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小将棋。飛車・角行の導入は持駒ルール成立の後(長さん)

本ブログでは、普通唱導集の小将棋は持駒ルールとの
立場を取っている。鎌倉時代中~後期頃から小将棋に、
持駒がボツボツと発生したというイメージだ。それに
対し”『桂馬を飛ばして銀と桂馬の替える』は曖昧だ”
と見る増川宏一氏は、赤旗へ2018年秋に載せた文
では”15世紀末の、宗祇作の児教訓の将棋の頃から、
持駒ルールが有る”としている。
 結論として宗祇作の児教訓の将棋は、普通唱導集の、
小将棋記載より後なので、増川氏の児教訓の読みは
正しいと、本ブログでは見る。そして更にこの著作物
には、この時代の小将棋には飛車・角が入っていると
取れる

形跡が無い

点について述べる。以下に説明する。
 群書類従の311巻にしか、私は発見できないが、
漠然とだが訳すと、問題の史料は次のような意味だろ
う。

碁、将棋、雙六をやってみると、それらは
正しい事のはっきりしないもの、あるいは噂のような
ものである。つまり、
局面を、ちゃんと晒したとか晒さない、
あるいは、取った石の数をご魔化したとか言った争い
になる事が、往々としてある。そのため、
大声を張り上げて、
・・・(不明)・・誓文を書き、
碁石をちらかしては雑談をし、
そのうち勝った負けたで、互いに腹を立てるようでは、
そのような争いに意味は無い。
将棋盤に棋士が互いに向かい合って、
”その時がまさに香車(今日じゃ)”とか言いながら、
やがて詞を・・(不明)・・
金(禁止?)を使った手をもっともらしく指して(?)、
襟を正し、
わいわい言いながら、お互いにからかい合っている。
また半端者の人物にまで、玉を詰められてしまって、
歩兵(不平)事を、とやかく言って見せたりもする。
負けそうになってから、いつも、
王手(また合おう手(?))とか捨てせりふを残して、
立ち去ってしまう有様だ。・・・

 これが持駒ルールが有るという証拠だと言う点に
ついては、持駒ルールは、局面を完全に見せないとい
う部分を、手で持ち駒を隠すと解釈すると、その部分
に証拠が書かれてるとされている。その直後記載の、
碁石のごまかしは、吉備真備大臣入唐絵巻の、中国の
碁の名人との、勝負の下りをイメージしたものであろ
う。
 日本の将棋の類で、局面を完全に判らなくするには、
手の中に持っている駒を、知らせないという方法しか
ないだろうから、たぶんこの解釈で正しいと本ブログ
でも見る。
 さて更にこの部分には、そのあと将棋用語や、特に
駒名が幾つか出てくる。そこで今回の論題の中心点は、
むしろそちらの方という事になる。つまり、

香車、金将、王、そしてもしかすると歩兵が、この、
小将棋には含まれるようだ。

なお、歩兵は本ブログの説であり、虫食いか何かで、
何が書いてあるのか、この部分は判って居無いようだ。
 が飛車と角行が、虫食い部分も含めて、入るとみら
れる文書の中の場所が無いように、少なくとも私には
見える。むろん、

葛西城跡(金将、銀将だけ出ている)の出土駒ように、
本当はそれらがある

のだが、児教訓では、たまたま入れ無かった可能性も、
全く無いとは言い切れないのかもしれない。話が脱線
するが、東京の葛飾区青砥(あおと)の、葛西城遺跡
の出土駒に飛車・角行が有りそうなのは、銀将の成り
の金の書体が、金将の金と、ほぼ同じで有る事が判り、
全の横棒が一つ多い今の銀将の成り金よりも、滋賀県
の観音寺城下町遺跡の銀将駒と、同じ類だというのが、
本ブログのそう見る根拠である。むろん普通の、成金
書体とこれは違うのだが、観音寺遺跡の出土駒に飛車・
角の類があるので、葛西城駒にも、本来飛車・角行は
あったと推定するのである。
 ともあれ、この児教訓については、推定1500年
頃とみられる、飛車、角行の、小将棋への導入時期に
成立がかなり近く、石名田木舟駒同様、その点でも
重要な将棋の史料と、当然見るべきだろう。
 何れにしてもこの史料は、飛車、角行の有無という
問題に関しても、石名田木舟出土将棋駒の様子とも良
く有っている、貴重な内容だと私は思う。(2019/06/01)

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