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本ブログの普通唱導集大将棋”終焉型”の名称を変える(長さん)

さいきん、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所が2017年に
出版した、集成・鎌倉の墨書(出土品)の記載から、鎌倉市
鶴岡八幡宮境内出土駒の成立が、遅くとも、鎌倉時代末である
事が判った。お恥ずかしい事に、読み直してみると、本ブログ
のページによって、ばらばらなのだが、普通唱導集大将棋の、
①普通唱導集大将棋が唄われた時代、②成り金の少なかった時
代、③栃木県小山市出土の神鳥谷曲輪角行駒を根拠史料として、
金成りの多かった時代の普通唱導集大将棋、以上、成りだけが
違う、3種の普通唱導集大将棋の名称が、適切で無かったのに
気がついた。そこで今後は、成立時代の順序が、
①→②→③の順である事を、明確にした上で、①を1290年
型、②を鎌倉末型、③を南北朝型と、名称変更する事にした。
 要旨は以上だが、以下にもう少し、詳しく説明する。
すなわち、2年前の夏休み頃のページを再掲して、その事を
示すと、次の通りである。

”私説108枚制普通唱導集大将棋の成り規則変化”再掲載:

西暦1290年頃に、以下の普通唱導集大将棋(私説)が発生
したと考え、そのオモテ面は以下のようだったとみた。この
配列自体は、以後の普通唱導集大将棋については、変化しなか
った。なおここより、中将棋、後期大将棋が分岐したとみる。
だから、後で述べる成りそれぞれについて、オモテ面は以下の
配列で同じである。なお、猛虎が盲虎に変わったのは、本ブロ
グによると中将棋からである。以下は、相手側の駒を見ている
形に、たまたまこのとき書いたので、ここではそのままとする。

オモテ面(数字は段目)
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

普通唱導集に唄われた、西暦1290年タイプの普通唱導集大
将棋の成りは、次のようなものとした。
 西暦2017年タイプでも、方行を不成りとする事にして、
このパターンの成りを推薦した。2017年型は、2~3段目
の駒が一部入れ替わるが、裏表とも、位置の変わる駒は、その
まま、移動させるという意味である。ちなみに、移動するのは、
猛牛、飛龍、竪行、横行の4枚。嗔猪が不成の、方行に置き換
わるとした。また、その後2019年に、部分持駒ルールバー
ジョンで横猪の使用も提案したが、この駒も不成で良いと見る。

成り面:西暦1290年タイプ(普通唱導集大将棋1290年型)
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

次に、将棋纂図部類抄の後期大将棋型の成りが、西暦1320
年ないし、西暦1350年まで、鎌倉の鶴岡八幡宮境内遺跡の
出土駒の成を根拠として、存在したとした。これを今後は以下
のように、名称を変える予定である。

成り面:(旧名称)1320年型または1350年タイプ
→(変更)普通唱導集大将棋鎌倉末型
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒を見る限り、歩兵の成りは、
確定的でない。不成りの可能性が有る。
 次に、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、成り一文字金角行駒
を根拠に、麒麟抄の記載の影響下南北朝時代には、
普通唱導集大将棋(1350年版または1320年版)が逆に、
金成が、一時的に増えたと考えていた。最近では、近衛文庫の
蔵書パターンから、近衛経忠等、特定の人物の横行の中国語の
意味が、擬人的である事が原因か、ともしている。つまり具体
的な増加は、近衛経忠等、小山駒の原作者が横行の中国語の意
味から人と見て、行駒を金成りにしたのが、原因だったと見る。
具体的には、次のような成りパターンの普通唱導集大将棋があっ
たとみられる。これも今後は以下のように、将棋タイプの名称
を変える。
成り面:(旧名称)1320年型または1333年~1350年頃の型
→(変更)普通唱導集大将棋南北朝型
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

ページによっては、進化が①→③→②のように書いてある場合
もあって徹底されていない。鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
の成立年代を、頭の中で新しく見積る傾向が、集成鎌倉の墨書
を読む前には、強かったためである。なお小山の成り一文字金
角行駒のオリジナル品の成立は、西暦1340年頃と、最近で
は私は見ていた。
 ちなみに栃木県小山市の出版した、発掘報告書”神鳥谷曲輪
遺跡Ⅰ(第1分冊)”には、”(荒くれ者の)小山氏の武士団
が、鎌倉時代中期に整備された鎌倉中路の道路を破壊して、
小山義政の館および井戸を成立させた”としており、道路の整
備年である、概ね西暦1270年の

63年後の西暦1333年より後の南北朝期が将棋駒の成立年

だと、実質的に表現されている。従って、

鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒成立が14C初なら明らかにその後

である。
 従って平安大将棋から、江戸時代の後期大将棋までの金成り
割合の挙動も、”減少して、増加して、減少して、増加して、
減少して、中将棋型化した”と、以前表現したが、史料と合わ
ない。つまり、

減少して、増加して、減少して、中将棋型化したと一山減らす

必要が有る。
室町時代初から戦国時代末までは、摩訶大大将棋のパターンに
近い金成りの増加した後期大将棋が、小山市神鳥谷曲輪角行型
から、二巻物色葉字類抄の1冊/4末尾の大将基馬名の時代ま
で連続して、多い時代が続いたと今後は主張するようにしたい。
 以上で、再掲載の内容は終わる。
 つまり1290年型と鎌倉鶴岡八幡宮境内駒型との間に、
金成りの多い普通唱導集大将棋が有ったという、客観的証拠は
無いし、小山市神鳥谷曲輪遺跡角行駒と、
二巻物色葉字類抄第1分冊末備大将基馬名の後期大将棋との間
に、金成りの少ない大将棋の時代が有ったという、確かな客観
的証拠も、実は両方共無かったのである。ちなみに、小山朝政
直系小山氏滅亡の、西暦1397年直後頃、普通唱導集大将棋
は後期大将棋へ、大将棋自体は完全移行したとみられる。
(2019/06/15)

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鎌倉市小町1984出土”絡ム・・口王馬馬仲”木札(長さん)

神奈川県鎌倉市より過去、大量の墨書史料が出土し、
将棋関係では、14枚を数える将棋駒と、中将棋の
ルール木札が有るとの旨、今まで本ブログでは紹介
した。
 今回は、誰でも持つ疑問だと思われるが、

何か他に無いのか

という点について、論じる。
 答えを先に書くと、ほとんど無いが、

強いて言えば普通唱導集に似た文句の細長い木札が
ある。

すなわち、
将棋の駒に出てくる文字が、1物品に3文字以上有
り、総文字数が10字未満の物としては、表題の
”(本当はてへんに弱の搦)絡・・・口王馬馬仲・・”
という木札が、かなり前に出土している。鎌倉駅の、
当時”国鉄による立替工事”のときの発掘によるも
ので、西暦1984年のものである。
 他でも、何処かで見たような気もするのだが、私
には集成鎌倉の墨書(2017)に載っているスケッ
チのみが、今の所しっかり確認できている。鎌倉市
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の将棋駒群と同じ頃の、
鎌倉時代末成立と、集成鎌倉の墨書ではされている。
若宮大路周辺遺跡群(駅構内小町の当時の蔵屋敷跡
遺跡)とされ、鎌倉の墨書の整理番号で”木製品の
301番”となっている。
 なお、最後の字の”仲”は”猛”かもしれないし、
”人偏に車”かもしれないし、”佛”かもしれない
し、字ははっきりしない。以下の説明の都合上、
私が個人的に、”仲”と読んでみたものである。
 答えから書くと、非常に希望的に読むと、

普通唱導集大将棋の唄の戦略を述べた、将棋攻略本
の断片

とも取れる。レ点や一ニ点を付けると、こうだ。

絡(搦)メル(二)奔王馬馬ガ、仲人ヲ(一)。

以下、更に補足説明を加える。
 まず、馬が入っているし、最後の字も仲のような、
猛のような字なので、平安小将棋の持ち駒タイプの
将棋ゲームに、関連しない。残りは、普通唱導集時
代の大将棋しか、少なくとも私には考えられない。
集成鎌倉の遺跡には、王の上にも、不明の文字があ
るとされているので、この王は王将の王ではなくて、
奔王の王だと仮に考えてみる。
 すると、2枚の角行を相手右仲人にアテて、横行
を切り倒そうとしている所で、龍馬2枚と奔王にも
加勢ないし絡ませたと、(無理にだが)文を組み立
てる事も、この木製品については、理論上は出来る
のかもしれない。
 何れにしても、何が書いてあるのか、または棋譜
の一部なのかもしれないが、将棋と関連が、万が一
有るとすれば、

平安大将棋や後期大将棋に関連しており、龍馬の無
い平安小将棋には、概ね関連しないとみられる木札

である。
 ただし、将棋攻略本の一節では解釈が、苦しいと
見られる根拠がある。

絡(本当は”てへん弱”の搦)と口王の間が離れている

という点である。”その空白部分の『角行角行』が
消えて、見えなくなっている”と言われれば、もと
もこも無いが。
 ざっと見たが、集成・鎌倉の墨書で、将棋に関連
する疑いが、微かであっても感じられるのは、今の
所、以上の出土史料群だけである。
 今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札も、いっ
けんは和歌を、ひらがなを中心にして書いたように
見える札であった。だから、それと同類のフォーマッ
トの札はまだあり、私には全部が読み取れた訳では
ないのだが。少なくとも簡単に、将棋関連とわかる
遺物は、これら以外には鎌倉市内では今の所、余り
出土しては、居無いようである。(2019/06/14)

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神奈川県鎌倉市二階堂荏柄遺跡木片の字は異字の水(長さん)

以前に、今回取り上げる神奈川県鎌倉市の鎌倉市教
育委員会の遺跡発掘担当者が、大倉幕府周辺遺跡と
呼んでいる、鎌倉市二階堂荏柄の将棋駒状の大き目
の木片を字を、本ブログでは”氷”(?)と読んだ
旨を述べた。が、

氷ではなくて、水と書いてあるようだ

という話を以下する。

どちらにしても、将棋駒では無い

というのが、本ブログの見解ではある。
 この遺物は、前記の鎌倉市教育委員会の発掘担当
者が西暦2002年に掘り出したもので、大倉幕府
というのは、複数の成書で、源頼朝時代からの、
鎌倉幕府の場所の事とさる。問題の出土品は、西暦
1185年~1233年程度に成立したものと、さ
れるようである。長さが5センチ巾が2.7センチ
程度あるように目視され、将棋駒より有意に大きく
”にすい”状の墨跡が、表面にだけ有ると集成鎌倉
の墨書には、表現されている。書き字の内容だけか
ら言えば、今小路西御成小学校遺跡金将駒と共出土
の五角形木片が無地なので、一覧の中では2枚とも
疑われる。が、今小路のは大きさが、長さ3センチ、
巾2センチ程度な為、こちらは字が無くても将棋駒
だと判る。
 そこで板の大きさからみて、氷のありかを知らせ
る等、別の用途の札なのではないかと、本ブログで
は、鎌倉市二階堂荏柄の”駒”(木製品No139)
だけ、”集成鎌倉の墨書”の中で将棋駒に分類され
る遺物としたものについて、疑がっている。
 ところでさいきん㈱遊子館が、西暦2012年に
発行した、井上辰雄監修の”日本難字異体字大字典
-解読編-”で、問題の出土品の墨跡に似た物を探
していたところ、

漢字の”水”で、左側が”にすい”になる異字が載っ
ていた。

 国語の漢字の得意な人だったら、常識だとして知っ
ていたのかもしれないが。私は知らなかったので、
この小学校1年生用の漢字の、異字の存在には正直
驚いた。

二階堂荏柄.gif

 ”にすい”状の部分のある別の漢字は、水より
ツクリの部分の割合が大きいので、墨跡に一番近い
のは、他の”にすい”の漢字を全部見なくても、
これだろうと、私にも察しが着いた。従って単純に、
この字の一部が書かれたとも、スケッチからは取れ
る、問題の鎌倉市の大倉幕府周辺遺跡の木製遺物は、

源頼朝の居所の近くの場所で、水場を表示する為の
札のようなもの

と見なしても、説明が出来そうだと、よって私には
結論された。
 氷の保管庫は、建設がたいへんなので、そうした
特殊なものが有った訳ではなくて、単に水場に近い
所に有った木製遺物なので、腐らずに800年後に
出土しただけだったのかも、しれないようである。
そしてこれは、この時代の荷札等の形と少し違うが、
札の形の範囲内であり、たまたま将棋駒の形に近かっ
ただけだったのではないかと、この遺物については
今の所、私は見ている。
 ちなみに私には、この”異字体の水”の書き順が、
良く判らない。この木札状遺物で、書く途中で止め
たとすれば、普通の漢字の水とは、書き順が違うよ
うにも見える。(2019/06/13)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋時代成未成立(長さん)

再三述べたが、神奈川県鎌倉市御成町の、鎌倉の
遺跡発掘報告書保管場所、鎌倉市立図書館の隣、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札
には、狛犬、猛豹、中将棋型の盲虎駒の三種の記載
があり、その木片を個別の中将棋の12升目盤卓に
セットする事によって、南北朝時代に、該当将棋盤
卓での、ゲームバージョンが、”狛犬中将棋”であ
る事を示していたと見られる。
 このうち猛豹は、”もう(し/ひ)や(う)”
(ただし、”し/ひ”は、”し”と”ひ”の中間音で
発音する事を意味しているらしい)の意と表現され、
猛豹が”まうへう”ではなく、”もうしやう”と、
歴史的カナ使いで表現される、”猛将”に近い事が、
強調されている。つまり豹駒を、将駒の仲間として、
最下段に配置すべき事をも、指示していると見ている。
 今回は、”もう(し/ひ)や(う)”である事から、
別の意味で、この木札の成立時点には、いわゆる、
”中将棋らしい『成り規則』”が、不安定だったと
結論できる点について述べる。つまり、この木札と
白駒成り香車駒等が、一例として同一時代には共出土
する事は無いと、一応考えられるという意味である。
ちなみに、本ブログでは、神奈川県鎌倉市の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒群の成立を、今小路西
鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札成立の、約30年
程度前と見ている。つまり鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒に、

典型中将棋駒は無いと見られる

という意味である。
 では、以上の結論について、以下に補足する。
 重要な点は、
猛豹は猛将に近いと、21世紀の今と違って、当時は
主張しなければならなかったという事は、

中将棋では、猛豹が準将のランク付けであり、銅将の
袖隣に配置していることが、特におかしいわけでは無
いと言う事を、将棋棋士の誰もが、認めたわけでは、
無かったという事を示している

と考えられるという点である。つまり、

猛豹の成りは角行だという主張について、違和感を
唱える、当時の古参の棋士が居たと考えられる

という事である。ところで中将棋の成りは、元々、
太子、獅子、奔王に成る事が確定していた、酔象、
麒麟、鳳凰以外は、次のように、駒の強さの序列を
イメージした上で、成りを割り当てて行った結果、
成立したと自明に考えられる。
 すなわち、その序列では、次のように元駒が並ぶと
みられる。
龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、反車、香車、
盲虎、金将、猛豹、銀将、銅将、仲人、歩兵。
 結果としては、これらに次のように、成りを対応
させた。
飛鷲、角鷹、龍王、龍馬、飛牛、奔猪、鯨鯢、白駒、
飛鹿、飛車、角行、竪行、横行、酔象、金将。
 明らかに、この対応付けは、猛豹を将位同等駒と
認めるかどうかが問題であり、

バタついていたとしたら、銀将の成りが竪行か角行
かでフレが生じるために、確定できない。

 だから、皆が猛豹は、将の類の居る1段目にある
のが普通で、将の仲間に入れても良いと感じるよう
になってから、成り規則が完成したと明らかに、推
定できるはずだ。
 つまり、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋
木札のような文言が、ゲームバージョン指定札とし
て残っているような局面では、

中将棋の成りは、誰にも当たり前の物として受け入
れられるほどには未だ、確定はしてはいなかった

とみなせるのではないか。恐らく、この木札を使っ
たころの中将棋に、成りは後期大将棋の3枚程度し
か無かった疑いが強い。つまり中将棋木札の将棋は、

鶴岡八幡宮境内出土駒のたとえば、不成り香車等が、
しばしば兼用使用されるような、黎明期の中将棋

だった。
 以上のように特定できるのではないかと、私には
現時点でより明確に言えると、考えられるようになっ
て来たと思われるのである。
 この木札の存在は、以上のように、たいへん大き
いものがある。紛失したそうだが、早く見つかって
ほしいものである。(2019/06/12)

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鎌倉市御成町今小路西鎌倉市福祉センター遺跡現地確認(長さん)

2019年の6月に入って直ぐ、神奈川県鎌倉市
御成町の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
の場所を確認しに、現地を訪問した。
 御成小学校との境目に、現在小路が有って、
どうやらそこに、5号井戸跡があり、墨書”大佛”
等の折敷に関連して、本ブログで再三問題にした、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が、
30年ほど前に、出土したらしい。なお、”川底”
と、発掘場所が表示されている集成鎌倉の墨書で、
文字”え”付き渥美片口鉢と表現された、約80
年早い墨書有りの遺物は、鎌倉市福祉センター敷
地の、東側のヘイの近くにあるとみられる、小さ
な水路に有ったようである。
 以下、もう少し詳しく説明しよう。
 今小路西遺跡で有名な、鎌倉市の御成小学校は、
JR鎌倉駅西口から歩いて、せいぜい4~5分程
度の場所である。駅西口から直ぐのスクランブル
交差点を左折して、50m位で校門である。
 ちなみにスクランブル交差点で直進すると、交
差点の向こう側が鎌倉市の市役所である。奥で、
市役所と御成小学校は敷地が繋がっているようだ。
 御成小学校の向かい側に、コンビニが有るが、
コンビニの店員は小学校の位置を知らない。寺子
屋風の校門になっているので、知らない人間は、
小学校だと気がつかないためである。
 小学校の敷地はかなり広く、ここ全体で、屋敷
が2軒分だとしたら、相当に大きな武家屋敷だと
実感できる。小学校の敷地が切れる所に交差点が
あり、右へ曲がって100m位で、現地、鎌倉市
福祉センターに着く。駅から歩いて7~8分程度
の場所である。敷地の南から向かって右の、東の
塀の所に、”旧佐助川”という小さな用水川が、
あったらしいが、暗渠にしたためか良く見えない。
 昔は、塀の所を北から南に流れてきて、鎌倉市
社会福祉センターの玄関で切れるとみられていた
らしいが、よみがえる中世3武士の都鎌倉の河川
の発掘によると、ここから蛇行して、玄関先を東
から西へ流れ、鎌倉市福祉センターに隣接する、
鎌倉市の図書館を超えて、佐助が谷の方向に、昔
は流れていた事が、発見されたという。13世紀
後半の品と聞く、墨文字”え”付き渥美片口鉢は、
この消えた川底から、西暦1990年前後に見つ
かったと聞いている。
 鎌倉市福祉センターと鎌倉市図書館の間は繋がっ
ているので、図書館の玄関前を通りすぎてから、
西端に小路が有るので、そこをもう一度右に曲がっ
て、北方向に歩くと、小学校との境目を通って、
元の御成小学校の、南東端に出る。
 恐らく、この小路の辺りに井戸5があり、前記
の墨書”大佛”等の折敷が、出土したのだろうと、
想像された。息抜きの竹が刺さっていたと、評さ
れた井戸のことだろう。そこは福祉センターや、
市立図書館との境目だが、御成小学校の敷地内な
のであろう。従って確認していないが、10m以
内で、5号井戸跡のどこからか極近くで、

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は
出土したようだ

と、今回場所を推定できた。なお繰り返すと、
社会福祉センターと図書館は、隣接しているので、
図書館の敷地から、どうみても50m以内の所に、
中将棋木札は有ったようである。
 なお、図書館には発掘報告書が有ると、聞いて
いる。が私の訪問した日は、あいにくと、図書館
自体が閉館日で、確認不能であった。訪問する際
には、鎌倉市立図書館が開いている日を、確認し
てから行った方が良いだろう。なお当日は市役所
も閉庁日であった。(2019/06/11)

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鎌倉の推定南北朝期中将棋木札近傍出土の墨書遺物(長さん)

本ブログでは何回も述べてきた、表題の神奈川県鎌倉
市御成の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
は、墨書遺物としては弧立しておらず、
①近傍川跡底から13世紀後半の一文字”え”片口鉢
②地番御成町625番3から14C中”大仏”折敷、
③地番御成町625番3から14C中”花一○”折敷、
が、近傍出土している。
②と③は、御成小学校敷地内に掛るらしいが井戸跡か
ら出たようである。なお同様の、町場の小規模井戸が、
他に3つ、南側屋敷の普通タイプの南隅井戸が、他に
1つあるらしい。これらとは全く別に、北側鎌倉時代
屋敷の井戸は、2つあるらしいが、たいへん豪勢なよ
うに、よみがえる中世3、武士の都鎌倉には、書いて
ある。そして②と③の井戸からの遺物が、西暦
1350年近辺の成立とされている。②と③は、材質
が中将棋木札と同じなため、履歴に類似性が期待でき
るとみる。
 そこで結論から先に書くと、
寺の門前に在ったと見られる花売り商店の、あり合わ
せ折敷で作成された、墨書き木片といっしょの履歴で、
中将棋のゲームバージョン指定札が出土したとみなせ
ると、

中将棋木札の成立年代がやはり、西暦1350年近辺
と特定

できそうだ。
 さて、問題の中将棋木札の成立年の同定は、②や③
の遺物と同じ井戸に、本当に浸っていて、原型が持っ
ていたのかどうか、出土状況の特定に、何らかの発掘
時の事情による不確定性が有るらしく、

実は謎

とされている。
だが、同じ井戸の産物だと仮にすると、どの木製品も、

ゴミ捨て場の掃き溜まりゴミを、14世紀末に町が衰
退し始めた時に、井戸に投げ込んだため、いろいろな
ものの混ざり物ゴミの一つとして共出土してきた物品

のようである。
 そこでここでは、②と③を大事な準共出土品とみな
して、以下に補足説明をすることにしよう。
 その前に①の渥美片口鉢について説明する。この
遺物は、そもそもたいへん立派な物品だ。
 だから中将棋木札と①とは、別系統の感じである。
武家屋敷で鎌倉時代後期に、富豪でも会った時の権力
者が使い飽きたので、川に放り込んで捨てた鉢といっ
た感じである。そこで①は、水場の出土物ではあるが、
木は浮いて流れてしまう川底だし、立派さが違うので、
共出土扱いはしないことにする。
 なお、前に”うさぎとかめ”のカワラケの話をした。
そのとき”乾いた地層から4枚、かわらけが出土した。”
と述べた。中将棋木札の約30年前成立品で、
鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒群の成立と同じ頃のものだ。
実は①の渥美片口鉢と共出土の形で、カワラケ(番号
162~166)5枚が別に出ているという。これは、
中将棋木札より80年前、鶴岡八幡宮将棋駒より50
年程度前の成立の、①の渥美片口鉢と、年代も川底で
ある事もいっしょの遺物のようだ。
 カワラケは、”うさぎとかめ”の仲間の、集成鎌倉
の墨書整理番号、かわらけの156番~159番4枚
と、この162番~166番までの5枚の、合計9枚
が、神奈川県鎌倉市御成町、地番の625番区からは
出土している。むろん、無地のカワラケ、折敷は他に
多数出ているに違いない。
 さて前置きが長くなったが、

残りの②と③が中将棋木札と”ぴたりと同じ時代の物”

であり、重要だ。
 まず②と③の折敷の破片は、鎌倉市の鎌倉考古学
研究所が西暦2017年に発行した、”集成 鎌倉の
墨書”の6木製品(折敷)で、②が224番と、
③が225番と番号が付けられている。西暦1990
年の1月、すなわち、中将棋木札(同書・木製品その
他、313番)が発見された、その約3か月後に、
鎌倉市教育委員会と大学の先生との共同発掘で、地層
面2(上の方)、井戸5で、②、③共に発見されたと、
鎌倉の墨書に記載されている。
 ②の224番の折敷片には、両面に墨跡があるが、
字数は少ない。

一面が”大佛”、その裏面が”口月”

のようにも見える。鎌倉大仏での行事の縁日でも、示
したのか、持ち主が大仏という苗字なのか、私には判
然としない。
 ③の225番の折敷片にも、両面に墨書きがあるが、
②の224番と異なり、たくさん書いてある。私に読
めるのは、”集成鎌倉の墨書”で左下の3文字だけだ。

”・・花一○・・”とも、解釈できるよう

である。
 意味があるかどうか不明であるが、これらを無理や
り繋げると、ひょっとすると

鎌倉大仏の寺に墓参りする遺族用の”仏花金10文也”

といったような、意味なのかもしれない。
 寺院の門前として今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
に、南北朝時代に、ヨロズ屋のような店が有って、盆
や彼岸に仏花を販売していたので、その値札の類へ、
転用した、折敷の破片とも、とれるのかもしれない。
 よって、御成小学校の辺りは、たいへん豪華な

武家屋敷が鎌倉時代末に火事で消失した後、若宮大路
近傍の商店街のような小規模店舗の立ち並ぶ、町場の
店が多くなり、その中に”ゲームセンター”も有った

と考えても、それほどおかしくは無いような、墨書遺
物の出土パターンのように、私には思えてきた。
なお、今小路西御成小学校遺跡のゲーム関連出土遺物
としては”いかさまサイコロ”が、考古学本では良く
紹介される物品である。
 以上の事から、

問題の313号中将棋木札も、②・③折敷破片同様、
神奈川県鎌倉市御成町地番625番区の5号井戸に、
西暦1350年頃をスタートとして、長年浸っていた
と仮定して、議論を進めるしか今の所無い。

前にも書いたが以上のように、私は結論づけたと言う
事である。(2019/06/10)

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今小路西鎌倉市福祉センター木札は平凡社1989本(長さん)

本ブログでは、現物が盗難にあった、表題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は、
平凡社が西暦1989年に出版した、汎用成書
”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”
河野真知郎執筆、文字のある生活(221ペー
ジ右下)でするように、再三御薦めしてきた。
 今回は別にも写真を発見したが、相変わらず
上記成書の写真の方が、出来が良いので、今述
べた成書の写真で、確認するように御薦めする
という主旨を述べる。
 前に、その”別の文献”については紹介済み
である。神奈川県鎌倉市の、
鎌倉考古学研究所が西暦2017年に発行した、
”集成鎌倉の墨書”の写真である。すなわち
この冊子本の、第6章木製品の、313番に、
縮尺は不明のままだが、問題の木札の写真があ
り、ありがたい事に、

”裏面に墨跡が無い”旨も記載が有る。

だが、編集のとき、外枠を無理に作ったらしく、
結果、主に下部が、

約20%消失している。

 下の図で、左が成書のよみがえる中世武士の
都鎌倉のP211の、文字のある生活の写真、
右が、西暦2017年に鎌倉考古学研究所より
発行された(市場に余り出回って居無い)
”集成鎌倉の墨書”の問題の木札の写真である。

木札画像比較.gif

 左の写真の下の方の、”近くへ行く”の

末尾の”く”と、”上わゆけぬ”の”ゆ”が、
右の鎌倉考古学研究所の集成本では切れている

事が、判るかと思う。運悪く西暦2017年に、
鎌倉考古学研究所本を作成したときに、コント
ラストを上げる画像処理をした結果、本来なら
このように画像を切断すると、”ゆ”の字の、
中央の縦棒が、部分的にはっきり見える、はず
なのだが、”ゆ”の字自体が元々薄かったので、
コントラスト調整の処理で、”ゆ”の字自体が
見えなくなり、画像処理をした作業者に、ミス
が気が付かれないまま、不公正な画像で、冊子
に載ってしまったようだと、比較により判るだ
ろう。
 何れにしても、このケースに限っては、史料
の確認は、汎用で、目下の所あちらこちらで

見かける、平凡社本で出来、より入手が煩雑な
鎌倉考古学研究所本”集成鎌倉の墨書”を敢え
て入手しないと、更に詳しくできない訳では、
特に無い

点を、ここでは強調しておこう。
 なお、現物は無いようだから、それ以上の事
は、今となってはお手上げのようだ。
 ちなみに今述べた、集成鎌倉の墨書編集時の、
木製品313番の画像の劣化の件は、メモで、
鎌倉考古学研究所へ、既に私が伝えた。
 将棋史というと、政治史からは軽視される懸
念もある領域からの、忙しい人間にとっては恐
らく迷惑な”いちゃもん”だろうが。そう言わ
れてチェックし出すと、たとえばこの書籍で、
オモテ表紙裏のトップを飾るカラー写真の遺物、
今小路西御成小学校遺跡の花形出土品、

”結番交名札”の発掘年が、共出土の不成り
金将駒等と同じく、本文中で20年ズレて、
西暦2008年になっている間違い

もこれとは別に見つかるだろう。だから次回に、
鎌倉の墨書が増刷される際には、国宝館行きと
なった、結番交名札の正しい発掘年である、
1988年への書き換えと共に、ついでに、
中将棋木札(南北朝?)の写真も、正しく下の
縁まで写っているものと、交換して貰えるに違
い無いと、このケースに関しては、私は勝手に
期待しているというわけである。(2019/06/09)

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神奈川県鎌倉市より、土将と淮鶏は出土したのか(長さん)

前に紹介した、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所
が西暦2017年に発行した、”集成鎌倉の墨書”
には、天童市将棋資料館が西暦2003年に発行し
た、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”には無い、
鎌倉市若宮大路の鎌倉駅駅前小町出土の王将駒が載っ
ている。その他に3例記載が有るが、将棋駒では無
いと結論される2例について今回は述べる。残りの
”本当の将棋駒”は(2)西暦2002年に鎌倉市
扇ガ谷ニ丁目出土、裏今崩し字”と金”香車駒(南
北朝期)である。さて、将棋駒では無いとみられる
方について述べると、このカタログ書により、

鶴岡八幡宮に近い、雙六盤が出土した事で著名な、
①北条時房・顕時邸跡から、西暦2005年発掘時、
”土口”木片(木のNo.280)が、
②西暦2002年発掘時に、鎌倉市二階堂荏柄で、
第1字さんずい?将棋駒(?)(木のNo.139)
が、出土

していると見て取れる。
 何れも本ブログでは将棋駒では無いと考えるので、
以下に説明を加える。
 なおその結果、前回述べた、(1)1999年出土
の若宮大路鎌倉駅東口駅前(小町)出土の王将駒、
(2)西暦2002年の扇ガ谷ニ丁目出土、
”裏今崩し字『と金』香車駒”(南北朝期)が、成書
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)に、書か
れて居無い出土駒であると、本ブログは認識する。
 では、以下にもう少し詳しく書く。
 まず、北条時房・顕時邸跡出土の土口木片は、五角
形であり、口が鎌倉考古学研究所”鎌倉の墨書”によ
ると、”門”だが、写真が載って居無い。だから、

門は将と解釈すると、摩訶大大将棋の土将にも見える。

ただし、荷札だと疑われるのは、

上部に穴が開いているから

である。また大きさも、やや将棋駒にしては大きく、
裏は無地で奔土に成らない。出土地点が雙六盤の出土
場所で、おまけに五角形なのが悩ましいが、これは、
鎌倉考古学研究所の説の通り

荷札だと、私も思う。

 次に、②大蔵幕府跡の近くの二階堂荏柄で、僅かに
”にすい”のような、”さんずい”のような墨跡の残
る、五角形の将棋駒状の木片が出土している。これに
ついてであるが、

”集成鎌倉の墨書”では、将棋駒に入れている。

”さんずい”として将棋駒をあてれば、摩訶大大将棋
の、”成り仙鶴の淮鶏”駒しか、私には考えられない。
しかし、これについても、

駒の大きさが、将棋駒にしては大きいし、スケッチが
正しいとして、さんずいが、やや巾が広すぎる感じだ。

個人的見解で、正直当てずっぽうであるが、”土口”
木片が、”土門”が土だったのに対し、こちらは”水”
系であって

一文字で”氷”と書いてあった

のではないかという気が私にはする。大蔵幕府跡の近
くの二階堂荏柄で、氷を貯蔵する倉庫のような物が、
鎌倉時代の初期に、ひょっとしら有ったのかもしれな
いと思う。何れにしても、スケッチを素直に読むと、
”さんずい”や”にすい”では、強い駒名のイメージ
が作りにくいので、これが、かなり大振りの将棋駒の
可能性は少ないのではないかと、本ブログでは考える。
こちらも、

上部に穴は無いが、将棋駒では無くて、何かの表示用
の木札だったのではないか。

よって、冒頭に述べた通り、鎌倉考古学研究所、
鎌倉市教育委員会、その他、大学の先生等が発掘した
将棋駒のうち、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に無い
ものは、2枚だろうと、私は考えている。
 ちなみに天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも書いて
ある出土駒だが、スケッチが、別々の2人の研究者に
書かれて、相互間に、かなりの個人差があるらしく、
今小路西御成小学校遺跡1988年出土の、
不成り金将駒の字の捉え方が、天童市将棋資料館
と、鎌倉市考古学研究所の書籍の両者の間で、同じ出
土駒史料に関して、かなりの差が付いている。
前者の方には写真があり、今の所、天童市将棋資料館
の言い分を取って”将も明確に見える”不成り金将駒
としておくしか、本ブログでは仕方が無いと、これに
ついては考える。(2019/06/08)

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(コラム)童話”ウサギとカメ”。鎌倉時代成立の謎(長さん)

集成鎌倉の墨書に今小路御成小学校遺跡

地番御成625番地区の遺物

として、鎌倉時代末とされる、比較的乾いた地層を
中心に出土した、墨書カワラケが4枚程度紹介され
ている。病人が全快を祈願して作成した呪い用とさ
れる、”人面墨書かわらけ”が、比較的有名で、
別の考古学成書でも見かける。だがその他、やはり
呪術用と聞く、格子模様カワラケ(これだけ東の、
少し離れた水場井戸)と、”×/×夜人”(?)と
書かれた字のカワラケが出ている。しかし、それら
よりも、むしろ奇怪なのは、

内面にカメ、外側にウサギの絵が書かれ、童話の
”ウサギとカメ”を連想させる、鎌倉時代末成立の
墨書カワラケが出ている事だ。

 なお、4枚のカワラケは、だいたい同じ時代の成
立で、本ブログでは、中将棋木札より、約30年早
いと見る。
 言うまでも無く、童話の”ウサギとカメ”の
日本への伝来は、戦国時代後期のはずである。
 発掘場所が、端とは言え御成小学校なため、捏造
という言葉も思い浮かぶが、

何のためにする捏造なのか、動機が特に思い当たら
ない。だから恐らくこれ自体は、本物なのであろう。

 なおカワラケは、酒を飲む道具なので、昔は、
このような図柄のカワラケを使って少年も、酒を飲
まされた事を示しているのか、その他の理由なのか、
何れにしても詳しい事情は、判るはずもなかろう。
カメがカワラケの内側なので、注いだ酒を池の水に
例えて、”カメは池に、ウサギは山の中に居る”と
宴会で称した、単なる鎌倉末期の大人の、おふざけ
程度のアイテムかもしれないが。
 近くから出土した別のカワラケや、事実上同じ敷
地内出土の中将棋ルール表示の、中将棋木札札とは、
この”ウサギとカメ”絵付きカワラケは、互いに題
材がバラバラで、私には繋がりが、特に感じられ無
い。恐らく出土地点は、

いろいろなゴミが元々、大量にごちゃ混ぜて捨てら
れている、”街のゴミ捨て場”ような場所

だったに、違いは無いのだろう。(2019/06/07の2)

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従来の鶴岡八幡宮汚れ歩兵駒の裏写真は香車のオモテ(長さん)

前に、集成鎌倉の墨書の鶴岡八幡宮境内出土駒の
写真が、ズレている他人事の話をした。今回は、

別のパターンの間違いなのだが、私も間違えてとん
でもない、勘違いを今までして来た

という旨を論じる。
 結論から言うと、

①汚れた歩兵(5)の”発川”に見えるスケッチの
元写真は、開示されて居無い。
②その対応写真だと従来理解されていた写真は、
不成りの香車駒(3)のオモテ面の写真に過ぎない。
③前に、白駒に見えると指摘した写真は、従来、天
童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、
香車駒(3)のオモテ面の写真と称して、公開され
ているものと同じ写真である。天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒にも写真は、従って載っており、集成
鎌倉の墨書で初出では無い。天童将棋資料館本では、
白駒は、はっきりしない。

では以上につき、以下に説明を加える。
 以下は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、写真
スケッチ紹介順序の図である。

勘違い天童.gif

 この図の素直な見方は当然、左から、五角形に見
える部分につき、
汚れた歩兵駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ、裏写真、不成り香車駒のオモテ写真、
オモテスケッチ、裏スケッチ(右端)と紹介されて
いるかに見える。

しかし、これは違う。

 本ブログでは、単純に今まで、汚れた歩兵駒の
オモテスケッチと裏スケッチが逆だと解釈してきた。
つまり、左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、
裏スケッチ、オモテスケッチ、裏写真、
不成り香車駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)と解釈してきたのである。
 しかし、よみがえる中世3武士の都鎌倉の、鶴岡
八幡宮境内出土駒のカラー写真と、天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒の写真を比べて、

汚れた歩兵駒(5)の裏写真と天童の将棋駒・・に
書いてある写真は、実は不成香車駒(3)のオモテ
の写真、

不成り香車駒のオモテの写真と示されたものは、不
成り香車駒の裏の写真であるのに、さいきんようや
く気がついた。そこで上の図に、正しい解釈と思わ
れるものを、書き込んでおいた。
 つまり、正しくは、
左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、裏スケッチ、
オモテスケッチ、不成り香車駒のオモテ写真、飛ん
で、不成り香車駒の裏の写真、同オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)となっていたのである。
 その結果、
汚れた歩兵駒(5)の成りはスケッチには有りかつ、
飛車ともされるものの、
(1)意味不明であり、金成りだとも、奔何がし駒
だとも判別できない。
(2)金成りないし、奔何がし駒の根拠だと、本ブ
ログで論じた部分は、

香の字の第4画目と第5画目の、続けると”へ”の
字を、本ブログが単に誤認したもの

と考えざるを得ないとの結論に到達した。
 なお、上記の写真の書き込みの解釈でよい事は、
集成鎌倉の墨書で確認できる。すなわち従来、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で”汚れた歩兵駒(5)
の成りの写真”とされたものと、同じく同書で従来、
”不成り香車(3)のオモテの写真”とされたものが、
鎌倉考古学研究所の集成鎌倉の墨書で囲みで、
不成り香車駒のオモテの写真と、不成り香車駒の裏
の写真として、ペアで記載されて居る事からも、
裏付けられる。
 また、前に本ブログで述べた、
不成りとされた香車駒の裏面が、”集成鎌倉の墨書
で初出写真である”というのは誤りで、既に天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒で”不成り香車駒のオモテ
写真”として、

誤ってだが、開示されている。

縮尺が違うせいのようだが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の同じ不成り香車駒
の、正しくは裏の写真では、成書で見る限りは、

はっきりと白駒とは読めない。

本ブログで画像を小さく見せると、上記の図のように
白駒と、あいかわらず読めるので、ややこしいのだが・・・
 そして話が代わるが、汚れた歩兵駒の裏のようす
は謎としか言いようのない現状であり、問題が残っ
ている。
 が、何れにしても、
香車駒のオモテ面にある、引っかき傷を良く見て、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、汚れた歩兵駒

(5)の裏とされた写真が、不成り香車駒(3)
のオモテ面の写真だと、気がつかなかった私は
とんだマヌケだった

と、この件今回は、大いに反省させられたのだった。
(2019/06/07)

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