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玄怪録岑順「小人の戦争」の日本伝来は何時(長さん)

本ブログでは、中国雲南の南詔国の将棋は、山の
中である事と、貴族しか指さず、棋士の頭数が少
なかったという理由で、西暦1015年まで、
日本へ情報は、全く入らなかったと推定している。
 つまり、インドの四人制チャトランガの第1波は、
持駒使用の謎で、将棋史研究家で将棋棋士の
木村義徳氏が述べているように、

西暦600年~650年頃発生して、西暦775
年頃には、南詔(中国雲南)までは届いた

と本ブログでも見る。が、直後に勃興した、
イスラムのアッバース朝の象棋、
イスラムシャトランジ(アラブシャトランジ)に
圧倒されて、ただちに波は、”腰砕け”になって
減衰し、辛くも北宋商人、(一例)周文裔の貿易
船に乗って、ゲーム具1組だけが、南詔到達に遅
れる事、約240年後の西暦1015年の年初に、

やっとこさで、日本に届いたというのが、本ブロ
グの見方

という事である。
 しかし、この将棋ゲームは、少なくとも本ブロ
グでは、唐代の政治家、牛僧儒作か、その時代作
とみられる、玄怪録岑順、イコール『小人の戦争』
の将棋、宝応将棋と同じ物と考えられている。
 従って雲南の将棋が、直接わが国に伝来しない
としても、今では東洋文庫蔵の、唐代伝奇集2収
録の玄怪録の岑順が、日本に伝来していれば、
将棋が伝来したのと、ほぼ同じと言っていいとは
考えられる。では、南詔~大理の将棋が直接では
なくて、玄怪録からの情報として、いつ日本に来
たのかを、ここでは問題とする。回答を先に書く。

陰陽寮に安倍晴明が居た頃、太平広記の中の記載
として伝来した。西暦1000年前後がよって初

とみられる。
 では、以下に説明を続ける。
 結局の所、これでは、
後一条天皇の玩具等として、雲南大理国の将棋が
伝来したのと、牛僧儒の怪奇小説、玄怪録岑順
「小人の戦争」の伝来とは、ほぼ同じと言って良
い程度だと言う事になる。
 玄怪録が、唐の時代に著作された頃、長安では
その小説は知られていたし、雲南に、金銅の立体
駒で将棋を指す、南詔の貴族が居る事は、中国の
中原の人間なら、たいていは、知っていたに違い
ない。
 しかしながら、それを遣唐使等を通じて、

日本へ情報として伝えなければならないほどの、
大げさな話では、特に無かった

のではあるまいか。山で金銀が取れて、そのへん
一帯を支配する国が有れば、金・銀で作ったゲー
ムで上流階級が遊ぶという話のは、自然といえば
自然であろう。それが隣接している国なら、その
国の中だけでは、話題になるかもしれない。つま
り隣国の、都市部の噂話としては成立するが、
”それだけのもの”なのではあるまいか。
 つまり、日本の陰陽寮へ、業務用の関連文献と
して、当時の稀少書『太平広記』が、中国の北宋
から贈られてから始めて、(伝)牛僧儒作の怪奇
小説も、日本に知れたという程度の、経緯なので
はないかと、今の所私は疑う。つまり、晩唐や、
五代十国の時代に、牛僧儒の怪奇小説が、日本に
伝来していたとは、私には余り考えられない。
 貴金属の立体駒で指す、中国山奥の将棋が有る
という事は、太平広記に関して、それを読んでい
たので、安倍晴明と繋がりの有った、藤原道長は
知っていたのだろう。だから彼は、火災で焼けた
大内裏の金銀飾りとして使える事と、孫の玩具に
なる事は、(一例)周文裔が、平安小将棋の道具
を、雲南から持ってくる前から、認識していた可
能性が有るとは、一応考えられる。
 しかし、安倍晴明や藤原道長より前の日本人が、

宝応将棋について、知っていた可能性はほぼ無い

のではないかと、今の所私は疑う。太平広記に、
たまたま入れるという以外に、日本に表題の怪奇
小説を、予め伝来させなければならない、強い動
機が、特に見当たらないように思えるからである。
 従って、たとえば藤原秀郷等も、西暦940年
に平将門を成敗して日本の朝廷に寄与し、言うな
らば”銀帯大将軍”であったのだろうが。それを
見習って、坂東の武者達が、宝応将棋を指すとい
う事は、原理的に不可能であっただろうと、今の
所、私は考えるのである。(2019/08/21)

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