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小野塚先生の第三次小山義政の乱知見は塚原熊吉起源(長さん)

小山氏の乱をwebで調べてみると判ると思うが、
西暦1382年に、一旦鎌倉公方の足利氏満に降伏
した小山義政が、三度目の乱を起こしたのは、結城
家の結城基光の次男の小山泰朝に、女系相続で財産
を乗っ取られた恨みだとも、当然考える事が出来る。
 本ブログでは近々、それを小野塚先生が、某女子
学院大学時代の論文で下敷きにして、第二次世界大
戦直後の、日本の相続制度の急変を論じているのか
どうか、

小野塚先生の先祖が、西暦1381年に埼玉県児玉
郡等からやってきて、小山市天神町に居た証拠を探
すために、大学の図書館等で調査しようとしていた。

 しかしその前に、小野塚先生が最近送ってくれた
史料から、

親戚に聞けば、先祖が南北朝時代に、小山市天神町
に居なくても、小山義政の怒りの原因は、判ってし
まう

事が判明した。つまり、GHQが第二次世界大戦後
に日本でした事と、足利氏満が西暦1381年に、
栃木県小山市でした事が、良く似ているという事は、

小野塚先生の、先祖の系列の一部部分が、結城氏の
家臣なら、小野塚先生の他の祖先の系列が、現場つ
まり、小山市に居なくても知っていて当然だ

という事である。
 その為天神町付近に居たと考えて、小野塚先生の
大学教員時代の論文をチェックして、何が書いてあ
るかを調べたとしても、論文の内容から論を展開す
る事は、残念ながら、出来ないようだと結論された。
 以上で結論の概要は書いたので、次にもう少し、
説明する。
 小野塚先生が送ってくれた、旧小野塚家・・の学
術調査報告書(西暦2007年6月)によると、

昭和の初年時点で、小山町の12代目の町長だった
小野塚久平こと塚原熊吉氏は、結城基光時代からの、
下総結城氏の家臣、結城・塚原氏の子孫(web記
載の”諸国の塚原氏”)

だと言う事である。なお小野塚先生は、熊吉の子孫
である。小野塚家は、塚原熊吉を大正時代に婿に迎
えているのである。この小野塚(塚原)熊吉は、

歴史の研究家としても、地元で有名

との事だ。当然、小山朝政の直系が、小山義政の代
まで小山氏の当主で、その次、小山若犬丸だったは
ずなのを、小山義政の乱の結果、恐らくは足利氏満
の裁定で、小山義政の姉つまり結城基光の妻経由で、
小山泰朝が、重興小山氏として相続して、若犬丸が
追い出され、結局相続の経路が、女系で繋ぎ代わっ
た事位、釈迦に説法のはずだろう。何故なら、そも
そも、婿の小野塚(旧姓・塚原)熊吉氏にとって、
自分の先祖は、その下総結城氏の家臣だからだ。
 だから、その直系子孫の小野塚先生は、

先祖が、小山義政の乱の当時、結城城に居たので、
1382年と1945年をダブらせて、相続制度の
変遷論を展開できるのは、別の祖先が小山市天神町
に居なくても、もともと出来て当たり前

だったという事になる。
 とんだ落とし穴にハマリ掛けた所を、当の本人か
ら、調査寸前で助けられたという感じだ。
 やはり、お礼は情報をタンマリと送っておくとい
う形で、しておかねばなるまいと思った。
(2019/05/12)

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