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武蔵武士”猪俣党”と小野塚イツ子記念館の稲荷(長さん)

 小野塚イツ子記念館に、西暦2009年まで存在
した屋敷神を祀ったものとみられる稲荷は、もとも
と、小山義政の乱で戦死した、武蔵武士、たとえば、
猪俣党の武者を弔ったものの疑いが強いというのが、
本ブログの見方だ。つまり、この稲荷の塚信仰と、
猪俣百八燈の塚信仰の塚は、同類でかつ起源が同じ
だという推定だ。
 それを証明するため、小野塚イツ子氏の親類に、

家伝が無いかどうかについて最近、調査した。

そこで今回は、上記の本ブログの説の信憑性につい
て、先行研究について説明する。
内容の要旨を先に述べると、

武蔵武士が、南北朝時代~室町時代前期に鎌倉公方
の家来に近い側の立場として、合戦に駆り出されて
いたというのは、史学会の常識である。

では以下に、この点をもう少し詳しく説明する。
 まず、同様な西暦1380年~2年の合戦の武者
を弔ったとされる遺跡が、栃木県宇都宮市の雀宮駅
付近の、現地名”茂原”にあるのも良く知られてい
る。”胴身塚”という名称で、私有地の敷地の横に
置いてあり、怪談が伝えられていると、たぶん、今
でもwebに出ているはずである。そしてwebに、
該当合戦名も当然出ているはずだが、西暦1380
年に、栃木県宇都宮市の現地名で言う”茂原”等で
有った合戦は、第一次小山義政の乱である。
 なお宇都宮市の雀宮近くの民家の素性は不明だが、
小山市天神町の小野塚イツ子氏の小野塚氏の素性は、
お稲荷を撤去したときに、怒りをぶちまけた”小山
のまちづくりを考える会の会長”と名乗る人物の
苗字が、猪俣党の一族の分家と言われる字と同じで、
怒りをぶちまけている人物と、猪俣党とは、何か関
わりがあるのではないかと、本ブログでは疑われて
いる。
 以上が前置きで、以下本論である。
 ここで足利氏満と、埼玉県児玉郡美里町の大興寺
との関係を見て、武蔵武士が、南北朝時代の合戦に、
鎌倉公方方として借り出されたと気がついたと、本
ブログ内では前に表現した。が、猪俣党と小山義政
の乱等との関連付けそのものについては、本ブログ
独自説では当然無くて、史学会の常識的な説であり、
仔細は、web上にも出ている。
 まとめると、だいたい次の感じとみられる。
 ”小山義政の乱のとき、鎮圧軍に加わった事でも
著名な、武蔵国の白旗一揆の構成員について、以下
の説があり、≪2≫だと猪俣党も入る。
 即ち白旗一揆の構成員について、次の説がある。
≪1≫北武蔵の武蔵七党である児玉党と、村山党を
中心に結成されたとする説。
≪2≫猪俣党も加わっていたとする説。
≪3≫児玉党(塩谷氏)と丹党(高麗氏)、私市党
(久下氏)の武蔵七党と藤原氏系(別府氏)を中心
に結成されたとする説。
 なお白旗一揆は、建武の新政当初の武蔵守護であっ
た高氏の影響下で編成されたとされ≪6≫、その後
観応の擾乱で、高氏が滅亡した後も、北朝方として、
足利尊氏や、鎌倉公方足利基氏、氏満、関東管領
上杉憲顕等の下で戦った。白旗一揆は将軍足利尊氏
に結成が関連しており、その軍勢動員に当たっては、
後にも形式的に、幕府の承認が必要であった模様で
ある。が、具体的な軍勢行動は、主に関東管領の傘
下で行われ、ほとんど幕府と、関東管領の山内上杉
氏は一体的であったから、山内上杉氏による、軍事
行動の開始命令への従属は、必然的であったとみら
れている≪1≫。
 たとえば上杉憲顕は、小山義政等をも味方につけ
ながら足利氏満を守り、西暦1368年(正平23
年/応安元年)、武蔵平一揆の乱を鎮圧した模様で
ある。
 国や地域ごとの分化は、14世紀には行われたと
みられ、小山義政の乱の時に起きたという説がある
≪7≫。分化の原因は、一揆が主体的に分かれたと
する説≪2≫と、鎌倉公方の足利氏満や、関東管領
の上杉憲方など、上位権力の命令で分かれたとする
説≪7≫があるという。

≪1≫ 峰岸純夫(みねぎし すみお)の説
≪2≫ 久保田順一(群馬県 教育委員会)の説
≪3≫ 大井教寛(埼玉県熊谷市熊谷図書館)の説
≪6≫ 呉座勇一(ござ ゆういち)の説
≪7≫ 小国浩寿(都立高校教諭)の説”

今回は、以上の程度にしておこう。
 冒頭で述べた、小野塚イツ子記念館の親類に、
以下”小野塚先生”と略称する、元大学の教員で、
政治活動もされていた方が、おいでである。
 元おられた大学で書かれた、論文についての問い
合わせのため、最近その方へは直接連絡をとってみ
た。その際の聞き取りにより、少なくとも家伝では、
”小野塚イツ子氏の祖先の小野塚氏が、栃木県
小山市天神町に来たのが小山義政の乱の直前だ”と
の話があるそうだ。以上の点につき、今の時点で

既に、本ブログの管理人は察知している。

 又以下も家伝に過ぎないが、小野塚先生の祖先が、
小山義政の乱のときの、合戦そのものに、兵として
加わったとの話も、確かに家には代々伝わっている
という事だ。
 返しで、私の方からそのとき、公方の足利氏満が、
埼玉県児玉郡美里町広木の大興寺を建てたのは、
西暦1386年の、小山若犬丸の一回目の乱前後で
あるという話はした。が、白旗一揆に、小野姓で
著名な、猪俣党が含まれるという研究者も居るとい
う、上記の学会での諸説の話を、うっかり、きちん
とするのを忘れてしまった。
 なお、南北朝時代埋設の”戦勝者を弔うのに相応
しい絢爛豪華な五色宝塔”が、同じく埼玉県児玉郡
美里町広木の、広木上宿遺跡に有った廃寺(戦国時
代消失)宝山寺から出土しているという話も、まだ
しては居無い。
 つまり今回等、

ここで何回か述べた本ブログの話を、”小野塚先生”
に連絡のときするのを、忘れてしまった。

 何れにしても、何か史料を頂けるとの話も有った
ようなので、何か仮に送られてきたときには、お礼
のついでのときにでも、峰岸純夫説、久保田順一説
・・等については、後で伝え無ければと思っている。
(2019/05/05)

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