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四人制チャトランガのツマラなさで2人制生むか(長さん)

4人制チャトランガが2人制に先行するとの
説が強かった前世紀”4人制チャトランガの
行き詰まりが、2人制の通常将棋を生んだ”
と、しばしば指摘された。
 今回は、前回紹介した、馬が2手で左王に
当たり、船は右王対策に回せ、象は対面する
軍を攻めるという、4人制の改善ゲームで、
その点をチェックして議論してみる。
 答えを書くと、四人制チャトランガの場合、

簡単に王が取られるゲームには、基本的に
欠陥は、余り無い。

では、議論を続ける。せっかく馬が序盤で活
躍するゲームに直したので、個々の着手をも、
以下のように、従来より強力にしてみる。
 1~6の目の出る、立方体のサイコロを
使い、出た目で、動かせる駒が決まっている
とする。なお、馬と兵は、最初に属する軍に
よって決まった方向へ、常に動くものとする。
また船は、斜めへ1升目ないし2升目走る、
すなわち、間に駒がある場合、向こうに行け
無いとする。兵は、対面側の相手陣の奥で、
インド方式で、そこに初期配列されていた相
手駒と同じ駒に成るとする。その際、王と馬
の位置では兵は成れず、行き止まり兵になる。
後者の端筋馬位置不成りのパターンを、
”ガーダー”と言う。大臣の位置では、
”第五王”に成り、熊目・毒狼・前牛等同様、
玉駒の意味を持たないが、王の動きに変わる
ものとする。
 サイコロの目による、動かし方のルールは、
次の通り。
1の目:兵1個動かせる。
2の目:船を動かせる。または、別々の兵を
2個動かせる。
3の目:馬を動かせる。または、船と兵1個
を動かせる。
4の目:象を動かせる。または、馬と兵1個
を動かせる。または、占領した別の国の船と、
それとは別の船を2個動かせる。
5の目:王を動かせる。または、象と兵1個
を動かせる。または、馬と船を動かせる。
6の目:王と、兵を1つ動かせる。または、
象と船を動かせる。または、占領した別の国
の馬と、それとは別の馬計2個を、1回づつ
2個共動かせる。
手はパスする事ができる。ただし2枚動かす
ときの、1方だけパスしてはいけない。動か
し方の順序は、自由とする。
 王が取られたら、王だけ排除し、元の動か
し方で、勝った国が残りの駒を使う。基本的
に、最後に王が残った国が、勝ちである。
 以上の強力なルールにすると、馬で王を取
る手が、比較的に頻繁に起こるため、ゲーム
の進行が早い。サイコロ賭博では、序盤早々
王手に自殺手で応答しても、とりたててゲー
ムに難があるように、感じられる訳ではない。
 そのため、

上記程度のルール調整で、四人制チャトラン
ガの弱点とされるものは、解消されてしまう
疑いが強い

と本ブログでは考える。
 最近までインドで、このゲームが残ってい
たとされるのも、尤もなのではないか。
 もともと、ゲームルールは人為的なものな
ので、工夫により、欠陥が改善されてしまう
場合が多い。
 よって、”4人制チャトランガの欠陥から、

2人制が生まれる”という説には、そもそも
無理が有った疑いがある

と推定できるとみられるのである。(2019/08/31)

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伊東倫厚氏古インドチャトランガ馬八方桂説の根拠(長さん)

本ブログでは、古インドチャトランガの最下段は、
飛龍、桂馬、角行、玉、近王、角行、桂馬、飛龍
の増川宏一”将棋Ⅰ”説を、今の所取っている。
なお、このうち飛龍は、本ブログだけの解釈だが、
2升目までの走りかもしれない。
 ただし上で、馬は八方桂だというのが、学会全体
としては主流であるとみられる。欧米のチェス史
の研究家は、ほぼ八方桂説と見られる。日本でも、
将棋ジャーナルに、西暦1984年頃から投稿記事
を著作されていた、東洋言語に詳しい伊東倫厚氏は、

古代チャトランガの馬は、八方桂馬動きと将棋
ジャーナルに書いている。

 馬が八方桂だと、古代チャトランガと、原始平
安小将棋の共通駒は、玉、近王、桂馬の3種類か
ら、玉と近王としての金将の2種に後退するので、
日本の平安小将棋を、インドの古形型チャトランガ
の類とするのは、少し厳しくなる。そこで今回は、
すばり、どちらが正しいのかを、論題とする。
 回答を書く。
どちらにも取れるように、インドの文献には、別々
の所で、一方では桂馬と取れ、別の所の記載では、
八方桂と取れるように、矛盾した内容が書いてある
だけで、

従って確定無理なのが、現状である

と考えられる。
 では、説明を続ける。
 伊東倫厚氏は、将棋ジャーナルの1984年
10月号の将棋探源5で、”問題の
ユディヒシュティラ王子とヴィアーサ仙人問答には、
王が八方隣接升目歩み、歩兵が前方歩みで、相手
駒斜め前捕獲、象が四方向に走り、馬が八方桂馬、
船が飛龍で跳び超えるが踊らず、隣接升目に行かず
の動きであると、書いてある”と述べている。
 他方、ものと人間の文化史110チェス(20
03年)四人制チャトランガ(1)で増川宏一氏
は、個別にルールが、判りやすく書いてあると述べ
ていない。
 ただし伊東氏、増川氏両者共に”原文は意味不明
の部分も多い”と、主張している。ので、

それぞれ今の所、互いに意味の取れない部分は、
読み飛ばしたと解釈する以外に無い

と私は思う。なお、将棋ジャーナルで伊東氏は、
”この『ユディヒシュティラ王子と、ヴィアーサ
仙人の問答』は、サンスクリット語の辞書で、
13世紀以降の、ナーガリー文字で書かれている
とされる”シャブダ・カルパ・ドゥルマ”及び、
”ヴァーチャスパトヤ”に、項目名『ディティ・
アーディ・タットヴァ』の中の記載として、出て
いるものである。”との旨を述べている。
 辞書の中のユディヒシュティラ王子と、ヴィアー
サ仙人の問答と、増川宏一氏の言うA・ウェーバー
の、”インド起源のチェスに関する幾つかの覚書”
で記載されたユディヒシュティラ王子と、ヴィアー
サ仙人の問答とは、あるいは、同じではないのか
もしれない。
 所で、本ブログでは、2人制古代チャトランガ
と10世紀4人制チャトランガとで、初期配列が、
王、象、馬、船から、王、船、象、馬に変わって
いるとみている。この点も、伊東氏の解読とは、

合って居無い。”王・象・馬・船、2段目兵と、
ユディヒシュティラ王子と、ヴィアーサ仙人の
問答に書いてある”と、伊東倫厚氏は述べている。

なお確かに、端列の名称は、矛盾するが、船側と
表現していると私も解釈している。以下に、本ブ
ログ独自の、4人制チャトランガ配列図を示す。

四人制チャトランガ改善.gif

 上記の配列が、アル=ビールーニー図より良いの
は、序盤の駒組を考えなくても、元々各自の駒が、
別の王に当たり易く、サイコロの賭博性の
特長だけが出て、勝負が早く付くという点である。
 何れにしても、本ブログで強調している、端列
で段奥に達した歩兵の、ガーダー状態に関する記
載について、伊東倫厚氏の将棋ジャーナル、
将棋探源シリーズには、対応する記載が、今の所
見当たら無い。シャートパダの説明の後、ガーダー
の説明が飛んでいて、カーカカシューターの説明
へ、移っているという感じである。他方以下が
重要だが、伊東氏は、
将棋ジャーナルの1984年11月号の将棋探源
70ページ以降で、”ユディヒシュティラ王子と、
ヴィアーサ仙人の問答で、

船の行き所は、4箇所だと、記載されているのに
対して、
馬の行き所は、8箇所だと記載されていて、前者
より、後者の方が多い事が判る”

と、明確に述べている。しかし、重大な内容だが、
増川宏一氏の、ものと人間の文化史110、チェス
の四人制チャトランガに、その旨の記載は見当た
らない。
 今の所、この点についてもお互いに、意味不明と
見ている部分は、読み飛ばしていると考えるしか、
説明する道は無いだろう。
 以上の事から結論としては、ユディヒシュティ
ラ王子と、ヴィアーサ仙人の問答には、”
①ガーダーの記載から、象・馬・車(船)の中
に、後退できない駒が有る事を示している。
②車(船)に4升、行き所が有るのに対し、
馬に8升、行き所が有る事が記載されている。”
の、①、②が、共に書いて有るとしか、言いよう
も無いように、私には思える。
 馬が桂馬にも八方桂にも、どちらも取れる形で、
10世紀頃の、二人制チャトランガのルールが、
伝えられているのだろう。
 なお記述内容が、”ものと人間の文化史110
チェス、チャトランガ1”と合っているように、
私には今の所読めないが、”第5の王”という
単語自体は存在する事を、伊東倫厚氏も、将棋
ジャーナル、1984年11月号の将棋探源6
ないし、1985年1月号の将棋探源7に、記載
しているようである。(2019/08/30)

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中国シャンチー砲卒をチャンギ包卒に変更チェック(長さん)

以前に述べたように、中国シャンチーが朝鮮半島に
伝来したとき、中国シャンチーの砲と卒を、
朝鮮チャンギの包、卒に変えるという、ルール変更
が、伝来直後に起こったと、本ブログでき推定して
いる。そして、ディフェンスが過多になったために、
象の調整が起こり、漢楚士の調整が、”各駒九宮内、
線に沿い斜め動き”ルールの導入と対で起こって、
朝鮮チャンギがほぼ、高麗王朝の末期に完成したの
だろうと、ここでは見ている。そこで、
中国シャンチーの砲と卒を取り替えた時点で、攻撃
が、本当に不足になったかどうかについて、今回は
大まかだがチェックをしてみた。
 以下は、エクセルでチェックするのに、都合が良
いように、升目置きにした、
問題の推定13世紀初期頃のチャンギの配列である。

初期チャンギ.gif

名前は、チェック時、間違えないように、卒を成卒
と表示した。なお、同様な表示方法で、普通の中国
シャンチーは、エクセル升目置きだと、以下の感じ
になる。

中国シャンチー配列.gif

最初に示したほうをチェックしてみると、

いつもでは無いものの、駒枯れ模様になるケースが
以下のように、やや出やすい

事が判った。

初期チャンギ指終.gif

上記の指し終わり図で、攻撃駒は、両軍に残ってい
る。が、残り駒が少なくなった状態で、残った包は、
両軍ともに、寄せに大きく寄与しない。このまま続
けても、上の局面からは、なかなか寄せられないだ
ろう。
 なお、普通のシャンチーでは、駒の捌きが、比べ
て見ると判るが(推定)13世紀初期朝鮮チャンギ
よりもだいぶん良い。だからゲーム性が、砲を包に
変えて、かつ、卒が最初から、横歩みするようにす
ると、ゲームは、やや劣化する事が良く判った。
 ちなみに、駒の動かし方ルールを、間違えないよ
うにする為に、チャンギの実際の駒と、だいぶん駒
の名前を変えているが、同様に、以下の初期配列の
朝鮮チャンギとも比較してみた。なお図の例では、
線対称陣になる形で、互いの象、馬を交換するテス
ト配列図となっている。

朝鮮チャンギ配列.gif

”朝鮮チャンギの象”の攻撃力は、なかなか侮れな
い事が、元の場合と比べてみると良く判る。なお、
玉と副官駒の動きの変更は、九宮内での相手”車”
等の攻撃駒の、動かし方のルールの変更に伴う、
攻撃力の増強で、相殺されている事も、だいたい理
解できた。
 以上のように、仮に最初に、中国シャンチーが
朝鮮半島に伝来したときに、砲のルールを、奇手を
防ぐため等の理由で、ただちに変更したとしたら、
やはり何れは、象のルール変更等が、起こる事は、
朝鮮チャンギでは必然のようであった。(2019/08/29)

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鎌倉時代平安小将棋→朝鮮チャンギの転換が無い訳(長さん)

本ブログでは、日本の鎌倉時代の草創期頃、中国
シャンチーが中国の金王朝、南宋王朝で指され、
他方標準平安小将棋(駒落ち、取捨て)及び、
日本の原始平安小将棋(取捨て)、二中暦大将棋
の以上3種類が、日本で指されている状況であっ
たと見る。そして以上の状況で、牛僧儒の玄怪録
岑順(小人の戦争)に書かれた”天那国”が、
任那国を連想させたために、

日本で平安小将棋から、中国シャンチーへの転換
が阻害され、シャンチーは日本で定着し無かった

と以前から主張している。皇族への中国シャンチー
駒等の伝来は、それよりもずっと早い、西暦
1130年少し前の疑いも、鳥羽天皇時代の”将棋駒
を12個使用した占いの記録”より有るものの、日本
人の多くへの、中国シャンチーの伝送のタイミングは、

少なくとも西暦1200年の、少し前頃であった
はずだ

とみる。
 しかしながら、以前に述べたように、その頃、
朝鮮半島に、朝鮮チャンギが成立しつつあったと
考えられる。そして高麗国は、中国の王朝では無
いから、朝鮮チャンギから、牛僧儒の玄怪録岑順
(小人の戦争)に書かれた、中国人の小説の
天那国は、任那が朝鮮半島の国だったとしても、
ただちには関連付けは、しづらいと予想される。
つまり、

大陸伝来のゲームが全て、”唐の同盟国と任那と
の戦いを模したもの”であるとは、結論しにくい。

にも係わらず、ゲーム性で大差が無かった、中国
シャンチー同様、朝鮮チャンギも、日本に於いて
西暦1200年前後に、

原始平安小将棋等を、それに置き換える事が、実
際には、出来て居無いのは何故なのか。

本ブログの論には、この点で、つじつまの合わな
いという事は、本当に無いのかどうかを、今回は
論題とする。
 回答から書く。
西暦1200年当時、

朝鮮チャンギを指していた棋士は、”金、南宋、
高麗3国で指される、標準将棋を指している”と、
日本人に対して主張した。

つまり、朝鮮チャンギは、高麗国だけのローカル
ゲームであると、日本人のゲーマーに対して、主
張は、していなかった。そのため、当時の朝鮮チャ
ンギも中国シャンチー同様、日本人には、

唐軍と任那の戦いを、模したものと認識された。

では以下に、議論を続ける。
 以前に述べたように、朝鮮半島の朝鮮族に中国
シャンチーが伝来して、砲がチャンギの包に置き
換わる等した時点で、

朝鮮族は、極東で指されている共通将棋のルール
の欠陥を、自分達の手で、改善していると意識し
ていた

と見られる。つまり、行く行くは金、高麗、南宋
の全域で、中国シャンチーの砲、卒ルールは、
朝鮮チャンギの包、兵ルールに、置き換えるべき
ものだと、当然考えていたはずである。
 そのため、その時点で朝鮮チャンギを指してい
たゲーマーには、それが中国シャンチーとは異な
るゲームであるとの、はっきりとした意識は、存
在しなかったとみられる。
 その状態で、そうしたプロト朝鮮チャンギとで
も言うべきゲームが、日本に伝来したとしたら、
日本人には、それが、中国シャンチーそのものか、
または、知識が有って、中国シャンチーの砲は、
相手駒を取らないときには、飛車動きで有る事を
知っている者には、”シャンチーに変種が幾つか
有る”と認識された、だけのはずである。

つまり、朝鮮チャンギの日本への伝津者は、西暦
1200年前後の時点で、朝鮮チャンギの、中国
シャンチーからの存在の独立性に関して、事実上、
その主張をして居なかった

と考えられる。
 以上のように考えると、朝鮮チャンギが、中国
の怪奇小説での、表現ミスから、日本へ進出でき
ないという問題が、中国シャンチー同様回避でき
ない理由を、このケースには、はっきりと説明で
きるとみられる。
 恐らく、高麗王朝のゲーマーが、朝鮮チャンギ
のゲームとしての独立性を主張し出したのは、

日本では平安小将棋(持ち駒タイプ・成り敵陣移
動ごと型)が成立した、西暦1350年頃の事

であろう。その時点で、日本の平安小将棋系の
ゲームは、かなりゲーム性が改善されていたので、
朝鮮チャンギが、平安小将棋(持ち駒使用型等)
に置き換わる事は、もはや困難だったとみられる。
 更に、朝鮮チャンギの玉駒が、漢と楚なのは、
以前本ブログで主張したように、李氏朝鮮国内で、
余り需要の無い、木製高級チャンギ駒を日本に輸
出するプロジェクトを、日本の近世に、李氏朝鮮
で立ち上げたときに、唐代の怪奇小説に出てくる
天那国の件が、朝鮮チャンギの、日本での普及の、
阻害要因になっていた事が、言い伝えとして、
李氏朝鮮の盤・駒制作業者の間で、その時代には
まだ、残存していた疑いが有るという点を、挙げ
る事ができる。
 すなわち別の戦いへ、ゲームのモデルを置き換
える必要が、明らかに朝鮮チャンギについても有っ
た為の、ネーミングの変更であろう。そのように
考えれば、

中国シャンチーと朝鮮チャンギが、まぜこぜ扱い
であった時代が、実際に存在した事を示している

とも取れるという意味である。
 以上の事から冒頭に述べたように、逆に
朝鮮チャンギが当初、中国シャンチーの改善と、
意識されて出発していたと仮定すれば、本当は、
朝鮮チャンギが、鎌倉時代の草創期に存在しても、
中国シャンチーの、当時の日本でのネガイメージ
に妨害される事に変わりは無かった。そこで朝鮮
チャンギもまた、中国シャンチー同様、日本には
上陸制覇できなかったと、結論できよう。以上の
ように、両国の駒数の少ない将棋の、成立のタイ
ミングを調整すると、両国それぞれのゲーム発展
の流れが両者とも、一応説明可能だという事にな
る、と見られるのである。(2019/08/28)

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朝鮮半島チャンギの成立。本当に李氏朝鮮時代か。(長さん)

本ブログの独自見解だが、朝鮮チャンギは、高麗王朝
の時代末には、ゲームとして確立されていると考える。
理由は、本ブログでは、

中国シャンチーに不慣れな事が、朝鮮半島のチャンギ
と、中国チャンチーの分裂の原因だと、見なしている

からである。
 韓国等の通俗書の解説では”新羅王朝の時代に伝来
した”とされているが、朝鮮半島のチャンギは中国シャ
ンチー起源であると、本ブログでは見ているので、
”12世紀初に成立した中国シャンチーより、朝鮮半
島にチャンギが伝来したのは、後である”との定説に、
本ブログも賛成する。
 しかし、伝来して直ぐに、ルール変更が始まるため、
遅くても、日本の南北朝時代の末に、ルールとして、
今の形になっていたと、ここでは独自に見ているので
ある。手直しの始まりが早ければ、完了もその分、早
かろうという見方だ。だから、

高麗王朝期伝来の、高麗王朝末確立説を取る

のである。
 結論は、以上であるが、以下にもう少し、説明を続
ける。
 中国シャンチーが成立した、西暦1100年頃から
見てその普及は、ゲーム性が優れていたために、速かっ
たというのが、本ブログの見かたである。金王朝と
高麗が和睦し、高麗に軍のクーデター政権が発生した
西暦1170年までには、金から高麗に中国シャンチー
が伝来したのではないかと、私は見る。
 伝来して直ぐに、手筋が朝鮮半島では確立していな
かったために、初手に砲を4進させる奇手・鬼手への
対策が、必要になったというのが、本ブログの見方で
ある。
 つまりそのため西暦1230年頃の、モンゴル帝国
の朝鮮半島侵入開始までには、シャンチーの砲のルー
ルと卒のルールが、牛僧儒の岑順の、将棋の歩兵の動
く場面の記載の、曖昧な解釈も卒の変更に寄与し、
チャンギのゲームデザイナーによって、中国シャンチー
の砲と卒のルールから、最大60年間で、チャンギの
包と卒のルールに、変換されたと私は考えている。
 なお普通唱導集の大将棋の唱導唄の第2節は、日本
の大将棋の指し方に関するものであるが、手筋として、

中国シャンチーの桂馬上げによる、兵へのひも付け、
朝鮮チャンギの、卒同士の結合による利かせの組合せ

である。後者は、朝鮮チャンギの戦法の影響が疑われ、
西暦1300年の時点で、朝鮮チャンギの、横に歩む
卒駒と、それを作る原因となったとみられる、
”チャンギの包駒”の既存性が、疑われるのである。
 ひょっとすると、この状態でしばらく、中朝ハイブ
リットなゲームが、朝鮮半島では指されたのかもしれ
ない。すなわち、モンゴル帝国に占領されている間は、
ややディフェンスが強すぎる状況で、我慢して指され、
朝鮮チャンギの進歩が、そのままの状態で、百年くら
い、停滞していたのかもしれない。
 しかしながら、遅くても西暦1350年の、日本の
南北朝時代までには、元朝の衰退による、民族主義の
高揚から、八卦思想の影響を受けた、チャンギの象駒
が、中国シャンチーの、イスラム型の象から変換され
て出現し、更には例えば

倭寇の影響で、日本の玉・金が取り入れられて、漢/
楚、士が、チャンギのルールに中国方式から変わった

のではないかと、私は疑っている。そうすると、

朝鮮チャンギはルールとしては、伝来より約210年
後の西暦1380年程度には今と同じルールになった

のではないかという、計算になっていると思う。
 他方、李氏朝鮮は14世紀末成立だから、それより
僅かだが後である。だから、高麗期に伝来して、高麗
末に、ゲームルールとしては、確立と言う事になるの
ではないか。
 ただし、駒が八角形になったり、玉駒が漢/楚であ
るケースが多くなったり、ハングル文字の駒が発生し
たりするという、

道具としての朝鮮半島のチャンギの確立は、李氏朝鮮
時代だった

のだろう。
 聞くところによると、中国国内の朝鮮半島に近い所
に居住の朝鮮族は、恐らく明清王朝の時代からであろ
うが、中国シャンチーのゲーム具で、朝鮮半島のチャ
ンギを、今でも指す習慣が残っているという。ひょっ
とすると、ゲーム具自体の、不足にもよるのだろうが。
日本の鎌倉時代を、昔として考えた場合、

朝鮮チャンギを指す時には、中国シャンチーの道具で、
間に合わせていたという、昔の習慣の名残り

の疑いもあるのではないか。以上のように、見かけの
ゲーム道具の歴史と、ソフトウェアーとしての、ゲー
ムの内容自体の歴史は、このケースも一応、分けて考
えるべきではないかと、現時点で私は疑っているので
ある。(2019/08/27)

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朝鮮広将棋の改善を試みた(長さん)

以前に紹介した、”研究が進んで、駒の動かし方
ルールまでは確定した”朝鮮広将棋は、本ブログ
の見解では、跳び越え駒である砲駒で、即死・ト
ン死が起こらないような、初期配列上の調整が
不充分で、良好なゲーム性が確保されて居無いと
いう事であった。
 その調整は、相当に難易度の高いとみられるも
のであるが、朝鮮チャンギが現に存在するため、
既存の普及した、同系統のゲームの初期配列を
参考に、web上で現在、公開されている、
この将棋の初期配列を、今は調整してみる事に
した。
 結論を述べると、以下のように変えると、多少
は、良くなるようであった。

朝鮮広将棋配列改善.gif

なお上の図では、元々交点置きのこのゲームを、
エクセルでチェックできるように、升目置きにし
ている。そして、黄色の枠の周りが、3箇所ある
九宮に当たる領域である。
 以前チェックしたときには、以下のように、

個人的な感覚で、

駒名だけ、動きを直イメージしやすいように、別
の名前に変えて、テストしているが、こちらは覚
える必要は無い。~の駒の動きという意味である。

朝鮮広将棋改善チェツク用.gif

 では、経過をもう少し、詳しく説明する。
 このゲームは、駒の構成から見て、かなり攻撃
力が過多なようであった。しかし、それとは別に、
砲駒が、序盤に帥の頭を、簡単に狙える事が問題
のようであった。
 それは、

砲の段に、砲以外の駒があるので、チャンギルール
の包の砲が、動きやすいためであった。

そこで、まず、砲は4段目に集め、他の駒は4段目
に関して、端列以外には、配置しないようにした。
 また、車が動きやすいので、帥頭に車を集中され
て、開戦早々に、寄せを狙えるようになってしまっ
ていた。そもそも、朝鮮チャンギでは、車は四隅に
居て、一段目が象馬士で押さえられていて、動き出
しが簡単には、出来ないので、ゲームが面白くなっ
ていたと考えられた。そこで、

九宮を2~4段目ではなくて、1~3段目に下げる
と共に、車の両脇を別の駒で完全に固めた。

これは”下”駒が取られても、下は九宮の中に置け
ば”士”で、ただちに取り返せるので、前に紹介し
た急戦手順が、成立しないようになるという、意味
も有る。
 更に、前列の歩・騎駒を、同一種類を集めるので
はなくて、互い違いにして、砲の先制攻撃を、かわ
し易くした。なお今回は”游”を、中国シャンチー
の象動きとした。が、仮にこれを、隣接升目にも行
ける、踊れない飛龍にすれば、図のような”游”と
”伏”を交換した配列だと、出だし▲7六砲、
△5五馬、▲7十砲等の展開になり、以下、一応の
収まりはつくと見られる。
 今述べた事の繰り返しだが、近王動きだが、ほと
んど相手駒を捕獲できない”伏”駒が、前段に有る
のが無意味だったので、シャンチーの象駒動きの
”游”と取り替えている。
 以上の結果が、前記の初期配列図に示されている。
 なお、以前の岡野伸氏のチャンギ情報(ニ)の紹
介のときに、落としたが、将は九宮から出られない
ルール、将を取られると、将九宮の列の自陣一段目
から5段目までに居る、味方の駒が、いっぺんに排
除されるルールを採用した。
 以上のように、初期配列を変更してチェックする
と、web上の現在普及している、朝鮮広将棋より
は、急戦であっと言う間に、ゲームが終わってしま
うような手順が、一応消失して、

以前に比べると、かなりゲームはマシになる

との感触を得た。
 なおこの変更は、広象戯志の文言を、

多少、拡大解釈すれば、可能な程度である

と私は考える。岡野氏の言うように、”前”と”後”
は、文字通り前後が逆だが、更に”游”と”伏”も、
広象戯志には、”伏”が陣深くに配列するように、
逆と見なせる内容が、書いてあると私は読む。また、
文節番号29は、頭の”先鋒”が抜け落ちており、
文節番号30と韻を踏んでいて、後が内営内、前が
内営外だが、どちらも敵陣へ出撃も出来ると、

前と後とで、初期配置の所属領域が異なる事が、
(29)と(30)には、元々は書いてあった

と私は見ている。
 ともかく、

現実として、確立されたゲームとして朝鮮チャンギ
は有る。

ので、馬・象の影がやや薄いのは気になるが、陣形
が全く崩れないうちに終わる、天竺大将棋に比べる
と、かなり、マシなゲーム程度までは、確立した
朝鮮チャンギを手本にすれば、調整は出来るのかも
しれないと、私には思われた。(2019/08/26)

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朝鮮広将棋は指されたゲームなのか(長さん)

だいぶん前の事であるが、朝鮮広将棋のweb上
の情報を、本ブログで紹介した事があった。
webには、駒の動かし方ルールの説明が無く、
本ブログ上で、適当に判らない駒のルールを補っ
たものであった。

攻撃力過多であり、優秀なゲームとは言えない

と結論したと記憶する。その後昨年、2018年
の7月に、将棋ゲームとその歴史の研究家で知ら
れる岡野伸氏が、自費出版書で、チャンギ情報集
(二)を出版しているのを、最近知った。
 そこに、このゲームの、駒の動かし方や初期配
列に関する研究結果が載っていた。”広象戯志”
を、内外国の遊戯史研究者および、岡野氏自身が、
解読した結果のようである。
 それによるとチャンギに有る駒は、想像通り、
チャンギそのものだったが、無い駒についても、
概ね解読が進んでいると言う事である。すなわち、
兵駒の”騎”は、石将動き。
”前”は、ほぼ嗔猪だが、行人のように、邪魔駒
としてしか使えない。(次の後と動きは同じである。)
”後”はほぼ嗔猪。ただし、九宮では線に沿って
動く。
”伏”は大大将棋の近王そのもので、通常でも斜
めにも歩む。つまり、線に関係なく8方歩み。た
だし、伏しか取れない。
”奇”は、隣接升目へも行け、跳べる猛牛。
”游”は、中国シャンチーの象の動きである。
 今回は、前に紹介した、初期配列等で、岡野氏
の指摘に従い、”前”と”後”を交換した上で、

この動きとして、ゲーム性は良好であるのか、

日本の普通唱導集の大将棋のように、従って昔

指された可能性があるのかどうか

を論題とする。
 答えを先に書く。

依然攻撃力過多だと考える。

また、このゲームはそもそも、日本の

江戸時代にやっと、成立したとみられ、盛んに指
された可能性は、ほぼ無い

とみられる。
 では、説明を続ける。
 このルールで、本ブログで紹介した初期配列で
は、北宋将棋のような、歩側端筋の砲により、相
手騎の2枚の、横歩取りが初期配列で可能である。

だから、良い出来とは言えない。

また、7十一位置の先手の砲を、▲5十一砲左~
▲5八砲△4ニ車▲7八歩~▲8八砲△7五後
▲1八砲で、相手の後駒を取ると同時に、相手
陣奥へ、砲が切り込む手筋が自明に見える。だから、

跳び超え駒で、急戦にならないように、砲の有る
象棋は、初期配列を旨く調整しなければならない

という、ゲーム性を良くする基本に則って居無い。
 たとえば駒名を、ルールを間違えないように、
する目的で適当に変えて、エクセルで出来るように、
交点置きから、升目置きに変えると、以下の初期
配列になる。なお、九宮の中でだけ、チャンギでは、
多くの駒の、動かし方が変わる事に注意が要る。

朝鮮広将棋初.gif

そして、砲と車を中央に集めるように指すと、以
下のように、比較的簡単に終わってしまう、場合
があるようだ。

朝鮮広将棋終.gif

従って、このゲームには、北宋将棋時代の、

古シャンチーにも存在するタイプの難点が有る

と私は考える。
 また、以前に本ブログに述べた時点で、朝鮮広
将棋は、日本の南北朝時代のものかとも、個人的
に考えたのであるが、岡野伸氏の前記、自費出版
書籍(2018年)により、

18世紀に成立したと、考えるようになった。

 広将棋と言っても、19路の囲碁盤を使って
おらず、15筋14段なので、元々このゲームは、

日本の後期大将棋が、李氏朝鮮へ伝わった結果、
南有容によって真似て作成され、雷淵集27巻に
載っただけの可能性が高い

と、少なくとも本ブログでは疑う。
朝鮮チャンギと中国シャンチーには、9升目の
日本の標準タイプの平安小将棋のように、旦代の
難点というゲーム性の難は特に無く、駒数多数
将棋の前身である

”第2標準ゲーム”が作られなければならない、
動機付けを、基本的に欠いている

と考えられる。よって、砲の動きをシャンチーか
らチャンギに変えるときに、やや緩慢にしたとし
ても、チャンギにゲームとしての難が発生したと
は考えられない。だから、その改良のために、
朝鮮広将棋を作らなければならない、動機付けは
無いと思う。更に文献初出が、日本の江戸時代で
あるから、日本の将棋書の将棋図式等が李氏朝鮮
に渡って、日本の後期大将棋のようなものを、真
似て作ってみたいという、興味本位な動機で、
南有容が、問題の駒数多数チャンギを作成した疑
いが、このケースにはかなり可能性が高いと、私
は思う。
 南有容が、朝鮮チャンギの類似、第2段品を作
成するに当たり、砲駒でトン死が多発し易い中で
の調整である為、そもそも、そのようなゲームを
作る事自体が相当に難しいという、覚悟を決めた
上で、問題の

広将棋で、砲の数、配列、兵の構成を巧みに工夫
しているようなフシが、今の所余り感じられない。

 ちなみに、岡野氏紹介の(朝鮮)広象戯志の文
と、本ブログ等の初期配列は、まだ、ヅレている
所がありそうだ。しかし、それを直したところで、
車や砲が、15×14路の盤で大きく動くので、

駒の連関性の弱い、シャンチー・チャンギ系の陣
は、これらの駒の攻撃に対して、元来脆すぎる

ように、私には思える。従って、
1)この駒数多数ゲームが、日本の中世に当たる
時代に、朝鮮半島で、ある程度指されたものとは、
考えにくい。
2)日本の近世にあたる18世紀に、思いつきで
作られた、”火鬼が走り過ぎの天竺大将棋”と、
同程度の低いゲーム性のゲームに、有る程度調整
したとしても、留まる恐れのあるものである。
 以上のように今の所、私は予想しているので
あるが、どうだろうか。(2019/08/25)

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牛僧儒はなぜ吐蕃国の象棋を岑順で書かなかったか(長さん)

本ブログの推定では、晩唐期成立の、中国の
怪奇小説、玄怪録岑順(小人の戦争)の将棋は、
中国雲南省付近を中心に存在した、南詔国のゲー
ムであり、牛李の抗争の一争点となった、吐蕃国
の象棋とは考えられないという事になっている。
 では、親吐蕃国的な政策を主張していた、
牛僧儒なり彼の仲間が、吐蕃国でなくて、唐と
吐蕃との間の緩衝国である、南詔の将棋を岑順
(小人の戦争)の中で持ち出したのは、どんよう
な経緯だったのかを、今回は論題にする。
 以下に、回答を先に書く。
吐蕃の都のラサは、国際交流が盛んな都市だった。

その為、そこで指される象棋は、イスラムシャ
トランジとほぼ同じだった。

これでは、中国国内の都市部で、大食人が指し
ているゲームを、小説の中に書いているのと、
実質同じであり、敢えて吐蕃のゲームを持ち出す
意味は無い。
 よって、吐蕃の都付近で指される、象棋を
玄怪録岑順(小人の戦争)の中では、使う訳に
は行かなかった。そのため、

やむなく、南詔の将棋を持ち出したとみられる。

では、以下に説明を続ける。
 現在チベットには、チャンドラキという、チェ
ス系のゲームを表す言葉が残っている。現在では、
西洋チェスそのものを意味する単語である。
 諸説あるが、世界の将棋の著者の一人の梅林勲
氏によれば、チャンドラキが西洋チェスを意味す
るようになったより前の、現地での意味は、

大臣が女王動きではなくて、猫叉動きのチェスに
近いものを指す

という。それは梅林氏の言う、モンゴルの弱シャ
タルと同じものである。梅林氏は、チベット
のチャンドラキは、その前にはイスラムシャトラ
ンジとイコールだったと、考えているようである。
 この考えを

本ブログでも、今の所支持する。

 従って、吐蕃国時代のラサでの象棋は、恐らく
雲南と異なり、イスラムシャトランジないし、そ
の類である可能性が高いと、今の所私は見る。
 つまり、晩唐の唐の都長安と、吐蕃国の都市の
ラサでは、

都市の人間の言う象棋が、ほとんど同じゲームを
指し、それは実質、イスラムシャトランジだった

と考えられる。物語上で、戦闘が終わった所で、
岑順の作者は、金象軍の勝因を”神の、ご加護に
よるもの”という類の、

囲碁文化と比較した場合に、将棋棋士を小馬鹿に
したような観戦記表現を、最初から取るつもりだっ
た。

ので、小説を書いている場所の近間に、プレーヤー
の居るゲームを、できるだけ、取り扱いたく無い
と考えたのだろう。そのため、吐蕃国との間の関
係で、”唐王朝は戦略的に同盟を結ぶべきだ”と、
牛派が考えていた、南詔国のゲームを、小説の中
で持ち出す方法を、思いついて実行したのではな
いか。
 以上の経緯で、吐蕃の象棋は、長安の大食移民
のゲームといっしょだったので、雲南・南詔国の
ゲームに、小説の中でのゲームの題材を、取り替
えられたのではないかと、私は考えるのである。
(2019/08/24)

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高麗国の宮廷に、雲南の大理国将棋は贈られたのか(長さん)

言うまでも無く、現在の朝鮮半島では、中国
シャンチーに酷似の、朝鮮チャンギが主流で
ある。しかしながら、今から1000年程度
前の北宋時代に、北宋商人を通じて、中国と
高麗王朝の間に、交易があった事は明らかだ
ろう。その間、日本へは雲南の将棋が、交易
品としてやってきたと、本ブログでは従来よ
り推定・主張している。理由はともかくとし
て、高麗に北宋商人等が、原始平安小将棋
(8升目、取捨て、酔象1枚型)と同じと
みられる雲南大理国、宮廷将棋を伝来させ無
かったのか。また、有ったとしたら、日本の
ように、それが朝鮮半島では、主流になら無
かった理由は何だったのかを、今回は論題に
する。
 答えをまず書く。

高麗の宮廷に、北宋商人が、雲南大理国の、
日本の小将棋の原型を伝えた事は、有った

と本ブログでは見る。しかしながら、
武者、貴族、僧侶、果ては庶民等、
贈答先の国の、贈答人とは別の広範な階層に、
宮廷用の玉金銀装飾将棋の、ルール同一品が、

日本のように広まる事は、朝鮮半島高麗国で
は起こらなかった。

理由は、日本の平安期と違い、高麗国では、

国境警備隊の主力が荷揚げ港に居なかった為

であると、考えられる。
 では、以下に説明を加える。高麗国の国境
警備隊の武者は、

北部の遼(契丹)との境目と、半島の東の沿
岸に、女真族の侵入に備えて、11~12世
紀には、主力配備されていた

と考えられる。他方、北宋からソウルへの、
交易品の伝来は、

黄海沿いだった

と考えられる。つまり、伝来の貴族・皇族用
の贅沢将棋の道具は、高麗では、博多の近く
に居た大宰府の武家と違い、

自分の居所を通って、都に運ばれなかった。

だから、武芸を磨く目的で、行われる将棋・
チャンギは、皇族・貴族の贅沢な御遊び用の
将棋と、

兼用になるという事が、高麗国では無かった。

武芸を磨くに相応しい、ゲーム性が向上して
から、民間ブームのレベルで大理国将棋より
も100年以上送れて伝来した、中国シャン
チーからの変性ゲームの、朝鮮チャンギが、
従って、高麗では、武者の武芸の上達のため
のゲームとなった。
 他方、大理国の絢爛豪華な玉金銀装飾将棋
は、高麗では、本来の目的の通り、皇族や、
上級貴族の遊びとして使用され、

王朝が衰退するか、消滅してしまうと、それ
と共に、消えてしまった。

 以上のような経緯で、結局、他の点で高麗
と日本とで差が、それほどは無かったにも係
わらず、日本では民間に、五角形駒に遊具の
形を変えて、玉金銀装飾将棋は生き残り、朝
鮮半島、韓国・北朝鮮では、朝鮮半島のチャ
ンギが、主流として残っているのではないか
と、私は考えている。
 以上の状況は、前に述べたが、北宋と李氏
大越の境、チャンパ王国と李氏大越の境に、
国境警備隊が配備され、大理国と李氏大越国
の間には、事実上、緊張が無かったために、
大理国の将棋が、(一例)周文裔が通過した
際に民間に伝わらなかった、ベトナムと、韓
国・北朝鮮は、ほぼ同じ状況だと私は考える。
 なお他の国は、概ねイスラムシャトランジ
が、その前に、その国の将棋・象棋文化を、
制圧していたと私は見る。
 特に朝鮮半島の現在のチャンギを見ると、
象は、八卦思想を強調しようとして、イスラ
ムシャトランジの象から、変更しているし、
士は恐らく、日本の小将棋に後影響を受けて、
漢・楚と同じルールに変わっている。また、
象と馬と、場合によっては車までもが、交換
できるルールになっていて、インドのある地
方や四人制チャトランガのあるバージョンで、
象、馬、車の配置が入れ替わる事を、連想さ
せている。つまり、

イスラムシャトランジに対する”こだわり”
は、中国の北宋とは異なり、高麗国内では、
それほどまでには、強くは無かった

と、考えられるという事であろう。
 だから、古インド系の系統の大理国将棋が
定着しないのは、イスラム科学・天文
学への信仰から、イスラム文化を吸収すると
いう傾向ばかりで、あるからではなくて、
高麗王朝内では、

皇族・貴族も含めて、高麗では古インド文化
でも良しとしたが、情報そのものが日本と違っ
て単に、別の場所に居た”底辺層”に、伝わ
らなかった、だけだからだ

と考えた方が、より尤もらしいのではないか
と私は思う。
 日本は間宮海峡で大陸と続いているが、寒
すぎて、ユーラシア大陸の他民族が侵攻して
来る事が、それほど頻繁には無く、間にアイ
ヌも居たから、国軍の駐屯場所として、北海
道等が重視される事は、古代末期には、それ
ほど無かった。そして、

もっぱら博多が、軍も交易も玄関だったのが、
皇族・貴族の玉金銀装飾の唐物贅沢品将棋
と、武芸上達用将棋の兼用という、特異な状況
を日本でだけで生んだ理由

だった。
 以上のように、一応考えられるという事で
あろう。(2019/08/23)

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中国四川省で11筋10段象棋盤が発見されていた(長さん)

西暦2019年4月24日の、中国四川省の
地元新聞とみられる”甘孜新聞”に”甘孜県
内にて、晩唐時代かと疑われる、石に彫った
彫刻物様の姿で、11筋10段象棋盤(河無し)
に見える、格子模様の遺物が発見された”と
の旨の、写真が載っているようである。
 北宋象棋の類とみられる遺物が、今年春、
中国の四川省で発見されていた可能性が、
あるという事らしい。

北宋象棋盤.gif

 サイトは、

https://kknews.cc/culture/42z46y2.html

となっている。石の破片が右の方に写り、
また、撮影者とみられる、人の体の一部が
上の写真のコマでは、たまたま切れているが、
別のコマの写野に入っている。盤の縦横線の
メッシュは、正確には判らないが、その地方
新聞には2.5センチ角と書いてあるようで
ある。よって囲碁や中国象棋の、遊戯盤程度
の大きさと升目のメッシュのようだ。写真の
説明では、囲碁類の盤の石刻品となっていた。
 岡野伸氏の北宋象棋で、河は普通のシャン
チーの1跨ぎ巾に、変えたようなものだと考
えると、この盤で象棋をするとすれば、ゲー
ムの内容のおよその性質の、予想は付くよう
に思える。
 この遺物の成立時代は、正確では無いよう
なので、晩唐ではなくて、北宋初期として
考えると、北宋象棋の盤である可能性がある。
すなわち、砲を一段目に配列した、既に交点
置きのシャンチーは、ゲーム性に難があると
はみられるものの、本ブログの予想と違って、
当時四川省のかなり西の奥まで、北宋の時代
の初期に、分布が拡大していた可能性があり
そうだ。(2019/08/22)

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