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普通唱導集大将棋2017は相互入玉で無く駒枯引分け(長さん)

大将棋は日本将棋と異なり、持ち駒が元々無いので、
相互に玉将を、相手陣に突入させても、持ち駒で残
りの相手大駒の攻撃を、かわす事は難しい。その為、
中将棋等、他の取り捨て将棋同様、相互に玉将が、
相手陣に突入したら、勝負を付けるのが難しいとい
う事は、起こらない。よって、日本将棋のように、
相互入玉による、引き分けルールは、不要である。
 しかしながら、持ち駒が無いので、激しい戦いに
より、攻め駒が相互に消耗してしまうと、勝負が付
かない、駒枯れという状況が発生する。
 大将棋と類似の中将棋では、江戸時代の将棋書に、
”駒枯れの場合、金が残っている方が勝ち”との旨、
記載した文書がある。中将棋では金将を初め、最下
段の小駒も走り駒に成るので、一方に玉将と金将、
他方に玉将一枚が残ったケースは、実質前者に玉将
と飛車、後者が玉一枚と同じである。だからそのケー
スは、前者が後者の玉を、手数を掛ければ詰むので、
飛車も残った方が勝ちとの旨が、記載されているの
である。
 これを一般化し、近代の中将棋の将棋文献である
”中将棋の指し方”では、手数を掛けると、一方が
他方の玉を詰む場合、前者が勝ちの旨が記載されて
いる。
 が、駒が高々金将に成るだけのケースの多い大将
棋では、

詰まないケースが多いので、中将棋のやり方は不便

である。
 ちなみに、本ブログ版の、
普通唱導集大将棋2017年タイプも、大将棋一般
の性質を引き継いでいる。初期配列と、日本将棋と
同じルールで、相手陣4段目を基準に成る、成駒の
一覧を示すと、以下のようになっている。

普通唱導集2017駒枯.gif

 本ブログの管理人は、十年位前から、大将棋の
駒枯れ引き分けルールは、攻撃駒が無くなった時点
で、残りの守り駒の残数の差を、6枚を基準にして、
それ以下で有るケースは、引き分け程度の、

簡易ルールにすべき

ではないかと、常々考えてきた。勝ち負けが決まる
のは、小駒の残り枚数が、玉将や太子も入れて、

7枚以上の場合との意味

である。
 上の図で、攻撃駒は、黄色の枠で囲った中段の駒
の片側プレーヤーについて21枚づつであり、残り
の小駒は、割合で61%前後と相当に多いが、これ
らはどれが有っても、攻撃駒は壊滅とみなし

守りの駒だけになったら、駒枯れ規定で、指し直す
かどうかを決める程度で良い

のではないかと考えている。なお、枠で囲わなかっ
た小駒を正確に、全部が包含するように表現すると
すれば、例えば、以下のような表現で良かろう。

元駒か成った後のどちらかかが、隣接升目に動くだ
けの駒。

 なお、6枚差で引き分けなのは、多い側に公平な
のかどうかだが。

以前調べた限りでは、尤もらしそうだが証明は困難

だとみられた。ただし、6枚差という6という数字
は、日本将棋の、相互入玉規定の引き分け臨界点数
が24点であり、大駒同数の2枚づつなら、小駒が、
劣勢側14枚+飛車+角行+玉将の17枚、優勢側
20枚+飛車+角行+玉将の23枚で6枚差なので、

日本将棋の相互入玉規定の枚数差の規定に合わせた

事に、一応なっている。
 日本将棋は相互入玉規定、普通唱導集大将棋20
17は、駒枯れ引き分け規定と、意味が少し違うの
で、完全に同じにせず、

指し直しするとすれば、枚数が同じなら先後手を
交換するが、差が有る場合、多い側に手番を決める
権利を与えても良い

とすれば、文句は出にくいかもしれないと私は思う。
 何れにしても、このゲームを、大駒が消失した状
態で、

だらだらと続ける必要は無い。

それではゲームを終わらせるのに、たいへんな手数
が掛かってしまい、本来の持ち味は出ないやり方
だと、私は理解している。
 ”麒麟を取られないようにお互いに、注意して指
してください”と、言う程度しか、棋力がさほど無
い私には、アドバイスできない状況と、言う所だと
思う。(2019/07/31)

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なぜ日本の将棋の伝来元論で独法では中国へ偏重したか(長さん)

今世紀初に書かれた、紙がだいぶんくたびれた通俗的
な人類・文化に関する、日本の某独立行政法人が実質
責任著作の通俗成書を読むと、日本の将棋の伝来元は、

中国に決めつけ

の論が、稀に巾を利かせているように、本ブログの管
理人には認識される。むろん、本物の中国伝来派の将
棋史研究の専門家は、独立行政法人の内にも外にもお
いでだが、個別に専門の将棋史研究者が、持論を、所
属の独立行政法人名で、権威つけたような格好づけを
する例は、まず見当たらない。
 何故、論壇派閥の一つでしかない、”日本の将棋の
伝来元は中国”論が、定説であるかのように、日本の

独立行政法人が責任編集したように取れる成書の中で、

将棋史界では余り名を聞かない、某独立行政法人内の
研究者とみられる者が、これほどまでに、中国伝来説
の正当性を、特異に強調した例が散見されたのか。
 ここでは増川宏一氏の”昔ながらの”論には、必ず
しも賛成せずに、以下原因を思考してみる。ちなみに、
東南アジア伝来説の代表である、ものと人間の文化史、
将棋Ⅰ・Ⅱや、将棋の来た道等が出版されたのは、前
世紀後半の事である。
 すなわち増川宏一氏の当時の論法に、本ブログが
現在に、そのままスライドさせて賛成できないのは、

増川氏の成書が、現在大いに普及しているにもかかわ
らず、そうだから

である。
 つまり、増川氏が、将棋Ⅰを著作した頃のように、
”本当に中国伝来派が強い”中で、”中国伝来説が定
説”と述べられている訳では現状無く、実際には

現在、将棋の伝来元の説については戦国時代である

訳である。だから増川氏の昔の論法は、今では適用し
にくいとの意味である。
 では、最初に回答を書く。
人類・歴史文化系の系統の特定の独立行政法人内の
研究者が、文科系の高等教育機関を卒業等した人間の
集まりであるため、理科系学問の老舗である、

天文学史の常識から、よほど遠い位置に居るから

と考える。
 これは日本の将棋の独特な性質が、啓蒙者自身に
理解できていないための、”村社会の無理筋論”の
一般大衆への、好ましくない押し付けの、まかり通り
の例である考える。
 では、以下に詳細に述べる。
 天文学史に於いて、中国の唐代の玄怪録の時代、つ
まり、西暦825年頃から、奈良県の興福寺出土駒
(第1期)の時代、つまり西暦1058年の間は、

イスラムの科学が、ユーラシア大陸を制覇していた

と考えるのが、天文学史に於いて常識と理解している。
 つまり、”欧州は中世の暗黒時代の最中にあって、
科学・技術は衰退し、それを継承したのは、イスラム
帝国・アッバース朝その他の、イスラムの文化を国是
と掲げる強国の中の賢人によってであった”というの
が、天文学史に於いては常識との意味である。なお、
この状態は、概ね世界史的には

5世紀から始まり、14世紀まで続いた。

 だから、この頃が概ね伸長期である、世界のチェス・
象棋類は、全部イスラムシャトランジの特徴を継承し
ている。たとえば、イスラムシャトランジの発生以降
成立したとみられる、現存するゲームでは、

日本小将棋以外は、最下段格の対応駒種(チャンギの
漢と楚駒は2段目配置だが、最下段格駒とする)が、
イスラムシャトランジと、3種以上、駒の動かし方
ルールが一致

するという、共通の特徴を有している。むろん、某
通俗書を著作した、日本の独立行政法人の人類・歴史
文化系研究者が、日本の将棋の伝来元だと、決め付け
ている中国の象棋も含めて、その特徴を持っている。
つまりは、

中国のシャンチーだけでなく、東南アジアの象類、
西洋チェスも、皆そうだと言う事である。玉将しか、
同じルールの駒が無いのは、日本の平安小将棋だけ

だ。つまり、ユーラシア大陸では、テレビ電波が届き
にくいに例えられる、よほどの山奥で無いと、イスラ
ムシャトランジに、似て居無い将棋や象将棋を、敢え
て10~11世紀に指していたとは考えられない。そ
れほど、イスラム文化は、その当時は今の西洋文明と
同じく最先端であり”イスラム帝国の文化なら、取り
入れる必要のあるものは、全て模倣すべき”という時
代に、世界のチェス・将棋・象棋類は伸長期だったの
である。
 他方イスラムシャトランジに、似て居無いチェス系
ゲームは、歴史的にも日本の将棋と、玄怪録の宝応将
棋の2つだけだ。
 玄海録の岑順=小人の戦争は、亡霊の出てくる怪奇
小説である。一般に悪臭、騒音、余計な所まで照らす
夜間照明の弊害は、都会地の場合多いから、その情景
の雰囲気を作り出すのに、大都会の遊戯は不向きだ。
従って宝応将棋はこの事から、中国の都、例えば長安
で、”主に指された将棋”ではなく、アジアの秘境と
言った、山奥深い所で指された将棋ゲームを、著者と
される

牛僧儒が、彼の個人的な趣味で、将棋を代表するゲー
ムであるかのように、怪奇小説の中で記述した

と考えたほうが、むしろ相当に、尤もらしいしろもの
なのである。ちなみに小説の上での舞台は、”呂氏所
有の、古い山荘での出来事”と、少なくとも、玄怪録
の岑順の日本語訳ではなっている。以上のような、理
屈に気がつかないのは、特に、アッバース朝存在下の
イスラムの科学が、中世ではユーラシア大陸に於いて、
影響力が非常に強大であり、中国の宋王朝なども、積
極的に、惑星暦等で、それを取り入れていた、ほどだっ
たという事実を知らないほど、問題の某独立行政法人
の成書の著作メンバーが、恐らく総じて

よほど、天文学史に疎いからだとしか、本ブログの管
理人には考えられない。

 ”『日本の将棋中国伝来説が現在定説』というよう
な事実でない主張が、独立強制法人の組織の全体には、
実際には知らされないまま、世に出されていた”と、
反論すると言うのなら、

責任者は、再発防止の対応措置を取るべきなのが当然

だろう。
 それに対して、”解明:将棋伝来の謎”の著者の、
松岡信行氏の言う、”日本の将棋など、どこから来た
とも、とうてい考えられない”という論は、常識的に
見て

松岡信行氏の論が正論

だ。将棋が伝来した頃、中国を含めてユーラシア大陸
は、イスラム科学・技術文化の一色だったのであり、
イスラムシャトランジ的でない、平安小将棋が定着し
ているという事は、東南アジアの海端でも、南蛮人
渡来でも無いと、個人的に私は考えるのだが、人の行
き来の盛んな中国の都付近の中原を、仮に中国と言う
とすれば、

日本の将棋の伝来元は中国とは一見して考えられない

と見るべきなのは、充分に確かだと私は思う。
 以上のように思考すると、増川宏一氏の言うように、
以前ならそうだったのかもしれないが。今時中国文化
の思想としての信仰者など、概ね定年退職されて居無
い。そんな時代に、”日本の将棋の伝来元、中国中原
からの使者定説”との可能性の低い論が、日本の某、
独立行政法人内だけで定説とされているとみられるの
は、中世のユーラシア大陸における、科学・技術文明
の歴史を、従来より強調して論じた天文学史に疎い、
理科系でない文科系の人々が、日本の特定の一部の独
立行政法人内の人類・歴史文化系の研究分野のポスト
を、現行完全に占めているのを写している。つまりは、

理科系の人達を排除する仕組みを、完全に形成してい
たのが、根本的な”行政的な問題”だった

と考えた方が、将棋史界全体がそうだと考えるよりも、
より尤もらしいのではないか。
 増川宏一氏や、大内延介氏の著作が、それなりに現
行普及しているにも係わらず、某独立行政法人著作の、
通俗人類・文化系研究の啓蒙書のみで、偏った記載が
散見されるというのが現状なのであるから、増川氏が、
盛んに批判を加えていた時代と違って今では、

正常でないのは、日本の特定の独立行政法人内の、
しくみの中だけでの話だ

と考えるべきなのではないかと、私は見るのである。
(2019/07/30)

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初期横行位置で108枚制130枚制の”受”弱陣の訳(長さん)

普通唱導集の大将棋の唱導唄の、第2節に合致する
ゲームモデルを考えるというカテコリーの話をする。
表題は”仮番②”とする横行位置受けのケースにつ
いて述べている。が本論では、”仮番③”とする
歩兵列位置受けのケースまで、更に突っ込んで、
以下考察する事にする。
 仮番②の件から説明する。
 以前述べたように、普通唱導集の大将棋の唱導唄
の第2節には、仮番で①として、標準の

①仲人と嗔猪が腹を合わせた配列に加えて、桂馬を
昇らせ、仲人位置を支える

と、陣の仲人段(歩兵段+1)の地点で、相手の
定跡の”斜め走り駒5枚攻撃”を、ムダに出来ると
の旨が書いてあるとみられる。そこで、前に、この
防御方法の別解として、言うならば、

②横行退避し捨て駒置き、小駒(108枚制鉄将、
130枚制嗔猪)と横行で、元横行位置を支い得る

という、陣の歩兵段の1段下(歩兵段-1)に、引
き寄せる受け方がある点について、言及した。
 そして、その優劣を比較した結果、

②ケースには、受け側が1枚駒損になる

との結論について、13升目108枚制
普通唱導集大将棋(本ブログ版、西暦1290年
タイプ)に関して述べた。
 実は、歩兵段下の、走り駒列が、中央より袖に向
かい、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行まで同
じでかつ、中間段が5段で同じである、

15×15升目130枚制後期大将棋と普通唱導集
大将棋(本ブログ版、西暦1290年型)とで、状
況が、ほぼいっしょ

である事が、その後の調べ(詳細省略)で本ブログ
の管理人によって明らかとなった。ただし、②の陣
形を取った側の、玉守りの陣が、後期大将棋でだけ
象虎銅豹型であり、玉周辺も堅いため、破られても

後期大将棋では、勝敗には無関係に近いとみられる。

 以前述べた所まででは、②ケースにだけ、受け側
が1枚駒損になる

原因は謎

とされた。その後、よく調べた所、①の受け方と、
②の受け方とで、②だけ受け側が1枚駒損になり、
優劣がつく理由は、

②では、仲人の所で雑に一旦受けるため、

攻め側に制圧されたときに制圧駒が、更に味方の駒
を1枚余分に取り、相手駒の1個についてだけだが、

2枚替えが発生

している。その為、その分、1枚だけだが受け側の
駒損になるのが原因だと判明した。
 そして以下が重要だが、

13×13升目盤に、びっしり108枚駒を並べる
本ブログタイプの普通唱導集大将棋では、①の受け
方に、性能で匹敵する、防御の駒組を更に別に考え
るのは、困難だ

という事が、以下のように判ったのである。今回は、
15×15升目130枚制後期大将棋についてだけ、
陣内の駒の分布がスカスカなため、配置替えし易く、
①の普通唱導集の大将棋の第2節の唱導唄の防御陣
と、性能の完全に同じ、更に別の第3の防御陣形と
して、以下の説明の”仮番③”とする守り方陣形が
有る、という点について、更に突っ込んで報告する。
 そこで以下、仮番③の件について説明する。
 つまり、普通唱導集の大将棋の唱導唄が、仮に、
15×15升目130枚制の後期大将棋を唄ってい
るとすると、

その第2節に、”唯一”との性質が無い事になる

という事である。
 最初に、陣形について、どうなるのかを述べる。

③”銀、鉄、悪狼(ただし108枚制の場合は、
猛(虎)、鉄、嗔猪に取り替える。)が3枚並び、
竪行先歩兵は支え得る。”

という唱導唄に対応する、ちょうど歩兵の段(歩兵
±0)を支える方法が、

15升目の大将棋でだけ有効

なのである。
 前置きが長くなったが、以下に③の説明を続ける。
 すばり示すと、そのような陣形は、15×15升
130枚制の後期大将棋に関して、次のような形で
ある。

後期大将棋引付受2.gif

上の図で、後手は①の普通唱導集の大将棋の唱導唄
第2節の受け方、ただし桂馬は悪狼に交換している。
それに対して先手が、③”銀、鉄、悪狼3枚並び、
竪行先の歩兵は支え得る。”で受けている。なお、
両方共に、奔王、龍馬×2、角行×2の5枚攻撃を、
後期大将棋では有効では無いにもかかわらず、して
いる。今回は、この作戦に、意味が有るのかどうか
ではなくて、多少は駒の損得が存在し、差が出来る
のかどうかを問題にしている。つまり、そもそもは

①~③で、先手・後手、どう組合せても、後期大将
棋の場合は、引き分けに終わる可能性が高い

という意味である。
 なお、②の受け方を、15升目の後期大将棋で、
先手が取った場合を以下に、再掲する。

後期大将棋引付受再掲.gif

 この図では、元の横行の有った、歩兵段下1段で、
相手の5枚斜め走り駒攻撃を受けているように、
線が書かれている。が実際には仲人の位置で、相手
後手の攻撃を一旦受け、持ちこたえられなくなって、
戦いの前線が、2段下へ移動しているのである。
 結論から言うと、上の③を説明する図で、先手の
取っている、L11地点の歩兵を、悪狼、銀将、
鉄将の三枚で守っている陣は、L11の地点の守り
が雑ではないので、仲人位置を一旦、雑に守ってい
た、下の②のような

守り手側の”1枚だけだが駒損”は起こらない。

なお上の方の図で、先手陣(黒側、手前)で、K9
位置の仲人は、K10位置から、わざと浮かして、
土塁の役割を、先手自らが解除している。つまり、
竪行前の歩兵で、後手の奔王、龍馬×2、角行×2
の攻撃を、最初から受けるつもりだったのである。
 それに対して上の図で、先手の同形の攻撃を、後
手は、普通唱導集の大将棋の唱導唄の第2節の通り
①の陣形で受けている。そして、先手が上の③の陣
のような、普通唱導集の大将棋の唱導唄第2節の陣
①とは、別の形の陣を組めるのは、元々15升目
130枚制の後期大将棋の陣に空きが多くて、駒が
移動しやすいので、陣形が変えやすい為である。
 それに対して次に、別の図で説明する事にするが、
13升目108枚制の本ブログ版普通唱導集大将棋
では、③のような別解の防御陣を組むには、下記の
図の先手のようにするが、

とても手数がかかる。

まるで16パズルのように、歩兵はほぼそのままに
して、陣内の駒を組み替えてゆく必要が、有るから
である。

普通唱導集引付受2.gif

そのため、上の陣は完成する前に、普通唱導集の
大将棋の唱導唄の第2節で、普通に防御陣を組み、
更には同形の5枚斜走り駒攻撃の陣を作った相手に、

先攻めされてしまう。

よって本ブログ版108枚制普通唱導集大将棋(西
暦1290年型)で③の陣形の場合は、”完成前の
不完全陣形で、攻められてしまうので、相手の教科
書通りの、”仲人嗔猪腹合わせ・・”陣形の後手に

力で押し切られてしまう。

そのため先手の劣勢が、駒損で劣勢の②のパターン
とは別の理由だが同様に、108枚制の本ブログ版
普通唱導集大将棋(西暦1290年型)では、③で
も発生してしまうのである。
 だから、13升目で108枚ぎっしり陣の、
普通唱導集(本ブログ版、西暦1290年タイプ)
の大将棋が、本当の普通唱導集大将棋だったので、
①の防御陣が、”決まり手”のように、普通唱導集
の大将棋の唱導唄の第2節で、披露されたと、当然
考えられる。
 逆に言えば、
普通唱導集大将棋が、後期大将棋だったとすれば、
”①のように守るのが、当然だ”と普通唱導集の、
大将棋の唱導唄の第2節で唄うのは、③の陣でも、
今度は容易に組めるので同等だという事になるので

おかしい

と言う事に、やはりなるという事である。
 つまり、後者の後期大将棋のケースは、

①と③の守り陣が、ほぼ同等の強さだから

である。
 以上の事から本ブログでは、③の陣形での状況も
また、普通唱導集の大将棋で唄われた将棋は、15
升目130枚制の後期大将棋では無く、13升目
108枚制の、本ブログ版普通唱導集大将棋(12
90年タイプ)であるという、今度はかなり精密な、
証拠の一つなのではないかと、疑うのである。
(2019/07/29)

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本ブログ普通唱導集大将棋で斜走駒攻撃を陣内受は弱陣(長さん)

以前述べたように、普通唱導集の大将棋の唱導唄
第2節は、将棋の指し方の常識から見ると、相手
大駒を、迎えに行く陣を作って受けるという不自
然さが、元々有る。”13升目108枚制の将棋
の為、自陣内に、駒の組み換えの余裕が、余り無
い為にしかたなく、そうしている。”という説明
を、以前に本ブログでした。しかしながら、初期
位置から、右角行は2歩斜めに出し、右龍馬も、
右角行の初期位置の右下に付け、堅行も前出しす
るので、僅かな余裕は、実際には出来ると考えら
れる。
 そこで正しくは、本ブログ版普通唱導集大将棋
(西暦1290年タイプ)で、

自陣内で駒の組み換えが出来ないというのは誤り

という事に、実はなっているのである。だから、
”大駒は引き付けて受けよ”という格言は本ブロ
グの

普通唱導集大将棋(1290)でも、実は成り立っ
ている疑いがある

という事に、最近なって判ってきた。
 これが本当だとすると、

普通唱導集の大将棋の唱導唄に合った、ゲームを
特定するのは、極めて困難

という結果になるはずである。

仲人の位置で、支えの陣を作る将棋は原理的に、
有り得ない

と言っているのに等しいからである。
 そこで今回は、その点についてチェックした結
果を述べる事にする。
 結論から述べる。
 普通唱導集の大将棋の唱導唄第2節の陣の方が、
いっけんすると常識的な、自陣内で、相手奔王、
龍馬×2、角行×2の5枚攻撃を受ける陣よりも、

僅かに堅い。

そのため、結果として

仲人一枚分だけ、まともに普通唱導集に従って陣を
作った方が駒得になり、その差で成り麒麟で、相手
陣を先に破って、勝つ

との結論になった。
 では、以下にもう少し、詳しく説明する。
 当然かもしれないが、仲人の所で防御陣を作る
よりも、自陣内で嗔猪を捨て駒、鉄将や横行を利き
駒にして、

引き付け受け型の陣を作った方が、早く駒組ができ
る。

実際には、2手位速いようだ。
下の図は、先手が、そのような陣を、後手が、教科
書通りの、普通唱導集の大将棋の第2節で受ける陣
を、1290年型の本ブログ版普通唱導集大将棋で
作った所である。

普通唱導集引付受.gif

 実は、ここから先手が先に、後手の教科書通りの
陣を攻めるが当然受けられ、ついで攻めの陣形は同
じようなものなので、

仲人を使わずに後手が、先手を攻め返す

と、仲人は不要で、仲人抜きでも以下のように、

同じ程度に先手陣は崩れて、それで一時的に受かる。

普通唱導集引受結.gif

ここで、攻め駒として、

実質後手が、仲人1枚だけ温存できているのが重大

なのであった。つまり、先手の陣の方が弱かったの
で、後手が、小駒の仲人一枚だけ駒得になる。この
仲人を拠点にして、攻めの新たな駒組が、後手だけ
可能となり、一例で以下のように更に、この後後手
は、守りに使っていた、龍王×2を攻めに回し、結
局以下のような局面で、勝勢となった。

普通唱導集引受終.gif

つまり最終局面で、後手の麒麟の突入は必然で、先
手はほぼ、受け手無しであると見られる。
 何回かやり直し、変化はそのつど同じでは無かっ
たが、

単に、後手は5枚攻めを、焦らずゆっくりと始めれ
ば、どうやったところで、先手の陣の方が、少し弱
いのが利いて、結局後手が有利になるだけ

のようであった。
 以上のようにして、普通唱導集の大将棋の唱導唄
の第2節が正しいらしい事は、確かなようだと、一
応は、本ブログの管理人には思われるようになった。
 恐らくだが鎌倉時代の実戦では、普通唱導集の唱
導唄の第2節よりも、

角×2、奔王、龍馬×2の計5枚攻撃とそのあと、
相次いでする、普通唱導集の大将棋の唱導唄が部分
的に唄う、第1節の端攻め攻撃の方が、ずっと有名

では、一応あったのであろう。
 普通唱導集の、大将棋の唱導唄第2節は、第1節
系に比較すると、理解は専門的知識が必要なようで、
誰にでも疑問なく理解できる、原理が簡単な守りの
定跡とまでは、実は行かなかった事が、今回ようや
く私にも判った。ただし、現実として確かに

初心者に駒組自体が判り易い、

防御の定跡である事は確かだ。後で何とか、理屈を
もっと正確に解明してみたいと思う。(2019/07/28)

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新安沖沈没船の将棋盤。一段腐食して14段だけ現存(長さん)

新安沖沈没船より、小将棋の駒と共に共出土した、
15×15升目の、盤目のやや細かすぎる将棋盤(?)
は、後期大将棋の成立時期を決定する上で、本ブ
ログにとっても重要な遺物史料である。韓国の
書籍に、更に良い写真が、あるいは紹介されてい
る可能性も有るが、国内で簡単に手に入る本遺物
の盤升目を撮影した写真は、ものと人間の文化史
”碁”の、増川宏一氏が撮影したとみられる写真
が唯一である。
 従来はこの写真について、

端ははみ出して切れているが、15升目の後期大
将棋盤と、目が細かい点は除けば同じと本ブログ
の管理人は認識

していた。しかしながら、ものと人間の文化史”
碁”の写真を良く見た所、

将棋盤としたときの、段が1段腐食のように見え、
ひょっとしたら、最初から14段で本当に15段
は、無かったのかもしれない

と考えるようになったので、以下にその旨を記す。
 ものと人間の文化史”碁”の写真は、模式的に
書き直すと、以下の感じに撮影されている。

沈没船将棋盤.gif

なお、左のものさしの1目盛りは約3センチであ
る。段番で目盛りの数を書いてみた。
右端に広いスペース部が来るように、長手方向を
上にして、この”将棋盤(?)”を見ると、

1段目と2段目の境の線は、写真に全く写って居
無い。

今までは、カメラレンズの視野外に出たのだろう
と、個人的に考えていた。しかし、
輪郭を良く見ると、波打っていて不規則に上がり
下がりしている。従って、恐らく増川氏によって、

上段は端まで撮影されていて、腐食されているの
か、縁がイビツに切り取られている感じ

なのであろう。つまり、

たとえもっと良い写真や、現物を見ても、この盤
の、盤升で第1段目が、実在し無い可能性が高い

と私は考えるようになった。
 それに対して、右縁は切れていても議論に影響
無いので度外視する事にして、上の図で左端は、
直線で切れているし、下は、円弧状に切れている。
ので、

左と下は写真の視野外に出ており、本当は将棋盤
の第15段や左端筋は、第1段とは違い、現存す
る可能性が高い

と私は思った。
 腐食の可能性は、かなり大きいと見られるが、
この将棋盤(?)自体が、図に一緒に書いた4個
の聖目から、自然に予想される形と違って、

升目数で15段ではなくて、元々14段しか、
沈没船の日本人船員が、書かなかった可能性も、
絶対に無いとは言い切れない

ようである。
 以下蛇足になるが。以前に本ブログで示した、
25枚の金将を、50枚の歩兵で中央領域から
追い出す将棋遊びのケースは、手前側を歩兵軍、
向こうに金将軍のプレーヤーが座った場合、第
1段目まで歩兵を進めたり、1・2段目に歩兵を
打ったりする手を、歩兵軍はほぼ指さないため、
14×15升目盤で、しかも1段目が欠けた物で、

金と歩兵の戦いゲームのケースには、問題無い。

しかも、歩兵軍持ちのプレーヤーが、仮に右利き
なら、

持ち駒の歩兵を、右のスペースに置く事が出来、
すこぶる適正の高いゲーム盤に、たまたまなって
いる

ようだ。
 むろん、これで本ブログの仮説が証明されたと
は、とても言えないだろうが。聖目が正確に書か
れているのに、全体領域が、きちんと9つに等分
割になって居無いかもしれないという謎解きの、
仮説の一つと見なせるとは、一応言えるだろうと
は思う。(2019/07/27)

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後期大将棋での普通唱導集唄第2節記載受け方標準(長さん)

以前に、後期大将棋で、普通唱導集の大将棋の唱導唄
第1節の攻撃を、普通唱導集の同じく大将棋の唱導唄
第2節で無理やり合わせて受けるケースは、桂馬を、
悪狼に交換すれば、一応可能との事を述べた。しかし
ながら、無理やり合わせるという事は、本来の受け方
がある事を意味している。今回は、普通唱導集の
大将棋の唱導唄第1節攻撃を、後期大将棋では、ノー
マルにはどう受けるのかを説明する。結論を書くと、

6段目の仲人地点ではなくて、4段目の横行ないし、
3段目の猛牛の、陣内地点で相手の奔王、龍馬、角行
の斜め走り攻撃は、受けるのがたやすい

という事である。
 では、以下に説明を続ける。
 15×15升目130枚制の後期大将棋の初期配列
は、再度掲載すると以下の形である。

後期大将棋STD.gif

 そこで、この初期配列形から、後手に”搦ラメ(二)
角行角行奔王龍馬龍馬ガ、仲人横行猛牛反車ヲ(一)、
反車香車が耳を破り飛車を退け”ようとする作戦を、
させてみる。普通唱導集の大将棋の唱導唄第2節では、
この右袖に対する攻撃に、先手は”仲人の位置に嗔猪
を並立させ、悪狼を昇らせる”はずだが、実際には、

嗔猪は、横に寄らせて横行を下から支えるはず

である。

後期大将棋引付受.gif

上の陣形では、仲人を守っているのはせいぜい竪行だ
けであり、主力は、横行の有った位置を、予め避けた
横行自身と、嗔猪が、鉄将を捨て駒にする事によって

味方陣内で支えている点が、普通唱導集の大将棋の
唱導唄と大きく違っている。

実際には、普通唱導集の大将棋の唱導唄の2節に比べ
て、上の先手右袖の陣形は、組むのが

より簡単

だ。実際この後、後手が、”搦ラメ(二)角行角行
奔王龍馬龍馬ガ、仲人横行(鉄将に交換)猛牛・攻撃”
を決行しても、以下の結果となり、後手は、奔王、龍
馬、角行を全て失うが、先手陣の守りはほぼ、びくと
もしていない。

後期大将棋引付受結果.gif

 この陣は、実は普通唱導集の大将棋の唱導唄第2節
に唄われた、仲人と嗔猪とこのケースは、悪狼をくっ
付けて支えるやり方より、特に強い陣ではない。しか
し、後期大将棋の場合は、ディフェンスが元々充分堅
いので、もともとこうした守りは、過剰なだけだ。
だから標準的には、後期大将棋では、普通唱導集の
大将棋の唱導唄第2節流に、”(右)仲人と嗔猪の腹
を合わせる”ような受け方を、わざわざないはずなの
である。
 このように、15×15升目130枚制後期大将棋
が、普通唱導集の唱導唄と合わないのは、戻って

初期配列に空升目が多いために、陣内で駒の移動も
でき、もともと陣はいろいろ作りやすいのもあるため

だと考えられる。それに対して、
本当の普通唱導集大将棋は、初期配列で、駒がびっし
り詰まっていたので、陣外の仲人位置で、相手の攻撃
を支える、

”大将棋の常識から見て不可解な陣形”を普通唱導集
大将棋第2節で敢えて取っているように唄われている

と考えられるという事である。
 以上のように”搦ラメ(二)角行角行奔王龍馬龍馬
ガ、仲人横行猛牛反車ヲ(一)”攻撃は、後期大将棋
に当てはめようとすると、そもそも普通の受け方が、

味方陣内で、駒の組み替えがしやすいために

普通唱導集の大将棋の唱導唄の第2節のように、6段
目に在る、聖目外の仲人の地点になるとは、とても考
えられない。
 以上のような理屈により、普通唱導集時代の大将棋
が後期大将棋だというのは、”地球の周りを太陽が回っ
ている”という論に、匹敵する程度の不自然さがある
ように、少なくとも私には感じられる。つまり、

”大駒は引き付けて受けよ”との将棋の格言は有るが、
”大駒は出向いて行って受けよ”という格言は、通常
は、”わざわざ”という事だから、するとは思えない

という事である。(2019/07/26)

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将棋の起源の橿原考古学研酔像木簡に酔象酔酔酔像酔像(長さん)

 以前、成書の”持駒使用の謎”や”解明:将棋
伝来の謎”の橿原考古学研究所出所写真の、西暦
1058年物、興福寺酔像木簡の成書への転載写
真等”既存情報では、酔像酔像とされる文字の最
初の、像が象としか確認できない”旨を述べた。
なおその他、スケッチについては同じく成書の、”
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”にも記載が有る。
 さいきん、別の成書である、増川宏一氏著書の、
”将棋の起源”(平凡社 1996)に、同じ写
真が、この成書にも転載されているのを見たが、

今述べた4冊の中で、一番写真のコントラストが
良い

のを発見した。結論を述べると、

酔像酔像の1つ目の像を、本ブログの管理人もよ
うやく確認した。

 結論は以上だが、以下にもう少し補足説明する。
表題の”酔象酔酔酔像酔像”のうちの、

酔象酔酔は後半の酔像酔像の直ぐ右列に記載され

ている。そして、以前の本ブログの主張は、前半

酔象酔酔の象を、後半の酔像酔像の最初の像と交
換して、繋げて読んでいた

という事情での誤りだった。
 しかも、酔象酔酔はこの通りに

書いて無い。

 判りやすくデウォルメして表現すると、
酔象の象と、酔酔の最初の酔とが重なっていた。
そのため象のような酉のような字、つまり
”クかんむりに、酉と書いた存在しない漢字”を、

象と私が読み間違えていた

のであった。何れにしても、この木簡に像では無
く、第3の”象”が、更に別に有ったとしても、
証拠は微かだ。右行は、

”酔象(トルツメ)酔酔(改行)”

なので、象は酔と重ね書きされてしまい、象かど
うか、曖昧なのである。
 他方”酔象(トルツメ)酔酔(改行)酔像酔像”
の、左列後ろから3番目の像は薄かった。
そのため、成書の”持駒使用の謎”や、
”解明:将棋伝来の謎”の橿原考古学研究所出所
写真の、西暦1058年物、興福寺酔像木簡の
これらの成書への転載写真等では、”↑”にも見
えるニンベンだけが残り、ツクリの象は消えるか、
持駒使用の謎のスケッチ図では、右行の
”クかんむり酉”と干渉して変形し、正確には読
めなかったという事である。
 何れにしても、より鮮明な、
橿原考古学研究所提供写真の、西暦1058年物、
興福寺酔像木簡を、成書”将棋の起源”で転載し
てくれていた

増川宏一氏には、心より感謝

したいと私は考える。(2019/07/25)

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富山県中新川郡立山町辻遺跡の兵駒は”兵兵”か(長さん)

たいぶん以前に、平安時代末ないし中世の遺跡である
山形県の出羽国庁跡ともされる、城輪棚遺跡の成り今
崩し一文字兵駒は、仙台城本丸遺跡の成り不明一文字
兵駒と同類であり、

東北地方の方言の”ほへ”が”ほっひ/へ”になる
傾向があり、ノタノタ歩く兵隊を東北では連想する為

の改変との旨を、述べた事があった。なお、本ブログ
の管理人も、生まれは東北地方である。
 しかしながら最近、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
(2003)を見た所、富山県中新川郡立山町の遺跡、

すなわち東北地方以外でも一文字兵駒は出土している

事が判明した。今回は、この点について本ブログの見
解を述べる事を目的とする。結論から述べると、

この駒は、歩兵であり、兵はひょっとすると汚れ

の可能性があると見られる。
 では、以下に詳細に述べる。
 この遺物は、奈良東大寺の荘園が広く広がっていた
とされる、平安時代から近世の遺物が発掘される遺跡
群の中にあり、たまたま鎌倉時代の遺構の中で、西暦
1987年頃に発掘された将棋駒との事である。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)の写真
を見ると、一見して

”兵口”と読める。

つまり、出羽国庁跡ともされる、城輪棚遺跡の成り今
崩し一文字兵駒と異なり、裏が汚れていて良く判らな
い点も違うが、どちらも兵には違わないが、富山県

中新川郡立山町辻遺跡の兵は兵の字が上に寄っている。

 はっきりしないのだが、天童の将棋駒と全国遺跡出
土駒の、やや不鮮明な写真をよく見ると、
もう少し大きな”兵”が上段の兵とは別に下段に書い
てあるようにも見える。更に、多少の想像を加えて観
察すると、辻遺跡の兵駒は、

乱雑な”歩兵”という字と、比較的整った上寄りの兵
の字が重なって、書いてあるようにも見える駒

である。
 以下は単に私の見方だが。

兵と普通に読める方は、汚れが付いた偽文字

なのではないか。つまり、この駒は

普通の歩兵なのではないかと、疑われるという事

である。むろん、写真も不鮮明だし、もともと兵の字
も薄いので、以上は確定的では無い。今の所本ブログ
では、以上の見方を踏まえて、

富山の辻遺跡の”兵”は、はっきりしない

と以後、暫定的に表現する事にしたい。(2019/07/24)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡木札の近の斤は古字か(長さん)

以前述べたが”志いぬ。もしひゃう。まうこは近くへ
行く。上わゆけぬ。”との旨が書かれていると、
本ブログでは見る神奈川県、鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札の、
”近くへ行く”の近の字に”しんにょう”が、墨跡と
して見当たらない。近を斤と略して書いたように見え、
最近まで、謎として残されていた。しかるに先だって、

㈱遊学社の井上辰雄編、日本難字異体字大事典
(2012)で近の異字、俗字等を確認した

ところ、

”止かんむりに、斤”と書く、近の古字が載っている

のを、本ブログの管理人は確認した。なお、近の古字
は、しんにょうの点が2つだから、正しくは”古古字”
と言うべきかもしれない。
 今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札は、
後半部の下側の板も、上部が南北朝時代に少し削られ
ていて、

たまたま、止めかんむり(正式名称不明)が脱落した

としても説明できそうだ。では以下に、現物の図で
説明する。
 以下のように、

斤は、下の板の上部スレスレに書いてある

という点が大切だ。

近の謎続.gif

 もともと”止めるかんむりに斤”で、古字の”近”
だったとしたら、止が無いとおかしい。しかし、この
ケースは、上の写真のように

止は、削り取られていて無いとも考えられる

のである。つまり、本ブログのように、
2枚の木札は、接合部分が合うように、一枚目の木札
の下部分の、”ぬ”の半分と”やう”が書いてあった
部分と、二枚目の木札の上部分の、近の古字の
”止かんむり”の書いてあった部分が、南北時代の、
一例、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターの店員
によって、結合できるように、削り取られた。その後
に、南北朝時代時点では、上下に接合された。しかし、

接着剤が、いいかげんなものであったために、西暦
1989年頃までには、バラバラになって、2枚で
出土した

と考えるという訳である。
 従来、本ブログでは、南北朝時代の1枚化への
”加工”は、上の部分の第1枚目の盲虎はと書かれた
部分までの木片の、下部だけと見ていた。しかし、
今回述べたように、斤の墨跡を解釈すると、止が無い
とおかしいので、下の部分の”近くへ行く”木片の、
上部も、接合部分を南北朝時代に合わせるために、
僅かではあるが、削られた事になろう。ただし、

 斤が古字の一部というのは、情報が部分的であり
曖昧で、確定的ではない。

だから、下側の第2枚目が削られたというのも、今の
所は一つの仮説と言うべきではあろう。(2019/07/23)

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平泉飛龍徳島奔横金沢龍馬鎌倉鳳凰小山角行で論証明(長さん)

以下に表題に示した5箇所に、京都市上久世の酔象
を加えた6箇所の史料から、

四段化した平安大将棋へ、新たな駒を導入する進化
が、鎌倉時代に起こったと証明できる

との旨を示す。
なお、表題と今述べた出土将棋駒は、より詳しく書
くと以下の史料を問題にしている。
1)平泉の志羅山遺跡の両面草書飛龍。
2)徳島県徳島市上八万町川西の不成り(補)奔横。
3)金沢市堅田B遺跡の不成り(?)龍馬。
4)神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡の成り楷書
奔王鳳凰駒。鎌倉市小町鎌倉駅構内出土木片の、
搦4.5スペース王馬馬口の、奔(?)王の記載。
5)栃木県小山市神鳥谷曲輪の成り一文字金角行。
6)京都市上久世城之内の成り不明酔(?)象。
結論としては、

1)~3)の遺物が全部、横行が袖に移動する前の
ものであり、特に2段目が満杯になった形跡が無く、
4)~6)の遺物が全部、酔象に横行が押しのけら
れて、袖に移動した後に現われた駒であるという点
から、統計学的な確率論により、

大将棋が4段配列のまま、充填した進化を辿ったと
結論できる

と、論を〆る予定である。
 では、以下に補足してから説明する。
 補足する点としては、

これらだけでは、西暦1290年に、その四段配列
の満杯充填が、ちょうど完了したとまでは言えない。

 ほぼ西暦1160年から西暦1360年のどこか
に、本ブログの言う、13升目108枚制の将棋が
有ったと結論できるというだけであるという点が、
注記される。
 では、説明を加える。
 上記のように、事象としては、7回と指摘できる。
4)の神奈川県鎌倉市が、鳳凰と奔王(横ではな
い)と、2点あるからである。

ここで、西暦1260年という時代の中間点で、領
域を2分割してみる。この時代の将棋は、
横行が酔象に追い出されて、3段目の端へ移動する
境目とみられ、

その前の大将棋の形は、
平安大将棋に、奔横、龍王、龍馬が加わったもの

とみなせると考えられる。事実としての出土物は、
以下の議論では、小将棋に被覆される1段目駒と歩
兵は考えないものとして、
1)は飛龍、2)は奔横、3)は龍馬であり、この

1/2確率の領域に、3つの試行とも全部合致して
いる。

 次に、普通唱導集大将棋や後期大将棋に有って、
今述べた”横行移動直前将棋”に無い駒は、後半期
でのみ、出土すべき駒である。
 4)は鳳凰と、奔王、5)は角行、6)は酔象で
あり、

1/2確率の領域に、4つの試行とも全部合致して
いる。

よって、細かい事を無視すれば、2の7乗分の1、
すなわち128分の1しか現われないことが、起こっ
ているというのに近い。なお、実際には駒割合が
4分6分だし、うるさく言えば奔王を横と王として
2回数えているが、この確率関数は、1/2のとき
に、極大値(1/2)のK乗を取るから、ほぼそれ
以下だと考えてよい。
 ここで、鎌倉の遺物については、鳳凰の成りが奔
王となっていて奔横ではないし、王馬馬木札の王は、
搦めるという表現が、将棋用語の捕獲と特殊で近く、
奔王らしいので、試行1回に数えている。
 つまり結論としては、6箇所の遺跡の出土駒のパ
ターンから、4段化した平安大将棋へ、新たな駒を
導入する進化がまず起こり、堅田B遺跡の時代の、

西暦1260年より少し後から1300年の少し前
の間に、充填して満杯になってから、15升目5段
人陣化が”速度任意で”起こる進化を大将棋がした

というモデルが、尤もらしいと結論できると、私は
考えるのである。特に、西暦1250年~60年
程度の成立とみられる、金沢

堅田B遺跡で、後期大将棋に特徴的な駒のうち、
龍王か龍馬かしか、出土しなかった事が大きかった

と私は思う。130枚制後期大将棋のうち、龍王と
龍馬は全部で8枚だけである。なお歩兵と1段目駒
は60枚で、差し引き70枚であるから、90%弱
が龍王・龍馬以外の駒である。
 4)~6)で、龍駒2種が発見されないのは、他
の駒の導入が起こり出すと、

出土するのは他の駒の確率が高くなり、たまたま
龍駒2種が当たらないため

だと、考えられる。すなわち、
3段配列の平安大将棋から、5段配列の後期大将棋
が一気に形成されるとすれば、新2~3段目が、
スカスカにならないように、堅田Bの時代にはどん
どん、新2~3段目駒が生まれていたはずである。
実際には、そういうことは起こらず4段配列の中間
的な大将棋に、有る程度の人気が有ったので、堅田
B遺跡でだけ、龍駒2種が出土していると考えれば、
判り易いだろう。ようするに大将棋に関しては、

実際には、1260年の堅田B時代に、本ブログの
言う自陣4段108枚制の大将棋へ、進化の方向が、
明らかに向かっていた

のである。すなわち、行駒、鳳凰・麒麟、動物駒の
うちの追加導入は、酔象復活、横行の移動と、角行、
堅行の導入が1260年より少し後に、最初だった
としか考えられない。
 つまり鳳凰・麒麟、動物駒(追加)は、ゆっくり
と起こり、4)の鎌倉駒の、早くても13世紀の後
半以降にならないと、出土するようにならなかった。
だから1250年から1260年という中間に、龍
駒2種類だけが導入されたかのような、堅田Bの姿
が、見えるようになったに違いない。なお、動物駒
は酔象以外、鎌倉時代~南北朝時代の遺跡では出土
していない。これは終盤、動物駒の割合の少ない、
中将棋の駒が混在するためと考えられる。
 ただし、以上の出土駒のパターンの統計的解析だ
けでは、大将棋の4段配列が満杯の108枚制とな
り、15升目化が、何時起こり出したのか、別の情
報を入れないと判らない。別の情報の例として、
普通唱導集の唱導唄の解析が必要な事は、言うまで
も無い。
 何れにしても、以上の統計解析から、

満杯化が西暦1290年前後とまでは言えなくても、
西暦1260年から西暦1360年の間の何処かで、
起こった後で、15升目化したらしい

とは言えると思う。つまり、

13升目108枚制大将棋は、西暦1300年前後の
普通唱導集で唄われた大将棋かどうかは、別に論じる
事として、存在したという事自体は、かなり確からし
いとまでは言える

のではないかと、私は考えるのである。(2019/07/22)

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