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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札現依然不明(長さん)

以前に本ブログに、表題の木札が、”市役所に存在し
ているにも係わらず、紛失との旨の記載が本ブログで
見られる”ともとれる旨の苦情が、コメント欄に書き
込まれていた。
 管理人は陽気だったので、これを

”再発見の知らせ”の吉報と、受け取ったが間違い

だった。以下に確認しただけだが、経過を簡単に書く。
 神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所内にある鎌倉市文化財
部文化財課に、西暦2019年6月末吉日の午後に、
直接問い合わせた。応対した担当は、西暦
2018年の12月当時と”状況に変化が無い事”を、

何の話なのかを思い出すために、何秒か、かかるとい
う事すら全く無く、即答

してくれた。
 河野真知郎氏の”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”
の、”文字のある生活”での、この史料についての、
”別格扱い”が、”無い”との騒ぎが再燃した局面で、

相当に効いていた

ようだ。鎌倉市役所文化財部の担当間で、私の、立ち
回りに対する扱いについては、オフラインでの直接接
触、すなわち問い合わせ自体は、アクションが半年に
一度であるにも係わらず、完全に申し送りが出来てい
るようだった。

以上の事から、私に対して、”『間違った情報の流布』
と表現できる物に対して、鎌倉市内で不快観が存在”
との風説は、誤りである

点についても、あわせて本ブログ内でも報告しておく。
 誰が何時問い合わせても、鎌倉市役所文化財部が、
上のように教えてくれると思う。ので、これでも疑う
方が万が一居られたら、

御自分で、鎌倉市役所に問い合わせるのが、とても簡
単な、確認方法だ

と私には認識される。
 結局、現状を教えて貰ったお礼だけ述べ、
内心は大いにがっかりして、担当者との会話を終えた。
以上、はなはだ簡単であるが、中将棋の初出に係わる
本遺物の現状についての再報告としたい。(2019/06/30)

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1984年鎌倉駅出土”搦王馬馬仲”木簡角行補は無理(長さん)

以前に、集成鎌倉の墨書の木製品No.301に、
表題の1984年とかなり前に、今のJR鎌倉駅
構内で出土した、細長い木片が有るとの内容を、
本ブログに書き込んだ。そのとき、角行角行奔を、
搦と王の間に入れると、スペースがちょうど良い
かのように書いたが、

これが違う

のを、最近発見した。5文字補うスペースがある
かのように書いたのであったが、よく調べてみる
とスペースは、

5文字ではなくて、4文字半空いていた。

結論は以上だが、それでどうしたのかを以下に、
報告する。

角行角行の、後半の角行を”踊り文字”に変えな
いと駄目

であった。

搦王馬馬仲.gif

上に結果を、スケッチ図に重ねて示した。集成、
鎌倉の墨書上では縮尺は1/3との事である。
web上では、画面上で拡大表示が可能なので、
その点お伝えするのは無理だ。将棋駒よりも相当
に長い木製品で、私見だが、更に元々のものを縦
に裂いてから捨てたと見ている。
 さてその状況で8文字目と9文字目が、几帳面
に馬が並んでいるので、本ブログの、上の図のよ
うな踊り文字の導入は、

かなり、無理があると感じる。

やはり、”角行角行奔王龍馬龍馬が仲人横行反車
を搦(から)め、反車香車が耳を破り、飛車を退
け勝ちを取る。(こうして置いて、麒麟が袖で、
獅子に成り込んだら、成り込まれた方が、陣を喰
い荒らされ、玉を詰まされて負けの意味である。)
(そこで、その対策としては、)仲人嗔猪が腹を
合わせ、桂馬を登せて支え得る。”
と、普通唱導集の大将棋唱導唄に、この出土木製
品の字を、前段へ”角行角行奔”というふうに、

大幅に補って繋げるのは、かなりキツそう

だ。単なる偶然という事なのだろうか。内容的に、
これで、ドンピシャ合っているような気が、私に
はするので、たいへん残念な事だと思った。
 なおこのスケッチ図の転載許可については、
集成鎌倉の墨書に、”条件によっては、著作権者
の許諾せずに、一部複製OK”の旨が書かれてい
るので、まとめて後追い許諾の予定で居る。現時
点で、小山市教育委員会の角行のスケッチや、
金沢市の堅田B駒のスケッチとは異なり、私は
スケッチ図の著作権者の許可を取って居無い。
 鎌倉市二階堂の一文字水駒(?)(木製品No.
139)のスケッチ図と合わせて、更に紹介した
いスケッチ図が有れば、本ブログ上に転載した上
で、後で忘れずに、鎌倉考古学研究所へ、声を掛
けて置かねばと思う。本ブログは”遊戯の世界”
なので、”学術研究等”の堅苦しいイメージが、
元々薄いと思われるからだ。(2019/06/29)

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二中歴横行の位置。”王の頂”に”方”が何故付く(長さん)

先行文献として、web上の溝口和彦氏の平安大将棋
自陣4段型初期配列が有名だが、4段型初期配列の
平安大将棋の模型では、横行が3段目に来るとする
意見が強い。本ブログでは奔横が導入できない不都合
がある為、”頂方”の”方”の字の存在について、既存説で
は個別に、解析した結果が、web.上に見当たらない
ため、”よく判らない”との旨の表現をし、これまで、
ほぼ無視してきた。今回は、最近の知見に基づいて、
この問題を再度考察し直し、理由が何なのかを論題と
する。回答を先に書く。

二中歴の大将棋の部分の筆者も、横行の導入が玄怪録
の上将から来る事を知っていた。そこで、横行は本来
将位の駒に準じるものであるにも係わらず、玉将の
傍方に配列しないで、前升目に例外的に配列している
という気持ちで、頂ではなくて、頂方と表現した

と考えられる。では、以下に説明を加える。
 二中歴の大将棋の記載では、最下段駒の配列と、駒
の動かし方ルールを説明した後に、歩兵の段数には言
及せずに、その他の駒の初期配列位置と、駒の動かし
方ルールを説明している。このうち各駒の初期配列は、
その前に位置を説明している、次の駒群を基準にして
いる。
横行は王将。
猛虎は銀将。
飛龍は桂馬。
注人は中央の歩兵。
この場合の王将は、恐らく玉将と読むとの心であろう。
桂馬は、位置を書き忘れているが、とにかく存在はす
るのであろう。
 また何れも、基準駒の前升目等に有るように、相対
位置が記載される。相対座標の表現は、各駒について
次の通りである。
横行では頂方。
猛虎では頂。
飛龍では上。
注人では頂。
 先行研究の溝口和彦平安大将棋四段配列モデルによ
れば、彼が自分のブログで書いた初期配列図等から、
頂は直ぐ前の升目。上は進み先(中央へ寄る方の升目
へ桂馬跳)、頂方は、2前の升目との事と解釈してい
るようであった。
 本ブログでは、飛龍の位置は3段目配列から4段目
配列に変化するときに、桂馬の二つ前の升目へ移動し
たと解釈して、飛龍と猛虎を同筋にするため、飛龍は
桂馬の1つから2つ前の升目へ、筋変えをしたと考え
た。ここでは、この点の優劣は問わない事にする。
 そして問題は横行であり、本ブログでは奔横を導入
する際の都合の悪さから、”方”を入れたのは、たま
たまで、意味は無いと無視してきた。

今後は、最後に述べた横行の相対位置を記載する頂方
の方について、以下のように、本ブログの論を訂正

する。つまり、単に横行在王(将)之頂。行前一歩・・
と書かずに、横行在王(将)之頂方。行前一歩・・と
頂ではなくて頂方と、二中歴で記載したのは、

横行が金将位置や桂馬位置に有っても、本来おかしく
ないとの認識が、当時は有った為

だと考える。”方向が”と”方”を入れて、王将に対
して、

横列に置かれない事を、強調した為

と、考えるという事である。
 理由は前に述べたとおり、横行とは、元々玄怪録を
読んで、平安大将棋を作成した、平安大将棋のデザイ
ナーが、上将という名の駒を導入しては、5将制の
平安大将棋では、くど過ぎて適切で無いと見た。その
ため、玄怪録岑順(小人の戦争)の、上将の駒の動か
し方の説明とみられるものの中に有った、横行を、
中国語では名詞に転用できると正しく認識して、置き
換えたものとの解釈を、本ブログでしたという事であっ
た。恐らく西暦1200年頃までは、二中歴の編集者
に、陰陽寮内で西暦1110年頃であったとみられる、
平安大将棋のデザイン現場の事情が、情報として残っ
ていたのであろう。
 準将の意味である”横行”が、金将、銀将、銅将、
鉄将と異なり、”王(読み恐らくぎょく)”の横位置
ではなくて、前位置である事は、

レアーなケースである

と、二中歴の大将棋の著者に、感じられたのではない
か。そのため、頂で良い所を”方向は頂であって横で
は無い”との含蓄で、横行だけ、頂ではなくて頂方と、
初期配列位置が、表現されたのではないか。
 従ってやはり、横行の位置が頂ではなくて頂方とな
っていても、この”方”は、”ずっと向こうの方”の
”方”では無くて、”『方向』がこっち”の”方”と
も、少なくとも取れるので、結果は無いのと同じに、
なるのではないか。
 以上のように結論出来るように、私には思えるので
ある。(2019/06/28)

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神鳥谷曲輪裏一文字金角行駒の裏金字の右下汚れの正体(長さん)

本ブログでは、西暦2007年に、栃木県小山市神鳥谷
北端の、神鳥谷曲輪遺跡(西方)宇都宮線西空き地で
発掘された、角行駒について”成立西暦1340年程度
の遺物の、コピーである疑いが存在するが、複写精度の
高いもの”との見解を取ってきた。そしてこの遺物に
ついて、

本ブログ独自に、裏一文字金角行駒と名づけてきた。

 この名称から、駒の裏の中央に、金が一文字で書かれ
た姿が想定されるが、実際には栃木県小山市の小山市
教育委員会発行、神鳥谷遺跡Ⅰ(第2分冊)の下写真の
ように、

上部のハの字しか、明確な墨跡は無い。

そもそも、南北朝時代のものなら、麒麟抄のように”金
は極崩しで書く”はずである。そこで以前は、本ブログ
のこの駒の扱いを、参考程度のものとしていた。
 しかるに2019年の3月末になって、尊経閣文庫の、
色葉字類抄二巻物4冊分け物の第1分冊/4冊の末尾に、
一覧形式独立ページで”大将基馬名”があるのに本ブログ
でも気がついた。そしてそこに、香車、反車、猛牛、飛車、
仲人の裏が、金である事が、発覚するに及んで、類似現象
と見なされた。そのため、”大将棋の変化モデルを立てる
基礎資料”に、この遺物の本ブログ内での位置づけが、
大きく上昇した。
 以上の経緯から、この駒の内容については、これまで以
上に、慎重かつ精細な、事実認識が必要とされるように
思われるようになった。今回は以上の背景から来る、
この遺物の状態見直しの一環として、

裏面の右下隅に存在する、汚れのような黒い部分の正体

についてを、論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。目視の状況と合
わせて総合的に判断すると、このボーとして黒い部分は、

カタカナの”ヤ”の、”つ”の部分だけの物

の疑いも有ると見られる。

神鳥谷曲輪や.gif

では、以上の結論につき、もう少し説明を加える。
 この遺物に関する、発掘担当者、栃木県小山市市役所
の秋山隆雄氏の、前記発掘報告書の第一分冊の”館の造
営時期について”等によれば、本件の遺物の成立年代は
西暦1333年から西暦1392年までの、南北朝時代
との事である。ここでは簡単のため、以前の本ブログの
結論である、小山朝氏(朝郷)の活躍した西暦1340
年代で代表させる。
 それに対して、本ブログでは、これより悲観的な見解
を取る。元遺物は確かに西暦1340年代成立であるが、
後代の、栃木県小山市神鳥谷北端の廃尼寺(近世は男寺)

青蓮寺に、女物の下駄、櫛の破片と共に保管された、
宝物とされる、元史料のコピー

と見ていると言う事である。本ブログの推定によると、
最も悲観的な見積もりでの最終的な写しは、江戸時代中
期、18世紀後半に下ると見なされる。ただしオリジナ
ルの成り金が、大将棋の駒と通常の、平安小将棋(本ブ
ログの推定、持ち駒有り型、成り敵陣移動毎型で、駒字
書き方麒麟抄準拠型)とを区別するために、

正しく、崩しの弱い”将”の無い一文字金と書かれた物

であると、現時点で判断している。以上の事から神鳥谷
に存在したとの近世成立の古文書や、小山市宮本町の道
鏡が開基したと伝わる寺、持宝寺に記録等の有る小山市
神鳥谷曲輪の青蓮寺の要素を、ほぼ無視している秋山氏
の見解は、精度を欠くと考える。が結果的に、写しが正
確だった為に、写しであってオリジナルでは無いという
事が、議論にほとんど影響をしないと、今の所本ブログ
でも見るという事である。
 そこで、この遺物の成立は、西暦1340年代である
と、以下簡単に、記すことにする。
 従って、この遺物は、本ブログの言う、

普通唱導集大将棋南北朝型のルールと一致する、成りが
金と書かれた駒である

と結論される。
 しかしながら実際の写真を良く見ると、今回論題にし
たように、裏の金の字の右下の、ネズミ色の四角い枠で
囲った部分から判るように、

汚れがある。

 実はこの駒を、本ブログの管理人は、2度実物で目視
している。それによると、

実際に汚れは有る

ものの写真で、”や”の字の
2画目と3画目に当たる部分は目視では実在するように

見えない。

また、ネズミ色の四角い枠内左上のさらにボーと見える”
影”は肉眼では、はっきりしない。そこで、結論に書い
た通り、本ブログでは、このネズミ色四角部分の汚れは、

カタカナの”ヤ”の字の”つ”部分が、もしかすると
書かれていたのかもしれないし、単なる汚れなのかも
しれない

と、以降解釈し直す事にしたい。

最悪は”金(右下付き)や”と書いてあった疑いが有る

という事である。
 ただし解釈は自明であるように思える。

この駒の原作者の一例、近衛経忠が、中尊寺金堂境内遺
跡の銀将~歩兵の類に関する出土駒のデザインを真似て、
より古風なイメージを、かもし出すために、”也”の字
を加えたという意図

というものである。従来より以下の点、発掘担当者の、
栃木県小山市市役所勤務(当時)の秋山隆雄氏本人が、
強調されていた事だと、本ブログの管理人は面と向かっ
て、聞いた記憶があるので、そう理解するのだが。
 何れにしてもこの駒に関しても今後、従来にも増して、

より一層の、遊戯史研究家間の、現物そのものの相互チェ
ックが必要

だと、私にも痛感させられる所である。
 なお本ブログでは混乱を避けるため、今の所は”小山
市神鳥谷曲輪遺跡の裏一文字金角行駒”という、この駒
に対する、本ブログ内での表現・呼び方を、当面変え無
い事にしたいと考えている。(2019/06/27)

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尊経閣文庫色葉字類抄ニ巻物き雑物”銀将”下金左付き(長さん)

江戸時代の加賀前田藩の蔵書、尊敬閣文庫に、現在
一冊だけ現存の、色葉字類抄ニ巻物があり、中将棋の
一部の駒とその成り駒名が、本文中の”き”と”と”
の雑物に記載されている。三巻物の色葉字類抄に記載
が無い事から、八木書店発行、”色葉字類抄ニ、二巻
本”(西暦2000年)の解説の、(ニ)書誌で、
写書の経過を説明した後に、最後の方で、”(1~3
回目の、)

写書時の追加であろう”との旨、峰岸明氏により指摘

されているケースの類例であろうと、本ブログによっ
て現時点で疑われている。
 今回は、さらに何時の追加であるのかを問題とし、

近世では無いようだ

との旨を論じる。根拠は表題のように、尊経閣文庫蔵
の色葉字類抄ニ巻物の”き雑物”部の”銀将”の下の
”金”が、左付きであって、

右付きで無い

という点からである。
 なお、より重要なのは、

”香車”の下の”金今”が、右付きであって”銀将”
と違う

という点である。銀将の方を”題名”にしたのは、色
葉字類抄の、各要素文字の下の、小さい字で書かれた
成分の書き方としては、”香車”の”金今”の右が正
しく、”銀将”の”金”の左下付きが、逆なためであ
る。
 先ずは、この”逆パターン”が何を意味するのかを、
先に書く。
 ”玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、白駒”を
加筆した人物の時代、銀将駒は比較的大きく、

香車駒は細長くて、一乗谷朝倉遺跡の駒や、石名田木
舟駒のような形をしていた。そのため、”香車”を
左詰めで書くと、右に空きが出来るというイメージが
強かった

と推定できるからと考える。つまり、水無瀬兼成の頃
以降の、近世の将棋駒のパターンが成立するより前の、
戦国時代の日本将棋の駒が主流であった時代の、加筆
であると推定できるので、

江戸時代の加賀前田藩で誰かが、悪戯で加えたもので
はないと、ほぼ断定できる

と考えるとう意味である。
 では、以下にもう少し、詳しく説明を加える。
 本ブログでは、”と雑物”の銅将の、右下付き”裏
横行”加筆と同じ形式であるため、1冊目/4冊末備
”大将基馬名”と、中将棋駒の本文の加筆はいっしょ
であり、かつ、大将基馬名の”猫刃”書体等から、
上限(遅い)が近世である点を、否定できないとの認
識を、これまで取ってきた。もっとも、大将基馬名の、
飛車成りの裏金の金が、戦国時代の、
観音寺城下町遺跡出土の、歩兵の成り金と同じである
から、安土桃山時代よりは前の疑いは、元々強かった。
 何れにしても、”と雑物”の裏横行銅将の記載は、
1分冊/4冊末備一覧形式の、大将基馬名との関連性
を強く意識させる。が”き雑物”の、 ”玉将、金将、
飛車、銀将、竪行、香車、白駒”と、離れた場所の記
載の字を、いっしょくたんにした議論である点が、多
少気になった。また、香車に下付きでついた、”金今”
も、近世になると、極崩しの金を意図している事は、
例えば”金鈴”という熟語は、諸橋大漢和辞典に有っ
ても、”金令”という熟語は、特に見当たらない事か
ら明確だが、香車の成りの金の書体が、戦国時代等に
も、極崩しの金であるという史料は、厳密には乏しかっ
た。
 そこで、更に色葉字類抄の2巻物の、”き雑物”の
 ”玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、白駒”文
字列に現われた、表題の銀将と香車下の、”説明型の
小型文字”の付き方に、今回は着目して、冒頭の結論
に至ったものである。
 つまり、”き雑物”の ”玉将、金将、飛車、銀将、
竪行、香車、白駒”文字の中で銀将に下付きで付いた
”金”という文字が、”説明文字”であるならば、右
付きであるにも係わらず、実際には左下に書いてある
のには以下のような経緯があるはずである。すなわち、

成立した時代に、銀将が大判メンコのような形の、
左に大きく、将の字が張り出している物品というイメー
ジが、加筆者の頭の中で強かったため

と、考えられると言う事である。そこで実際に、出土
駒が、そのような形であった時代を考えると、

室町時代の中期とみられる、富山県の石名田木舟駒や、
戦国時代後期、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡駒が、イメー
ジとして浮かび上がってくる

という事になる。加えて、香車の下の説明添え字の”
金今”が、通常の色葉字類抄の説明添え字文字の書き
方フォームと同じく右下で、銀将のパターンとは変え
てあるのは、左詰めで縦に香車を書くと、

右に余白ができる、石名田木木舟の改造香車駒(?)
や、一乗谷朝倉氏遺跡の、細長香車駒の時代であった
から

と説明できるようにも思われるのである。
 以上の事から、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵と、
だんだんに、駒が小さくなった、安土桃山時代以降の
日本将棋の駒と違い、銀将は大きく、香車が細長いと
いうイメージが、加筆者の頭の中に明解に有った為に、
色葉字類抄の添え字記載規則に反して、
大判メンコのような大振りの銀将には、左下の余白を
利用して、左下に金を書くと格好が良いという考えか
ら来る規則違反の行為と、細長いから香車を左詰めに
置くと、右に余白ができるから、銀将に合わせずに、
香車の”金今”は、通常の規則で右下に書くという行
為を、

うっかり、成立年代がバレバレになるにも係わらず、
加筆者はしてしまった

のではないか。以上のように考えられるため、犯人が
江戸時代の、加賀前田藩の人間ではなく、成立は、

応仁の乱の少し前の室町時代後期から、戦国時代まで
の間だろう

と、”き雑物”のセクションだけでも、単独に推定で
きる可能性が有ると言う事に、本ブログに於いて気が
ついたという事に、なったのである。(2019/06/26)

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新安沖沈没船将棋盤(?)本物なら本ブログにとり打撃(長さん)

西暦1320年代に沈没したとされる新安沖沈没船か
らは、本ブログが9×9升目36枚制平安小将棋(持
駒有り、相手陣移動毎成り型)と推定するの、駒種類
により形態の異なる将棋駒の他に、15×15升目で、
聖目が5段目に4点有る、

日本最古(韓国主張)将棋盤(?)が、出土

している。なお”判定したのは、日本の研究者である”
とされる。今回はこれが大将棋の盤であったとすると、

本ブログの、普通唱導集大将棋の存在にとっては特に、
決定的な打撃になる

という点について、指摘する。根拠から、初めに書い
てしまおう。本ブログの

普通唱導集大将棋は、モンゴル帝国を降伏させる願い
が込められているが、東福寺難破船の乗組員には、
諜報的活動も可能と見られる、”敵国”の者が居ると
考えられるから

である。
 では、説明を続ける。
 言うまでも無く、モンゴル帝国の来襲は13世紀で
あったが、西暦1320年代の時点で、モンゴル帝国
は健在でかつ、高麗もそれに隷属したままである。
 であるから、これから交易という平和目的で向かう
のが建前の船の中で、

乗組員には、元王朝の人間も、高麗の人間も居るにも
係わらず、日本人の間だけとはいえ、モンゴル帝国降
伏を願うゲームを選択的にするというのは、相当に不
自然

である。なお本ブログでは、敵国降伏の将棋は、盤が
13升目であり、出土した盤の15升目とは違うと見
る。が、

普通唱導集大将棋も存在した上で、後期大将棋が船の
中では指されてたと仮にして、それとの違いが、
元王朝や高麗の乗組員に、判るとは考えにくい

と思う。なお、普通唱導集大将棋がモンゴル帝国降伏
の呪術目的である事は、

普通唱導集の著作を指揮した良季が、亀山天皇の
祈祷寺の一つを狙った施設の僧侶だった

という点から主に、本ブログは割り出している。
 本当に、”新安沖沈没船で後期大将棋が指されてい
た”という論が、確定してしまうと、
後期大将棋は、闘獣棋の類として、鎌倉時代には、
普通唱導集に唄われたように指されただけという説が、
正しい事になってしまい、本ブログにとって、

本ブログモデルの普通唱導集大将棋は、存在しないと
いう旨の、最悪のシナリオが確定してしまう

と、ほぼ断定できるように、私には思える。
 事態は、以前が五目並べ用の遊戯盤とされたものが、

韓国により、ほぼ最古の将棋盤と主張されるようになっ
ている。であるから、楽観視は全くできない状況

と、本ブログの立ち位置からは、認識すべきであろう。
 本ブログでも、これからもこの遺物は

”新安沖沈没船出土の、将棋盤(?)”と表記する

が将来”(?)”が取れてしまう時代が万が一来ると、

本ブログのこれまでの議論にとっては、決定的な打撃

になると、以降は、はっきりと認識しておこうと考え
ている。(2019/06/25)

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日本風土記記載の日本将棋の特徴(長さん)

安土桃山時代の日本の将棋の文献として、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄は著名である。が、日本将棋にして
も、その他の駒数多数将棋にしても、言葉で駒の動か
し方ルールは、さほどの量は書いていない。実は、
安土桃山時代より前の文献で、駒の動かし方ルールを
記載した日本の文献は、平安時代末の状況を反映して
いるとみられる二中歴の将棋まで、まとまった物は、
見当たらない。
 一部で良ければ、南北朝時代の猛虎~盲虎への転移
期に、中将棋の盲虎のルールを記載した、神奈川県鎌
倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土
中将棋木札が有るには有るという点を、本ブログでは
再三、紹介して来た。
 ただし、世界に目を向けると、水無瀬兼成が、将棋
纂図部類抄を著作したのと同じ頃に、中国の明王朝が、
日本風土記の5巻目で、日本将棋のルールを詳しく説
明している。日本人が中国シャンチーを、どの程度把
握していたものか不明な時代に、中国の方では、日本
将棋の内容を、完全に掴んでいた事が判る、貴重な文
献である。
 今回は、その日本風土記の日本将棋の記載に、何ら
かの特徴があるかどうかを論題とする。
回答を先に書く。

ほぼ完全に、今の日本将棋と同じもの

だったようである。ただし、千日手の記載や、成り条
件に関する細則、ニ歩等の禁手が書いて有るようには、
私には、今の所読めない。
 では、以下に説明を続ける。
 当然ながら日本風土記は、中国語で書いてある。
レ点や一ニ点、また私の苦手な”上下点”つきの漢字
だけが並んでいる、海外文書である。当然、中国語を
正式に学習した事の無い

私には、正確には読めない。

ただし、古事類苑30で、漢字を日本のと同じにして
くれているので、書いてあるのが、何についてなのか
程度は、何とか特定できる。以上の状態で、考察して
みる。だから、以下の情報に確度は無い。
 まず、日本人のする日本将棋のルールと、説明の、
し方が違うのは、

用語で”河界”が出てくる点

のようだ。3段目の星、聖目の有る線を、細いが日本
将棋盤の河界と見ているらしい。そこを超えると、
角行が龍馬、飛車が龍王、銀将、桂馬、香車、歩兵が、
金将に成る旨が書いてある。
 前段の文書の後半の所で、西暦1592年時点で、
持ち駒ルールも有るし、入玉による引き分けにも言及
している。”どんどん行け行け、早く成れ成れルール”
に、日本の小将棋が、組み立てられている事に関して、
中国人は早くから、着目していたと言う事であろう。
だから、

中国人に、日本の将棋の入玉ルールが意識されている
という事は、アジア大陸の側でも、日本の将棋の故郷
についての何らかの伝説が、安土桃山時代の時点で、
未だ残っていたからかもしれない

とも私は感じられる。
 入玉引き分けの記載は、前半の文書が終わる部分に
有り、そこに続いて後半に、駒毎に、駒の動かし方ルー
ルと、成り、成り駒の龍王、龍馬についての駒の動か
し方ルールが、箇条書きされている。が、

桂馬が象の動きになっていて、間違っている。

ただし、前段の本文で、”日本の桂馬は、中国シャン
チーの馬の動き方と同じく、斜め2升先行きで、ただ
し後退できない点で違う(横にも行けない点に、言及
が無い)。”と書かれている。中国シャンチーの馬が、
日本の安土桃山時代に、象の動きであったとは、とて
も考えられないから、

斜め2歩先と桂馬跳びとを、ごっちゃにする傾向が、
中国伝来かもしれない

と、推定もできる。なお前半部に、塞馬脚が無い事が
書いてあるようだが、いかにも中国シャンチーの国と
いう感じだ。
 この時代には、初代の大橋宗桂が活躍していたので、
遊戯史学会では少し前まで、日本将棋の安土桃山時代
のルールの、現代との違いは、余り意識された事が無
かった。しかしその後、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、駒の動かし方ルールの表記で、幾つかの疑問点が
浮かぶと、若い頃の大橋宗桂の存在は、遊戯史界では
影が薄くなってしまったようだ。つまり大橋宗桂(初
代)や本因坊算砂の存在は要素の一つとされずに、日
本将棋は今と安土桃山時代とで、全く同じかどうかが
疑われるようになって来たという事である。
 だから中国語で、読むのが困難な形式の日本風土記
は、以前にはほとんど議論の対象にならなかったのだ
ろう。が、水無瀬の将棋図と、時代は同じという事を
思い出しながら、文字で書かれた証拠という意味で、
読める範囲で、日本風土記の日本将棋の記載を追って
みるのが、安土桃山時代時点の日本の将棋のルールを、
詳しくチェックしなければ、話が進まない今では、そ
うするより仕方が無いという事になって来ているよう
に、私には思えている。(2019/06/24)

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後期大将棋金成。酔象、麒麟、鳳凰3枚水無瀬兼成から(長さん)

本ブログでは前に述べたように、神奈川県鎌倉市の
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の鳳凰と香車は、成立時代
が鎌倉末期との調査結果であるとの認識をしている。
そして、これらの史料は、それと時代が大きく違う
ものの安土桃山時代の水無瀬兼成、将棋纂図部類抄
の後期大将棋の”大将棋、成りは酔象、麒麟、鳳凰
3枚のみ”の類のルールの将棋用であろうと、今の
所考えている。
 他方栃木県小山市神鳥谷曲輪の裏一文字金角行駒
と、色葉字類抄2巻物、尊経閣文庫蔵本八木書店の、
第一分冊末備、大将基馬名のそれぞれの成立時代の
本ブログの推定による、南北朝時代から戦国時代ま
では、普通唱導集から後期大将棋にかけての大将棋
についての

全く違う、成り金の多い成りパターンが、鎌倉駒と
将棋纂図部類抄の時代間にすっぽりと挟まっている

という、史料の解釈である。
 従って、本ブログの解釈では1565年成立とみ
る色葉字類抄の大将基馬名と水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の間で、300年に近い先祖返りが、起こら
なければならない事になる。この先祖返りは、

誰がしたのか

を、今回は論題とする。回答を最初に書く。

水無瀬兼成がした。

理由は、

彼の六将棋の作駒の、金成りの書体を4種類以上で
はなくて、3種類に留めたかったので、諸説のうち、
後期大将棋に金成りの無いパージョンを、彼が選択

したと、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 水無瀬兼成は、基本的に将棋史の研究家ではなく
て、将棋駒作りの専門家である。従って後期大将棋
に関して、安土桃山時代の末時点で、複数のバージョ
ンが、共存して知られていたとしたら、問題なく、
自分の作った道具用には、ユーザーが便利に使える
ような、特定の一つのバージョンを、躊躇無く選択
するとみられる。
 今簡単のために、歩兵の書体について考える。
 将棋纂図部類抄を見れば判るが、日本将棋につい
ては、省略されているが、現在の書体パターンすな
わち、歩兵は”と金”に成るように、伝来している
水無瀬兼成駒を証拠史料として作ったとして、中将
棋は、成り歩兵の書体を日本将棋の香車の成りで、
摩訶大大将棋の成り歩兵の書体を、日本将棋の桂馬
の成りで作るように記載している。

こうする事によって、例えば、豊臣秀頼用に作成し
た駒が、将棋種間で全部混じっても、各駒のより分
けが、しやすいようにした

とみられる。なお、泰将棋が中将棋と同じ書体にな
るとみられるが、それは仕方なかったのであろう。
たぶん泰将棋の駒は、各駒共に、彼の中将棋の作駒
にほぼぴたりと、豊臣家に納付するときに、合わせ
たのだろう。あるいは、将棋纂図部類抄には書いて
ないが、豊臣秀頼等に納入する泰将棋では、歩兵の
成り等を、将棋纂図部類抄では使用していない、
日本将棋の銀将の成りに、したのかもしれない。
 そこで、実際には水無瀬兼成は、後期大将棋の歩
兵は、不成りにしたとみられるが、仮に、金成りの
ローカル・ルールバージョンを選択してしまうと、

金成りの書体が、もうひとつ要る

事になる。しかしながら、
桂馬の成りの書体と、銀将の成りの書体は類似だか
ら、これを使って泰将棋を中将棋の香車成り書体に
したとしても元々不便だし、とにかく、いろいろ有
ると煩雑なため、成り金の書体の種類は減らしかっ
たに違いない。そこで、

水無瀬の時代にはまだ、色葉字類抄の大将基馬名の
後期大将棋のように、金成りの多いバージョンも知
られていて混乱はしていたが、敢えて鎌倉末型の、
金成りの無いバージョンを、先祖返りで故意に選択

したと私は推定する。なお、こう推定できることは、

”仲人。不行傍、立聖目内(で)成り酔象。”

などと、すっトボケて、西暦1200年~1290
年までの、平安大将棋から普通唱導集時代の大将棋
時代の、”成りルールの考え方”を将棋纂図部類抄
に、彼が記載していると疑われる事から、充分に類
推できると私は思う。つまり、先祖伝来の口伝等で、
水無瀬兼成は、

①西暦1200~1290年、②鎌倉時代末、
③南北朝から戦国時代の、大将棋系の金成りパター
ンの変遷は、全部知っていたと推定できる

という事だと思う。
 このうち②が、作った将棋道具の管理上の使いま
わしという点で、最も優れていた。ので、彼は②の、
後期大将棋に金成りの無いパターンを、完全に、
何がどうなっていたのか、判っている上で、故意に
選択しているのではないかと、私には大いに疑われ
る。つまり、

近世に入る少し前の、後期大将棋に成りの少ない
パターンが成立したのは水無瀬兼成個人によるもの

と、今の所、本ブログでは考えるという事である。
 なお、こう考えると、水無瀬兼成は、本当に西暦
1443年成立とされる、曼殊院の将棋図を、正し
く写書したのかどうかが、疑問という事になって来
る。が、本ブログでは次のように、敢えて見ておく
ことにしたい。すなわち実際の史料が見当たらない
ため、少なくとも私には

仔細不明だが、西暦1440年代に成立の曼殊院の
将棋図の後期大将棋については、成りの金のルール
群を、どうにでも解釈できるような、何らかの記載
の不確定性が元々存在しているのを、水無瀬兼成は、
それを精読して、正しく認識していた

と推定すると言う事である。
 ちなみに、江戸時代の将棋書は、元々水無瀬作と
本ブログが見る、泰将棋を紹介したかったので、
江戸時代初期の将棋書作家が、色葉字類抄二巻物4
冊物第1分冊末、”大将基馬名”の成りの多い、
後期大将棋を、たとえ知っていても、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄を、ほぼコピーするのが目的であっ
たために、江戸時代の将棋六種の図では、水無瀬の
後期大将棋ルールを、しかたなく選んだのであろう。
 そのうち、”成りは酔象、麒麟、鳳凰三枚ルール”
も曖昧になり、江戸後期に後期大将棋は、中将棋の
成りを援用されるように、更に変わってしまった。
 つまり、近世の大将棋のルールの変遷は、幻の
ようにボンヤリとした記憶になってしまった大将棋
が、ほぼ形式的に、少しずつルールを変化させていっ
た姿が、現在では見えているにすぎないと、私は今
の所、推定していると言う事になる。(2019/06/23)

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なぜ大将棋は西暦1290年~鎌倉末金成を減少させた(長さん)

本ブログによると、西暦1290年頃までは、普通唱導集
大将棋の成りに、二中歴の”誤写末備十文字”のルールが
適用され、一段目と歩兵列、反車と仲人が金成りだったと
推定されている。なお、酔象が太子、麒麟が獅子、鳳凰が
奔王に成るのは、いつもそうだったと、今の所は見なして
いる。そして、西暦1333年の鎌倉最末期の少し前程度
に、鶴岡八幡宮境内出土駒の不成りの香車と、楷書の奔王
に成る鳳凰が、出土している事から、ずっと後代の、
水無瀬兼成が将棋纂図部類抄で記した、”成りは酔象、
麒麟、鳳凰の3枚”に近い、普通唱導集大将棋鎌倉末型の
成りパターンになったと、基本的に考えている。すなわち、
鳳凰の成りが、”楷書”の奔王という字なのは、成りが、
奔王に成る鳳凰についてだけ裏が、無地なのか、裏をオモ
テと誤認しており、その駒は鳳凰なのかに、駒を箱から取
り出して盤に配列するときに、この駒一枚にだけ注意すれ
ばよく、駒並べに苦労が無いので、楷書だったと解釈した
からである。よって普通唱導集大将棋の成りは、
西暦1290年から1333年の間に、成り金の数につい
ては、減少した事になる。そして本ブログでは、少なくと
も今まで、その理由に言及した事は無かった。
 そこで今回は、この鎌倉時代後~末期の、大将棋に於け
る成り金数の減少の、原因についてを論題とする。
 回答を最初に書く。

富豪気分に浸りたいので、貴族が普通唱導集大将棋の道具
を所持するだけの傾向が強まり、9升目36枚制標準平安
小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随時型)の、下世話
だが、自分も一応所持している将棋具と、駒を区別したい
ので、大将棋については、将駒等が不成の用具が好まるよ
うになったため

と考える。
 では、以下に説明を加える。
 普通唱導集大将棋は西暦1300年の時点で、急戦調で、
定型の定跡で、勝負が付くと言う事が明らかになっていた。
 そのため、将駒や桂馬が敵陣で成って活躍するケースは
減少し、香車、反車も金成りしたとしても、成り麒麟の
攻撃手だけが、終盤指されるため、香車、反車が成った
効果はほぼ無く、結局

一段目駒と反車が金成りする必要が、ほとんど無くなった

と見られる。そのため少なくとも、一段目駒等が金成りす
る西暦1290年タイプの普通唱導集大将棋の将棋駒具に、
それをしない、鎌倉末型に対する優位性は無くなった。
 そもそも普通唱導集大将棋が、このような状態だったか
ら後深草天皇を含む貴族も、鎌倉末には大将棋だけでなく、
9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動
の毎に随時型)用の道具を、両方持つようになったと考え
られる。
 すると、金将、銀将、桂馬、香車が、両方引っ張り出し
たときに、ごちゃ混ぜにすると、大将棋の駒か小将棋の駒
が判らなくなったのだろう。元々大体、大将棋の駒の方の
金銭的価値が、それを持っている事による優位性が有る分
大きかったので、

大将棋の駒は、小将棋の駒に紛れて消えてしまわないよう
にしたかった

に違いない。そのためしばらくすると、銀将、銅将、鉄将、
桂馬、香車、反車等が不成りのタイプの大将棋具の

所持が、貴族の間で流行る

ようになったのではないか。ルールの変更は、それに引っ
張られて起こったのかもしれない。つまり、普通唱導集大
将棋の定跡化した指し方からすると、一段目駒等は金成り
でも不成りでも良く、道具としては不成りの方が、9升目
36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随
時型)も指すようになった、上流階級にとっては、管理上
その方が良かった。そのためにルールの方が、変化してし
まったのではないかと言う事である。ちなみに鎌倉時代中
には、いわゆる麒麟抄の”金は極崩しで書く”も、公にさ
れていなかったと見られる点にも、注意する必要がある。
小将棋具として、今で言う市場等には、崩しの余りキツク
無い将棋駒も、恐らくかなり出回っていたからであろう。
なお、出土駒には成立年に誤差があるので、今の所”はっ
きり矛盾する史料が無い”という程度しか判らない。
 なお、以上の考えからすると、中将棋が発生して9升目
36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随
時型)道具の、貴族の所持率が再び減少すると、状況が変
わり、金成りが復活し得る事をも示している。更に、
普通唱導集大将棋の最末期型、普通唱導集大将棋南北朝型
が発生したのは、デザイナーの、漢字に対する博識さが原
因だけでなく、それもあったのかもしれない。
 無論、現時点で以上の事を、具体的に史料を挙げて実証
する事は、とても困難だ。

状況を説明するための、以上は暫定的な説

という事に、一応留めておきたいと、ここでは考える。
(2019/06/22)

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2004年奈良県旧大乗院庭園出土、行軍将棋の謎(長さん)

奈良文化財研究所の木簡データベースに、西暦2004年
の発掘で発見された、明治時代の現在の旧大乗院庭園、当
時の飛鳥小学校跡とみられる遺跡から出土した、行軍将棋
の駒と見られるものが約20個、まとまって紹介されてい
る。共出土した木製遺品から、通常の日本将棋の駒を、
小学校の児童ないし、共出土木製品より”事務”関係者が
改造したものと推定されるとの旨、奈良文化財研究所紀要、
西暦2005年の118ページ付近に、共出土遺物と共に
紹介があるようである。
 木簡データーベース上に、内容として、

・角行・中将
・□・大□〔尉ヵ〕
・□□・少将
・□□〔金将ヵ〕・中
・□□・少□〔佐ヵ〕
・□・大佐
・飛車・□〔将ヵ〕□
・角行・〈〉
・金将
・□〔金ヵ〕将・□○
・銀将
・□□〔香車ヵ〕
・□□〔少佐ヵ〕
・少佐
・□・中尉
・□□・□□〔佐ヵ〕
・桂馬・中尉
・□・□〔中ヵ〕

の18枚程度が紹介されていて、ものによっては、画像も
ある。近代の将棋の駒が材料のようで、片面を手書きで、
行軍将棋に、作り変えているという、印象のものである。
 結論から述べると、

この遊具は、いまの行軍将棋には使用し辛い。最上段の
角行・中将と下から2段目の桂馬・中尉駒からみて、将位と、
尉位とで、裏から見て大きさに差があるので、駒の種類が
おおまかだが、判ってしまうから

である。では、以下に説明を加える。
 駒によるようだが、形を行軍将棋のトンガリヅンドウ五
角形に、切り替えようとした形跡の有るものも、確かに一
部にはあるようである。
 なお、飛車の車ははっきりしており、裏が大将と書かれ
ていても、表が”プロの駒師が書いた”飛将である可能性
は少ない。つまり、駒群の中に、天竺大将棋や大局将棋の
駒が混じっている可能性は、ほぼ無い。よって、本ブログ
の本流の議論とは、余り関係が無い、近代の遊戯具用の
駒の出土のようである。
 しかし、本ブログの管理人も、行軍将棋のやり方は、さ
すがに知っているので、

そもそも歩兵駒だけで、道具を作らなかった経緯が謎

だと感じられる。大きさを揃えて、裏から何の駒だか、判
らないようにするのが、行軍将棋の駒の基本だからだ。作
者が小学生だったから、そこまで思考できなかったという
説を、私は否定はしない。しかし、

明治時代当時の奈良県では、今の行軍将棋とは別のルール
のゲームが存在しなかったと完全否定できるわけでもない

ように、この遺物を見て私は思う。
 付近の年寄りに聞いても、経緯が判らないものなのか。
 近間の行軍将棋関連の遊戯史研究家の今後の調査結果に、
一応期待したいものだと、私は思っている。(2019/06/21)

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