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平安・鎌倉期。スペア金将がなぜ作られたのか(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、将棋の出土駒の大き
さに関する、測定情報が載っている。平安時代最末期の、
岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺境内遺跡出土駒を見ると、
この時代には、駒の種類により大きさや形の差を、積極的
には付けなかった事等が判る。ただし、体裁からだろうか。

歩兵駒の大きさが、他の駒種に比べて、わずかだが小さい。

駒木地のうち、小さくロットブレしたものを、寄せ集めて
歩兵を作ったとも想像される程度の、大きさの差がある。
 ところが、統計を取ろうとすると、前記成書、
”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の中尊寺境内遺跡出土
駒の番号で、歩兵駒のうちで、

137番が大きく、歩兵を小さく作ったという仮説を棄却

させてしまう。
 この駒は、前に述べた神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
遺跡出土駒の、”5番”と恐らくは同じく、
中尊寺境内遺跡出土歩兵駒の中で唯一の、

二文字”金将”に成る歩兵

である。
 前に、本ブログでは、この種の二文字金将成り歩兵駒を、
歩兵駒の紛失による、予備の金将駒からの作り変えと解釈
する説を述べた。今回は、それの続きになるのだが、

ではなぜ、現代のように”と金成り歩兵”駒を、余分に作
らずに、平安・鎌倉期等には不成りの金将駒を、多少余分
に作って、駒が紛失したときの予備に無理やりしたのか

を論題とする。
 結論をいつものように先に書く。

大理国から伝来した立体駒では、歩兵と”と金”が、物体
として、別々だったという記憶が、まだ残っている時代の
アイディアの伝承だった

からだとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログの仮説によれば、日本の将棋は、ほぼたった
1セットの

金・銀・ネフライト玉、肉桂の彫り物、桂の木の将棋盤、
成り金の駒20個程度をセットする、輝く小さな”控え選
手の棚”等で構成される、後一条天皇所有の立体駒将棋具
の宝玉

だったと見ている。それが、経帙牌に金将、銀将、玉将、
馬、車、立体駒材質は未知の、兵と書く事に置き換えられ
たが、兵等の駒と、成りの金将と同じ立体駒の”と金”等
とが、元々は、敵陣三段目に達したときに、兵の立体駒と、
黄金製の成り表現専用金将像とを取り替える手法で、ゲー
ムが進むのを、経帙牌の裏表に、元駒”兵”と成り駒”と
金(当時は”金也”)”の名前を書き、駒をひっくり返す
事で置き換えるという手法で、ゲームの着手表現が、置き
換えられたと考えられる。この記憶は、五角形の書き駒が、
将棋駒の主流になると省みられなくなった。しかしながら、

この置き換えの記憶は、少なくとも、不成り金将駒が、統
計的に有意に多く出土する奈良県の興福寺遺跡出土駒の時
代や、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の将棋駒の作成の
時代には、まだ薄く、記憶として残っていたのではないか

と疑われる。
 そして、実際には平安小将棋を黄金将棋具で指す際に、
成り金の金将像立体駒は、全部、置き場棚から出されて、
使われるほどには、平安小将棋では、成り金将が、ゲーム
の最中に発生しない場合が多かった。ので、

予備駒のイメージで語られる事が多かった

のであろう。その記憶から、

不成り金将駒を、成りとして2文字で楷書だと不便なはず

なのに、それを敢えて無理押しして

予備駒(スペア駒)として使う習慣が、ひょっとしたら

自然に出てきた

のではあるまいか。
 だから、少なくとも鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡の時代、
すなわち鎌倉時代の中~末頃までは、持ち駒ルールはさほ
ど普及していなかったために、金将駒を他の駒に作り変え
る事が可能という条件の元で、無地駒を駒箱に予備に置い
ておくのではなくて、

現在の、余分に1~2個入った歩兵駒の代わりを、1~2
個余分に入った、裏無地”金将”駒が、果たしていた

のではないのか。
 もしそうだとすれば、
なんでもないような、使いづらい、成り二文字金将歩兵駒
だが、伝来した将棋駒具が、書き駒ではなくて、成りが自
明には表せない、立体駒だったという、

重大な情報

を、金将駒を、小将棋駒セットの、部分紛失時の予備に、
相当昔は使ったという習慣の記録は、

淡くだが、隠しているのかもしれない

と、私には疑われるという事になるのである。(2019/02/13)

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鶴岡八幡宮出土駒。本ブログ見解”歩兵3枚の成りが違う”訳(長さん)

あくまで本ブログの見解では、鶴岡八幡宮境内遺跡から
1980年前後に発掘された5枚の将棋駒は、
1)成り楷書奔王鳳凰(左上)
2)成り”(真性)と”金の歩兵(中央)
3)不成り香(車)(右下)
4)1)と同色の不成り歩兵(左下)
5)成り二文字金(+一字不明)歩(兵)(右上)
となっている。なお番号は天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
の番号、()内の位置は”よみがえる中世(3)武士の都
鎌倉”の、巻頭カラー図版の位置である。
 先行研究としては、鎌倉考古学研究所の見解とは、5)
だけが異なり、
”5・鎌倉考古学研究所)成り(普通の飛の書体に似た)
飛(車)金将”とされる。
 次に、大阪電気通信大学の高見友幸氏による見解があり、
”5・高見友幸)成り奔(+一字不明)何らかの(将)”
とされる。つまり5)の駒が何なのかについては、諸説有
るわけである。なお、たいがいの成書では、
鎌倉考古学研究所の見解が、成りの飛車について(?)マー
ク付きで紹介され、現行普及していると私は認識している。
 蛇足だが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、5)のス
ケッチ図は、オモテとウラの図がアベコベだ。
 このページの表題では、これらの解釈の中で本ブログの、

最もありきたりで、面白みの無い見解

に基づき、

鶴岡八幡宮境内遺跡(神奈川県)からは、歩兵駒が3枚出
ていると仮定

して、以下論を進める。すなわち、
歩兵の成りが、2)はきれいな”と”、4)が不成り、
5)が二文字金将というように、

3枚とも、バラバラなのは何故なのか

を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、ついで説明を加える。

5)の駒が、スペヤの金将を歩兵駒に改造して、小将棋の
駒として使ったため、ばらばらになった

と考える。
 なお4)の、1)と同色の不成り歩兵は、前に述べたよ
うに、1)の楷書奔王成り鳳凰駒、3)の不成り香車駒と
共に、時代は下るが安土桃山時代末期の、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄に記録の有る

後期大将棋系の駒であるため、はっきりしないが、不成り

なのかもしれないと、本ブログでは見る。
 では、以下に説明を加える。
 本来なら、4)の歩兵だけが不成、5)が2)のと金成
り歩兵と、ほぼ同じ姿で出土する確率が、最も高かったは
ずである。しかしたまたま、鶴岡八幡宮境内で鎌倉末期に

小将棋を指すとき、歩兵を無くして足りなくなった。

そこで前に本ブログで、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の、
”大きめな金将成り歩兵駒の出土”を説明するために導入
した、”昔は多めに作った、予備用の金将駒のウラに、
歩兵と新たに書いて代用するやり方”を、たまたま鎌倉市
の鶴岡八幡宮境内遺跡でも行い、そのために、2文字金将
に成る歩兵駒が、汚れた形ではあるが、出土したと考えた。
 そう考えなければならないのは、以下が重要だが、

5)の成り面の金の位置が、比較的駒の前の方に偏り、
将の字も存在する事を、このケースはかなり示唆している

という点である。つまり、本ブログのように考えてしまう
と5)が、一文字金成り歩兵である可能性が、余り無いと
いう点には、注意すべきである。
 鶴岡八幡宮境内遺跡の将棋駒の年代が鎌倉時代末期なら、
同じ場所で、大将棋と小将棋が両方指されたというのは、
厳密に言うと、大将棋は大将棋類だと表現すれば、

ありきたりだ

と言える。
 だから、歩兵は結局普通なら、2種類のはずなのだが。
3種類有るという事は、成りが金将だとすれば、どんな将
棋種であるにしても、初期配列に並べるとき、注意しない
と正しく並べられ無いと言う点で、使いにくい駒を、無理
やり使っているという事になる訳だろう。だから、
 金将成り歩兵が、存在すると見なせるというケースだか
ら、平泉と鎌倉は同じで、

予備(スペヤー)金将を、歩兵に改造して使った駒が、
たまたま一枚混じっていた

と説明するしか、本ブログのように解釈する場合には無い
ように思える。
 よって、冒頭述べた結論に、本ブログのように考えた場
合には、到達するという訳である。(2019/02/12)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は小さい(長さん)

さいきん、本ブログで繰り返し話題にした、表題の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札について、

新たな事実が判明した。

 表題のように、本ブログで今までは想定したように、
この木札はある程度の大きさが有り、はがきの大きさ、
以上であろうとしてきた。が、

1)実際には、それよりかなり小さく、百人一首の札
の大きさの程度

である事が判明した。情報の出所は、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡を発掘した、

上智大学名誉教授の河野真知郎氏

である。
 この結果、本ブログの主張のうち、

木札が、少なくとも一度に多数の人間が見えるように
するというタイプの、”掲示物”である可能性は、
ほぼ無くなった。

 神奈川県鎌倉市の上智大学名誉教授で、鎌倉市の遺
跡発掘で功労のあった河野真知郎氏によれば、当時

2)文字の内容の鑑定は、専門家が行い、”「漢字カ
ナ混じり文の一種」とされたが、解読不能”との結果

だったという事だ。また

3)真ん中の筋は、出土状態で割れていたが、元々一
つであると判る状態だったので、発掘後、近年に接続

したとの事。
 墨書を読んだ鑑定者の見解では、”繋がったもので
はないかと、された”との事で、私の”もともとは、
上下で繋がっていない”との説には、

河野氏としては、にわかには信じられず賛成できない

との事だった。
 更に次の質問にも、回答があった。すなわち、

4)さいしょの字が、”志”かどうかについて質問し、
No.との答えだったが、正解は、聞き漏らした。

 ちなみに、以下にその部分の拡大写真を示す。
私には何回見ても”志”の草書だ。この書籍を読んだ
事の有る、他の読者の方に、判断してもらうしか無い
と思う。

志.gif

どうやら”この木札は、誰にも読めるはずがない”と
の、かなりの確信が、いろいろ調査に手を回した事の
ある、河野真知郎氏には有りそうだった。  
なお、
5)この写真は普通のモノクロで赤外線写真では無い
そうだ。
 何れにしても、大きさは、

残念ながら、想定したものの大きさ未満で、
私の解釈には未だ、チグハグなところが有る

事だけは判った。

料理メニューのように将棋盤ごとに1セットづつ配った

のだろうか。何だか良く判らなくなってしまった。解釈
は、少ししてから考えてみようと思う。
 何れにしても”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”の、
「文字のある生活」の執筆者、河野真知郎氏が幸い、
現在も元気なようすで、ありがたかった。その結果連絡
が来て情報が更に増え、私としてはたいへん助かった。
 なお現物は、やはり紛失したようで、紛失の経緯は、
河野氏も知っているようであった。
 最後に木札とは離れるが”鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
については、将棋史研究者の増川宏一氏も、当時鑑定に
立ち会った”と、河野氏は話されていた。(2019/02/11)

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大将棋。”麒麟が左で鳳凰が右は獅子の座の為”と別解発見(長さん)

前に述べたが、中将棋や大将棋では、中段中央、一筋袖寄り
で麒麟が左、鳳凰が右に配列される。本ブログでは、理由を
西暦1275年前後で、普通唱導集時代少し前の、
当時13升目自陣4段104枚制の大将棋の時代に、酔象と
両猛虎の間に、左に成りが獅子の麒麟、右に成りが奔王の
鳳凰を入れ込んだ習慣が、後期大将棋と中将棋では、継続
して生かされた為とみる。ただし大大将棋では、鳳凰に
ちなんだ宗教施設関連のゲームデザイナーの作だったためか、
本当の理由は良く判らないが、日本ではより階層が上位とさ
れる左側上手に、鳳凰が、逆に下手右に麒麟が入ったようだ。
 つまり、左側が上手だったためで、

獅子の座という言葉が、隣に配置された、釈迦が主体となる
モデルとみられる、太子に成る酔象の、添え駒として相応し
いと考えられたための、麒麟の左置き

だったという説明を、前にした。
 最近、理由がもう一つ考えられる事に、私が気がついたの
で、それも本ブログ独自の説として紹介しよう。

答えから書く。

鳳凰の居る右辺はそこからその袖に向って、猛虎、猛牛、
嗔猪、飛龍と配列され、円環していると見て、飛龍を最初に
移動すると、

飛龍、猛虎、猛牛、嗔猪、となり、左回りの方位であるから
天球の方位を示すと見て、空を飛ぶ鳥の類である鳳凰を配置

し、左辺はそれに対して、今度は袖から麒麟駒に向かって、
同じく飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎と配列され、やはり円環して
いると見て、今度は飛龍を最後に移動すると、

嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍、となり、右回りの方位であるから
地上の方位を示すと見て、語源は馬の仲間である麒麟を配置

した。
 以上の理由による。つまり、右辺は、地面にひっくり返っ
て、空を眺めたときの、北東中心に方位の十二支として、鼠
と兎を跳ばして、鬼門の北東の牛虎を中心に、4つの動物駒
が並んでいるので、空に因んで、空を飛ぶ鳥を持ってきてい
るのであり、それに対して左辺は、普通の立って、北東を
中心に眺めた時の方位なので、馬の仲間と見られた、地上を
走る麒麟を持ってきているという意味である。
 では以下に、だからどうなのかを中心に、解説する。
 今回述べた理由付けの、前より良い点は、成りが無くても
有っても関係ない事、および、

奔王の王より、獅子の座の方の獅子が、常に格上である事を
証明しなくても良い

事である。また、

猛虎の内側に、酔象とは別に、12神に因んだ文物を、その
配置で、左右に持って来る事の、動機が自然に説明できる。

特に後者が大切

であろう。つまり、偉人としての釈迦を表す、太子成りの
酔象が入っているから、麒麟と鳳凰を入れる動機付けは
元々有るのだが、それだけなら、左右は、どちらでも良い
はずである。だから更に、

麒麟が左で、鳳凰が右でなければならない事

が、十二支駒の配置の左向き、右向きで天・地となるために
自然に説明が出来るという点が無ければ、

陰陽道の信仰の厚い、当時の将棋棋士には、”左麒麟、
右鳳凰”は、自明な配列とは受け取られなかった

という事である。
 駒数が108枚ともなれば、そもそも将棋種に

亜流が出来る要素が、幾らでも発生

するはずである。しかし、その中で主流として生き残るため
には、日本の中世の場合には、

陰陽道と、完全に同化している事が、ほぼ絶対に必要

だったのだろう。
 逆に言うと、その将棋種が滅びるとき、元々の原因は
定跡が出来てしまうという、ゲーム性の問題
だったのかもしれない。が、その改善を困難にするような、
改善しようと、配置をいじる事による

陰陽五行説との乖離という、阻害要因が無ければ、

本当の所は、
中将棋よりも、成りが少なく、獅子に関する特別な規則の
無かった、総合的に見ると中将棋よりも、ルールのより単純
な普通唱導集大将棋については、実は”大将棋は中将棋より
も、常に複雑”という名前のイメージだけから来ると見られ
る通説は、間違いであって、

実際には絶滅は、起こらなかった事だった

のではないか。
結局、

今述べた、大将棋に関する”本ブログの絶滅原因論”。これ
が、極めて大切であるという事。

以上のことが示されているように、私には思われたのである。
(2019/02/10)

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国会図書館デジタルコレクション色葉字類抄に象戯が無い?(長さん)

12世紀の中旬に成立したとされる、表題の色葉字類抄には、
”象戯の字が記載されている”とされる。国会図書館には、
最も古い、二巻物(12世紀中旬成立)が収められて、デジ
タルコレクションとして、netで閲覧できるので、さいき
ん私も、「象戯」の字を確認しようとしてみた。

が、みつからない。

 紹介されている成書の中で例としてあげると、松岡信行氏
著書の「解明:将棋伝来の『謎』」に写真が載っている。
ので、念のため、その写真と比べながら、3回探してみた。
”シ”の人事の所、下巻の76ページ前後が、本来なら
”象戯”記載の場所の、ようなのだが。

「試楽」から「シリハ子?」「偲」の字に飛んでいるようだ。

ひょっとして、西暦1200年程度に成立した色葉字類抄の
増補版、伊呂波字類抄の”十巻物”にしか、「象戯」は載って
居無いのではないか。
 実体を知らないのは将棋史愛好家では、私だけなのかもし
れないのだが。この件、正確な話については、もっと調べる
必要が有りそうだ。(2019/02/09)

(追記)
やはり、西暦1199年頃成立した、伊呂波字類抄の、
十巻物(増補版)の方には少なくとも、下記のような書体で、
”象戯”の文字が有りました。

伊呂波字類抄.gif

松岡信行氏著書の「解明:将棋伝来の『謎』」の写真も、
内容を比べてみると、十巻物の方の写真のようでした。
(2019/02/10)

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嗔猪の後退動きは、いつ消失または変化したのか(長さん)

 本ブログでは、西暦1290年の普通唱導集で大将棋が
唄われる直前に、

嗔猪は縦横四方歩みだった

考えている。根拠は本ブログモデルの13升目普通唱導集
大将棋の第2段目に、前後非対称の駒動きルールの駒が、
見当たらないためである。
 他方、現代の後期大将棋のルールは、将棋天国社の世界
の将棋に基づく、wikipediaの情報が普及し、
上記と同じルールと見る傾向が強い。が、嗔猪は、

安土桃山時代成立の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、
後退する動きを除いた、3方向歩みルールを取る事で有名

だ。事実近年でも、大阪電気通信大学では、3方向歩みの
嗔猪が、最新は違うが、かつては摩訶大将棋のルールとし
て推薦されていたと聞く。
 ここでは、安土桃山時代から現代までの、嗔猪ルールの
変化は、松浦大六氏所蔵の象戯図式の著者等が江戸時代に、
西暦1290年頃の嗔猪ルールを、たまたま、何らかの事
情で、記憶していたためだと推定し、深く議論し無い事に
する。
 すなわち、西暦1290年から西暦1590年までの、

約300年の間で、4方歩みから、後退を除く3方歩みに
どこでどう、切り替わったのか

を今回の論題とする。 
 最初に結論を書いて、ついで説明を加える。今回の結論
は、多少複雑だ。

1)1310年頃に、4方向歩みから3方向歩みに切替え。
2)1360年頃に、3方向歩みから4方向歩みに戻り。
3)1400年過に、4方向歩みから3方向歩みに再切替。

以上のようだと考えられる。
 では、次に内容を説明する。
 嗔猪の後退ルールの件については、中将棋連盟の発行し
た冊子に、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の嗔猪が、後退し
ないルールであると、今世紀初め頃に問題提起されたのが、
研究の黎明期だったと、私は認識する。
 当時、その指摘に対する反応が、有ったとは聞かない。

だから、大将棋は復元するのは難しい

という議論に留まった。先行研究で、私が知るのは以上な
ので、以下には本ブログの見解説明を始める。
まず、1)1320年頃に、4方向歩みから3方向歩みに
切替えの根拠だが、これについては、以前述べた。

普通唱導集の大将棋の唱導唄自体が、チャンギの戦法に、
嗔猪の部分が類似しており、嗔猪をチャンギの卒とみなし
て、後退動きが、唱導集成立の10年程度後に消滅した

というものである。
つまり、
西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。

と結論される。
ところで、普通唱導集大将棋で、仲人と嗔猪が腹を合わせ
られるのは、以下のような配列になっており、

嗔猪が竪行の列に居るから

である。
普通唱導集大将棋の右辺(麟鳳は左麒麟と右鳳凰)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
2段目:酔象、麟鳳、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車

 ところがその前後から、普通唱導集大将棋は定跡の行過
ぎた明確化のため衰退し、しばらくして、中将棋が発生し
て、それに取って代わると共に、15升目の大将棋へ、
進化が始まったと、本ブログでは考えている。今の所、
江戸時代後期の将棋書、中将棋絹篩の中将棋の由緒説明や、
新安沖沈没船出土、15升目将棋盤(?)の史料等は、こ
の本ブログの推定と、矛盾していない。ようするに、
普通唱導集大将棋の猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍配列は、中国
南部の闘獣棋を生んだ文化、すなわち”36禽の獣の列位
を象り”との、虎関師錬の、異制庭訓往来の思想に従って、
鬼門警護型から、獣の列位順に、15升目化に伴い入れ替
えられたとみられる。その結果、以下の15升目4段自陣
型の、中間大将棋が成立したと、本ブログは推定する。

自陣4段中間大将棋の中央から右辺(西暦1360年頃か?)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、盲虎、猛豹、悪狼、嗔猪、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

 ここで重要なのは、

獣の列位型にしたために、嗔猪が、竪行列から袖に1列移
動して、横行列に変化したと考えられる

と言う事だ。その結果、

後退する動きを削除する理由がはっきりしなくなり、縦横
4方向歩みに一旦戻るようにルール変化する原因が出来た

という点である。

実際、そのような事が起こった

のではないかとの予想から、嗔猪の3方向動きは普通唱導
集大将棋が、実質的に消滅した西暦1350年の10年後、
西暦1360年頃に、キャンセルされたのではないかと思
われる。

西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。

もう一度書くと、
自陣4段中間大将棋の中央から右辺(西暦1360年頃か?)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、盲虎、猛豹、悪狼、嗔猪、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車
となり、

そもそも、上記の配列で悪狼の5方向歩み、猛牛の4方向
踊りに挟まれた嗔猪に、3方向歩みに、しなければならな
い理由が無い。4方向歩みの記憶が蘇り、動きの対称性が
増しただろうと考えるのが、むしろ自然なように思える。
 ちなみにこの状態で、自陣5段配列に膨らんだとみる。
獅子があり、獅子に関する特別な規則もある中将棋は、15
升目化が始まる時点で既に有り、大将棋に獅子が加わったの
は、5段目と同時に、当然の如くにと私は見る。
 このとき嗔猪はまだ、竪行ではなくて、横行の列に居た
はずで、状況変化は無い。4方向歩みの中興時代は、しば
らく続いたはずだ。

自陣5段中間大将棋の中央から右辺(西暦1380年頃か?)
6段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
5段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
4段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
3段目:獅子、麟鳳、口口、口口、悪狼、口口、猛牛、口口
2段目:酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、嗔猪、口口、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

”盲虎波、斤くへ行くが、上わゆけぬ”と、紛失して今は
無い、神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札で記載されたのは、はっきりしないがこの
少し前の頃、遊学往来の成立とほぼ同じ、

西暦1370年前後の事、かもしれないと考える。

 この後、悪狼が2升目内側に寄り、猫叉が悪狼位置に、
一旦入りついで猫叉と嗔猪が場所チェンジして後期大将棋
になったと、本ブログでは考えた。

後期大将棋の中央から右辺(西暦1400年頃か?)
6段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口、口口
5段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
4段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車
3段目:獅子、麟鳳、悪狼、口口、嗔猪、口口、猛牛、口口
2段目:酔象、盲虎、口口、猛豹、口口、猫叉、口口、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、桂馬、香車

この時点で、嗔猪が竪行の筋配列が元々だから、やはり、
3方向歩みであるという、記憶の方が、こんどは蘇った
のではなかろうか。すなわち、

西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1380年:大将棋は5段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1400年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。

となって、これが曼殊院の将棋図に残ったので水無瀬兼成
は、それを写して、将棋纂図部類抄の嗔猪は3方歩になっ
たのではないか。
 以上は、史料がほとんど無く、仮説提出の初期段階の話
ではある。
 一般に、仮説は、

オッカムのかみそりの原理に従い、知られた事実が少ない
ときには、できるだけ単純な物を、先ずは仮定すべき

だと言われてはいる。その理屈から考えると、行きつ戻り
つの本ブログの独自論は、かなり邪道と取られるかもしれ
ない。そうかもしれないが、

嗔猪が竪行の列に有る時代に、3升目歩みへ移行する作用
を受ける

という点で統一性があり、

見通しの悪い仮説とは特に言えない

のではないかと、私は思う。むろん後期大将棋の嗔猪は、
後退できない悪狼との、横升目のつながりで、後退の動き
が、無くなったという可能性も、否定できないとみるが。
 なお、冒頭の摩訶大将棋のケースは、将棋種が違うが、
根本原理は同じで、嗔猪は相手右角筋に対して、後期大将
棋、普通唱導集大将棋(本ブログ13升目108枚制)の、
横行格の駒、横飛列に居るので、現行は4方向歩み復活で
ある。
 よって暫定的に、本ブログとしては、以上の見解を取る。

2017年型の普通唱導集大将棋の後継では、問題なけれ
ば西暦1290年ルールに準拠する

という理由で、
西暦1260年:大将棋はプレ普通唱導集大将棋嗔猪発生。
西暦1290年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1320年:大将棋は普通唱導集大将棋嗔猪は3方歩。
西暦1360年:大将棋は4段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1380年:大将棋は5段陣中間大将棋嗔猪は4方歩。
西暦1400年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。
西暦1590年:大将棋は後期大将棋。嗔猪は3方歩。
江戸時代:大将棋は中将棋成り後期大将棋。嗔猪は4方歩。
西暦2017年:大将棋は改善普通唱導集大将棋型が良い。

嗔猪は無い。が将来、何らかの事情で作ったとして4方歩。

但し、
13升改善普通唱導集大将棋の右辺(麟鳳は左麒麟右鳳凰)
5段目:口口、口口、口口、仲人、口口、口口、口口
4段目:歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
3段目:奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、飛龍、飛車
2段目:酔象、麟鳳、猛虎、横行、方行、猛牛、反車
1段目:玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
同成りの右辺(獅奔は、左獅子と右奔王):
5段目:口口、口口、口口、金将、口口、口口、口口
4段目:金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
3段目:不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
2段目:太子、獅奔、不成、不成、不成、不成、金将
1段目:玉将、不成、金将、金将、金将、金将、金将
(仲人、歩兵は金将成り。1段目玉将、金将以外金将へ成。)
となっているを、本ブログでは提案したい。(2019/02/08)

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将棋六種之図式と大将棋絹篩とは、なぜ内容が同じか(長さん)

古事類苑30の遊戯部の”将棊”を読んでいて、常々私は、
表題の件が疑問に思えていた。古事類苑では、大将棋絹篩
で、内容が転載されているのだが、書いてある事が、国会
図書館所蔵の電子化図書、雑芸叢書の中の将棋六種之図式
と、まるでいっしょなのである。最近まで、

大将棋絹篩は、将棋六種之図式のコピー

ではないかと思っていたが、

それは間違いだった。

”大局将棋を指しましょう まとめWIKI研究資料一覧”
というwebサイトによると”国会図書館の蔵書目録では、

雑芸叢書の将棋六種之図式を、雑芸叢書の大将棋絹篩

と表現している”という間違いがあるとの事。古事類苑の
第30巻と、国会図書館の蔵書目録とは、同じ間違いを
しているという点で、一ククリの存在と取れる。すなわち、
どうやら、

古事類苑30の引用は、表現が間違いらしく、大将棋絹篩
と書いてあるのは、大将棋絹篩の内容では実際には無くて、
将棋六種之図式に書いてある内容

のようだ。ちなみに国会図書館の、電子書籍の雑芸叢書の
序文には、”将棋六種之図式は、天保年間まで存命だった、
鷄峰戊申が著者で、鷄峰には他に幾つも著作が有るが、他
将棋史では中将棋絹篩や、大将棋絹篩の著作でも知られる。”
との旨書いてあるのに、ようやく私も最近気がついた。
 逆に”ここで載せたように”という一句が、雑芸叢書の
序文に、注意書きとしては、特に記載が無い。だから、
国会図書館の蔵書目録の話も、古事類苑30の引用内容も、
雑芸叢書の序文の内容との間に、確かにつじつまが合わな
いところがある。大将棋絹篩の実体は私には目下不明だが、

古事類苑30には、大将棋絹篩の内容は、記載して無い

と見なすしか、今の所無さそうだ。

国会図書館の電子図書の将棋六種之図式の記載だけ、議論
の元史料として使うしか無い

と言う意味である。
 たぶんだが、大将棋絹篩は、正確には同じ著者の書で、
将棋六種之図式と類似の内容の記載も、部分的に有るには
有るのだろうとは想像される。今でも大将棋絹篩自体は、
古書として、幾らかは残っているらしい。webには、入
手した、中将棋の研究家の書き込みが見受けられる。結局

両者は古事類苑30では混同されているが、別なのだろう。

 この件、知っている人には当たり前だったのだろうが。
雑芸叢書の序文をちゃんと読んでから、人に話すパターン
になって、恥をかく事にならずに済んで良かったと思った。
(2019/02/07)

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信貴山縁起絵巻に平安小小将棋状模様シートの乗った机(長さん)

奈良県の生駒山中に、国宝の絵巻物を持つ、信貴山朝護孫子寺
という寺がある。その寺の宝物の信貴山縁起絵巻の、3巻ある
うちの真ん中の巻である、延喜加持の巻の最後の方に、主人公
の命蓮という坊さんの、勉強机かとも思われる、台の上に、

6×6升目の遊戯盤の一方の側に、6個の五角形の駒を置いて
いるようにも見える、

半紙か、シート状のようなものが描かれた場面があるのに、最
近私は気がついた。

信貴山縁起.gif

場面は、小学館の信貴山縁起絵巻で京都国立博物館(当時)の
泉武夫氏の解説(2004)によると、主人公の命蓮が、醍醐
天皇の病を、祈祷で治したことに対して、従者が提案している
褒美を辞退する場面だと言う事である。
 上の写真のように、横線は不明確であり、升目になっている
のかどうかについては、やや疑問が残るが、

手紙にしては奇妙な、縦線の通し模様

が、多分紙に書いてあるのである。見ようによっては、

6×6升目12枚制の遊戯具が置かれている、勉強机

のようにも見える。ただし前に本ブログで提案した、1・2段

歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
桂馬銀将玉将金将酔象香車

という配列の、平安小小将棋は24枚制だし、上下両方に、駒
列が無ければならないが、写真の向こう側の、こちら側と同じ
なら6枚あるはずの駒の表現は、不明確である。手前の物体は、

将棋駒ではなくて、文鎮なのかもしれないが、全体の形は変だ。

 盤全体に、この模様があるとすれば、ほぼ昔の囲碁盤型の遊
戯盤だが。左の方に下地が赤い部分が、2筋分程度ある事、
第3巻、”尼公の巻”の最後の方でも、デザインが少し違うが、
類似の台が出てきて、こちらの方は、手紙が乗っている。ので、

たぶん台自体は、遊戯盤ではなくて、勉強机には間違いない

ようには思える。
 なおこの絵が成立したのは、二中歴の成立より少し前の、
12世紀半ば過ぎの頃の事だという。
 本ブログによれば、酔象を温存するために、
平安小小将棋は、西暦1120年頃から、西暦1250年頃ま
での130年間存在しなければならないから、西暦1150年
から1180年位なら、その中に入る。
 ちなみに画題の中において、この机状文具の持ち主の命蓮は、
天台密教の僧とされ、

信貴山朝護孫子寺の戒律は、当時は厳しかったとされるため、
”囲棋”の類は禁止であったはず

だ。将棋ゲームをデザインしている最中に、醍醐天皇の従者が
訪れたという設定は、その点でチグハグだが。絵師がなぜ、
普通の手紙風の紙切れを、机の上に置かなかったのだろうかと
いう疑念は、この絵巻に関しては残ると思う。(2019/02/06)

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六博は盤双六系ゲームとの説に基づく、ゲームのチェック(長さん)

今回は、表題のように六博は盤双六系ゲームとの通説に基
づいて、具体的にゲーム内容を推定し、そのチェックをし
てみた。ゲームが”約2000年前の、原始的なものだ”
との印象に合うと言う意味をも含めて、

結果から見ると、やはり通説が正しい

ように、私も思える。さてさっそく、それでは本題に入る。
 web上で、六博のルールは”今ではさっぱり判らない”
との旨の書き込みが多いと認識される。しかし、遊戯史研
究者が、”この程度の悪条件で過去、ゲーム内容の暗号解
読を諦めた”と、私には到底考えられない。今の所、ゲー
ム・ルールの解明に関する、論文情報を個人的には所持し
ないので、仔細は私には判らないのだが。
 そもそも遊戯史家が、”六博は盤双六のようなものであ
ろうと推定”したからには当然だが、解読しようとした結
果、カテゴリーとしては、その類との見解に落ち着いたか
らに違いない。

”ゲームのルール詳細に付いては、手がかりとなる古記録
が、今では全く残って居無い”と表現した方が、”ゲーム
のルールに付いては、今ではさっぱり判らない”と、広報

するよりは、適切だろうと私は思う。
 ところでこのゲームのルールに関する先行研究としては、
”盤の線と線の隙間の部分に、駒の置き場とも想定できる、
名前が付いた古文書が残っている”
という話が著名だ。しかし、そう考えてしまうと、

隙間同士が、かなりの場合に連結していて、置き場と置き
場の境目が、厳密には、はっきりしない

という事実が、全く説明できない。従来遊戯史家は六博を
解析するとき、しばしば”盤の、所どころにある名称を、

六博盤の駒を置く場所と決め付ける説”に惑わされていた

とは考えられないだろうか。つまりこれらの文字は、将棋
の盤の、外側にしばしば書かれる、123456789と、
一ニ三四五六七八九の数字・漢字と、ほぼ同じ働きをして
いる、棋譜表現のためのものなのではないかと、疑われる
と言う事である。
 そこで本ブログでは、前回の冒頭に述べたように、駒は、

”駒を置く名前の付いた場所”に置くのではなくて、線模
様で、一つの線分とみなせる部分2本に、長方形の元々細
長い駒を、必ず線分の数は、2つに限定して跨らせておき、
そうなっていれば、いわゆる”駒の置き場”の文字の場所
と、完全合致しなくても良い

と見てみた。名前は、着手を表現するのに使ったものだと、
考えたのである。そして、”隣の地点に移動する”とは、
”接している線分の、かならず一方は同じにして、他方を
隣接する別の線分に変えるように、長方形駒を中心をやや
ズラしながら、回転させる事”と、解釈した。
 なお、盤双六とは違い、同じ状態、すなわち盤双六で言
えば同じ升目に、複数の駒は、六博盤では置けない。一状
態1つの駒限定の、パウリの排他律型のゲームと見られる。
 そうすると、長方形駒の六博盤の模様上の位置と移動は、

囲碁の碁石のような円形の駒と、隣への移動を、隣接盤上
地点同士を、囲碁盤のように目と目同士を線で結んだ形と
して表した、ゲーム盤と等価に表される

事になった。この変換で見通しは、とても良くなり、双六
の駒型を12個、円変換して想定すると共に、前記の、
等価囲碁状盤(数学的に言うと、グラフを書いた盤)を
用いる事で、ゲーム内容を割り出そうとした訳である。
 そこで以下の議論は、あくまで以上の”TLV盤を解析
するためにした変換仮説”が正しいとしたときに、限定は
される。
 これも前に示したが、次に、四隅の二辺だけ見えるV型
正方形模様と、本当の盤では存在する、中央の四角形領域
と、連結しようとしているが、途中で切れている”線分”
とで作る、2線分に乗った形に初期配列で駒が有ると仮定
すると、四隅V字形1つについて2個、合計で8個の駒が
置ける。また、TLV盤のL部分には、長方形駒が、Lが
2つの線分からなっているので1個づつ初期配列で置けて、
合計4個置ける。

 六博の名から、敵味方で合計12個の駒があるはずだか
ら、初期配列は、以上の2種類の場所に駒を置けば足りる。

 そうすると、もしこれが盤双六ゲームだとすれば、

中央の四角領域が、上がりを表現すると見るのはほぼ自明

だ。そこで、前述べた文言を繰り返すと”そもそも、この
盤が、普通にサイコロを使う、盤双六盤だという象棋関連
説とは別の、学会では定説と、私が認識する見方で見ると、

二重丸の所に、双六の駒を置いて、中央近くの黒い目を目
指し、黒の目から1か4のサイコロの目が出たときに、
個別の駒が上がれる。が、この黒い目では必ず止まるよう
に、出目時の駒の移動を調整してから、次の自分の番か、
1回以上止まってから、上がらなければならない。また途
中路で駒を動かすときに、同じ線は1回しか通過できない。

以上のルールで指す、6升目しか無い、簡易的な双六ゲー
ムと、等価に近いゲームと、ほぼ自明に推定できるように、
本ブログの、独自の見方としてはする”という事になるの
である。なおこの場合は、他の駒を途中で、飛び越せない
とする。また黒い王手の目は、元の六博盤で表現すると、
中央の方形の、角の一つを小さな三角形に切る形に、
長方形駒を置いた状態の、その長方形駒の状況に、対応す
る事になる。
 そこで、これで、はたしてゲームとして成立するのかど
うか、最近実際に、テストしてみたので、以下にゲーム上、
難点は生じないのかと、サイコロをどの程度振るゲームに
なるのかを、紹介しよう。
結論から述べる。

ゲームとして、成立している。ただし、スチールメイトの
補助ルールが必要。

難点は逆転の確率が低い事。

サイコロは十数回互いに振る程度で、短時間で勝負がつく。

以上のようになった。
 次に簡単にだが、補足説明しよう。
 実際のゲームでは、道具として”普通のサイコロ1個”
が、双六駒12個の他に要る。ただし中国漢代に、現在の
サイコロ駒か、それと等価で1~6の目の有る、サイコロ
の機能を持つ遊戯具が、あったのかどうかは、まだ精査
していない。少なくとも、私の作成した、六博等価囲碁型
盤(数学的グラフ盤)では、サイコロに7以上の目は出な
い方が、手が指せない事が多くなりすぎるため、好ましい。
出土品の14面体とか18面体の、中国古代のサイコロは、
後期の六博用のバージョン用か、6まで出る目が2面とか
3面づつ有ったと仮定しての、以下話となる。大きな目数
の敢えて必要なゲームが、実在するのかと言う点で、単純
にその面数までの、数の目が、中国古代サイコロに有ると
いう仮定は、むしろ不自然だろう。
 つまり、サイコロの目だけどれかの駒を、等価囲碁路で
動かし、同じ路は2回以上繰り返せないで、6目までなら
特に、ルール上問題になるケースは、余り無さそうである。
ただし、そうであっても、

動かせる手の無い、スチールメイトは、喫した方の負け

との、補助的ルールは必要なようだ。ゲームの進行上、
注意点は、その程度だ。
 このゲームは、上がり直前の目に、初期配列から、3~
6が出ただけで、いっきに到達できる。そして相手の駒を、
袋小路上のエリアの中に、閉じ込めてしまえば有利なので、

上がり直前の点を占拠するという、戦術以上の戦法は無い。

しかも、袋小路に閉じ込められてしまうと、相手の残り
の5つの駒が上がってしまうまで、

相手は戦略上、閉じ込めた駒の牢屋番的な駒は温存

すれば有利なため、1か4の目が出ても上がらず、他の駒
を動かすという方法で、固定してしまう事が多い。その為、

不利な方から見て、上がれない残り駒が、こちら側が2個
で、相手が1個になるケースが、かなりの確率で高い。

しかも、この状態で不利な側が勝てるのは、

相手が1か4の目が出ないために、しかたなくよそに、
牢屋の駒番を移動させた隙に、味方が2枚共、上がれるケー
スだけであり、逆転の可能性は、よって比較的低いゲーム

である。従って、

終盤の発散が、取り捨て将棋と持ち駒将棋の比較といっ
しょで、前者のように少なく、漢の時代には残っても、
三国鼎立の時代になると、飽きられて消滅したという説
は、至極尤もらしい。

なお史料として残っている、串焼きの串のような物体と、
6面体ではないサイコロ。さらには小さな30個の方形
の駒等は、流行の末期に、ゲーム・ルールを複雑化して、
基本型のゲームの、性能上の難点を克服しようとして、
結局は失敗した遺物であろうと見て、間違いないように
私には思える。
 最後に、サイコロの1度振りで、”王手”の点まで到達
できる程度の、盤構造のゲームと見られるため、トータル
の手数は、どうがんばっても、50手にはならない。
 比較した双六盤の升目数、駒の数等から予想されるよう
に、サイコロは1個であって、2個では無いものの、
盤双六の1/4位の総手数で終わる。比較してより劣位と
記録した古文書があると聞くが、

囲碁に比べて、全く簡便なゲームかつ、運がほぼ決める
ゲーム

である。なお、先手が有利と言う事は、特には無さそうだ。

つまり玄怪録の”小人の戦争”の、宝応”将棋”の局後評

に近い。むろん、TLV盤に関する、本ブログの解析が正
しいとしてという、条件つきの結論だが。もしかすると、
玄怪録の、”小人の戦争”の作者の(伝)牛僧儒は、宝応
将棋のルールは知っているものの、それを自分では熱心に、
のめり込んで、指すほどには興味がやはり無く、物語り中
で、”金象将軍を、岑順が褒める場面のセリフ”は単に、

将棋のレベルは六博といっしょとの仮定に基づいて、彼も
知っていた一般的な六博の一局のゲーム内容の評で、将棋
の場合を代用

しただけのかもしれないと私には想像された。(2019/02/05)

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六博盤を象棋盤状に変換しルール解析後象棋化不能を証明(長さん)

六博が中国象棋等、チャトランガ類の先祖で無い事は自明
だと私は思ってきたが、現時点でwebのサイトを眺めて
みると、そう考えられては居無いとの印象だ。”六博が進
化して象棋・将棋になった”とか、”六博は盤双六と将棋
の両方の性質がある”等を指摘するサイトが、結構目に付
く。そこで今回は、

六博のゲーム・ルールを、より正確に把握する事により、
それらのサイトの間違いを指摘する

事にしよう。
 結論から書くと、

どう似せても六博ゲームには、直進して相手陣に到達する
兵駒が作れないので、象棋に連続的には進化できない

という事になる。
 では例によって次に、詳しく説明しよう。
 まずは、いわゆる六博のTLV盤(VはYが正しい)を、
中国シャンチーの象棋盤流になおして、

長方形駒を、円形駒に置き換えても、等価なゲームになる

ようにした。
 考え方とやり方は、次の通りである。
 まず、長方形六博の駒が、何ゆえに長方形なのかについ
て、次のように本ブログでは解釈する。

TLV盤の線分2本の少なくとも一部に、必ず同時に接触
させて、六博の駒は置くルールだから

である。ここで、”TLV盤の線分”は、通常の数学的な
線分とは異なり、

分岐点をも端点とみなし、分岐点が1つある線分模様は、
2本の線分を、角度180°で繋げたものと考える

という事である。なお各六博駒は、別の六博駒とは、必ず
跨ぐ線分の、どちらか一方を別の線分にしなければ、なら
ない、量子論の、パウリの排他率のようなルールとする。

これは、シャンチーの1交点には1つの駒しか置けないの
と、かっこつけて言わなければ、いっしょという事である。

 そして、象棋盤にある”線”は、駒の跨いでいる、一方
の盤線分を、他の線分に変えるように動かしたときに、到
達する、駒状態形に対応する交点を、隣と定義し、結びつ
けた、いわゆる数学的グラフとする。
 すると、六博のTLV盤は、駒を置く交点に小さな○を
つけて、より判りやすくすると、中国シャンチー流の象棋
盤流に表現して、以下のような模様の盤と等価になる。

囲碁式六博盤.gif

 次に、中国シャンチーに六博ゲームができるだけ似るよ
うに、出土史料を、

好意的に解釈

するとしよう。すなわち、

1)サイコロと、棒のような30本の物品は、使用しない
ゲームバージョンも有ると仮定する。象棋・将棋系ゲーム
では使用しないが、サイコロは、6面体の簡易型と使い方
が等価で単純なものも、かつては有ったのだろう。
2)六博の駒の、駒の名前は元々有ったが、たまたま名無
しの道具が出土してしまった。

 シャンチーでは、まず盤に敵味方の領域区別がある。
 上の写真では、斜めになってしまったが、右下が味方の
領域、左上が相手の領域というふうに、

尤もらしい、象棋の初期配列が作りやすいように、最大限
好意的に仮定

した。
 次に六博の六は、駒の数から来るとみられるが、もっと
もらしいのは、図の二重丸の所に、駒を置いた場合である。
ただし、これではシャンチーへは進化しにくい。
駒の数が、この場合は68目になるとみられる、盤升目数
に比べて

少なすぎる

のである。これでは中国チャンチーの先祖にしては、最初
から終盤の駒枯れ状態だ。
 そこで恐らく、出土品の小さい駒30枚のうち、20枚
を追加で使う、ゲームバージョンも有ったと、

更に好意的に解釈する。

並べる位置は、竪横のそれぞれの袋小路陣の、漢字の”日”
の形の中段と下の段部分に、計8個で兵駒相当、斜めの各
4つの袋小路部分のそれぞれに、既に大きな駒の置いた、
後ろの目に、帥/将相当と士/仕相当の副官駒を並べると
いうパターンの初期配列が、例示できる。
なお大駒は、適宜、象、馬、車を2枚ずつ割り当てれば、
駒数と、盤升目数のバランスは、駒総数32枚なので、

64升目が68なら僅差であるから、インドの
二人制チャトランガ類とほぼ同じ

だ。
 ただし、問題は、

個別の駒の動かし方のルールの割り当て時に発生

する。理由は、

単純には、普通のチャトランガ系ゲームのように、六博盤
を上記のように、象棋升目盤に変換した時に、縦横の規則
正しい盤升目になっていない

からである。象と馬の

斜めの動きは、表現不可能

だ。そこで、象・馬・車は、暫定的に次の動かし方で動く
と、象棋類には、なるべくなるように仮定してみよう。

象:やり方に制限無く2目動く。ただし途中の他駒を飛び
越せない。
馬:やり方に制限無く3目動く。途中の他駒を飛び越せる。
車:やり方に制限無く1~4目動く。ただし途中の他駒を
飛び越せない。
 ただし、象・馬・車共に、同じ線を一回の動きで、複数
回通過してはならないとする。

 車駒が、車と命名されるのかどうか謎だが、これなら、
多少は象棋らしいであろう。
しかし、六博盤には、次の象棋盤には無い、深刻な問題が、
TLV模様に起因して発生する。すなわち、

け高い山脈状の”方”と名づけられた領域が中央にあり、
相手陣へは、左右の端列からしか突入できない

のである。そのため、
前段前列に整列していて、指し始め以降、相手陣に向かっ
て歩んでゆく兵駒という駒自体を、駒数で言って、仲人の
2枚程度以上は作れないという、チャトランガ・シャンチー・
チェス・将棋類の仲間に入れるにしては、

致命的な問題

が発生するのである。ようするに、このケースには、

”互いに戦争などしないで、険しい山脈の両側に別れて、
それぞれ平和に暮らしなさい”と言わんばかりの、地形の
ゲーム盤で、わざわざ戦争ゲームをするという、不可解さ

が有るという意味だ。ようするに六博のゲームの盤の
デザインが、

”こんなゲームの無い国の方が、象棋ゲームが、むしろ発
生し易いのでは無いか”と、懸念されるほどの性質である

と言う事である。
 そのため具体的には、

六博盤では、兵駒と帥/将駒、士/仕駒との動きに区別は
付けられず、中央上段に置かれた兵駒には、後退できる
ルールがないと、敵陣間近の大山脈の行き止まりで、立ち
往生となる恐れも発生する

のである。
 だから、本ブログの管理人に言わせると、
最初にチャス・象棋・将棋型ゲームを発明したゲームデザ
イナーが、六博を指せた可能性は否定できないが、
六博から、チャス・象棋・将棋型ゲームが出来た可能性は、
兵駒を発明すると共に、そう考えるのが当たり前だが、
直交座標のような囲碁型の盤へ、六博の気高い中央山脈の
ある路構造に変換される遊戯盤は、取り替えないと駄目だ
と気がつかないと、発明できない。だから、六博から象棋
への移行が、仮に有ったとしても、

別種のゲームへの移行と、明らかに見なせる

と、結論できるように考えるのである。
 そもそも、この盤が、普通にサイコロを使う、盤双六盤
だという別の、学会では定説と私が認識する見方で見ると、
二重丸の所に、双六の駒を置いて、中央近くの黒い目を目
指し、黒丸の目から1か4のサイコロの目が出たときに、
個別の駒が上がれる。が、この黒い目では必ず止まるよう
に、出目時の駒の移動を調整してから、次の自分の番か、
1回以上止まってから、上がらなければならない。また途
中路で駒を動かすときに、同じ線は1回しか通過できない。
以上のルールで指す、6升目しか無い、簡易的な双六ゲー
ムと、等価に近いゲームと、ほぼ自明に推定できるように、
本ブログの、独自の見方としてはする。なお双六ゲームと
しての内容の議論は、ごちゃごゃになるのを避けるために、
このページでは、この位にしておこう。
 以上のように、”六博→囲碁等価盤”を作成して、象棋
ゲームとして、考察した結果、

やはり六博は、中央部に行き止まりのある形式の盤である
がために、使用駒種類が、象棋に比べて異形かつ作れる種
類が限られ、従って、そのような発明を飛び越して、自然
に連続的に、象棋に進化したものではない

と考えられた。
 以上の考察以降”六博は象棋の先祖”だとか、”六博に
は象棋の要素が有る”と主張する、webサイトには、
遊戯史の研究者によるものとみなせる、文献研究の出典が
示されて居無いケースでは特に、その主張内容の真実性に
関して、充分に疑って掛かる必要があると、私は個人的に
は考えるようになったのである。(2019/02/04)

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