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猫叉。徒然草の表現は”猫に犬へん柔”(?)(長さん)

以前に述べたが、成書の吉田兼好の徒然草では、読み
下し文で表現され、89段の猫叉の叉は、ひらがなで
表現されている。鎌倉時代末に吉田兼好が、徒然草
を書いたとき、漢文型で書いたのかもしれないので、
少なくとも猫叉の叉は漢字であったはずだと、私は文
学の歴史の素人なので考えた。ちなみに鎌倉時代初期
に、藤原定家は”猫股”と表現していたと記憶する。
 そして安土桃山時代に、水無瀬兼成は、猫叉と書い
ている。
 結論を書くと次の成書に、表題に有るように、

”猫に犬へん柔”と吉田兼好の徒然草ではなっていた

との情報が有った。徒然草の原文で確かめて居無い。
なお、原文で確かめるという事が、できると言う性質
のものなのかどうかも、実の所、私には良く判らない。

徒然草事典(西暦1977)三谷栄一編、有精堂出版。

なお、犬へん柔はIME辞書では、音読みがドウ、ジョ
ウ、訓読みが”さる”。諸橋徹次の大漢和辞典による
と、訓読みでタハケル等が有り、テナガザルの一種の
事だという。
 これは、実在する話とすれば、吉田兼好流のあて字
とみられ、たぶん原文の徒然草に、漢字でこう書いて
あると推定されるという、推定の話なのだろう。ただ、
”マタ(mata)”と言うとき、色葉字類抄などで
は、以前に本ブログで書いたように、人体の体のある
部分を指す、マタグラの意味ではなくて”猿”系の漢
字を充てている。ので、吉田兼好は、マタの意味にな
る、猿関連の漢字を探して、書いたと解釈できると思
う。つまり吉田兼好は、本当に、いい加減なあて字を、
したわけでは無いと言う事である。
 以上の結果をまとめると藤原定家は猫股。吉田兼好
は猫+犬へん柔。しかしながら曼殊院の将棋図が
猫叉だったので、将棋纂図部類抄は、猫叉なのだろう。
 その後、色葉字類抄の書写時に、大将基馬名で猫刃
になり、江戸時代には、たとえば松浦大六氏所蔵の、
将棋図式でも猫刃になっている。猫刃は猫叉の類と解
釈できるが。しかし、猫に犬へん柔を、叉と解釈して、
字を少し変えたとは考えにくい。よって、

猫叉という駒名の漢字表現が成立したのは、室町時代
初期と、はっきり結論できるのではないか

と私は考える。
 つまり、後期大将棋は室町時代初期成立と、

少なくとも猫叉の漢字表現の成立時期からは疑われる

のではないか。むろん猫叉という妖怪自体は、平安時
代末には、遅くとも知られていた。しかし、

妖怪ごときだから、正確な漢字での表現はどうでもよ
かった。

ので、鎌倉時代には、漢字にしようと、ひらがなにし
ようと、どうでもよくバラバラだったのではないか。
 しかしながら、将棋駒として作るには、漢字二文字
で、いつも同じにならないと、駒名として使えるよう
には、私には思えない。
 たとえば、鳩盤の盤と、鳩槃の槃とは、このような
使い方のケースは異字扱いだが、将棋の駒としては、
駒の動かし方ルールが違う。対局中に、特に劣勢側の、
難癖の原因となるため、音だけ借りてきたような漢字
を混在させた結果、”別の将棋具の、駒の動かし方ルー
ルとは違う駒である”という類の主張を発生させる原
因を、予め作らないようにするのが普通だからである。
 本ブログでは、猫叉は鎌倉時代には、狼や山犬の類
だったし、悪党の洒落で悪狼を作ったと見たため、悪
狼も猫叉も、鎌倉時代末頃の、悪党と言う言葉が流行っ
た時代の成立と見ていた。猫叉は、漢字でどう書くか
が、鎌倉時代末までは、バラバラだったので、よって
後期大将棋の成立は、徒然草事典からの情報を見ても、

南北朝時代から、室町時代前期の間のどこか

の疑いが強いのではないかと思う。
 そして私には、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、
猛牛、反車で作る、ジグザク列が確立しないと、

後期大将棋は成立しないと解釈するべき。

以上のような気が、やはり依然してならない。
 ようするに後期大将棋は、ひょっとすると、盲虎は
直前まで平安大将棋の猛虎の動きだった、中将棋の祖
の将棋”、すなわち普通唱導集大将棋の後継である、
西暦1350年頃成立の中将棋と、深い関係が有るの
ではあるまいか。
 故に、

後期大将棋は普通唱導集時代の大将棋にしては、小駒
の構成要素が不足。

以上のように、考えるのである。(2019/07/10)

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