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金将は中国語。宮廷に出仕するときの角帯の飾が金(長さん)

本ブログではこれまで金将、銀将、玉将は鎧の素材
とのイメージで、表現してきた。または他界した後
に作られた像の材質とも述べた。しかし元々の意味
は、別の可能性が有りそうだ。
 彼らが仕える宮廷に、武官が出仕するときに着る
礼服に付帯された、帯の”か”と言われる飾りが
金である、高級武官の事を、古代に中国文化圏では、
金帯の大将軍というイメージで、呼んだようである。

なお、このイメージで金将と表現したとき、その単
語は、飛鳥時代末の日本でも通用した

ようだ。この事から、東南アジアのゲームの要素が
大いに有ったとしても、

日本の将棋の直接の伝来元は、中国文化圏の可能性
がかなり高そう

である。
 結論は以上のようであるが、以下に説明を加える。
 web上の、幾つかのサイトに紹介されているが、
雲南に南詔国が出来た西暦738年頃のものと見ら
れる、南詔徳化碑という遺物が存在する。南詔国は、
中央集権制の高い軍事国家なため、建国に功績の有っ
た武将が、武家の高官として、支配階層に多数含ま
れる国である。南詔徳化碑から、多民族国家とみら
れる南詔国の、支配層の人種が割り出せるので、
岩手大学の藤沢義美氏により、1970年頃書かれ
た論文”南詔国の支配階層について”にも、詳しく
紹介されている。その論文の33ページによると、
碑文に、将軍の具体的な名前や、役職に続いて、
”大軍將。大金告身賞『錦袍金帶』”等で、
”武勲章位階(建国に対して功績のあったため冠位
が付き、国王より、宮廷に出仕するときの礼服と帯
を賜った事を示すもの)”が示されているという。
藤沢義美氏は西暦1970年当時、”金賞大将軍”
のイメージに読める、褒章名を、中国文化圏では
当たり前の、国王からの贈呈品として、詳しく論じ
て居無い。が、

将棋史にとっては、金将が何処から来るのかを示し
ているので”金賞大将軍”等は、とても大切だ。
 碑文には、

(上闕)帶段忠國  清平官大軍將大金告身賞錦袍金帶
□□□(下闕)

(上闕)?皮衣楊傍?  清平官小頗弥告身賞錦袍金帶
(下闕)

(上闕)頗弥告身賞二色綾袍金帶爨守□  清平官大金
告(下闕)

(上闕)李〔買〕□  大軍將開南城大軍將大□告身
(下闕)

(上闕)大大?皮衣趙眉丘  大軍將士曹長大頗弥□□
賞紫袍金(下闕)

(上闕)□衣揚細□  大軍將賞二色綾袍金帶王琮羅鐸


だいたい以上のようなイメージで、まだたくさん
続いているようだ。
 どうやら鉱山地帯のイメージのある雲南だが、
さすがに、大将軍でも”鎧が全部金製”という
事では無かったようだ。ベルトに金の飾りを多数
付け、祭典のとき、堂々と天子の前に現われるのが、
金将の事らしい。つまりこの史料から中国古代王朝
の儀式に習い、雲南の南詔国でも、

功績をたたえられ天子にお目通りするときに、金の
ベルトをはめて出てくる武官がいて、後の金将の事

らしいと判る。また、これはどう見ても、南詔国の
勲章贈呈行為は、西暦738年頃にした、唐王朝の
マネのようである。だから、これは中国文化圏では
良く知られており、飛鳥時代から、日本でも知られ
ていた、ありきたりの概念と、明らかに推定できる。
つまり、

金将は、中国文化圏の概念のよう

だと言う事である。
 だから、日本の将棋自体が、金将や銀将や玉将と、
ともにやって来たとすれば、ゲームとしては東南ア
ジア的であったも、

伝来元は、中国文化圏内の北宋王朝の近くの国

であると言う事だろう。そして駒の名前の意味は、
当時の日本人にも、良く判るものだったと、ほぼ
断定できるように、私には思える。なお、金将・・
等が、”ゆっくりとした日本での発明”という仮説
には、興福寺出土駒以前の先駆体が発見されない事。
文献の初出が、出土駒の後である等から、松岡信行
氏によって、従来から疑いの目を向けられている。
 しかも日本の将棋の伝来は、記録が10世紀に
無いので11世紀だとすれば、将棋史にとっても
重要な史料である、

”南詔徳化碑”の成立より伝来は250年以上も後

だ。つまりは、金将と銀将のある原始的な将棋が、
ほぼ西暦750年から、そう後でない頃には雲南に
有ったとすれば、将駒に現地で、金将、銀将と名前
を付け、

最大約250年間、将棋ゲームを雲南で育ててから
日本に持って来る事が、原理的に可能

という事なのではないかと、私には思えるのである。
よって、雲南の南詔徳化碑は、武勲章位階が記載さ
れており、その内容が、いかにも日本の将棋の金将
を連想させるので、将棋史家は当然注意すべきだろ
うと思う。(2019/05/14)

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