に近いとの情報が得ら
れたためである。なお、平仮名”く”は”久”を崩し
た文字とされると言われる。
 河野真知郎氏からの情報により、よみがえる中世3
武士の都鎌倉の写真が、原寸大に近いとしてみると、
セパレート時代に置いたケースは、上の写真のように、
たいして場所を取らない感じになっていたようである。
ちなみに写真で”志ろいぬ”のろの字が、下側が切れ
て、”一”と”つ”に分かれているように見えるが、
これについては、私の筆の誤りによるもので、本ブロ
グの、別のページでも確認できると思うが、

本物の写真は、カスレは無くて、もっと”ろ”に近い。

 なお、写真の陣側は、今小路西御成小学校遺跡ゲー
ムセンター所属の”御相手師匠”の駒群だったのかも
しれない。中将棋を知っている方には、写真の中の書
き込みは、邪魔だったかもしれないが。中将棋を知ら
ない方も、このページを読む可能性があるとみて、
犬ヘンが共通の、白犬(狛犬)と師子(獅子)との
関係を赤字で示した。
 また、もしひゃう、と猛豹との関係を、金将、銀将、
銅将と、猛豹が並ぶ配列になり、猛将の代わりだと、
言い訳をする、必要性が有った事情を示すため緑枠で
示した。
 更に、前進できない、七方隣接升目動きの”まうこ”
とは何者なのかを、玉将の近くに居る駒であるのが、
判るように、写真では黄色丸で示した。
 個人的には、平仮名をつなげて書いてないという点
と、江戸時代に流行りで、今では私のような素人には
読めない特定流派の書体で、仮名を凝って書いていな
いので、出土木札の字は、

今の小学1~2年生の、普段着の字にむしろ近い

と見る。従って現代人に比較的読みやすい字と、むし
ろこの史料は、見るべきではないかという疑いを、私
的に、かなり強い心象として、現時点で抱いている。
蛇足だが、以上を一応感想として、表明しておきたい。
(2019/05/07)

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今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札を習字した(長さん)

前に述べたように、目下、中将棋の史料で古い順に
挙げると、目下次のようになる。
(1)尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄”き”雑物等
の中将棋記載(12世紀中ば)
(2)今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札
(鎌倉時代末から南北朝時代。14世紀)
(3)遊学往来(大将棊・中将棊)(南北朝時代。
14世紀)
(4)花営三代記。”足利義持奔王出して勝ち将棋”
(室町時代。15世紀)
 従来は、(3)が最も古いとされたが、写書時の
加筆の程度の判断が難しく、(4)を確実と見る
空気も、中将棋の棋士の間では強かった。
 現在は、色葉字類抄二巻物の記載がダントツ一位
である。
 ただしこのケースは、後続の三巻物に、将棋駒の
記載らしいものが、まだ見つかっていない。その事
から成立が、写書された、14世紀初期以降とすべ
きとの情報が、八木書店発行本の解題部に、示唆さ
れているように見える等、混沌としている。写書の
1回目なら(1)と(2)が近い線で、
(1)が少し早くなるが、2回目の写書時の加筆だ
と、
(4)とほぼ同率にまで、後退を余儀なくされる。
特に本ブログのように、
銀将の添え字の金と、香車の添え字の金今の取り合
わせが近世以降の作駒風であるという説が正しいと、

(1)が戦国時代末期の16世紀中まで一気に後退

してしまう。
 外れていれば良いがと、主張している本人も思う
のだが、はたして今後どうなる事であろうか。
 つまり、チャトランガの二人制が先か、四人制が
先かという論争の、バールフトの彫刻といっしょで、
このケースは、最古とされる史料の年代が不安定で、
話がひっくり返る可能性が、まだあるのである。
 更に言うと、2位の(2)が一位に浮上する可能
性が有り得るので、(2)は大切だが、それ以上に
(3)にも、繰り返すと写書時の加筆の疑いがあり、
江戸時代まで(3)が後退してしまう恐れが、中将
棋の研究家等で知られる岡野伸氏により、かなり前
から示唆されている。
 (3)の不確定性について、以前は個人的には楽
観視していた。が、群書解題の石川謙氏の、
”遊学往来は、そもそもが異制庭訓往来の、大幅加
筆本”という説を読んでからは、中将棋の記載箇所
の日付で、たしか5月7日と6日が、ひっくり返っ
ていた事を思い出して、私もかなり心配になってき
た。
 何れにしても(1)と(3)がコケてしまうと、
(2)の価値は更に大きくなる。
 そこで、最近私は、細書きの筆ペンで、(2)の
文字を写す練習をし出した。先入観で、将棋のルー
ルが記載されているように、間違って読んで居無い
か、念には念を入れて、更にチェックする為である。
 なお(2)の写しは、成書を手本にするだけであ
る。と言うのも、鎌倉市で30年程度前に行った、
遺跡の発掘調査結果展示会の終了直後に、現物が盗
難に会い、現在は見当たらないとされるからである。
だから、誰が複製の作成を試みようとしても、とり
あえずは、平凡社(1989)の、
”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”221ページ
の写真を写すだけである。なお実物は、名刺大の大
きさだとの事だ。

白犬中将棋写し.gif

以上の写真の字は、書の写しを、私がやり始めたば
かりなので、この書写はかなり未熟である。
 本ではなくて、2~3行の木札の字を写している
だけなので、この程度の努力なら、私にも出来そう
である。もう少し書道に力を入れて練習に励み、そ
のうち、模型でも作ってみようかとも考えている。
(2019/05/06)

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武蔵武士”猪俣党”と小野塚イツ子記念館の稲荷(長さん)

 小野塚イツ子記念館に、西暦2009年まで存在
した屋敷神を祀ったものとみられる稲荷は、もとも
と、小山義政の乱で戦死した、武蔵武士、たとえば、
猪俣党の武者を弔ったものの疑いが強いというのが、
本ブログの見方だ。つまり、この稲荷の塚信仰と、
猪俣百八燈の塚信仰の塚は、同類でかつ起源が同じ
だという推定だ。
 それを証明するため、小野塚イツ子氏の親類に、

家伝が無いかどうかについて最近、調査した。

そこで今回は、上記の本ブログの説の信憑性につい
て、先行研究について説明する。
内容の要旨を先に述べると、

武蔵武士が、南北朝時代~室町時代前期に鎌倉公方
の家来に近い側の立場として、合戦に駆り出されて
いたというのは、史学会の常識である。

では以下に、この点をもう少し詳しく説明する。
 まず、同様な西暦1380年~2年の合戦の武者
を弔ったとされる遺跡が、栃木県宇都宮市の雀宮駅
付近の、現地名”茂原”にあるのも良く知られてい
る。”胴身塚”という名称で、私有地の敷地の横に
置いてあり、怪談が伝えられていると、たぶん、今
でもwebに出ているはずである。そしてwebに、
該当合戦名も当然出ているはずだが、西暦1380
年に、栃木県宇都宮市の現地名で言う”茂原”等で
有った合戦は、第一次小山義政の乱である。
 なお宇都宮市の雀宮近くの民家の素性は不明だが、
小山市天神町の小野塚イツ子氏の小野塚氏の素性は、
お稲荷を撤去したときに、怒りをぶちまけた”小山
のまちづくりを考える会の会長”と名乗る人物の
苗字が、猪俣党の一族の分家と言われる字と同じで、
怒りをぶちまけている人物と、猪俣党とは、何か関
わりがあるのではないかと、本ブログでは疑われて
いる。
 以上が前置きで、以下本論である。
 ここで足利氏満と、埼玉県児玉郡美里町の大興寺
との関係を見て、武蔵武士が、南北朝時代の合戦に、
鎌倉公方方として借り出されたと気がついたと、本
ブログ内では前に表現した。が、猪俣党と小山義政
の乱等との関連付けそのものについては、本ブログ
独自説では当然無くて、史学会の常識的な説であり、
仔細は、web上にも出ている。
 まとめると、だいたい次の感じとみられる。
 ”小山義政の乱のとき、鎮圧軍に加わった事でも
著名な、武蔵国の白旗一揆の構成員について、以下
の説があり、≪2≫だと猪俣党も入る。
 即ち白旗一揆の構成員について、次の説がある。
≪1≫北武蔵の武蔵七党である児玉党と、村山党を
中心に結成されたとする説。
≪2≫猪俣党も加わっていたとする説。
≪3≫児玉党(塩谷氏)と丹党(高麗氏)、私市党
(久下氏)の武蔵七党と藤原氏系(別府氏)を中心
に結成されたとする説。
 なお白旗一揆は、建武の新政当初の武蔵守護であっ
た高氏の影響下で編成されたとされ≪6≫、その後
観応の擾乱で、高氏が滅亡した後も、北朝方として、
足利尊氏や、鎌倉公方足利基氏、氏満、関東管領
上杉憲顕等の下で戦った。白旗一揆は将軍足利尊氏
に結成が関連しており、その軍勢動員に当たっては、
後にも形式的に、幕府の承認が必要であった模様で
ある。が、具体的な軍勢行動は、主に関東管領の傘
下で行われ、ほとんど幕府と、関東管領の山内上杉
氏は一体的であったから、山内上杉氏による、軍事
行動の開始命令への従属は、必然的であったとみら
れている≪1≫。
 たとえば上杉憲顕は、小山義政等をも味方につけ
ながら足利氏満を守り、西暦1368年(正平23
年/応安元年)、武蔵平一揆の乱を鎮圧した模様で
ある。
 国や地域ごとの分化は、14世紀には行われたと
みられ、小山義政の乱の時に起きたという説がある
≪7≫。分化の原因は、一揆が主体的に分かれたと
する説≪2≫と、鎌倉公方の足利氏満や、関東管領
の上杉憲方など、上位権力の命令で分かれたとする
説≪7≫があるという。

≪1≫ 峰岸純夫(みねぎし すみお)の説
≪2≫ 久保田順一(群馬県 教育委員会)の説
≪3≫ 大井教寛(埼玉県熊谷市熊谷図書館)の説
≪6≫ 呉座勇一(ござ ゆういち)の説
≪7≫ 小国浩寿(都立高校教諭)の説”

今回は、以上の程度にしておこう。
 冒頭で述べた、小野塚イツ子記念館の親類に、
以下”小野塚先生”と略称する、元大学の教員で、
政治活動もされていた方が、おいでである。
 元おられた大学で書かれた、論文についての問い
合わせのため、最近その方へは直接連絡をとってみ
た。その際の聞き取りにより、少なくとも家伝では、
”小野塚イツ子氏の祖先の小野塚氏が、栃木県
小山市天神町に来たのが小山義政の乱の直前だ”と
の話があるそうだ。以上の点につき、今の時点で

既に、本ブログの管理人は察知している。

 又以下も家伝に過ぎないが、小野塚先生の祖先が、
小山義政の乱のときの、合戦そのものに、兵として
加わったとの話も、確かに家には代々伝わっている
という事だ。
 返しで、私の方からそのとき、公方の足利氏満が、
埼玉県児玉郡美里町広木の大興寺を建てたのは、
西暦1386年の、小山若犬丸の一回目の乱前後で
あるという話はした。が、白旗一揆に、小野姓で
著名な、猪俣党が含まれるという研究者も居るとい
う、上記の学会での諸説の話を、うっかり、きちん
とするのを忘れてしまった。
 なお、南北朝時代埋設の”戦勝者を弔うのに相応
しい絢爛豪華な五色宝塔”が、同じく埼玉県児玉郡
美里町広木の、広木上宿遺跡に有った廃寺(戦国時
代消失)宝山寺から出土しているという話も、まだ
しては居無い。
 つまり今回等、

ここで何回か述べた本ブログの話を、”小野塚先生”
に連絡のときするのを、忘れてしまった。

 何れにしても、何か史料を頂けるとの話も有った
ようなので、何か仮に送られてきたときには、お礼
のついでのときにでも、峰岸純夫説、久保田順一説
・・等については、後で伝え無ければと思っている。
(2019/05/05)

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中間報告。異制庭訓往来に”中将棊”記載(?)調査(長さん)

幾人か複数の、現代の将棋史研究家の書き物として、
”異性庭訓往来には、『将棋は合戦を模したもの・』
の一文の他に、遊学往来にもある、『中将棊』の記
載が有る”との旨が書かれているのを、本ブログの
管理人は、たまたま入手している。
 大切な点は、本ブログの管理人には続群書類従か、
群書類従の異制庭訓往来しか、見れないと言う点で
ある。とりあえず、群書類従及び、続群書類従の中
では、幾ら探しても異制庭訓往来に、『中将棋』の
記載は見つからない。
 そこで今回は視点を変え、群書類従と続群書類従
で、往来物のうちで、”往来”という書名の文書の
中に”将棋”等が、どの程度出てくるものなのかを、
ざっと調査した。結果から書く。

南北朝時代の書家、素眼が著者だという”新札往来”
(西暦1380年頃)にも、”圍碁。双六。將碁。
例下残。”との旨が書いているのが、その他で見つ
かるだけのようである。

それでどうなのかという点について、引き続き以下
説明する。
 上記の三例目は、将棋が双六と繋がっているとか、
将棋が将碁になっているという特徴はあるが、今の
所、以上2点に、重大な意味があるとの兆候が、私
には感じられない。
 ところで群書類従等には、付帯して、群書解題と
いう解説書シリース本が存在する。それを読むと、

遊学往来の項目の所に”異制庭訓往来と遊学往来は
同系列である”と書いてある。

以上が重要とみられた。内容を読んでみると、よう
するに、群書類従の異制庭訓往来や、続群書類従の
遊学往来、特に後者は、写書本として、変性が少な
い伝来本とは、言えないという事のようだ。つまり、
将棋史本の著者等は私とは違い、写書時等に加筆さ
れているケースの多い、群書類従本で異制庭訓往来
や、続群書類従で遊学往来を見て居無い可能性が、
この場合については高そうだ。
 冷静に考えると、
遊学往来は、年代の古い写本は、異制庭訓往来とい
う、群書類従本の異制庭訓往来と、

全く同じ書名で呼ばれている

という混乱が有るとすれば、状況は一応説明できる。
この議論の行方は、知っている方は、知っている話
なのであろう。だが今の所、本ブログの管理人には、
個人的に、本当の答えが判って居無い。更に調査す
るしか、結論を出す方法は無いと、私も群書解題を
読んで最近ようやく、問題の本質について、気が
付き始めた所である。(2019/05/04)

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チェス始原史。四人制から二人制へ増川氏が転向の訳(長さん)

今回は、ものと人間の文化史23-1と、ものと人
間の文化史110を、両方御持ちの方には釈迦に説
法であろうが、インドでのチェス・将棋類の発生が、

四人制チャトランガから最近は、二人制チャトラン
ガへ転換したように、webに紹介されている経緯

について、何故なのかを論題にする。理由は、将棋
史研究家で、旧遊戯史学会の会長の、

増川宏一氏が、転向したため

である。ただ、どういう転向経緯なのかは、増川氏
の講演を聞いても、上記著書を読まないと、実は、
判らない。そこで正直私も従来は、社会のムードと
して、受け売りに近い形で、取り入れていたような
所があった。しかしこれでは、小さな議論が発生し
たときに、迷い路に陥るだけとみられるため、調査
しなおすことにした。状況を御存知の方には、今回
は、読み飛ばしが可能な内容である。
 回答をまず書く。
紀元前100年前後に成立とされる、インドの壁画

バールフートの彫刻が、四人制チャトランガを表す
という根拠が、相当に怪しくなった。

その結果、四人制チャトランガの成立年代が、
約1100年も変化して、アル・ビルニのインド
旅行中の、インド・ゲームの発見記録の記載、
西暦1000年頃が初出へ、学説が変化した。
 またこれとは別に、西暦600年前後とみられた、
二人制チャトランガに関する”インドマウカリ王国
から、ペルシャへ、8×8升目、双16枚32枚制
の二人制チャトランガを送った記録”が従来より知
られ、これに逆転され、4人制から2人制起源へ、
今世紀に入って学会の流れが、急速に移った為で
ある。
 では、以下に説明を加える。
 西暦2003年当時の、増川宏一氏の、法政大学
出版局”ものと人間の文化史110 チェス”を読
む限り、

増川宏一氏の講演を聞いても、事情が判らないのは、
インドの古代言語が読めない聴衆には、理解できな
いので、増川氏が根拠に言及しないため

であると、理解する事ができる。
 判りやすくデフォルメして表現すると、インドの
紀元前100年内外の遺跡のバールフトの彫刻に、
6升目前後の盤で、サイコロを幾つか使い、4人で
何らかのゲームをしているような彫刻があり、

題名らしきものが、書いてあった

とされるようだ。結論から述べると、チャトランガ
に関連するフレーズと、解釈するする意見も、以前
は有ったが、

この古代インド壁画のゲーム題字のように見える文
字の内容について、近年には”四人制チャトランガ
の図”と書いてあると解釈する説に関して、否定的
な研究が増加した

と言う事である。その結果、四人制チャトランガの
紀元前100年頃発生説は廃れ、2番手の史料で
ある、アル・ビルニのインド旅行中の、インド・ゲー
ムの発見記録の記載(西暦1000年頃)が、四人
制チャトランガの初出へ、学説が大きく変化した。
 他方、西暦600年内外に、8×8升目、片16
枚、32枚制の王、副、象、駱駝、馬、塔、兵と命
名された単一の形の、色の違う玉を使ったゲームが、
インドからペルシャの王に送られたという、文献の
解読が、更に精密化した。そのため、西暦600年
内外の、インドにおける二人制チャトランガ型ゲー
ムの存在の確実性が、顕著に増大した。後者は、
従来より知られていた、西暦700年内外の、チェ
ス型ゲームを思わせる駒のインドでの出土とも、
発生時期が良く合っていた。そのため、バールフト
の彫刻を、インドの古代の、原始的な盤双六の絵の
誤認に過ぎないのではないかと、疑わせるのに充分
だった。
 以上のように史料は約100年前から知られてい
たものばかりだったが、精読が進んだので、学説の
支持者が、大きく変化したという意のようである。
 また、以下の理解が、この問題の経緯を理解する
上で、たいへん大事なのではないか。すなわち、
インドに於いても、1000年前を越える、起源の
議論に関して、特に有効な

チェス・将棋史の史料の数は元々、数えるほどしか
無い。

だから、元々情報量が少なく、その解釈が僅かでも
フレると、結果に重大な影響が出ると言う事だろう。
 よって以下暴言で、私が言っても、誰にも相手に
されそうも無いかもしれないが。
 少なくとも日本の将棋に関して、この先新たに、
意味のある将棋史関連の史料が発見されたら、他所
の学術分野である、例えば、
天文学が”ほうき星”の発見に関してやっているよ
うに、

史料に、第一発見者の名前でも、付けるルールに
今後はしてみてはどうか

とさえ、私には思える。(2019/05/03)

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中将棋の成り規則は中将棋が起源の証明方法(長さん)

一般に出土駒を見るとき、中将棋の駒であるかどうかは、
中将棋の成り駒規則で、裏に成り駒が書いているかどう
かで判断するのは、慣れれば反射的だ。しかし、中将棋
の成り規則が、

ほんの僅かの間存在した、大将棋の成り規則であったと
いう奇説を、本当に否定できるほど磐石なのかどうか

について、今回は論題としよう。議論の基礎になる、史
料の解釈として、相当に重要だからである。
 では、回答をいつものように書き、説明を後で加える。

かなり磐石である。白駒を香車の成り駒にしているのが
大きかったとみられる。

では、以下に説明を加える。
 共出土した駒群が、全くどれも中将棋駒パターンなの
に、大将棋の駒を誤認しているという例は、

焼津駒よりも古い異物には今の所懸念されるものが無い。

この点誤解されやすいが、鎌倉鶴岡八幡宮遺跡出土駒は、
鳳凰は大将棋も中将棋も奔王成りであるが、香車が不成
であり、今の所白駒成りとも読めるという説は無いので、
”中将棋か大将棋か判定できない”と、

現状”正しく”疑われている。

酔象が太子成りで出てきたとされても、大将棋も中将棋
も朝倉小将棋も、それは太子成りだと疑われているので、
京都市上久世駒も”字が書いてある”との証拠を、探す
事自体今では難しいが、山本亨助氏の成書の記載が、仮
に正しいとして、酔象一枚で判断するのは難しく、どれ
とも言えないと、”正しく”クエスチョンマークは、付
いている。
 問題なのは、よって焼津駒のように、成り飛鹿盲虎や、
成り飛鷲竜王とか龍王が出土したときに、中将棋駒と結
論するのが、磐石かどうかである。今の所、南北朝時代
の遺跡から、焼津駒のように成り飛鹿盲虎や、成り飛鷲
竜王とか龍王が出土してしないので、問題になっている
例は、実際には無い。
 本ブログの見解だが、中将棋に固有に見える多彩な成
りが、中将棋起源であって、たとえば後期大将棋が指さ
れた時点で、そのゲーム性の改良のために、一時的に、
中将棋として残った成りが、大将棋で発明され中将棋で
も採用された後に、大将棋では元に戻ったというように
ならなかった根拠としては、

幸運な”白駒”の採用位しか根拠が無い

のではないかと、疑われる。
 白駒は、月日とか”光陰”に準えられた単語であり、
光陰矢のごとしの諺と類似の、

白駒の隙を過ぐるが如し

の白駒と考えられるからである。つまり、香車という
中将棋盤でも四隅に置かれる駒の成り駒として、
月日の意味の白駒は、相応しいものである。なぜなら、

中将棋の盤は一辺12升目で、中将棋絹篩に有るように、
12支で升目を特定できるような性質が有る

からである。他方、香車と反車は、金将等の将駒を飛車、
角行、堅行、横行と成りを割り当てると、必然的に別系
統の成り駒名を、新しく考えなければならなくなる。成
り駒が足らなくなるケースである。
 そのため、盤の四隅で、盤の升目の性質を表している
ような香車へ、月日の別名である白駒が、車駒と馬駒は、
本来つりあわない別物なのに、充てられたのであろう。
むろん桂馬を削除した中将棋デザイナーの”後ろめたさ”
も作用したのだろうが。なお、二巻物色葉字類抄にも、
”は”に、白駒は日本語の普通の熟語としてあり、
”日の名”と説明されている。ので、平安時代末には、
”白駒の隙を過ぐるが如し”が諺として、日本でも知ら
れていたのだろうと、少なくとも予想出来るように思う。
 それに対して大将棋で、白駒を香車の成り駒にしよう
とすると、

大将棋の盤升は月日の数とつながりにくいので説明困難

という事になる。従って、中将棋の成りとして特徴的に
見られる、白駒、鯨鯢、飛牛、奔猪、飛鹿は、やはり、
中将棋デザイナーの発案がオリジナルではないか。以上
のように、本ブログでは結論する。
 なお、そうしてみると鶴岡八幡宮境内遺跡の、白駒に
成らないと見られる、香車駒の出土は幸運だった。奔王
に成る鳳凰が、奔王が崩し字でないため、この出土駒の
元の駒セットに、初期配列での裏字確認の手間が無いと
見られる事から、成り駒が少ないとも疑われる。また、
足利義持の御前で指された将棋で、これでは元駒奔王と
区別が出来ないため、花営三代記将棋とも違う事が判る。
以上3点の事柄に関して、鶴岡八幡宮境内出土駒はたい
へんラッキーな、重大情報を含んだ出土駒である。
 逆に言うと、この駒群は、遊んだ将棋駒が、出土して
いるのではなくて、”将棋史史料館”のような物が、実
は当時の鶴岡八幡宮境内には事実上有って、その展示遺
物が、たまたま出土しているのではないかと、私には疑
われる位である。また”汚れた”歩兵駒の裏が、崩して
居無い金のように見える点からも、それは”平安大将棋
の歩兵、他にその時点での、と金成りの中将棋の歩兵と、
その時点での成らない後期大将棋の歩兵を、合わせて3
枚展示した”と、遺物群が、あたかも語りかけているか
のようでもあり、偶然にしてはやや出来すぎな感じであ
る。(2019/05/02)

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